kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘橋本左内’


4月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 15th, 2011  Posted 10:00 AM

4月15日 先負(庚子)

「稚心を去れ」、
ふるさと福井の偉人、
橋本左内のことばだが、
それができない自分が、
やっぱり喧嘩相手じゃないか。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


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『資本主義からの逃走』
  「虚構の記述は小説だが、歴史的事実は死である」


   


     11月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

1800年代に遡及
私は、現代にモノをデザインしています。
現代という現実までの過程を知る大事さを直視します。
特に、私は日本の近代化、その原点はどこなのか、
最も注視してきたことです。
1800年代に遡及します。
そうして、その年毎の史実の事実と真実を見極めることにしてきました。
おそらく、なぜ、デザイナーがそんなことを、と思われるでしょう。
しかし、歴史の虚構は小説に氾濫し、歴史上の人物は、ヒーローとなり、
その歴史性を彩るこれも歴史上の人物はトリックスター化されているものです。
大河ドラマを事例にしました。
おそらく、大河ドラマの見せ場は、坂本龍馬の暗殺シーンでしょう。
しかし、この場面の虚構性があればあるほど、
人間は「虚構の中にえも知れぬ娯楽性」を受け入れるでしょう。
私はこの事実を否定するわけではありません。
小説・ドラマという虚構に、人が娯楽性を希求することは、
デザインによってデザインされたモノが与える感覚と似通っています。
私は、虚構の想像力をあらためて見詰め直したいと考えます。
虚構は理想・幻想・妄想をも娯楽性に変換することができます。
安政の大獄
そしてもし、歴史的事実の事例として、
「安政の大獄」時代に二人の人物を取り上げたとき、
歴史には、「もしも・・・・だったら・・」という仮説は成立しません。
吉田松陰と橋本左内は、同じ牢獄につながれ、罪人として、決して出逢うことはありませんでした。
お互いのやりとりの史実があるだけです。
虚構を断ち切る歴史的事実、
それは26歳にて橋本左内は斬首され、
20日後、30歳にて処刑された吉田松陰への「想像力」です。
史実の現実に、もしも・・・はありえず
「もしも、二人が出逢っていたなら・・・」、
この虚構はありえません。理想も幻想も妄想も消去する「死」だけが歴然としているのです。
虚構の歴史、歴史の虚構よりも、
私は、歴史的史実である、二人の人物の「死」という現実から、
さらに自分が何を見いだしていくべきかを考える次第です。


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3月20日Staff Blog


   


     3月 20th, 2010  Posted 7:47 PM

3月20日

BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)の
自叙伝について
出版社の方との打ち合わせ。
出版についてはもちろん、
橋本左内のお話他、
様々な話題で盛り上がりました。


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01月14日Staff Blog


   


     1月 15th, 2010  Posted 9:40 AM

1月14日

今回の江戸出張のお伴に、
高知龍馬空港で購入しんちゃん龍馬を。
「龍馬伝」も始まりましたし。
しかし、
BOSS(川崎和男KazuoKAWASAKI)は、
橋本左内を主人公にした
大河ドラマを熱望されていると思います。
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『資本主義からの逃走』
 「松柏後凋と詠んだ哀しみ」


   


     9月 30th, 2009  Posted 12:33 AM

出典は「論語」です。
「子曰く歳寒くして松柏の凋=しぼむに後=おくるることを知る」

これは、松や柏、柏も檜の一種のコノテガシワといわれています。
松も柏も常緑樹ですから、
冬になっても、葉っぱが散ることはありません。
つまり、冬という季節になってもそうした常緑樹の姿は不変です。
このように、人間も、危機受難を直視したとき
初めてその人の真価が問われるものです。

冬は、樹木が落葉しますが、
松柏の青緑濃い姿は、混乱している時代にこそ、
その人の信念を表しているというメタファーです。

「安政の大獄」(wikipeda)で、橋本左内は斬首されました。
26歳でした。
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米国から黒船でペリーが現れました。
徳川幕府は開国を迫られました。
尊皇攘夷と徳川家の世代交代での将軍跡継ぎ問題や
公家の様々な陰謀、何重にも複雑な問題の中で、
「国家体制の国際的指針」を明確にしたのは、橋本左内でした。
幕末の志士たちへ、そして適塾(wikipeda)の仲間への
このメッセージを
最も怖れていた井伊直弼(wikipeda)は大老に就任と同時に、
橋本左内こそ政治的危険人物とし、
斬首を思いついてしまったのです。
彼は、侍ですから、せめて切腹のはずが、
斬首という指令こそ独裁でした。よって、
「桜田門外の変」(wikipeda)で、井伊大老は暗殺されます。

この実情を福沢諭吉は傍観を決め込んでいました。
傍観することで、彼なりの意志決定をしていたのでしょう。
一つは、すでに蘭学ではなくて英語が必需だと分かっていました。
しかし、英語は当時、幕府の厳重な管轄下にありました。
だから、幕府を利用しなければ自らを修練はできなかったのです。
そして、1860年の「咸臨丸」(wikipeda)勝海舟(wikipeda)によって、
太平洋を横断し、通商条約締結に向かうことも知ってしまっていました。
「咸臨丸で海外へ」という思いで、
「安政の大獄」は無視せざるをえなかったようです。
しかし、適塾仲間の処刑を十分に知りつつ、
それでも渡米した気持はどうだったのでしょうか。
少なからず、「自虐感」にさいなまれていたと
私は思いたいのです。
だから、彼は勝海舟を批判し、
ワシントンには行っていないのです。

橋本左内が辞世の句で、論語を引用して、
「苦冤洗い難く、恨み禁難し・・・・誰か知らん」
と言い放った相手は
福沢諭吉のように幕府に臥していた人物たちだったはずです。


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