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Posts Tagged ‘武士道’


「商品・コミュニケーションから意味論的デザイン」


   


     12月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

大阪大学大学院での大学人として、デザイナーとして、
最終的な結論に至ったことは、
「商品デザイン」・「コミュニケーションデザイン」、
あるいは、モノのデザイン・コトのデザインはすでに、
「記号論・意味論としてのデザイン」に決着しました。
来春3月に阪大を退官するにあたって、
一つの焦点を決定づけておきたいと考えています。
学生たちには、
「デザイン」と聞けば、
手法・実務・問題解決・美学的存在性の具現・問題提起と方向決定が
身体化してくれればと願って講義をしてきました。
それは、現在の日本の経営者やリーダーには、
特に日本の美学・能狂言から伝統工芸、
さらには宗教哲学や思想への統合的な見方など、
そうしたことが欠落しているから、
日本人のリーダーたちが考える
グローバリズムすらゆがんでいると判断しているからです。
特に、アジア近辺からの留学生には、
第二次世界大戦後の自分の国と日本の関係を
自学してほしいと訴求してきました。
そこには、あの世界大戦時に日本は必ずしも、
帝国主義に徹していたわけではなく、
日本の武士道やその美学性を発露していたことも講義では語ってきました。
最も、その講義は最近では
日本人学生は居眠りしがちだったことも告白しておきます。
今年は、特に、
「記号論」を先端的統合的な学際化としてのデザイン解説にしてきました。
その論理化には、二つの方法がありました。

 ・最大公約数的思考 The greatest common divisor theory
 ・最小公倍数的思考 The least common multiple theory

この思考方法を積み重ねて、結果と効果、
すなわち、それが意図ある造形のかたちと
意味される造形としてのかたちに「成っている」という論理でした。
私は、この考え方が、
現代どこにたどり着いたのかということを見直してみると、
それは、論理演算として
コンピューターに繋がってきたものと断言することができます。
ある概念集合の様々な要素や要因から、
その素数的な共通項を積み重ねると、
この画像の α・β・γ・ζ が最大公約数的な構造になります。
そして、その集合体の残存して集合が ζ という
最小公倍数的な構造になっているということです。
したがって、その ζ にこそ、
「記号論・意味論としてのデザイン」結果・効果が、
デザイン造形の「かたち」であり、
「かたち」に結実しているデザインだったということです。


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「喧嘩とは、自分に売ることが基本だ」


   


     9月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

私は、「喧嘩師デザイナー」だと自称もしています。
だから、誰にでも喧嘩を売るということで怖がられています。
デザイナーは喧嘩師であれ」でもしっかりと記述していますが、
まずは、「自分に喧嘩を売る」ことを
根本的な原則にしなければなりません。
喧嘩を売る、とはチャラけた言い方だと「自己啓発」でしょう。
「自己啓発」類の本やその著者は、
私に言わせれば、高校時代に出会っていれば殴っていたでしょう。
この系譜で言うと、「仲良しクラブ的なこと」は大嫌いです。
表向きのチャラけた連中を見る度に、
現在は公的立場でもあるからもの凄く我慢します。
チャラけた発言などはひたすら無視することにしています。
「腹が立つ」とは、武士道における「腹こそ心の在処」だからです。
「切腹」とは「腹=心」の清廉潔白さを
最終の自死をもって証明する美学的精進だと考えます。
しかしこれこそ、
「自分に喧嘩を売っている」ことにもつながっていますが、
今では許されない行為ですが私は認めています。
「自己啓発」なんて言葉自体がだめです。
せめて、「自己鍛錬」・「自己精進」です。
鍛錬と精進は、
仏教的な精神的な自己犠牲を強いる、これこそ「勉強」です。
心臓発作を経験する40代半ばまで、
「睡眠時間4時間」を自分に強いてきました。
それはほとんどが、読書とスケッチでした。
「本を徹底的に読む」・「スケッチを毎日描く」・「文章を書く」、
これが、私の鍛錬と精進の核心です。
だから、毎日ここでのブログも精進の一つの形式にすぎません。
私の毎日の記録は、手帖・メモ帖・スケッチ帳が、
鍛錬と修練の「喧嘩ツール」になっています。
なぜ「帖」であり、「帳」なのかも、
勉強ゆえに区別されるべき詳細な日本の美学の証なのです。


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「日本が貧乏になっていく、と思うのは・・・」


   


     8月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

私の移動、その大半は飛行機です。
そして、プレミアムシートでは軽食が出ます。
その軽食の種類、量、
パッケージが段々とコストダウンをしていくのを見ると、
「貧乏になっていくなー」と感じます。
敗戦後、日本は「豊かな国、国民になろう」と考えました。
結果は、貧乏だというのはお金が無いこと。
お金があれば「豊かになれる」と思ったのが、気がつくと、
それは「豊かさ」とは全く違うことがやっと分かったのでしょう。
最近は、格安航空券ブームです。
したがって、この軽食の質も格段にコストダウンをしています。
シャンパンがまずブランド品から格下げになり
スパークルワインになりました。
最も明解なのは、ファーストクラスの食事など、
「これが?」というほどになっています。
無論、それは一部のことだと言えますが、
「貧しい」ことの解釈が「豊かさの勘違い」を引きずったままだからです。
航空機会社ではファーストクラスを廃絶したところもでてきました。
世界的な傾向でしょうし、
それがスタンダードになっていくのだと思います。
私には未体験ですが、客船でも1等客室も2、3等客室でも、
食事は平等になりつつあり
それなら3等客室で十分という話を聞いたことがあります。
つまり、「貧乏」というのは、
「贅沢」との格差、その感じ方だと思います。
「贅沢さ」=「豊かさ」ではありません。
「貧乏」=お金が無いことではありません。
今、私たちに問われているのは、可処分所得の高低が貧乏さを決定したり、
贅沢・豊かさ・貧しさ、ということへの、
自分自身がどのレベルで「心」を満腹に出来るかということです。
ちなみに、「心」とは武士道では「腹」にあり、
よって、「切腹」とは、
腹の清らかさを確認する自死行為だったということです。
だから「腹づもり=心構え」こそ、
貧乏も贅沢も切り捨てた美学だと思っています。


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7月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 22nd, 2012  Posted 10:00 AM

7月22日 先負(甲申)

聴衆全員を賛成者にしようと思ってはいけない。
全員が敵になろうが、伝えることは伝える。
敵の作れない人間に本当の味方は生まれない。

これは武士道である。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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『資本主義からの逃走』
 「神の国・・・その冒涜・2」


   


     11月 18th, 2009  Posted 9:46 AM

美大時代、
私は日本美学に惹かれる訳が無いと思っていました。
これはすぐに消滅しました。
学園紛争は金沢美大にまで及んできました。
全共闘赤軍派などが知ったかぶりで叫んでいました。
私たちはファッションにこだわり、
立て看を片付けて、彼らと対立していました。
しかし、赤ヘルメットで、
ただデモしているだけのお粗末さがセンスの無さを証明。
馬鹿集団としか思えませんでした。
学生運動が歴史的に勝ったのはイタリアでたった1回。
この知識すら知らない連中たちでした。

私は団塊の世代です(嫌いな言葉ですが)。
同世代には「当時はね、左翼系で、よくデモってました」。
こんな教授達に出会います。
あれからあなたは何をめざして生きてきたのでしょうか、
私は質問したくなりますが見下すことに最近決めました。
大学教授なるみなし公職にあり、
青春の志を転向したあなたを、
決して認めることはないでしょう。
あなたは「神の国・日本」を冒涜して生きているのです。

「神=自然神の国」を冒涜したのは、左翼系インテリです。
こうした人間は、
日本が犯した大罪であった世界大戦を指摘します。
私は日本美学を岡倉天心と天皇制と武士道に求めました。

18_a
18_c
18_b

そして、結論。
冒涜は、三つあったと判断します。
大東亜共栄圏構想には、
「東洋の理想」岡倉天心著の書き出し、
「Asia is One」=「東洋は一つである」が、
当時の軍部に引用されました。
岡倉天心の美学と愛国心を悪用したのです。
● あの戦争は「天皇制」が原因と、
戦後その理論を吹聴。
それらが進歩的文化人と言われた左翼系学者や作家です。彼らは「神の国」の冒涜者です。
●「東京裁判」での国際法の無視です。
具体的には、名古屋大空襲に立ち向かった、
一人の中将=武士道の抵抗と
その正当性を忘却させていること。
無論、東京裁判を今、再考し直してこそ、
あらためて憲法9条論議を乗り越えていくべきです。

これら三つの冒涜が、「愛国心」という言葉すら、
日本語の危険語としてきた戦後の教育だったのでしょう。
「神の国」の均衡心=バランスとハーモニーという
日本の美学を冒涜していることだと私は考えます。


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『資本主義からの逃走』
「資本主義という宗教・宗教としての資本主義・2」


   


     11月 16th, 2009  Posted 5:00 PM

日本には八百万の神=自然の草木から岩に至るまで、
すべてに神がいました。
仏教には、五大思想での木・火・土・金・水があります。
儒教は、
仁・義・礼・智・信という人間としての徳性が基本でした。
歴史的には、
日本では
仏教と儒教が一体化したり分離という理が学問であり、
それがさらに八百万の神=神道とも一体化しました。

日本の神を全否定したハビアンの主張は、簡潔です。
ハビアンが、キリスト教の優位性を主張したのは、
世界の「創造主」の有無であり、神道・仏教・儒教の
「無為自然」や「空」・「無」なる心情が
全ての人にとって確信性が明白では無い、と
いうことを論破したのです。

ところが、儒教精神や仏教さらには神道で、
「自然」、特に樹木・岩・石から物すべてに「神」を
「武士道」に「理」として朱子学などは、
江戸時代から精神性の学問とまで昇華されていきます。

私がこれまで蓄積してきた歴史観の一端しか、
ここでは述べませんが、私は思います。
「賢者は歴史に学び、勝者は歴史をつくる」というなら、
私は「賢者」でありたいと思っています。
あらためて語りつなぎます。

日本は「神の国」であるという政=まつりごとの
根本理念と精神支柱として人格性の基盤となり、
そこに「天皇制」という民族思想は統一されました。
小さな島国、資源も面積も無い日本にとって、
民族自身の保身に、愛国の思想、
その核心が「神の国」であったことが、
悲しくも逆作用をしました。

甚大な戦災と被爆に遭遇した哀しみすら
「神の国」ゆえということを否定した
左翼系思想がマルクス思想だったことが、
ハビアン的な反発だったとみなすことができます。

歴史的考察を短絡して語りきるなら、
「東京裁判」による、
日本評価と判決を私は許容はできません。
日本の資本主義が、
「神の国」を仕舞い込んでまで、
生きながらえてきた戦後を
そろそろ総括するべきでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「資本主義という宗教・宗教としての資本主義・1」


   


     11月 16th, 2009  Posted 12:00 AM

不干齊巴鼻庵という人物を知っておられるでしょうか。
日本の神を全否定した人です。
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破堤宇子・ハビアン 1868

ハビアンというクリスチャン名で、
出自としては禅宗からキリスト教に転向したようですが、
その経歴などは不明です。
キリシタンの文化的知識人としては、
「妙貞問答」による、キリスト教の優位性を
仏教と儒教に対して論破した力量に、
私は確かに敬服します。かの林羅山も、
彼との論議では一目置いたとも言われています。

しかし、この「妙貞問答」は、徳川家康によって、
あらたな仏教・儒教・武士道によって、
対・キリスト教への確実な理論武装を与えたと思います。
なぜなら、織田信長は、仏教による武装勢力を焼き払い、
キリスト教文化には心惹かれながらも、
日本の防護にのみ利用しました。秀吉もこれを見習い、
キリスト教との距離感を、いつでも問題視しました。
茶道によって、信仰はあらためて自然信仰にもどりました。
これは千利休の国家策略だったことも大きな力でした。
私は千利休はグランド・デザイナーだったと判断します。

家康が明らかに、仏教・儒教・武士道・対・キリスト教を
国家治世手法としての宗教力・信仰力の制御に、
実際的には「妙貞問答」はマニュアルだったと思います。

私は、この日本独自の「対・キリスト教」信仰心制御は、
対・資本主義に対しての大きな過去の歴史の知恵です。
あくまでも、資本主義の基盤は、キリスト教信仰です。
キリスト教信仰の「勤勉さ」と、
仏教、あるいは神道での「勤勉さ」の大きな違いを、
今、再検討することが
日本の経済主義志向を決定するでしょう。
日本人の「勤勉さ」は、まさに「お天道さま」なのです。
「お天道さま」への自己の
「働きがい」と「生きがい」です。
ここに、「経世済民」があるのです。
G6・G7=資本主義経済連合において、
わが国だけ、キリスト教を背景にしていないことにこそ、
資本主義から、離脱と逃走が必ず可能だと信じています。

つまり、日本こそ、世界への「経世済民」を示せます。
自然とともにある「神の国」という思想を
再度復活させることです。

「神の国」とは戦時中のプロパガンダ用語ではありません。
ハチマキをして、「神の国」には必ず「神風」が吹く、
というような幼稚さやアジテーション行動ではなくて、
「神の国」という自然と人間が共生=ともいきできる
知識・知恵・思いやりの世界観思想化を意味します。


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