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Posts Tagged ‘歴史’


『資本主義からの逃走』
  「Serviceという経済のウロボロス化」


   


     12月 13th, 2009  Posted 1:00 PM

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Serviceという言葉は、止めどなく拡大化してきました。
だから、その由来性は消尽してしまいました。
その由来性を辿ると、
それは「宗教」・「宗教性」と「経済」・「経済性」に、
「ウロボロス」という原始宗教的な、「善悪」の曖昧性を
歴史の中で消去しようというある企みが見えてきます。
その企みを主導したのは資本主義です。

断言をする時期がきています。
「サービス産業」とは宗教という労働集約性の欺瞞・悪が、
実は背後で蠢いています。
時にそれは、頭脳集約を目標化させる正当・善らしさに
変貌しています。
サービス語源の由来から判断すれば、
「サービス産業」とは新興宗教法人です。
あるいは学校法人という経済構造の制度です。

「サービス」は無財なる経済の対価制度として、
資本主義経済の中でその由来性を抹消できたのです。

● サービスが宗教音楽であったことをご存じでしょうか。
  バッハであれベートーベンであれ、
  serviceに頭を垂れて、音楽に対峙していたのです。
● サービスが軍事奉仕であったことをご存知でしょうか。
  愛国心に命を捧げることになぜ勇敢だったのでしょうか。

つまり、
人間は、人間界は「生きて」なお、
「神」それはあらゆる宗教神に、「奉仕=service」して、
「死」をむかえることになります。
私たちは、「神に頭を」垂れます。

「サービス産業」は、「頭を下げて」、
経済労働=感情労働の対価を得るのです。
日本の「サービス」という言葉は、
やはり米国からの外来語でした。
「サービス産業」は、感情労働の対価の区分を、
ようやく、わが国も制度化しました。
「サービス」、特に「情報サービス」は、
資本主義の頭で尻尾を飲み込む姿に変身し始めています。


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『資本主義からの逃走』
「資本主義という宗教・宗教としての資本主義・1」


   


     11月 14th, 2009  Posted 9:31 AM

宗教というものは、本当にやっかいなものです。
宗教に対して、客観性を冷徹に見抜く能力こそ、
「インテリジェンス」・「知性と感性」の力だと、
私は思っています。

「資本論」が宗教になって、
資本主義社会を封じ込めた時代が終わっているのです。
しかし、まだまだ、そのことに気づいていない人は、
資本主義がすでに宗教になっているのかもしれません。
たとえば、資本主義を正当化するには、
M.ウェーバーの倫理は宗教論と読むことも可能です。
industrialとは「勤勉と工業」の二重性の意味があります。
私はindustrial designerです。勤勉デザイナーです。
すべからく
日本の工業デザイナーは勤勉デザイナーでしょう。

さて、日本にはこの宗教改革が必要になってきました。
幸いにして、
日本には「宗教的」を改革してきた知恵があります。
まず、6世紀には物信仰から仏教による意識改革を
政=まつりごとにて、社会改革がなされました。
1549年にF.ザビエルがやってきます。
キリスト教がわが国に上陸しました。
この正当性は、
ハビアンが1605年(慶長10年)に
「妙貞問答」で、どれほど、
キリスト教が仏教と儒教より勝っているか、
ということが記し残されています。

私が、もし、資本主義という宗教から解放されるには、
この「妙貞問答」での理論闘争を再度試みる、
というのが、一つの方法だと考えています。


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『資本主義からの逃走』
  「分断された日本、幾何的空間の中で確認」


   


     11月 12th, 2009  Posted 9:00 AM

幾何学というのは、場所性への思索だと思います。
本来の測地・測量学から場所性検討の経緯があります。
場所性には、三つの定点観測の思考方法でした。

● まず、
その空間がどんな「かたち」なのかということです。
● 次に
その空間でどこに「位置」しているのかです。
● 最後に、
配置という機能を空間に仕組めるかということです。

私は「資本主義をかたち」でとらようとしてきました。
ところが、幾何学でも、近代になって位相幾何学では、
空間性だけではなくて、
時間性での検討に気づきました。
つまり、
時間軸も仕組めるということになっているのです。
したがって、
資本主義を時間軸=歴史で、
配置し直してみることを試みてきました。
この歴史ということも最初に条件を整理してきました。

この整理も、私自身が、幾何学・位相幾何学
最も現代的かつ私の興味の中心には、
「近さ」ということのトポロジーの中に、
私自身を配置するやり方を、
ある意味では横暴に、訴求することで、
資本主義に埋没しかかっている私を見つめ直しました。
すなわち、
日本という空間での私の位置の確認を実例にしました。

私は、今は、特に被害者的に日本を見つめ直すことが、
とても重要だと思っているからです。
それは、戦後、資本主義空間に閉じ込められている私、
結局私たち、日本人が
この空間から逃走しなければ生き延びられないのです。

ともかく、私の位置であり、
日本人の位置を日本の幾何性で確認しているからです。
より具体的には、
もうすでに、私たち日本人は、世界観という空間
世界観という幾何空間での位置、
「生き場所」の認識を
分断した民族にさせられていることに
目覚めなければならないとさえ思っているからです。


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『資本主義からの逃走』
 「連帯感と拘束感は同じ触感で、歴史かもしれない」


   


     10月 17th, 2009  Posted 7:00 AM

私はデザイナーだから、
イデオロギーも、
「イデオロギーのかたち」を想ってしまいます。
つまり、「イデオロギーというかたちの構造と機能」
という具合に考えると、
前述してきた図解という「形」に当てはめて考えます。

私は、デザイナーという職能を選んで生きてきたので、
「常に、かたち=形」が頭の中=イメージにも、
目の前=リアルに在ってほしいのです。
また、「かたちというイデオロギー」に
「資本主義」と「民主主義」を当てはめて考える、
というのが「正直な告白」です。

だから、
川崎和男の主義主張=イデオロギーは、
「かたち」だと想っていただければいいのです。
そして、「かたち」を存在させるために、
「ことば」は相当にむずかしい「言語」を選びたいのです。

理由は二つあります。
まず、「かたち」という形はありません。
対象物とした、例えば「コップの形」とか、
「筆記具の形」というのがあるわけですから、
「資本主義の形も在る」ことになります。
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ところが、
たとえ「コップの形」と言っても、
目の前にある「形の説明」はとても困難です。
それを伝えるのはイメージを
共有出来るかどうかということです。
それには、
ことば=「言語」の共通理解が必要です。
こうした言葉が一致すれば連帯感が生まれます。

しかし逆現象として、
その「言語」に拘束されることにもなるのです。
そして、もう一つの理由は、
連帯し共有し拘束されている感覚が「生きている」ということです。
いわば、簡潔に言えば「触感」です。

この「触感」をコントロールして「言語」として残せば、
それが「歴史」だと私は確信しています。
付け加えておくと、
「触感」という感覚の構造を詳細に言語化すれば、
「形が発する機能」を必ず生み出すことになります。

「デザイナー」という職能が、
「資本主義」とともにあった「歴史」から、
「資本主義の形」、
その機能を触感で受け止めることが
可能になるのではないかと思っています。


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