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Posts Tagged ‘毎日デザイン賞’


『知人、友人、親友、いや話相手としての別感覚の友』


   


     7月 22nd, 2017  Posted 12:00 AM



京都ホテルオークラの左奥からのまなざしです。
京都は月1or2は主に映画を観るために出かけます。
そのほとんどの定宿です。
デザインとしては二つのことがあります。
まず、ホテルオークラのロゴタイプは私の恩師平野拓夫先生のデザインです。
もう一つは亡くなった友人・内田繁氏(アルド・ロッシ)共作のインテリア。
一昨日まで京都にいました。
そしてホテルに戻る度に、あぁ、もう一度会いたいなーと思います。
Gマークの審査会と毎日デザイン賞の最終審査委員時代でしか、
実際は約束してまで会ったことがないのですが、彼との会話や彼の作品、
それは特に「September」を思い出します。
先般このブログで米国のインテリアセンター竣工最初の「国際椅子展?」に、
日本からはたった四名の時も、彼は選ばれていましたし、
彼への献花式には青山葬儀場にてとめどなく悲しくて合掌しました。
その時には、やはり、彼の大きな遺影写真の下には「September」でした。
だから、どうしても欲しくて、彼が居なくなったスタジオ80に電話して、
買い求めたかった椅子です。
そして、Gマーク審査での昼飯は一緒に冗談ばかり言い合いました。
彼が桑沢のデザイン学校校長になると、すぐに講演もしました。
毎日デザインでは、5名の最終審査委員がいる中で、二人でこそこそ話を、
内容はいつか話したいことが一杯あるほど、この審査会で・・・・・でした。
親友ではなかったのですが、知人、友人でもなく、
ともかくデザインというか、肝心のデザイン論議でもなく、
デザイナーである、そんなデザイン四方山話の仲でした。
今回はちょうどこのホテルのエントランス工事中であり、
すこぶるこのホールの素材や仕上げやそして室内色彩の調和性からも、
君らしいなあ・・・彼ならという超重奏高級感
それをとてつもなく感じ取ることができました。
このホールで、今は亡き彼に向かって(君のさぁ、このデザインのなかで)
そんな空想の会話をしました。
今回、京都の古本屋でおそらく江戸後期の水墨スケッチを買いに来たんだ、
でも、もう売れたのか見つからなかったよ、って会話して来たのです。


* 『金沢美大には伝統的なアノニマスデザインがあった!』
* 「日本で最初のスクリプト体・恩師のデザイン」
* 「機械工学とデザインの学際化を・・・大学人としての願い」
* 『目の前に未来・将来は無く背負っているのです』
* 『毎日デザイン賞・同時受賞の佐藤晃一氏が逝去した。』


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『コンピュータ制御ベッドが示唆していたこと』


   


     7月 14th, 2017  Posted 12:00 AM



これは私が30代のデザイン作品です。
13の企業を統括して商品化し、大商事会社と大デパートで展覧会もしました。
そして、毎日デザイン賞の対象作品にもなったのです。
当時、とても優れたMacintoshの「ハイパーカード」で、
ベッドの動作仕様を決定して、寝たきりの患者さんの褥瘡を無くし、
ドクターがベッドの動きを指定すれば、
実際には歩けるようになる、ということまでを実現しました。
問題は市価だったと思います。
36個の上下動空気圧ポンプをコンピュータ制御するシステムであり、
背中を押し起こす機構など高価でした。
そして提案が早すぎたのでしょう。
現在は8個のポンプで新しい素材でのアドバンスデザインに至っています。
また何と言っても当時のハイパーカードは、現在ならカラーで展開が可能。
このハイパーカードこそマルチメディアという言葉を抹消したソフトです。
このソフトを知っている人こそ、Macのあるべき方向を言えるでしょう。
私の発想はこのハイパーカードで支援されていました。
今はありませんがMacProjectというソフトでは13社の工程管理をしてました。
現在、いわゆる褥瘡はこれからの老人医療でも大きな問題です。
私はウォーターベッドで、褥瘡から解放されましたが、
それでも瘻孔という事態にもなり、ワイフは完全無菌での瘻孔管理を
トレーニングした経験もあります。
褥瘡=床ずれは、手術時間4時間でも発症すると言われています。
この床ずれ管理は現在すべて海外製ですし、進化せず高額です。
車椅子生活での経験では、ベッドや褥瘡管理は私の使命かと思っています。
そういう意味では、これからのプロダクトデザインは、
韓国の環境デザインが、建築系ではなく、ロボット環境にしているように、
車両・航空機・造船デザインや、医療すなわち看医工学デザイン、
防犯防災デザイン領域へと焦点化と拡張化が必要です。
30代のこの私デザインこそ、
デザインでの問題解決をすでに示唆していたものと感じ取っています。


* 『「眠る環境」その要素としてのウォーターベッド』
* 「ジャンボ・ジェットは747-8が完成型だった」
* 「コントローラーのデザインはまったく進化していない」
* 『宝飾品を実際に確かめていた頃を思い出す』
* 『看医工学へのレジリエンスからコンシリエンスデザイン』


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『「眠る環境」その要素としてのウォーターベッド』


   


     7月 12th, 2017  Posted 12:00 AM



交通被災後、手術をして嫌なドクターに私は40歳までと統計資料で宣告。
しかし40歳で毎日デザイン賞を受賞。
結局、車椅子生活もちょうど40年になります。
3度の大手術をくぐり抜けました。まだ大きな最終手術を残しています。
さて、車椅子生活者にとっては褥瘡、いわゆる「床ずれ」発症は、
最も避けなければならない日常的な大きな問題です。
私自身この床ずれは瘻孔という事態までも経験しています。
そこで私の経験では体圧分散では「ウォーターベッド」以外、
寝具敷布団はありえないというのが私の信念です。
私の毎日デザイン賞受賞は、「車椅子」と思われていますが、
30代後半に取り組んでいたコンピューター制御ベッドがあります。
したがって、ベッドの歴史も相当に製造技術から製品、地場産業地まで
徹底的によく知っています。
車椅子生活になってから、ウォーターベッドを試してきました。
最初は、すぐにベッド破損で「水に浸って寝ている」経験もしました。
したがって、段々とウォーターベッド性能を試して、現在はあるブランド、
このメーカー性能が一番だと決定しています。
そこで新製品をまず試してみることにしました。
おそらく、現在は体圧分散ではこれが最高という広告が氾濫していますが、
そうした誇大性を私は質問されれば返答することができます。
もっとも、母方の実家では私の伯父3人は祖父命令でベッド生活でした。
だから、それこそ子どもの頃には伯父たちのベッドも知っています。
かつてコンピューター制御ベッドがようやく現在技術で可能になりました。
おそらく、「眠る環境」はベッドだけではなくて、照明から空調まで、
全てがスマホでのコントロールが可能になりましたから、
「眠る環境」その大前提でベッドの大変革デザインが要求されています。


* 『照明の文化論としての陰翳礼讃』
* 『眠ることを知るためのアプリを使いながら
* 『健常者を差別することで社会暗部を照射する』
* 『昨日大先輩は旅立たれた・栄久庵憲司氏から私の評価文』
* 『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』


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『200年ぶりの「青色」発見は大興味がある』


   


     5月 19th, 2017  Posted 12:00 AM



人類が色彩を再現するためには、
いくつかの方法でいわゆる絵の具を創り出してきました。
そして絵の具とした色は人類の絵画を通して文化の基本だと思います。
私は美大時代には「色彩演習」で実際に加算混合や減算混合を学びました。
加算混合は当時はアルバイトで舞台照明で覚えることが出来ました。
減算混合はいわゆる外国製の指定されたポスターカラーで、
一年間にカラーチップを指で混ぜでパネル提出をさせられて体得しました。
同時に、教えられたことは色彩は嫌いな色はつくらないこと。
身体化する=衣類を纏うこと、肌で色の温度を知ること。
もし、外見上恥ずかしいなら下着で身につけることでした。
私は、毎日デザイン賞を受賞してから、身にける色は「青色」にしました。
青色といえば鉱物系と植物系から絵の具となる色を発見してきました。
そして、金沢にはラピスラズリを
日本で最初にインテリアとした「成巽閣」があります。
私はこのブルーを自分デザインのFORIS.TVを商品化しました。
青は売れないというタブーを破って大成功させました。
ちなみに金色は、金沢では金箔ですが
この色のコンテクストで北陸新幹線を考えるとあの青・金色は間違いです。
ところが先日、200年ぶりに「青色」を発見したという報道がありました。
オレゴン州立大学の大発見でした。
今この詳細を徹底的に知りたいと追いかけています。
なんといっても鉱物系ではラピスラズリであり、
植物系では藍色、これは日本では、
作業着があり、これは蚊や毒虫を寄せつけません。
ジーンズはこの色ゆえにガラガラ蛇を寄せ付かない話があります。
今回発見された青色はラピスラズリでは経年変化がありましたが、
この変化が決して起こらないということに私は大変興味があります。
ともかく、衣服繊維であれ、皮革染色であれ、
ブルーは顔料・染料ともに青色は限定されているだけに、
この青色がどのような顔料・染料になっていくのかと期待しています。
ともかく、色彩を身体化できないのは基本的にセンスを失うのです。


* 「モードからファッションへ、そして遡及する記号の再生産」
* 「正直な造形をめざすことは裏表無し」
* 「カラーの決定のために・HSB色空間」
* 「聴覚感覚という触覚の重大さ」
* 「やはり、持ち物はブルーが基本」


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『目の前に未来・将来は無く背負っているのです』


   


     1月 31st, 2017  Posted 12:00 AM



「Back to the Future」というSF映画を観た直後に、
これは映画の題名というよりは、ホメロスの叙事詩に登場していると、
この話は小説家・堀田善衛氏の指摘で、
ホメロスの叙事詩である「オデッセイ」を知りました。
それは日本書紀・古事記にも登場する、いわば国づくりというか、
国・国家という存在が世界共通にあるということから、
私はホメロス・オデッセイを追いかけていたら、
ずばり、「Back to the Future」そのものの書籍にぶちあたりました。
そして、未来は決して目の前に広がっているのではなくて、
背中に未来を背負っていることは米国のそれもSF映画の根底でした。
古来、日本では人は生まれて死んでいくまでに「背負い水」があること。
人は一生に飲む水を宿命として携えて生まれてくることだと知りました。
私自身28歳で車椅子、リハビリテーションの病院では40歳までが一生、
このことを担当医から言われたのですが、そんなことを聞かされたら
人は絶対に投げやりになるものです。
それは40歳までの背負い水を持っているということです。
ところが40歳寿命など忘れていた時に、
私は毎日デザイン賞をいただきました。
したがって、私が未来・将来は自分が背負ってきたことからしか創れない、
このことを強く意識し始めてきました。
しかし、背負っていることは経験や歴史だけではありません。
ここがBack to the Futureをホメロスはどのように未来を招待するのかを
経験・歴史を超えて非常識さあふれる想像力の受容力かと気づきました。
そこでの大問題は想像力そのものも実は背負っていて、
この想像力こそ、個性・感性であり、宿命的に背負わされているのです。
人はすべからく想像力を持っているということは大間違いでした。
この事実をホメロスは読みとっていたのかもしれません。
ところが、商業主義に汚されていくと、
それこそオデッセイも日本書紀、古事記も語っていた未来・将来に
デザインは寄り添うことができなくなるのです。
是非とも、特にデザイナーは「Back to the Future」を定本にするべきです。
ただしすべからく、キリスト教義であることに
私は多少違和感があることは確かです。
日本人にはもっと自然をも背負い込む想像力があるからです。


* 『十日恵比寿の種銭を大国主命からもらう』
* 『少子化は雑誌の世界をすでに破壊していた』
* 「際限は背中に、目の前に未来など無く」
* 『「創育」と「想育」の中心はやはり恐竜の存在だ』
* 『銀河系の帝国主義、そのアーキタイプは未だ戦争か』


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『二人称のデザインをめざす超軽量と収納性の車椅子開発』


   


     10月 31st, 2016  Posted 12:00 AM



「哀しみにデザイン」というプロスペクタスが実働の車イスになった時、
それは「スニーカーのような車イス」になりました。
車倚子をデザインするために、イス・倚子・椅子、
これらの歴史を知りました。日本にもこの歴史はありました。
車イスを見つけ出したのは、シェーカー教徒の生活家具の中でした。
これは自分のデザイン、特に、その造形力を見直す大きなヒントになりました。
そして、このデザインを支えて貰えたのは、
チタンやローホークッションなどの素材いろいろに出会えたことでした。
この車イスで、毎日デザイン賞はじめ、永久展示品になったり、
世界での有名なデザイン賞を数多く受賞できたことでした。
それこそ、MoMAでの展示では決まって日本代表には、
この車イスと敬愛する倉俣史郎氏のハウ・ハイ・ザ・ムーンでした。
しかし、50歳を超える頃から、自分の体には変形が起こり始めるとともに、
電動車イスが必要になり始めました。
幸いにして、美大時代同級生の光野氏は、でく工房・無限工房、
そして、スウェーデンの車椅子企業パンテーラ社の日本法人社長になり、
さらには、シーティングエンジニアリングの権威者になっていました。
「椅子」というのを常用漢字にしたのは光野氏であったことも知りました。
実際に車イスに乗り、デザインもした自分と、
美大時代同級生の我々が辿り着いた、おそらく最期の仕事が
電動車椅子の開発になりました。
すでに国内外には、様々な電動車イスが登場していますが、
我々には、真の車イス、そのあるべきデザイン方向が明確に見えています。
まず、「超軽量」であること、「収納可能」であること、これは絶対条件、
最新の技術仕様とデザインのマッチングが見えています。
そのデザインに今二人でとりかかっています。
私のため=一人称に、あなた=光野にも必要ゆえに二人称の車椅子です。
おそらくそれは「スニーカーを超える」車椅子にしたいと考えています。



* 『モダンデザイン源流を自分デザインにしてはならない!』
* 『「座る」・人間工学からシーティングエンジニアリング』
* 『座姿勢の複合制御性能とその機能化からのIoMeT』
* 「緊急課題になった『リトルネッロ論』の再考と具現化」
* 『昨日大先輩は旅立たれた・栄久庵憲司氏から私の評価文』


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『ローカルな受賞なれど、とても大きな受賞でした』


   


     10月 4th, 2016  Posted 12:00 AM



若い頃はデザイン賞を常に狙っていました。
何と言っても国内では「毎日デザイン賞」や「国井喜太郎産業工芸賞」、
世界的には「国際インダストリアルデザイナーズ協会特別賞」という
ICSID Excellent Awardはまだ私で2名のみです。
デザイン賞はそれなりにおおよそはいただきました。
そしてこの度は「越前市市政功労賞」を県外にも関わらず受賞。
ともかく、越前市に前入りして翌日受賞式に、と思っていましたが、
伝統工芸、越前打刃物「タケフナイフビレッジ」は34年になり、
産地のメンバーから、ともかくこのホテルに来て欲しいと言われたので
ホテルに車で着くと1時間も遅れていましたがやっと到着。
なんと「受賞パーティ」が準備され、越前和紙、漆器、高校の同級生から、
スタート時から支援してくださった美大時代の空手部先輩、
武生市工業試験場で最初に出逢った人までが迎えてくれました。
とても驚愕するとともに自分自身はもう表彰をする立場ですが受賞を受諾。
いわばローカルな賞かも知れませんが、
実は、越前打刃物産地に飛び込み、「タケフナイフビレッジ」を設立。
第二世代の若者がいっぱい跡継ぎが生まれたこと褒章者も2名輩出しました。
伝統工芸産地が、これほどのことをやっていただけるとは、
どんな国際的な受賞よりも価値ありしかも懸命に取り組んでからでしょうか。
その成果は見事に開花してきたことには自負心もあれば、
まだまだ鍛えたい仲間達がこれほど待ち受けてくれたことに大感激。
サプライズでのケーキまでが準備には、涙ぐんでしまって、
「俺を泣かすなんて、なんてことだ!」って涙声になりました。
賞状は「越前指物の額縁と越前和紙」でした。
ローカルで懸命だったことは今もこれほど護って貰える素敵な夜と
そして大きな受賞をさせていただきました。
「指物」についてはデザイナーとして改めて書き残したいと思っています。



* 『Max Billの賞杯があったことを思い出した』
* 『伝統工芸産地を補助金漬けから開放し法律の改正が必要』
* 『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』
* 『毎日デザイン賞・同時受賞の佐藤晃一氏が逝去した。』
* 「タケフナイフビレッジ第二世代へ理念を伝える」


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『毎日デザイン賞・同時受賞の佐藤晃一氏が逝去した。』


   


     5月 28th, 2016  Posted 12:00 AM



無念だが、これが「天命」でしょうか。
グラフィックデザイナー・佐藤晃一氏が逝ってしまいました。
毎日デザイン賞を1990年に同時受賞しました。
受賞式は帝国ホテル、彼は群馬から両親をそのホテルに泊めていました。
控え室で、グラフィックデザイン界の重鎮たちから
「いい親孝行ができたね」と、言われていました。
初めて彼と出会いましたが作品はほとんど知っていました。
彼の受賞理由は「グラフィックデザインにおける日本的精神性」でした。
独特の淡いグラデーションの簡潔さは今も生きています。
今ならデジタル表現ですが、当時の手法を真似ることは不可能でしょう。
二人きりで「やかん」の話をしました。
丁度自分はニューヨークでダンスク依頼のデザイン開発を見てきた話、
恩師の作品やなぜ日本では製品デザインが困難かなど打ち明けてしまい
興味津々の彼の眼差しが今も心によく残っています。
彼のやかん探しに自分が驚いたことですっかり打ち解けていました。
お互いに若くして40代で受賞できたことを喜んでいました。
「これでやっとデザイナーだよね」と言い合いました。
受賞式の壇上では、自分を選んだ倉俣史朗氏の急逝を思い出し、
ついつい、涙声になり、とても重すぎる賞碑を支えてもらいいました。
彼は多摩美術大学の教授ゆえ、
客員教授の自分はいつでも話せると思っていて、
とても大事な機会を失ってしまったことが悔やまれます。
当時の毎日デザイン賞の受賞には
必ず国際的な評価が必要だったはずです。
しかし最近はその事例が失われていると批判したことがあります。
壇上で、小声で話していた会話を懇親会でも話しましたが、
この続きは出来るならもうひとつの世界で話すことになるでしょう。
心から冥福を祈り、
やり残した仕事の結果を持っていく使命を確認しました。

*『昨日大先輩は旅立たれた・栄久庵憲司氏から私の評価文』
*『緊急課題になった「リトルネッロ論」の再考と具現化』
*『ケトル・デザインへの好みの集中が不景気感になっている』
*『インダストリアルデザインからプロダクトデザインへ』
*『幻の発明だったモノの現物があった=柳宗理のデザイン』


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『ファッション誌で知ってさらに自分ファッション』


   


     9月 24th, 2015  Posted 12:00 AM



高校時代は丸坊主が校則でした。
ようやく丸坊主から解放されたときにファッションが気になり、
最初の男性ファッション誌は「メンズクラブ」でした。
美大入学時には母が指輪とブレスレットを男なのに買ってくれました。
以来、私は指輪もブレスレットも母からの命令だと思って収集し、
身に着けていますから、デザイナーで良かったとさえ思っています。
車いすになってふるさと福井で仕事をしているときには、
白いワイシャツ、髪も短く、必ず、イタリア製ダブルスーツでした。
東芝時代は、東芝マンでしたがアロハシャツで出勤する態度でした。
ダブルスーツに拘ったのは、今もそれほど変わりませんが、
車いす姿、若いことで明らかに差別感を受けてしまっていたからです。
福井でも毎日デザイン賞を受賞してからは、
ワイシャツもカラーにし長髪にしたようなものです。
もっとも最近では明らかに差別感を感じたら周りにスタッフがいても、
必ず暴力沙汰寸前になるようにまで、
それこそヤクザさんにも絡みます。
というわけで、逆差別のやり方さえ覚えてしまいました。
ごめんなさい。
今、ファッション誌はワイフの女性モノが面白いですが、
60になってまた「メンクラ」を読むこともあり、
今回なんぞは40になったらなんて記事に、
そうか、自分の40代はこの程度をファッションなんて呼ばない、
ファッションは、浪費と勇気の見栄=見栄えだと思っています。
見栄というのは,浪費できることやその程度でも揺るがない自己表現です。
一所懸命と一生賢明がファッションの哲学であり、
それこそ浪費する自分が一所懸命と一生賢明であることの見栄です。
ちょうど私の世代は、アイビースタイルに憧れ、
それこそ大学時代にネクタイをするフォーマル性を磨きました。
カジュアル性の根本としてのジーンズも、徹底したモノの価値観があり、
昨今では、高級ブランドからファストファッションまで、
それぞれの価値観への浪費性に使用感と所有感があると考えています。
幸いにして、メガネは自分ブランドがありますが、
自分が最も興味を抱いている分野で自分デザインができる幸運さ、
これこそ自分のファッション価値観だと思っています。


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『インダストリアルデザインからプロダクトデザインへ』


   


     4月 25th, 2015  Posted 12:00 AM



柳宗理先生には、正直、私は生意気に反抗をしていました。
その理由は講演で話そうかと思っています。
東京から先生はジープを飛ばしてやってこられて、
「絵など描くな、絵など上手くなるな!」
「手を使え、モノは実寸で創れ!」
・・・・・などなど・・・に、
私は絶対に「絵=スケッチ上手くなるんだ!」
(スケッチって、手が器用でなければ上手くなれない)など、
歯向かっていたと思いますし、それも見通されていたのでしょう。
よく、日本のデザインが黎明したのは、
松下幸之助氏が、米国視察から戻って羽田で
「これからはデザインの時代だ」という話から始まります。
それもあったかも知れませんが、
実際はお雇いの外人がデザインを東芝・日立・三菱に持ち込んだ話と
米国に二人が日本政府から留学派遣生だったことがあります。
柳先生がシャルロット・ペリアン女史を案内された話があります。
そして、藝大の学生だった先生がデザインに目覚めて、
当時、オート三輪車や、提案で終わった自動車デザインがあります。
そして、何よりも現・毎日デザイン賞第一回目の受賞者であり、
その時の作品は、LPレコードプレーヤーでした。
だから、私が卒業制作でオーディオシステムを決めたとき、
「実物を創らなかったら卒業はさせない」と言われました。
したがって、勿論、ワーキングモデル=実際に稼働するシステムを
創って、そのプレゼンテーションをしました。
先生はレコードプレーヤーで授賞されていただけに一杯言われました。
そのレコードプレーヤーに触発されたのが倉俣史朗だったそうです。
私は、その倉俣史朗の推薦で、
41歳の時に、毎日デザイン賞を受賞しました。
インダストリアルデザインの商業主義と対決して、
工芸をも対象にしたプロダクトデザイナーは柳宗理先生だと思います。


柳宗理生誕100年記念講演





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