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『資本主義からの逃走』
 「デザインは『付加』するものではないということ・4」


   


     7月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

距離性・距離感
私がこれまで自分自身のデザインは、
「ことば」と「かたち」で語ってきました。
それは、「ことば」と「かたち」の距離性・距離感を自分の中で昇華してきたことです。
ある意味では、人間とモノとの「隔たり」であり、
デザインは、この「隔たり」を近づける相互作用です。
「近」という日本語の表意性と英語のappro-の表意性は同様な意味を持っています。
その意味とは、人間とモノとの関係=構造はそのまま「近さ」感覚感であり、
この距離性や距離感を「付加」することではありえません。
デザインという相互作用を創出する営為ですから、
決して「付加作用」創りではありえないということです。
この関係=構造から、「付加価値」という術語は、三つの分野で発見することができます。
経営学的・工学的・法学(刑法学)的の三つの領域での「術語」としての「付加価値」、
その定義を見つけ出すことができます。
そして、まったくこの領域での定義と
「近さ」や「隔たり」の感覚感との一致性を見いだすことはできません。
つまり「近さ」感覚に「付加価値」は見いだせないのです。
だから、この相互作用は「全体性」へのまさにapproachだと考えてきました。
すなわち「全体価値」への「隔たり感覚」をどう物語るかという課題の設定です。
それは、「物語」=モノ(人工物)を口述しているかのように、という意味を込めてきました。
当然、下敷きになった思考方法は、
私が惹かれた芸術家から科学者、哲学者、数学者、音楽家、戯曲作家まで様々です。
私の「物語」=「プラトンのオルゴール
1994年に、こうした人達を12人に対しての「オマージュ」として、
「プラトンのオルゴール」展を開催しました。
それが、再度、2006年には、金沢21世紀美術館にて、
大規模な個展を開催することができました。と同時に「永久収蔵」されました。
国内で収蔵されたのは初めてでした。
しかもそれは、私のこれまでのデザインの本質的な効用と効果を「全体価値」とする,
まさに「物語」展にすることができました。
そして著作としての「プラトンのオルゴール」も出版されました。
この12人を選び出すことは本当に難しかったことを思い出します。
おそらく、この著作・展覧会・作品としてのオルゴール,
オルゴールユニットの特別発注・ビートルズ・そしてスケッチや図面も
今は金沢21世紀美術館にあります。
私は、この展覧会が私のデザイン、その「物語」になっています。
この「物語」は決して「付加価値」としてのデザインではありません。


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『資本主義からの逃走』
「ケータイの人称会話からのオントロジー」


   


     3月 17th, 2010  Posted 2:02 AM

Aristotle
最も会いたい人にプラトンとアリストテレスがいます。
二人とも膨大な言葉に「思考」を載せて残してもらった、
それが私の会いたい人という理由です。
プラトンは、「プラトンのオルゴール」という本と、
作品・展覧会インスタレーションが、
金沢21世紀現代美術館に、永久収蔵されました。
しかし、アリストテレスはまだまだ、私には未知です。
たとえば「メタ論」ということに限っても、
それは膨大も膨大な思考です。
無論、「形而上学」は多分生涯大きな連峰のようなものです。
会話の人称
さて、ケータイは発信・受信で「会話」のツールであり、
メディアであることは明白です。
ケータイでの「会話」には、一人称=私は交互に、
その交互さは二人称が入れ替わるということです。
だから、その「会話」には、一人称と二人称が交差します。
ところが、その二人の会話に、
「ところでさぁ、あいつのことなんだけど・・・」というのは、
三人称が入ってくるわけです。
「会話」が膨らんでくる、と言ってもいいでしょう。
その会話内容には、次のことが起こっているのです。
Inclusive & Exclusive
包括的な話題=InclusiveなContentsがケータイ会話で、
コミュニケーションされている状況です。
では、そのケータイ会話を取り囲んでいるのは、
除外的な話題=Exclusiveなことです。
一人称・二人称・三人称を包括していない除外性、
あるいは、そうした会話に独占されていない状況があります。
私は、このInclusive性とExclusive性の間、
その介在的な存在を「ケータイ」というモノとするなら、
「存在」そのモノを「メタ=本質性と事実性」には、
明らかに「人称会話」のモノという「存在論」が浮かんできます。
私は、ケータイを「会話」=「人称」=「存在」で、
その思考学域に「オントロジー」を配置してみたいのです。
その中核存在=ケータイの存在論から、
ケータイデザインを発想するということはまだ試されていません。


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