kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘泣く’


「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」


   


     12月 11th, 2012  Posted 12:00 AM



ロボットに心を待たせることができるのだろうか。
これはロボット学の大きなテーマです。
「ロボットは心を持つことができる」と石黒教授は断言しています。
それは、J・ボードリヤールの指摘への反論がベースだと想像します。
ひとつは、
「ロボットは想像的なものの局面が、
神話として到達したものに他ならない。
それは目に見える機能性の投影という局面である。」ということと、
「もしもロボットが行動の柔軟さというところまでの人間の分身であれば、
それは「不安」を呼び起こすだろう。」
という私のロボットの「身体論」的な解釈を喜怒哀楽表現を、
表情表現に求めたものです。
そこで、「舞」というロボットの動作は、まさしく「舞」ゆえに、
足の裏を決して見せないという行動とともに、
哀しいときには、
一緒に泣いてくれる表情=涙(LED発光)を流す形式を造りました。
ヒューマノイドでもなく、
なんとかメカノイドからも開放された造形言語でまとめました。
そして、まさしく「泣く」のは、
ジェームス=ラング説をそのまま摘要して、
「悲しいから泣くのではなくて、泣くから悲しい」ということを
人工知能的な反応と表現へ技術具現化を求めています。
だから、人間が泣いていれば、
まずロボットもそれをキャッチして泣くのです。
だから、泣くから悲しいという表情が表れることは正当性を担保できます。
心理学・生理学的な「泣く」という
ひとつの心があると思わせるようなことは可能になるということです。
これは、人間もロボットも「泣いて」こそ、
「悲しみ」を共有できるということは、
決して、
ロボットの存在が「不安」を与えることを消去してくれるはずです。
やはり、ロボットには、
形態としての表情=顔的な造形言語があれば、
その表情あるロボットの形態言語は、
喜怒哀楽ができることが「意味されている」ということになるはずです。


目次を見る

「竹刀か、木刀か、喧嘩の手段にも剛柔あり」


   


     8月 26th, 2012  Posted 12:00 AM



一人っ子の少年は、
兄弟のいる少年たちにしばしば「虐め」られていました。
大抵は、兄たちがその少年を虐めて苛めるのです。
少年は、とても力で対抗はできませんし、
泣くわけにもいかず、仕返しを考え抜き決意をしました。
(そうだ、よし夕食時に殴りこもう)と考え、
自宅にあった父の剣道用の木刀を夕方時に持ちだそうとしました。
母が必ず、木刀を持ってどこにいくのと聞いてくれるだろう。
そうしたら、理由を言えば、母は止めてくれるし、
いじめられていることも告白できる、と。
木刀を持ち出そうとすると、
その母は、言いました。
「木刀だと、本当に怪我をし破壊をするから竹刀にしなさい。」
そう言って、木刀を取り上げられて、竹刀を渡しました。
少年は行かなければならなくなりやむなく兄弟の家に行きました。
そして夕食時にテーブル上のお皿というお皿を割りまくりました。
大変な騒ぎになりました。
以後、その少年は、
「何を仕返しするかわからない男だ」という噂になりました。
完全な自己防衛ができる身分になってしまいました。
帰宅すると、母が言いました。
「やるだけのことはできたの、気がすんだの」
少年は「・・・・・ん」とだけ答えましたが震えていました。
当然、その家族は血相を変えて怒鳴り込んできました。
母は、
「弁償をさせていただきますが、
兄弟そろって息子をいじめるのは辞めていただきたい。」
少年は震えが止まりませんでした。
母は父にその出来事、事件を告げました。
父は、
「やっつけるにも手加減がいる。
竹刀で物だけ壊したから許してやる。人には竹刀を向けるな」と。
その少年は喧嘩のやり方の手段ということを考えるようになりました。
竹刀は柔らかい、木刀は剛過ぎる、
だから喧嘩の手段は論理的にも柔が剛を制するということでした。
やがて、その少年は「喧嘩師デザイナー」と呼ばれるので、
「デザイナーは喧嘩師であれ」までを出版しました。


目次を見る

「泣くということ・喜怒哀楽の基礎感性行動」


   


     1月 14th, 2012  Posted 12:00 AM


基礎感性行動、なんと大げさなタイトルでしょうか。
しかし、「泣く」というのは最大に重大な行為です。
正直、大泣きしたのは幾たびかあります。
母との死別。
車椅子訓練のつらさに耐えがたくて恋人の前で。
大学人になって悔しさでどうしようもなくて。
これが大泣きせざるを得なかったことです。
母との死別は、独りっきりで河原で大泣きしました。
車椅子になるという医師からの宣言では決して泣きませんでしたが、
当時、恋人の前ではリハビリトレーニングが苦しくてつらくて。
大学人になってからは、恩師に電話口で、
この恩師はもう逝かれてしまいましたが、
最近も、もう唯一の恩師の期待に応えられなくて、
還暦も過ぎたというのにこれも電話で泣きました。
子供の頃は、「泣いて帰ってくるな、
男子は泣くな」と教えられていましたから、
それはどこかで泣いて帰宅したことがありました。
「涙壺」、これはアラブ地方で、
兵士になった夫の帰りを待ち望んで、
妻がこれだけ泣いて待っていたというシンボルのオブジェです。
私は、「喜怒哀楽」はきっちりと
人生を四等分している感性だと思っています。
だから、喜んで、楽しすぎても泣きます。
無論、大声で笑いこけます。
同様に、怒り狂っても笑えて済ませることができます。
つまり、「笑うこと・泣くこと」これは人間感性、
いや感情の表れです。
「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」という心理説もあります。
今、日本は「泣きたいほどの苦境にあります」。
だから早く「笑える日」になってほしいのです。
泣くことを強いられたら、笑い飛ばせる自力が必要です。
そのためには、喜怒哀楽と泣く・笑うを対照的にできる感情制御が
感性を鍛えてくれるでしょう。
感謝のあまり、涙が流れること。
憤りが過ぎて、涙が流れること。
涙と泣くという感性の構造を
自分の心の一番大きな引き出しにしたいと思ってきました。
心の表情が、泣いたり、笑ったりすることだと思っています。
心が折れそうになることなんて、日常的に襲ってきます。
だから、自分を鍛錬するには、泣く・笑う、
これは、感性を行為化する基礎だと思っています。


目次を見る