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Posts Tagged ‘漫画’


『アニメキャラクターとそのグッズにあるkawaii』


   


     1月 4th, 2018  Posted 12:00 AM




東京駅には地下道があります。
かつて車イスは業務用エレベーターで新幹線ホームに出ていました。
最近はこの地下道も整理整頓されています。
その地下道を通ることが私には可能なのです。
ところで東京駅には丸の内側と八重洲側があります。
駅を通常横断するにしても8~10分かかります。
ともかく東京駅地下道はもちろんのこと、この横断路は重要でしょう。
そして、丸の内を通り抜けて八重洲側の地下街に、
思いがけず「クレヨンしんちゃん」グッズのお店を見つけてしまいました。
もう今さらと思いつつ、このアニメグッズ店に入ってしまいました。
マンガとkawaiiがまさに一致している日本の代表作だと思っていますが、
まさか、「クレヨンしんちゃん」があるとは思っていなかったので、
ついつい長居をするほど、そして少し買ってしまいました。
「キティちゃん」、「ドラえもん」などは講義かのであり、そのグッズは、
そろそろ断捨離の時期ながら、よくもこんなにと思うほど持っています。
時折、「クレヨンしんちゃん」はTVアニメも見てしまいますが、
あのアニメには何事かがあるのです。
日本の漫画・マンガそしてアニメの脈略はグッズにも繋がっていますが、
日本発のこうしたマンガキャラクターと
そのグッズに潜んでいるkawaii=かわいいというある種感性刺激があります。
そして日本の中に根付いている何にでも「かわいい」という評価、
これにはデザイナーとして私は自分のデザインにはこの評価は求めません。
そして、アニメキャラクターは、今ではLINEにまで氾濫しています。
しかし、自分デザインに求めないことへの、大げさに言えば、
私なりのデザイン美学の「美しさ」にはしていません。
が、なんだかアニメキャラクターとそのグッズには惹かれるものです。


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『マンガ表現での瞳表現、そのインターラクション』


   


     6月 8th, 2016  Posted 12:00 AM



日本の漫画はすでにマンガ=「manga」となって、
表現物の大きな文化性を国際化しています。
遺伝子に漫画印象が組み込まれているかどうかは
未だ定かではありませんし、
遺伝子を調整細胞として制御しているかどうかの研究もまだ最中です。
マンガを読むというライフ・ログとしての記録化と遺伝子関係は疑問です。
少なからず、ロボットを漫画で読んできた我々には、
確実なライフ・ログに組み込まれていることは間違いないと思っています。
たとえば、ロボットは日本の子どもたちは怖がりませんが、
欧米では、
子どもたちはロボットの存在に恐れをもっています。
またこの印象度を利用した「ゆるキャラ」はブームとなっていますが、
デザインが貢献しているのは「くまモン」のみと言い切ることが可能です。
なぜなら「くまモン」には明確なデザイン成果があります。
あとの「ゆるキャラ」となると、商業主義的な悲惨さがあふれています。
こうしたマンガやゆるキャラには、明確な分類ができます。
それは「顔表情での目」その表現にあります。
二つに分類されています。
黒い点だけと、白い中に瞳の黒点、この二つについては
阪大、私の研究室で黒い点に絞った研究が修士論文でまとめられました。
黒い点というだけの顔の中の配置だけで喜怒哀楽が表現されて、
黒い点の瞳感覚で充分に感情表現が可能だという結論を得ています。
むしろ、白い中の黒点瞳表現は、感情表現の限界を示し、
かつ、マンガでの顔表現では経年変化をすることが明らかです。
つまり、黒点瞳での顔表現は、生き物の顔表現を統合しているという
その結論は、
今後のロボティックスのインターラクションに繋がっていくでしょう。

*『キティちゃんにて確認できる「安全と安心」』
*『心を持つロボット表現として、「泣き出す表情」』
*『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』
*『VFXのロボットが柔らかくなっているのは進化?』
*『ロボットが『心』を持っている?かどうか、ということ』


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3月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

3月22日 先負(癸卯)


デザインスケッチの基本は
イラストでも
漫画でもない。

デザインストロークが
「身体化」されなければいけない。



川崎和男の発想表現手法


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『来年は干支は羊なり』


   


     12月 31st, 2014  Posted 12:00 AM



ここ数年、私は太陰暦そして陰陽五行説をかなり真剣に読んでいて、
たとえば腕時計もムーンファエイズに限るとかに決めてきました。
そして、まだまともな時計が生まれていないことも知りました。
五行説が西洋も東洋もそれぞれの組み合わせでコンセプトの
下敷きにすることができます。
正直、干支についても毎年、年明けのシンボル程度の認識ですが、
そろそろ、来年は未年とかといえば、12年後を考えてしまいます。
そして、日本人には干支への認識はすでに遺伝子記憶だと思います。
その大きな理由を私なりには三つほどあるのではと想像しています。
まず、干支の動物は日本人のマスコットシンボルです。
それこそ「ゆるキャラ」の発想には、
この命名者である人物の仏像好きが背景にあり、
干支以外のゆるキャラが人気を集めています。
そして、猫は干支に含まれていないだけに「キティちゃん」が
もはや世界的なキャラクターモデルになっています。
理由は簡単でしょう。干支には厳密な精神面的なシンボル信仰があり
この信仰から解放されているから、
現代的なシンボル解放が成功しているのでしょう。
それこそ、血液型や干支での性格分析は全く科学性がありません。
それは、占い的な荒唐無稽さがあたかも乗っかっているだけです。
だからといって、私は総否定することはまったくありません。
ともかく、来年は「ひつじ」をキャラクターにすることを
楽しみたいと思っています。
羊のディフォルメされた形態や漫画性、あるいは形態模写性や
スタッフとこのシンボルなら、
羊が一匹、羊が二匹・・・・Z・Z・Z・Zって、
キャラクター性のおとぎ話的な要素の表現に決めました。
私の性格には、とても似合わしくない年=未年がやってきます。


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『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』


   


     12月 21st, 2014  Posted 12:00 AM



日本のロボット技術は、国際的にも独特で有り、しかもそれらは
漫画からアニメーション、あるいは怪獣映画が支えてきました。
映画・ロボット・工学にサンドイッチされている想像界があり、
とりわけ、日本のロボット工学には実際は仏教論だったこと。
これは日本で最初のロボット工学の森政弘先生から学びました。
その根本的な表れは、日本の映画でもアシモフのロボット論は、
ほとんど適用されていません。それこそ、ロボットは性善説でした。
海外では、ほとんどがロボットは人類の敵であり、アシモフ論です。
日本の漫画やアニメーションが「かわいい=kawaii」表現も、
この適用に見事に収まっていると私は感じてきました。
それはロボットとは何か=人間とは?からのアプローチがあり、
J・ボードリヤールのロボット論にまで私は影響を与えているとさえ
判断しているくらいです。
鉄腕アトムからロボット学者に向かった人たちを知っていますが、
すでに日本の漫画には、キティちゃんやドラえもんがいますから、
これからはこうしたキャラクター主人公からの想像力があるでしょう。
それは現代のロボットには中途半端なモノが多く登場し過ぎていて、
これらは、日本独特のロボット観の勘違いを多く発見しています。
私は、漫画・アニメーション・映画に登場するロボットの
「柔らかさ」に是非とも注目してほしいのです。
そこでは、なんといってもドラえもんは、まさにお菓子のどら焼きが
リバーシブルになっているぬいぐるみは、一つの象徴です。
私は、くだらないと言われようが、キティちゃんグッズから、
ドラえもんグッズを集めに集めてきました。
それはまさにボードリヤールが指摘したロボット論の裏付けでした。
「柔らかいロボット」の登場こそ、アシモフのロボット論、
敵対するこれまでのロボットから、未来ロボットを呼び込むと
私は予知しておきたいと思っているからです。
空想から生まれたドラえもんには、あくまでも性善説のロボット、
私がすでに定義付けしている「ロボットデザイン基礎学」があります。

『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
『ロボットに工学設計はあってもデザインされていない』
「ロボット・『踊』の意図すること」
『森政弘先生からの仏教論に支援されながら・・・』


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『VFXのロボットが柔らかくなっているのは進化?』


   


     12月 20th, 2014  Posted 12:00 AM



この大きくて白い映画のロボットがまだ上映前だから、
映画館にディスプレーされていました。
このアニメーション映画のTV-CFを見かけながら、
私は空想力・想像力の中でも性善説真ん中に一つの安らぎを感じます。
今、映画には様々なロボットが登場してきますが、
私はようやく柔らかい表現のロボットが登場してきたと思っています。
ワイフは絶対にこの映画は観たいと言っています。
この映画のアニメーション技法はVFXが無ければ出来なかったでしょう。
VFXとは、視覚表現にコンピューター技術を運用した視覚効果技法、
さらにSFXは、撮影現場そのもの場での特殊効果でもあり、
最近はこうした映画技能者が監督にもなってきて、
その技術駆使で、空想力毎の映画ジャンルが出てきています。
私はデザイナーとして、VFXの進化とロボット工学の一体化が
あくまでも科学技術、さらにはコンピューター運用進化こそ、
次世代のデザイナー職能にも深く関与してもらいたいと思います。
なぜVFXという技術に注目しているかを明らかにすべきかと言うと、
一方には、ぬいぐるみというキャラクター玩具があり、
もう一方には、完全にハードでメカニックなロボット玩具が、
空想力さえも分断している気配を強く感じます。
映画、漫画、SF、宇宙物語への想像力には、19世紀末当たりから、
素直な未来想像力が育ってきたと思います。特に、日本人ほど、
こうした空想力は鉄腕アトム、鉄人28号、8マンによってそれこそ、
日本人の遺伝子にも組み込まれているとさえ言われています。
それは、日本から二足歩行のロボットが出来、
日本の子ども達は笑顔でロボットに対面できますが、国外では、
幼児たちは泣き出してしまうことは確かめられています。
私はやわらかいロボットは、ぬいぐるみとの融合性が、
海外から始まってしまったことに、国内技術の立ち後れを感じています。

「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』


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「SNSの新しい国産情報化に期待」


   


     8月 23rd, 2013  Posted 12:00 AM



SNSが情報社会の手法として定常化しました。
Twitterは140文字で、一時期は100文字メールを試みました。
しかし、情報化の意味が一言メッセージに深みがなく、
ほとんど連絡用程度しか私は使わなくなりました。
フォロワーというグループも8000人程度に決めています。
Facebookは発信者の本人確認が明白なので日常ツールです。
しかし、いづれも海外製ゆえに、日本製・国産に期待してました。
LINEが登場し、メールは文章よりもほとんど漫画チックな
スタンプで、仲間内で楽しむ情報化手法になっています。
LINEの影響が確認できたのは、文具大賞候補に、
LINE手法と思わせる付箋が出現して授賞してもらいました。
ところが、いわゆる仲間内情報での殺人事件にLINEが悪用され、
想像力を全く欠落した大人たちが出てきました。
このやりとりで殺人行為には、
とても呆れ果てると同時に情報社会の暗闇を再確認。
LINEの特徴は、言葉無しでのキャラクター画像でのやりとりです。
一番、私が使い合うのはワイフとの連絡、
スタッフとの連絡や一部教え子、友人たちに限定していて、
いろんなスタンプ駆使と無料通話程度でした。
私が期待いていたのは、この国産アプリケーションの充実です。
案の上、LINEの通信使い勝手の領域は拡大してきました。
今度は、音楽配信、ビデオ通信、そして通販までの業務拡大です。
なるほど!、ですが、私には、「そこまで」という印象です。
相変わらず、現状のスマホだけの通信方法では何も変わりません。
気に入っているのは企業形態での「すぐに株式上場」が考慮中。
これはとても納得できます。
通信ベンチャーを未来的に語るなら、この方法は大正解です。
それでも現状の通信から脱出していないことに大落胆してます。
どんな方法?・・・教えられません。
これは、私がプロのデザイナーとしてのアイディアですから。
LINE登場と先般のインターネット選挙広報のあり方も、
私はとても注目して見ていました。
ある政党がこれに乗り遅れたときには党の首脳部に提案しました。
だからこそ、国産です。
LINEが狙うのは現状手法でのインターネット活用ではありません。
なんとしても世界制覇してほしいのです。


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「今なぜ『大奥』なのだろうか、もしも、という幻想・・・」


   


     12月 13th, 2012  Posted 12:00 AM



「大奥」は、日本人にとって、覗き見たい歴史のフィックションです。
映画・TVにおいて、
その物語のプロットは徳川家の存続を女の闘いとして描かれてきました。
新たな物語の切り口として、
将軍が女性だったら、という物語の映画が登場しました。
まず、映画を見ました。
そこでは、若手アイドルが主役で、
漫画的軽度のおもしろさを楽しみました。
そうしたら、今度はTVドラマになり、
その展開にそれなりの恣意性がありました。
TVドラマから連続して映画にも展開されるということで、
ワイフは観たくないと言いますが、
私は結構楽しみにしています。
私なりに力量を認めている男優が主演であり、
将軍が女だったら、
というのは荒唐無稽な話に過ぎないと思っていましたが、
私は、ある深読みをしています。
それは、
「もしも・・・・だったら・・・」という想像力と現実との対比です。
人間は、想像力に潜んでいる荒唐無稽さにも、
なにがしかの真理を見いだしたいという欲求があるのでしょう。
「もしも・・・・だったら・・・」というバーチャル観は、
まさにモルフェー=白日夢に幻想からでも
明確な示唆を得ようとしているのです。
その意義は三つはあるものと判断しています。
 
  ・「もしも」という架空のプロットゆえに
      想像力に無限さを確認できること。 
  ・しかも、男女逆転という役割がもしも現代にもあったなら、
      という想像力には恣意性があるということ。
  ・幻想・想像力の中でこそ、現実意識をより明快にできるということ。

こうしたことが無ければ、
元来、人間は幻想や無限の想像力を
日常的にはすぐに忘れてしまう脆弱な、
あるいは
フラジャイルな存在でしかないのではないだろうかということです。
モルフェーとは、モルフォロジー=形態学を生み出し、
モルヒネという薬剤の原語にもなっています。
私は「もしも、商品世界は終わって、
記号世界が始まるとするなら・・・」を熟考しています。
現実世界は、「もしも・・・」という事が
「事件」として多発しているのです。
それこそ、天と地が逆転したなら、
想像を絶する天災や人災への対策というものはもっと確かな幻想を、
さらにしたたかに私たちの知識から知恵をもって
備えなければなりません。
「大奥」というたかがフィクション映画にも、
それなりの決断の場面では、
されど真理の言葉がちりばめられていることを知るわけです。
TVドラマで、こう聞くのです。
「貴女が守り抜く徳川家とは?」
「それは、平和を永続させる唯一の力だから」
「・・・・・」
このような大事が台詞会話です。
だから、私はきっとこの映画は観ることになるでしょう。


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「初音ミクが象徴している近未来はアンドロイドなんだ!」


   


     12月 8th, 2012  Posted 12:00 AM



同じ大学に居ながら同僚にもかかわらず、
マスコミ報道やTV番組などで、その活動を知ることの方が多いものです。
いつも何らかイベントでは、
阪大同僚である教授と同席することがよくあります。
阪大ロボット学者の石黒浩教授とは、
昨日も、
医学系研究科MEIセンター(澤 第一外科教授センター長)の講義で、
研究内容を間近に見、そして本人に質問まで出来ました。
しかも、今日は兵庫県立美術館でまたご一緒するのです。
石黒教授といえば、世界的ヒューマノイド系ロボット、というより、
すでにアンドロイド開発者として国際的な第一人者です。
授業として、
石黒教授の講義を受講し、質問をして確認できたことがあります。
ロボット工学では、「不気味の谷」論というのがありますが、
その具体例での論説に感銘を受けました。
そして、すっかり疑念が解消されたのは、
「なぜ、初音ミクが218カ国に受け入れられているのだろうか」、
納得できました。
この言わば、漫画とは言い切れないアニメーション・キャラクターは、
非在しつつも、確実にアイドルとして驚喜する感性がどこまで世界的に、
飛び回っていることの理由であり、開放感覚です。
明らかに、不気味さは皆無であり、
消去できうることや、聴覚映像の詳細な表現技術の進歩そのものが、
まさに、アンドロイドということです。
そして、最も重大なことは、
「攻撃性皆無の安全性と安心感」を受け止められる感性、
それが情報時代の中で
若者の感受容体に育まれてきたということになります。
私は、これを「形態論」と「身体論」で、デザインテーマとして、
どのような意図すべき「造形言語」を創成すべきだろうか、
意味されてしまう「形態言語」への
デザインアプローチを求めようとしている自分、
すなわち、これが自我なのかも知れないと気づくのです。
デカルトの言葉、
「我思う、ゆえに我有り」は、
近代の認識論としての一つの源流であったかもしれませんが、
「初音ミク」という具体的存在のアンドロイド性には、
もはや、
そうした思考制御などは皆無になっていると言ってもいいでしょう。
すでに認識論的な哲学は、
消去されていると考える時期なのかもしれません。
今日、あらためて石黒教授の講演で確認してみるつもりです。
私のテーマは「あさっての美術館」?!
ん、何?とこれからプレゼン制作に入ります。


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「金沢美術工芸大学の大阪での大学大同窓会」


   


     8月 15th, 2012  Posted 12:00 AM



私は金沢美大卒であることを幸運に思っています。
先月、大阪で関西地区の同窓会に出席しました。
案内葉書が届いたとき、行きたいなーと思いましたが、
車椅子でOKの会場だろうか、とすぐに考えます。
そして、そのことを確かめると、
会場を変えたりということもこれまで経験してきたので、
それは申し訳なくて、「不参加」として返信しました。
ところが後輩から、「どうして来てくれないんですか」と電話を受け、
「いや車椅子だし会場のことも・・・」
「何言ってるんですか、当然、バリアフリーの場所ですよ」
と言われて参加しました。
1959年卒から今年卒まで関西地区で80数名も集まって、
東京同窓会からも代表が、金沢から同窓会代表も参加ということで、
美大らしく、ビデオまで制作してありという大盛会でした。
Facebookのファンページでも800名も存在するネットワークです。
必ず、個展や出版や映画などの案内も
そのページでいつでも見られる組織になっています。
毎年、東京銀座・金沢・New Yorkでは、大展覧会が恒例化してきました。
それも参加者は700名もいます。
絵画界・彫刻界・工芸界・デザイン界ではそれぞれにリーダー格がいます。
しかし、そのようなことはまったく関係なく、
先輩ー後輩の関係は根強くスムーズに繋がっています。
会ったことはありませんが、
あの作品、あの漫画、あのパッケージ、あの映画、あのCFという具合に、
先輩・後輩の作品がいっぱい日本を席巻しています。
今、大先輩は故柳宗理先生のヨーロッパでの足跡調査をされています。
私は金沢美大卒業であることは、
本当に、人生の「大幸運」だったと噛みしめています。


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