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Posts Tagged ‘現代’


『箪笥・小タンス・ダンシング』


   


     10月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

これは、長年私が温めてきた企画展のタイトルです。
したがって、箪笥を所有し使用するのも拘ってきました。
一番に拘ってきたのは、かつて母の実家の蔵にあった箪笥です。
日本の箪笥は平安時代から江戸時代には格段の進化をします。
そしてこれが壊されるのは明治期に欧州の家具や、
敗戦直後からGHQにデザインを依頼されて米国流になったこと。
したがって、日本に有った「船箪笥」は優れたモノづくりでした。
船が難破しても沈まないとか、桐箪笥は水をかければ燃えない、
このような話がまことしやかに語られました。
しかし、火災になっても現代は高温になることや、
船箪笥・桐箪笥は沈み、燃えます。
しかし、現代もなお「岩谷堂箪笥」のモノづくりには、
日本の箪笥、船箪笥・桐箪笥の詳細で緻密さが息づいています。
たとえば箪笥は移動体だったため箪笥車が台輪についていました。
これはドイツの収納箪笥同様に移動が簡単でした。
さらに、泥棒よけや、隠し引き出しがあることなどの細工です。
私が、生きている伝統文化としての箪笥には、
木材の頑丈さや狂いよけの細工、仕上げの漆塗り、金具工作です。
そうして、これらがすべて完成度を持っているのは、
「岩谷堂箪笥」です。
おそらく、日本の箪笥をデザインで「岩谷堂箪笥」までの復興を
私はまだ見いだしていません。
昨今は、伝統工芸品として、木工工作の箪笥を認定していますが、
私には肝心要の素材・引き出し工夫・金具・仕上げの漆など、
こうした技術が継承されなくなってきています。
それだけに、新素材・新仕上げ・新金具、そして工夫木工が大事。
私は、自宅では「岩谷堂箪笥」を大事に所有し、
「箪笥・小タンス・ダンシング」展を考えています。


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「デザイン基礎力の一つから現代社名ロゴをみると」


   


     8月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

戦後のデザイン教育は私の恩師・平野拓夫先生から始まりました。
私の役割は「平野メソッド」を後世に伝えることです。
デザイン系大学で教授になっている後輩たちも、
この訓練は厳しく先生からOKが出るまで受けています。
「カーペンターペンシルで欧文書体を書き順で描く」方法です。
私は、自分の手が鈍ってきたらその一つの手法に戻ります。
欧文書体の書き順は、アルファベットの構造を熟知します。
かつて欧州で「君は書き順を知っているから信用できる」とまで、
私は言われて、社名ロゴタイプのデザインを信頼されました。
阪大では、カーペンターペンシルで書体構造を教えました。
なぜなら、ディレクターになる技法知識だと考えたからです。
そこで、現代企業の社名ロゴタイプを見ると、
余りにも醜いモノを数多く発見します。
まず、デザイナーにその基本が欠落し、
経営者の歴史性認識力や知識不足を確認するわけです。
したがって、たとえ大企業のロゴタイプを見るだけで、
この企業の存続寿命は歴然と分かってしまいます。
「この企業は必ず潰れる」と思うと、結果そうなるのです。
大学人を辞めたら、そうした企業名を書き残すつもりです。
だから、今も、「あぁ!、この企業は駄目になる・・・」。
それは欧文書体で、すっきりと理解することができます。
一般的には、ヘルベチカとかオプティマが基礎でした。
特に、おそらく全世界は、標識から看板までヘルベチカでした。
ところが最近、「置き土産だったのか!」という書体があります。
レタリングからカリグラフィー=文字を美しく表現する、
この技法で自分の美学を形成した一人の男がいました。
しかも、この美学性がデジタル表現と結びついています。
だからこそ、デザイナーは今一度、レタリング、ロゴタイプ、
これらを再検証するべきだと私は提案しておきます。
そういう意味でも、私は「戦後のデザイン専門教育」を、
しっかりと残したいと考えています。
それは、「手の訓練」と「発想」が、
美学性を獲得する職能デザイナーの根本だからです。
デザイン教育でこの根幹が失われないことを歴史に残すためです。


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8月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 12th, 2013  Posted 9:30 AM

8月12日庚戌(赤口)

これだけ情報が高密度化した現代において、
自分と対象との関係を照合的に
測定するという行為は、
もはや知性の領域に入る。

『デザインの極道論』好奇


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「光造形と3Dプリンターでクラインボトルはなぜか?」


   


     5月 22nd, 2013  Posted 12:00 AM

これは厳密にはいわゆる数学でのクラインボトルではありません。
しかし、3Dの造形においては、
「造形システム」での手法や装置が極めて重要です。
たとえば、
なぜ、Desk Top Publishing=DTPが時代要請だったのだろうか?
この質問に戻らなければなりません。
DTPではPostScriptというOSが無償でユーザーに供給されました。
結果、PageMakerというレイアウトソフトは1986年に生まれ、
Illustrator88がその期待の元に出てきました。
世の中はレーザープリンターの印刷精度値を進化させるのです。
商店街から「軽印刷業」が消滅を始めました。
これは2Dの「版」離れを意図した世界観的な存在感、
少なからずパソコン自動製版と呼ばれた革新でした。
同時期に日本では光造形という実験成果で特許を求めましたが、
見送られた現実がありました。
2Dの世界観を3Dに求め始めるのは当然でした。
その一人がデザイナーの私だったのかもしれません。
明確にニュージャージーのベンチャーとプリンストン大学が、
「歯車」をすでに実現していました。
私は、この装置が欲しく、3D-CGと3D-CADを学ぶために
ベンチャーの本社(トロント)で二夏訓練を受けました。
3D-CGでは、Natural Phenomenaという
今では当たり前の、水と水飛沫や燃える火、夕焼け表現でした。
しかし、私の頭の中では、金型=「型」から解放される、
そんなモノづくりを夢見ていました。
光造形のクラインボトルは、
「何のため?」とどれだけこれまで聞かれたことでしょうか?
想像力のある人は、
金型では決して出来ない自由な表現や実務対象を見つけました。
そこで現代では拳銃やマシンガンさえ3Dプリンターでの
実現可能性が明確になり始めてしまいました。
わが国、日本の技術進化=「技」の系譜は、
はっきりと光造形の下敷きの上に、
3Dプリンターの「技」が確かめられることが分かりました。
このクラインボトルの形態を自由に変形させ、
かつ様々なイメージをそのまま造形化するのに、
廉価な3Dプリンターでもここまで出来ること、
これが重要だということです。


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「『MAKERS』の正しい受け止め方」


   


     5月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

「資本」の解釈を決して誤ってはいけません。
自然資本主義という認識を鵜呑みにしないことを
私はプロのデザイナーとして、大学人として記載しました。
そして、ここまでをもう一度書き残します。
「MAKERS」という現代流行の読み方です。
この本に多くの人が騙されています。
オバマ大統領の演説にまで出てくれば、なおさらです。
やはり米国の民主党では政治は無理だと断言しておきます。
彼がこの著作で語られた具体的な3Dプリンターで、
「産業は決して革新されません」。
案の上今、光造形データを3Dプリンターでの具体化を見ています。
大統領は、米国中西部・オハイオ州のブルーカラーからの
「票集め」の戦略だと考えておくべきです。
そして、彼の演説にまで登場したわけですから、
英国での政策評論などは踊らされています。
日本には、もともとの光造形発明があったわけです。
勘違いしている国外国家政策を傍観しながら、
「わが国独自の未来づくり」を地道に創成すればいいのです。
先般、NHK批判を私はブログで記載しました。
想像以上の人たちが、この番組をまったく信じていませんでした。
私はあらためて、日本人のバランス感覚と正当な知識判断を
心から敬愛します。
ずばり、言い切れば、「MAKERS」を下敷きにします。
そして、次のことを提示します。
● 3Dプリンターのデメリットが光造形のメリットだろうか?
● 光造形のデメリットが3Dプリンターのメリットだろうか?
この最も具体的なデザインとその造形をいずれ提示します。
そうすれば、おそらく、このメリットに未来への革新があります。
光造形にしろ、3Dプリンターにしろ、
基本的には「精度はまず求めません、特に廉価シリーズは」。
ただし、高額商品なら「精度と仕上がり、さらに造形素材質」は、
当然に必要です。
とりわけ、小玉博士発明の光造形の進化は、
日本のナノテクノロジーでは、進化の真実を歩んできています。
私は現在、3Dプリンターで「MAKERS」に刺激されて、
そこの未来を想像するならば、
わが国独特の手法と実務を、欧米に惑わされずに、
正当な進化を「これからの革新」のための要素にするべき、と、
考える次第です。


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「資本論が引きずっていることから早く解放されるべきだ」


   


     5月 16th, 2013  Posted 12:00 AM

私がこのブログを開始したのはマルクスの「資本論」からでした。
わが国がようやく大政奉還から明治維新を迎える寸前、
その後、世界中が引きずられてきた「資本論」があります。
ひょっとすれば、あたかも「聖書」と同様に様々な解釈や、
そこから世界は新たな思想、制度、哲学などを支配されてきました。
特に、20世紀はこの理論の解釈は大きく二分されて、
大戦を二度も体験しながらも、
まったく人類は存続の知恵を創ることもできませんでした。
私自身、社会人になる寸前、1970年には「ローマ賢人会議」で、
すでに「地球存亡、地球資源の枯渇予測」があり、
私はとても大きなショックを受けました。
このショックは今なお私の奈辺に大きな重力のままです。
まさか、と思っていた「March.11.2011」を体験するとは・・・
そして、豊かさを勘違いしながらも平和なこの国家が、
産業構造も瀕死状態にあります。
「資本論」は人間の存在を労働力としての批判だと一言にすれば、
「自然資本」は地球資源を自然力としての見直しと考えます。
私は、モノづくりに関わって生きてきた人間です。
そして、たとえば「サスティナビリティ」というのも、
単なる「人類の生き残り」などではなく、
明らかに経済用語だとその論理付けもしています。
私は明らかに「モノづくり」の視点から、
光造形を語り、3Dプリンターの虚実を見極め、日本の未来づくり、
その創成と創出をデザインで主導することを考えています。
まだ明らかに「世界戦争は連綿と私たちを苦しめている」のです。
私たち日本民族が消滅するのは2300年頃と言われています。
そこまで私には全く関係はありませんが、
少なからず、2050年までは自分の思想意欲と、
祖国日本、日本人のあり方を何らかに記述しておきたいのです。
人間中心=労働力で語ろうが、地球中心=自然力で語ろうが、
結局は、人間の日常のエネルギー=水・食糧・電力だと思います。
しかし、すべからくを「資本」と呼ぶこと、
その姿勢を変えるべきだと主張しておきたいと思います。
私の専門で語るなら「型」と「版」でのモノづくりは終わります。
だからこそ、現代の基盤思想は、
「資本」という語りから解放されなければなりません。
私は、とりあえず、これまで記述してきたテキストに、
「Natural Capitalism」、
その邦訳本「自然資本の経済」を取り上げておきます。
「ビジネスモデル」?、もうそんな思考回路は消えています。


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「たとえ『市松模様でも』デザイン戦略の妙技」


   


     5月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

これは単純には市松模様にすぎません。
しかし、著名ブランドがしたたかに商品シリーズに加えると、
それですっかりそのブランドの決定的な商品価値、
いや記号価値になってしまいます。
私自身もこのブランドのこの記号価値を日常に取り込んで、
どこまで自分のアイデンティティと重ねられるのだろう、と、
取り組んで使ってみています。
もちろん、それは弱点も少なからずありますが、
現代の流行現象に覆い被さっていて、
元来は「市松模様」であったことが、
すっかりこのメーカーのオリジナリティに変化しつつあります。
しかし、日本刺繍での「市松模様」とは
明確な違いには至っていません。
私の祖母は日本刺繍を教えていました。
刺繍というのは世界各国にありますが、その国独自の手法です。
その手法は、中東・アジア・オセアニアに根付いたモノです。
とりわけ、わが国は自然界と幾何学系に独特の図柄があります。
祖母が残してくれたとても分厚い見本帳が見つかりません。
ほとんどが私の記憶の中にあります。
したがって、刺繍のそれも幾何学模様で、
「市松模様」には常に注目をしてきました。
そしてこの市松模様が、
実は現代テクノロジーで見事に開花したのです。
それはコンピュータ・モニターの液晶での
ピクセルであり、2009年には英国でついには、
「Bits from Bytes」で、これは点から線になりました。
私が、光造形で発見した、
「点(ピクセル)はやがて正方形に至る」というのは、
実際上は、この「市松模様」だったわけです。
私がこの模様をデザインで現代に持ち込んだのは、
一人のインテリアデザイナー、デザインチームと、
このブランドだったと思ってます。
このブランドのシリーズを日常化のモノに適用するたびに、
次世代にもこの「模様」そのものが、
新技術・新素材・新記号になると思っています。


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「『招き猫』の正体を知りたいってつくづく思う」


   


     12月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

私は猫派ではありません。
昔、猫好きの彼女がいた頃、そのペットを結構イジメていたと思います。
なんとなく、動物の猫はほとんど無視できる派です。
ところが、なぜ、猫は十二支にはいないとか、
キティちゃんグッズに惹かれるとかを考えると、
この「招き猫」なる存在が気になります。
このブログでも、奈良から帰宅途中のサービスエリアで、
縮緬ぬいぐるみの招き猫」をカメラに収めました。
そして、帰宅してから、購入してじっくり見つめてみたいと思いました。
もう一つは、「伊勢参り」に行ったことがありません。
日本人なら、
靖国神社から伊勢神宮・出雲大社にはmustでなければなりません。
そして、私の伊勢参りには「お土産を買うこと」です。
これは国内外の美術館や博物館に行っても、
必ず、ミュージアムショップの楽しさがありますから、これと同価値です。
さて、当然ですが、私は徹底的に「招き猫」、
その由来から諸説などは訳知りに一応なっています。
しかし、それをここで披瀝するよりも、
この商品=バカラ・ブランドであることに
注目しているかを述べておきます。
バカラはフランスのガラスメーカーとして、
世界的なブランドを構築しています。
ただし、現代、成功しているかというと
世界的な経済動向からは解放されてはいません。
モノづくりそのものも私はかつての技術力は停止していると思っています。
むしろ、競合企業であるスワロフスキーが、
市場的、時代的、人気度は勝ってきたと観ています。
そして、スワロフスキーには「招き猫」はありません。
バカラが、なぜ、日本市場向けにこのオブジェにまで気づいて
商品化しているかを想像憶測するべきでしょう。
少なからず、
バカラ社には「記号」としての「招き猫」に気づいているということです。
ガラスは宝石・貴石・鏡ではありませんが、
その材質に宿らせる「形態言語」=意味されていることがあります。
ただし、
それが何であるかを造形言語で発見することが
企業使命であることは確実です。
バカラの商品戦略は明らかに「記号」を選別していたということです。


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「TEDxOsakaUの開催・傍観から主体化へ」


   


     10月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

TEDは、コンファレンス形式の流行になってきました。
「スーパー・プレゼンテーション」として、
NHK・TV番組になり、その人気はますます上昇しています。
TED=Technology・Entertainment・Designという領域のなかで、
アイディアの提案者=スピーカーは与えられた短時間(最大18分)で
プレゼンテーションをすることになっています。
TEDがTEDxとして世界各地・日本全国で展開がますます拡大です。
私の研究室も早くからこの活動を見てきました。
私は学生やスタッフには、「主体的」に関わることを提案しました。
結果、「TEDxOsakaU」という範疇で、
大学を中心とした開催権利を学生がいただきました。
先般、TEDxKyotoには、
准教授・元スタッフ・研究室・スタッフが主体的に関わり成功させました。
しかし、私は一言「チャラケるな」と一喝したのです。
それは、
TEDxは米国先導のイベントからフェスティバルになろうとしています。
問われるべきことが、
スピーカー話題・課題・問題に意識化されていないとするなら、
「異業種交流?・カフェ?、そしてTEDって?」ということが
曖昧化され始めてきているようです。
現在、わが国でEntertainmentを語れる状況は押しつぶされています。
もし、このTEDへの「主体性」を発揮するならば、
三つのことを欠落させてはならないと私は考えています。

●1. 未来を招致するには現代を批判すること。
 そこにあってはならないのは「共同幻想化」の誘導を禁止すること。
●2. 現代・現実の把握と意識化において「共同謀議」の誘惑。
 実際面での提案にあるべき夢・希望・期待は
 決してEntertainment性の軽薄さに浮かせないこと。
●3. このプレゼン形式がSNSで「無防備拡散」のこと。
 これは大きな最大公約数的な情報化に沈没する怖れがあること。
 オーディエンスに最小公倍数的な発想を刺激し促進すべきです。

それはビジュアライゼーション手法が、
SNSで「共通認識」された価値観に蓄積するなら、
TEDそのものが、
世界への意識革命を情報戦略の一つに私たちは楽観的に包囲されます。
ということで、私たちは「傍観者」から「主体者」を選んで、
私たちのオリジナリティ創出をめざします。
パートナーには、信頼できるこれからの企業が支援をしてくれています。
つまり、日本の大企業には、
この「形式」にも近接できないほど脆弱化していると判断してしまいます。


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「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


   


     8月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

自分の生まれ年のモノこそ、
自分を重ねていく趣味性とオークション価値性が楽しめます。
学生たちにも、若いときに、たとえば生まれ年商品となった、
時計などを買っておくことは趣味の基本だと伝えています。
私は50代になって、
生まれ年の時計を随分探して買いましたがとても高額でした。
そうしたら、
ワイフはしっかりと生まれ年の人形をコレクションしていました。
多分、この人形は、「たかが人形」に過ぎないと思いますが、
これはとても価値あるコレクションだとびっくりしました。
しかも、ルイヴィトンの靴トランクに、
このブライス周辺の小物まで整理して持っていました。
今回も彼女のコレクションを借りてこのブログで、
「たかが・mere」?「されど ・just」という比較断定論を突き詰める、
その一例としてメモしておきます。
ブライスは、おそらく人形の中でも独特の表情とその存在感があります。
この人形の詳細についてそれほど私は語りきることはできませんが、
この人形を素材として
人形との関係が総合的に充実しているモノはないでしょう。
すなわち、「たかが人形」「たかがブライス」に過ぎませんが、
問題は「されど人形」「されどブライス」を
確認する要素がいっぱいあります。
私が「たかが」?「されど」の可逆論理は、
「たかがデザイン」ー「されどデザイン」という言い方で、
私は「デザインの重大性」をこれまでも、
これからも語っていくことになると思っています。
私にとっては、「たかがデザイン」と言われたり、
その程度の価値観を抱く人間には常に喧嘩をしてきました。
「されどデザイン」を実証するのが私の使命だと考えています。
「されどデザイン」の本質的確信は、
人間としての人格=美しさ認知力こそ、
その人の存在性に関わっていると断定しているからです。
真・善・美が人間の悟性であり存在性そのものの価値だとすれば、
この真・善・美においても最後の価値判断は「美」です。
結局は真であり善であっても、
美無くしては真善も成立はしないということです。
私は、このブライスという人形が世の中に登場して、大変なブームになり、
それがさらに「たかがブライス」なのに「されどブライス」になって、
しかも現代も「されどブライスの価値観」は高密度になっています。
ブライスの存在性が創り連続してきた
「価値」の真意は美に通じているのです。


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