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Posts Tagged ‘現象’


『パリティの崩壊=アレルギー関係の教示がデザイン思考』


   


     6月 25th, 2016  Posted 12:00 AM



理系から文系へ、文系から理系へ、
このリニア的な教育プログラムを「デザイン思考」とした手法は、
あたかも最適に見えていましたが、
デザイン=問題解決とその解答には「美」が決着する必要がありました。
それはパラボラ的な教育トレーニングが必要でした。
なぜなら、デザインによる問題解決には、
デザイン思考を支援する、造形化が義務だということを、
リニア的なプログラムでは無謀でしかなかったのです。
そこで、理系文系を学術系とし、その対称性に芸術系を配置したのです。
それは、リニア、パラボラ、さらに、対称性の崩壊により、
プライミングエフェクトという想像力を育成しました。
それは「美的」な解決を目論むというデザインそのものでした。
これは思考を超え、論理をふまえた倫理性あるsilienceでした。
だから当然として、学術と芸術は統合してconsilienceとなり。
その統合意欲を失えば、resilienceで支え直さねばならないことになります。
この対称性の崩壊、あるいはパリティの崩壊をサークルとする
ラインの創成でした。
consilienceとresilienceは、
あたかもアレルギー現象になっているのでしょう。
翻って見直せば、学術と芸術は、
互いに抗菌と免疫の関係だったのでしょう。
デザイン思考は、学術と芸術のアレルギー関係であることを
教示してくれたのだと自分は結論づけています。

*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予』
*『デザイナー能力の格差が拡大している』
*『100円ショップの廉価性と品質性と影響性』
*『マスクか、ペルソナか、マスカレードか、今のデザイン』
*『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』


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『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』


   


     4月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM



「コンシリエンスデザイン」を提唱する基本として、
Silienceというすでに古語化している基本的なことばを調べました。
「無意識の知の核心」=silienceが自分なりの定義です。
そこから、コンシリエンス、レジリエンスは勿論のこと、
新たな展開としてパラシリエンスとメタシリエンスへと拡大しました。
パラシリエンスの具体事例として、
「動物実験」を取り上げてみます。
動物実験は、医学的な倫理に基づいて、動物を使っての事前調査です。
これはいわゆるプライミング=priming:実施事前の具体的な調査です。
しかし、動物実験にまでデザイン:問題解決・価値創出・未来創成は
まだまだ登用されていませんから、
この施設・環境にまでデザインは無適用です。
デザインによる医療機器・医療装置などは、
人間工学を超えて動物実験に必要だと断言しておきます。
これこそ、「パラシリエンスデザイン」という、
新たな倫理観によって
事前調査でのプライミング効果の最適性を検証します。
少なからず、問題提起と問題解決というデザインにとって、
この動物実験、新たな動物実験へのデザインを
「パラシリエンスデザイン」として提唱しておきたいと主張します。
実際、これはコンシリエンスデザイン看医工学としての実務として、
新たな医療機器、それも治療機器:
わが国では医療治療器は決して行わない、
この風潮・制度化現象がありますが、
「パラシリエンスデザイン」として、
治療器開発は当然だと提案しておきます。


*『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『手の消毒、そんな時代になっている?』
*『IoTではなくIoMetというライン手法』
*『コンシリエンスデザイン事象を創出する職能』


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『芸術で学術は語り切ることができる』


   


     12月 14th, 2015  Posted 12:00 AM



学術性と芸術性が分断されてきた教育について
私は長い間、大きな疑問をもってきました。
単純には、二つの現象があります。
主要五科目=国・数・理・社・英と音楽・美術・体育という
この対比に日本の教育は縛られてきています。
最も体育というのはすでに間違いであり、スポーツでしょう。
そして、主要五科目が学術性とされ、音楽や美術が芸術性です。
幸いにして、私は美術大学に進学し、就職ではオーディオを選びました。
そのおかげで、美学の世界(美術と音楽)から、
学術性を外側からみてきた気がしています。
しかも、私はすでに大学人になってあらためて学術性の世界にいますが、
正直、今頃になって、講義内容を芸術=美術や音楽、
それらの作品をヒントに語っていくことで、確実な学生たちへの
講義教育での説得性と納得性を感じています。
しかも幸いに私が大阪大学大学院の医学系研究科から与えられた
そのミッションは、「コンシリエンス」であり、
それには「レジリエンス」といういずれも18世紀からの、
学術性と芸術性の「融合・統合」化でした。
明確に見えてきているのは、
学術性を延ばせば、芸術性は確実的に落ち込みます。
同様に芸術性が伸びれば、学術性が低下することです。
そして、この元凶は明らかに主要五科目で緊縛してきた教育でした。
この図は見事に一般的な能力が教育的な緊縛に閉じ込められた、
結果でしかないと私は思っています。
おそらく、この図に人間の能力が落ち込まないことを
私は目指していきたいと考えています。
具体的には、学術性+芸術性=デザイン、
それもコンシリエンスデザインであると結論づけています。
ちなみに、私は「Concept」:概念を教えるときに、
ベラスケスの美術作品である「ラス・メニーナス:侍女たち」を教材に、
芸術から学術での概念と観念を明示することができます。
こうした自分が元来デザイナーであり、デザイン活動での
芸術+学術=デザインを
新たな統合性として「コンシリエンスデザイン」を語るには、
私は、この図のような能力の低下を防御することを
最大に考えています。
今後、私は、学術性を語るには、美術作品・音楽作品で
充分に講義することが出来ると確信を持っています。


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「オノマトペ=感性評価軸が学術検証された」


   


     9月 23rd, 2015  Posted 12:00 AM



声喩・擬音語・擬態語として
「オノマトペ」の学術論文がようやく査読OK。
これは私が長い間、繊維の性質分類の感性評価軸、
その設定をめざしてスタッフを中心に、福井県織物組合の青年部会と、
擬音語で、布感覚評価をしてきたことを学術的に、
感性工学会に提示してきたものでした。
提案から1年半かかったことになります。
かねてより、繊維・布には七つの手触り感覚での分類がありました。
しかし、数値化不可能であり、プラスチックが金属化をめざしていた、
その手法に触発されて、まず我々はその感性評価の6角形に、
さらに「しなやかさ」を付け加える道具で、
布の手触り感覚評価を随分と積み重ねましたが、所詮、それは、
大人たちの感覚に頼りきっていることに気づき、
保育園児たちに彼らの感覚評価を求めてみました。
「ぬめり」・「しゃり」・「きしみ」は幼児達の語彙には無く、
それゆえに、彼らは頬に押し当てたり、噛んでみたり、嗅いでみたりと、
彼らの五感に布の感覚はまさに新しい擬音語まで突出する有様でした。
これによって「羽二重:HUBTAE」ブランドの
参考見本帳の感性評価軸ができました。
ちょうど同じくして、二つの現象が起こってきています。
ひとつは、ビールCF表現での「ぐびぐび」、「ごくごく」とかを
未成年の飲酒禁止表現でのあり方検証になっています。
またもう一つは、
医学特に、問診でのどこが痛いかを伝えるオノマトペ運用があります。
「ずきずき痛む」、「きりきり差し込む」などは、
患者とドクターとの会話での感覚伝達になりますから、
これをさらに突き詰めていくことで、背中、胃周辺など、
体の一部への痛度評価になるという研究が出現していることです。
このことを大阪大学医学系研究科でも、
痛度の「オノマトペ感性評価軸研究」に
明確に持ち込むことが可能になりました。
地方産業、その繊維の感性評価軸への「オノマトペ運用」は
デザインにおける一つの
それも大きな感性評価が可能だということです。
そのためには、擬音語や擬態語の収集と伝達によって、
これら擬音語が少なくとも三つ重なった時には、
感覚伝達の共有化が必ず叶うのではないだろうかということです。
おそらく「オノマトペ」というラテン語からフランス語になっていった
ことばが感覚伝達をすることは確実になったと思っています。


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『コンシリエンスデザイン事象を創出する職能』


   


     3月 17th, 2015  Posted 12:00 AM


Phenomenaは私がComputer Graphicで実体験した現象・事象です。
バーチャルで夕陽朝陽、火炎、水蒸気、水の様々な動きでした。
この過程を米国で私は間近に見護ってきた経験があります。
したがって、その体験は現象や事象を現実視できることです。
私はこの過程では必ず記号論的な、
意味すること=designing languageと
意味されること=designed languageが働いていることを知っています。
だからこそ、コンシリエンスデザインという学際化の過程、
その「大切さ」は誰が、いやどのような職能が果たすべきかです。
「大切」ということがコンシリエンスデザインの要です。
それは、危機解決による安心安全である解答と
生命と健康を愛護できうる解答であるためには切断仕切ることです。
その覚悟を常に持ち得るプロフェッショナルは、
学術的背景・芸術的背景・文科系的基盤・理科系的基盤を持ちうる、
デザインディレクターであり、それはデザインテクノロジストです。
デザインディレクターという職能は数名が決めました。
しかし、今では、それがなぜそのような職能名が出来たのは、
忘れられていますから、あくまでも、どれだけの見識・胆識を
護り抜いて大切に出来うる能力が実績としてあるかどうかです。
ましてや、これからデザインの革新と変革は、
コンシリエンスデザインを少なからず看医工学が基幹です。
現象と事象を創造できるプロフェッショナルには、
大切さの覚悟を学際的に統合できる才能を私は求めます。
その才能が学際化して融合・結合・統合を仕切る覚悟が不可欠です。
学際化を基盤と背景にしたからこそ、簡潔に切り捨てる覚悟、
私がコンシリエンスデザイン看医工学で育成された職能家は、
デザインディレクターからデザインテクノロジストとして、
地球存続とエネルギー創発を求めます。


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「結果原因・原因結果からの予知と予測」


   


     4月 13th, 2012  Posted 12:00 AM


地球環境が1000年に一度を引き込んでいるのでしょうか。
そのような時期に自分の生涯を重ねたくはありませんでした。
私の正直な感想です。
また、スマトラ周辺で大地震がありました。
ということは、3.11の再来が予知・予測されるのかもしれません。
地震は予測ではなく、あくまでも「予知」です。
少なからずこの言葉の意味、コンセプトを読み取ろうとすると、
「科学的」という印象からはずれてしまいます。
私は、地震の予測、あるいは予知、
これは三つの方向から考えられると思います。
それは、結果から原因を見いだす予測の方向と、
原因があるから結果が予知できるかもしれないということです。
大地震は、三つあるのではないかと考えます。
これこそデザイナーのDIVINATIONでしかありませんが・・・。
まず、地殻変動・プレートでのストレス現象です。
これは最も現代地震学の科学性があることになっています。
次が、人間の知恵となっている動物の様々な異変、
特に、魚や鯨の行動異変や大漁が起こるという自然現象もあります。
これは古からの言い伝えにもなっています。
最後が、地磁気力や成層圏での電磁波異変、
これもオーロラの発生緯度低下などの現象です。
私は、この三つがどのようになっているのかは報道でしか知り得ません。
となれば、
報道もこの三つの原因・結果と
結果・原因に敏感であってほしいと望みます。
特に、成層圏と電磁波の関係などは予知どころかまだ未知の領域です。
しかし、オーロラの異常発生が最も、
予知性より予測セグメントが高いと私は思っています。


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9月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 6th, 2011  Posted 10:00 AM

9月6日 仏滅(甲子)

デザイナーは
現象にしばられていて
未来を見つめていない。

『デザインという先手』掌


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『資本主義からの逃走』
「*ファッションというモードと、コードとしてのファッション*」


   


     4月 17th, 2010  Posted 12:01 AM

MODE or CODE
モードは明らかに流行、現象としての流行です。
ファッションは、このモードで千変万化しているものと、
通常は考えられていますが、果たして?ということでしょう。
千変万化などは決して起こっていません。
つまり、モードとしてのファッションは、
明らかに、革新性=イノベーションの要因があります。
イノベーションといっても技術革新ではありません。
循環性による活性化です。簡単にいえば流動性の勢いがあるのです。
顕著な例は、
奇抜なファッションや流行ドンピシャリ的モノに、若者は魅了されます。
ファッションは、若者の特権的なモードになっていることです。
しかし、たとえば就活となれば、
みんなが就職モードと言いつつも実際は、
コードの中でのモードを必ず選ぶことになります。
それは「就活モード」という「コード」です。
この「コード」に革新性は、何事かの事変でも無い限り、
一新されるモードにはなりにくいということです。
では、ファッションを服装ジャンルから拡大して、
いわゆる「モードの体系」と指摘された消費構造に当てはめてみれば、
実際は、技術革新された新製品の商品氾濫は、
明らかにコードを一新して、モードを生み出しています。

デザインは、コードの文脈=コンテクストを消費構造化するとき、
デザインによる目新しさ、すなわち「外観的な特徴」によって、
「デザインされたモノ」=意味されるコトと意味されたコトを
消費欲望に変換させること、デザインが手法化できるということです。

しかし、私が指摘しておかなければならないのは、
このデザインによるモードの改変、あるいはコードの一新化です。
「外観」づくり=デザインというのではありません。
さらに、モード的な意味の仕掛けや、
コード的な意味文脈の・コンテクストに対しての、
デザインの役割です。
デザインは社会に対する態度である!
その役割には、デザインの本質を常に問いかける姿勢です。
それこそ、モホリ・ナギが「デザインは社会に対する態度」
と言い放った本質論です。
私は、この本質論には、
「デザインとは何か?」
という問いかけは最初からあり得なかった、とさえ思っています。
「デザインとは何か」を
「外観」→「機能性」→「使い勝手」→「快適性」=消費の快楽、
だから、「欲望の刺激」という図式に終始してきたのでしょう。
問いかけの変更、問いかけへの異議は、
「何がデザインとなるか」です。
この問いかけへの対応領域を、
モード領域とコード領域での応答性に変更するべきだと考えています。
そうなれば、
「欲望の刺激はデザインにあらず」ということは自明となります。
よって、「モード的な意味の創出がデザイン」でしょうか?
あるいは
「コード的な意味の一新がデザイン」となるのでしょうか、
という問いかけに、デザイナーの存在位置、
その確認ができると判断します。


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『資本主義からの逃走』
 「iPadがまた拡大させる!?・批判or批評or非難、
               iMacの私の経験から」


   


     2月 5th, 2010  Posted 2:37 AM

iPadだ!

未来 見えているか?

iPadのNewsは様々な批評や期待で一杯です。
Apple社、ジョッブス氏の活発さに惹かれます。
そこには、いつも私たちは未来を見るわけです。
現代、こうしたNewsが、
多大な問題いっぱいの世界をやや救ってくれています。
それは閉塞感満ちあふれる日常での救いでしょう。
かつて、私はiMacを100人評価する雑誌で、
唯一、「ゴミだ!」って発言して、
ほとんど日本中から袋だたきに遭いました。
さらに、Gマークでも金賞候補からはずす主役でした。
問題点は、三つありました。
一つは、すでにあのモックアップは見ていましたから、
がっくりしたのです。
環境ホルモンと流行
ところが、
理由はそれが、ポリカーボネート製でした。
これが二つ目の理由でした。
ビスフェノールAという環境ホルモンの問題です。
今では、ポリカのリサイクルシステムもできましたが、
当時はビスフェノールAだ!って叫んだのは私だけ。
さらに、これがカラーで透明だったので、
おそらく日本の様々な文具から何にでも、
流行現象」が蔓延してビスフェノールAに無頓着、
というのを、一人でも食い止めたいと思ったからです。
まあ、脅迫メールは届くは、
ポリカ業界からも散々な目に遭いました。
この時にも、私は自分を「職能家・デザイナー」を、
絶対に押し通そうと言い聞かせて、耐えました。
結局、「流行」は去り、ポリカのビスフェノールAは、
WHOから、「懸念ある素材」となり、
産業界はリサイクルシステム無しには、
素材使用は自粛されました。
「川崎は理詰め」と言われますが、
理性と感性には、順位があります。
「理をつめなければ、けっして感性優位は排撃すべき」
というのが、私のデザイナーとしての信念です。

私は、iPadには、二つが無かったと思っています。

「新素材・made in Japanを知らなかったこと」
「清潔感をコンセプトにする」

ということです。これは「批評」です。
それでも、iPadが、「iPod」がデカイだけ、
というのは、非難であり、未来が見えていません。
これは駄目でしょう。
私は、私の批評ポイントをはずせば、
やはり、「やられた!」といわざるをえません。
そして、必ず、私の二つの批評が合体するモノを
最も希望しています。


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『資本主義からの逃走』
  「売国奴たちの必殺も辞さず、されど民主主義の脆弱さ」


   


     12月 28th, 2009  Posted 10:00 AM



Democratic Weakness

to be impossible

of bringing sure death in traitors


明らかに必殺は犯罪となります。
よって、国家体制での「裏切り者」の処分と処置は、
決して叶えられること全面的に不可能は自明です。
これが、民主主義というイデオロギーの法哲学でしょう。
しかし、私は時代回帰的にとどまらず、


Traitors


「売国奴」を認定し、処置を決行するべきと判断します。
少なからず、「知性」をもって、
売国奴の追放が、すでに日本国家の一つの選択でしょう。
それは、メタファー、あるいはトリックスターとしての
「現象」の中で溶解して、私たちが避けています。




EXILE


私は、民主主義のこの脆弱性も廃棄するべきというほどの
「過激性」で、
「モノづくり・Made inJapan」を遵守することを
職能意志としています。

この職能意志無きプロフェッションも売国奴と思います。
私の「過激性」は、「暴力性」に直結しています。
「民主主義」が全面否定する「暴力性」こそ、
国家体制・「神の国」、「花綵の国」の伝統の保全と
確信をもってここに書き残さなければならないでしょう。


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