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Posts Tagged ‘環境’


「現在の世論と行動は『群衆的』とは決して言えない」


   


     7月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

昨今の気候は、異常を超えています。
異常気象というのはもう半世紀も言われてきました。
しかし、大豪雨、竜巻、落雷、大猛暑、
それも連続しています。
この自然現象と平行するかのように、
反原発からオスプレイ配備反対などの「デモ」を
群衆的行動と呼ぶことは、大間違いだと言わざるをえません。
私自身は、冷徹に反原発には「範原発」という思想と行動を目指し、
オスプレイのような新たな飛行機器にはたまらない魅力があります。
けれども、オスプレイの完成度、認知されている事故頻発からは、
とても軍備機器にはなりえていないでしょう。
そして、現政権=政治は、
「民衆」・「民衆的行動=デモ」を群衆的行動と見ていますが、
それはとんでもない政治判断だと指摘しておきます。
大阪では、「大阪維新の会」の動向が、
あたかも大政翼賛会のごとく語られています。
これも歴史認識・知的史観に、あたかも大豪雨や竜巻のごとき、
現代民衆の「知的構造」に大変動が起きていることを見逃しています。
大衆・少衆・分衆は群衆になり、
それぞれの群衆的心理性はこれまで語られ「定本化」しています。
これがもう限界を超えてしまっていると判断すべきでしょう。
もはや政治形態・政治形式そのものが、
「環境」と「遺伝子」が「情報、そのネットワーク」によって、
環境構造変化と群衆の遺伝子操作が進行してしまったのです。
それはたとえ、この群集心理を利用して、
未だに左翼的イデオロギーを再興しよう、
国家転覆を意図している輩も綿密検証されて見捨てられるでしょう。
政権交代を渇望していた時あたりは、
まだ「群衆心理性」が反映していたかもしれません。
おそらく、大衆・少衆・分衆が情報ネットワークでの学習効果は、
群衆を「新公衆」へと確実に進化していると私は判断し、
私自身、「新公衆」の一人としてこの祖国を想っています。


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「スイス政府防災マニュアルは憲法の具体解説」


   


     7月 9th, 2012  Posted 12:00 AM

永世中立国家を維持しているスイスは私には謎国家です。
永世中立によって「平和」のために、
全国民皆兵制、全ての住宅にシェルター設置は義務です。
スイスの防災マニュアルを読みました。
文字だけではなくグラフィックデザインとして、
本当に素晴らしく美しい本になっています。
まず、祖国ということ、
国の自由・国民の自由を定義しています。
これこそ「愛国」の基本でしょう。
あらゆる災害・戦時体制・原爆から死刑にまで、
国民がどう平和で安全に、
「いざ」という場合がとても懇切丁寧に、
おしゃれなイラストとともに編集されています。
国家転覆への情報対処・情報戦を
国民の認識方法まで述べられています。
「平和憲法」の文言にだけ頼っているわが国との違いを
あらためて、見直す必要があると思いました。
これは、憲法の具体的な行動規範です。
国民が平和で安全を確保する基準とは、憲法で制定していますが、
その具体的行動を「日常生活」でどう認識し、
しかも国民皆兵制ゆえに、成人は女性も武器訓練があります。
特に、私は、国家転覆の情報コントロールと死刑の記述は、
これなら国民全員が納得できると思いました。
スイスには死刑はありませんが、
国家維持を破壊する者や国家転覆者には、
絶対死刑というのは、説得制があります。
日本は、天災が一段と厳しい環境下にあります。
政党の嘘だらけの「マニフェスト」など不要です。
だれでもが分かりやすい、憲法を読むのではなくて、
具体的に、自分・家族・コミュニティ、そして国家が、
平和と安全を維持していく具体的な行動規範こそ、
安心国家の安泰性を確約するものと考えます。


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「ブリューゲルが描いた盲目の人たち」


   


     7月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

目の不自由な方・盲目の人を描いています。
この絵画には二つの意味があると言われています。
すべて盲目の人たちが列を成して歩いていると、
池の中に落ちてしまう、という構図です。
これは、盲目の人の行動を描いたわけではありません。
健常者が無知なまま行動すれば、
それも無知な健常者の集団が行動すると、
とんでもなく、まるで池に落ちるように、
大失敗するという、その教訓的な意味の表現です。
そして、もう一つは当時、盲目の人には、
これだけの種別があるという表現です。
まず、先天的な盲目の人と後天的な盲目の人、
それぞれの容貌が描き分けられていて、
当時の特に後天的な眼病の結果表情があるらしいのです。
まさしく、教訓的な意味の絵画性=教訓性は正解です。
というのは、特に、先天的な盲目の人は、
決して池に落ちるわけがないのです。
余程、健常者の人の方が、
見えず、感ぜずが確実に多いはずです。
白杖一本で、自分の歩行環境を感得する能力は、
健常者の人よりはるかに高いと思います。
ブリューゲルは、盲目の人たちが池に落ちるという表現、
それは無知なる健常者こそ盲目だということを教訓として
ずばり描き切っていると言うことです。

これは世界盲人会連合で1984年に制定された、
視覚障害者の人たちが安全やバリアフリーを考慮された
環境・機器・設備から信号機、書籍に表示されています。
しかし、このマークの機能性は私には不明です。
健常者に向けての注意喚起・思いやりの発揚でしょうが、
私はもっとデザイン精度を上げる表現知恵不足を感じます。


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「もう一つは音場システム」


   


     6月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

確実に「音場」空間をつくり出すには、
無指向性のスピーカーシステムが最適です。
美大の卒業制作は、無指向性のシステムでした。
それ以来、無指向性スピーカーには興味がつきません。
そしてB&O BeoLab5は、
ほとんどロボット的なシステムであり、
室内の大きさや、人数、室内の家具配置をセンシングし、
指向性を自動的に制御してくれます。
そして、音楽ソースはBeoCenter2で、
CDはほとんどリッピングしてあるので、
最低50枚だけをこれでの「音場づくり」、
すなわちBGM環境にしています。
私がオーディオファイルとして思うこと、
それは、そろそろ「音場」と「音像」が選択できる環境、
そのシステムが欲しいということです。
整理すると、
「音像」というのは、まさにスピーカーシステムの中央に、
歌手なり演奏者が存在していること。
「音場」とは、空間のどこにいても、
BGMとしての音楽空間になっていてくれることです。
これは、身体を包み込んでくれます。
「音像」と「音場」は明確に、
身体と空間の関係性を「より感覚化」してくれるはずです。


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5月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 3rd, 2012  Posted 12:55 PM

5月3日 先負(甲子)

義務とはいったいどんなものか。
それは、人それぞれが置かれた環境、
職業によって異なってくるだろう。

自分に対する義務が
どんなものかじっくり考えていけば、
やがて、やらなけれ ばならない自分の
「 使命 」ということが見えてくる。

まさしく、プレゼンテーションは
そのうちの大切な一つである。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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11月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 30th, 2011  Posted 10:00 AM

11月30日 仏滅(己丑)

自分の考えたものがいかに素晴らしくて、
世の中の役に立つかということを
しっかりと主張する必要がある。
夢の実現に向けて賛同してくれる
周囲の環境を整えていかなければならない。

プレゼンテーションとは、
その夢の実現を助ける手段である。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


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「KAIST・韓国科学技術院での講演」


   


     11月 18th, 2011  Posted 12:00 AM

KAISTで講演をしてきました。
これまで、特にデザイン系大学は色々見てきました。
が、環境・教授陣・学生達・各プロジェクトにおいては、
やはり評価どおり、最高の大学・大学院でした。
1971年開学・1985年にインダストリアルデザインが開設、
今では、韓国のデザイン系でリーダー達を一杯輩出。
今もLG社副社長が教授兼務であり韓国デザインを牽引し、
国際貢献プロジェクト「nanum」(以後に紹介予定)や
環境デザイン領域ゆえにロボティクスデザインを研究。
日本だと環境デザインは建築系や都市計画系ですが、
企業に直結した企業デザイン戦略立案実務などは、
まさにデザイン領域を拡大させている実例ぞろいでした。
私自身も紹介したのは「PKD=Peace-Keeping Design」、
そのワクチン開発・接種方法や遺伝子検査システムで、
これまではワクチンの経皮注射を経肺接種と、
遺伝子での結核種類選別のシステムから、
経肺接種での全く新しいシリンジを紹介講義しました。
KAISTのインダストリアルデザインには、
韓国のスーパーサイエンス高校から、
飛び級で高校2年生で入学可能だそうです。
そして教授陣も日欧米での留学経験者から選別されています。
もちろん、授業はすべてが英語であり、
国際的なデザイナー養成システムが完備していました。
日本ではデザイナー志望の学生から、
時折、こんな質問が出ます。
「デザインという職能は日本では大丈夫ですか?」と。
時に私も職能として、特に企業内デザイナー志望には、
返答に窮することがあります。
しかし、KAISTの学生たちは、
「デザインの未来にこそ、未来がある」、
そのことをしっかりと確信していました。
昨年、私の研究室から半年留学生を派遣しました。
来春には、KAISTから交換留学生を受け入れます。
KAISTが育成した頭脳とセンスが、
現代韓国の産業と文化をリードしています。
そして、韓国での次世代リーダー達を素晴らしい環境で
育成していることに驚愕し、感激し感動しました。
このようなチャンスがあったことに感謝しています。

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「駅構内エレベーターについて」


   


     11月 5th, 2011  Posted 12:00 AM

車椅子移動は困難なこととても多いのです。
バリアフリー法や、ユニバーサルデザインブーム以前に、
ある国会議員の秘書の方と、
国土交通省に直訴したことがあります。
結果、当時の扇千景大臣が初めて東京駅を視察。
東京駅は敗戦直後の地下道が車椅子誘導に使われていました。
大阪駅も時折地下道(写真下)を通らなければなりませんが、
やがて改善されるでしょう。
大臣は地下道やその環境にとてもびっくりされ、
駅構内にエレベーター設置が、3年後から始まりました。
最近ではJRの駅構内にはエレベーターが設置されました。
ところがローカル線ほど駅員の方や、
エレベーター利用では、
駅員の方や他の乗客の方々にはマナーと親切さがあります。
大阪はじめ大都市でのエレベーター利用では、
乗客や駅員には親切心どころかマナーがありません。
このエレベーターを「我先に利用して憚らない人」は、
大都市ほど多いのです。
特に若者でカップルが荷物も無いのに平気で乗り込んでくる、
こんな場面になると私は注意をします。
最近は、スタッフやワイフも「刺されるかもしれないから」と、
心配してくれます。
ローカルの駅員さんは、
身障者や妊婦さん高齢者優先を告げてくれますが、
大阪駅は乗客のエレベーター利用のマナーは最低最悪です。
これが大阪の「倫理観無し、ひき逃げ事件多し」、
こんな事件多発につながっていると私は判断しています。
先般、新大阪駅構内で人身事故がありました。
結果、新大阪駅では駅員が北陸線ホームにはまったくいなくて、
発車時間優先のために、私は無理矢理下車させられました。
ホームと列車の間にはスロープが無ければ、
危険極まりないにも関わらず、無理矢理下車という危険さです。
間違えば、私自身がホームと列車の間に挟まる寸前でした。
当然に、抗議をしましたがその対応に呆れています。
JR西日本の体質が見え隠れしているのです。
今日、正式な謝罪が電話でありましたが、
私は、根本的な問題解決は、
もっと制度上にあると判断しています。
当然ながら、ハードとしてのエレベーターのデザインも
大きな問題があると思っています。
エレベーター設計とデザインは根本から革新すべきです。
折角私は車椅子に乗っていますから、気づくこと多しです。
これからは一段と高齢者で車椅子使用者は格段に増加です。
だから、ハードからソフトまでの「制度設計デザイン」を、
発言と提言、デザインを提案していきます。

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「環境の中心と周縁・距離感の再認識」


   


     5月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

環境という言葉。
私世代が知るのは1970年代です。
私の記憶では「ローマ会議」の頃・・・
そして最も重大になってきたのは、
「環境ホルモン」という存在への大衆的な恐怖感。
当時、ビスフェノールのことでは、
「ポリカーボネイト」素材でそれなりの思い出があります。
今や、すっかり「ポリカ」は廃棄・回収などの
社会的で制度的なことが整備しました。
それでもWHOでは「懸念される素材指定」となっています。
さて、環境は今では最重要な世界観のキーワードです。
環境というのは言葉からも、
取り囲まれた空間イメージがあります。
環=円環と境=境界ですから、
その円環の中心と周縁というイメージが必要でしょう。
ということは、環境の中心がまず問われるでしょう。
それはその中心地・中心領域であり、その機能性です。
そして、その中心=核心を取り囲んでいる環=周縁です。
フクシマ原発を中心として円弧が描かれ、
その円弧半径を距離性と見なして、
避難地域が指定されています。
しかし、その中心での出来事が把握できていません。
中心を推測しイメージしているのでは、
結局、その場は「空」になっているに等しいわけです。
そして円弧で指定されている「場」が周縁になります。
確実に中心=空の機能は殺人装置になっているわけです。
しかし、それはイメージでしかありませんが、
その機能能力は確実に被曝させる力を持っています。
フクシマ原発の環境は、そのまま現在の日本列島です。
けれども周縁である「場」での対策は見えていません。
これは、日本システムの中心がいつでも空であり、
中心機能が周縁に及ぼす影響度もイメージ認識です。
私はあらためて、中心+周縁=環境の距離空間を、
再設定すべきだという結論に至っています。
それは「プロクセミクス」の再認識です。

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『資本主義からの逃走』
   「デザイン対象としての空間に出逢う」


   


     10月 8th, 2010  Posted 2:29 AM

音響空間から情報空間へ
「空間」という言葉が包含している内容に近づきたい。
多分、デザインという言葉と同値で「空間」を
私は生涯携えていく生き方を選んでいるのでしょう。
私が「空間」を最初に意識したのは、「音響空間」からでした。
美大時代に主任教授から、
「川崎、結局お前は何をデザインしたいんだ?」と聞かれました。
ともかく、当時は、「見えないかたち」をデザインすることがあるのだろうか?
クラスメートの大半は、カーデザインや住宅産業をめざしていました。
そして、家電や精密機器は、当然ながら代表的な就職先だったのですが、
車と工業用住宅に人気が集中していました。
私には、音楽と光、つまり音響機器と照明器具がなんとなく浮かんでいました。
結局は、音楽と照明を組み合わせるそんな「空間」デザインでした。
ようやく、「環境」という空間意識にデザインが組み込まれようというような動きがあったのです。
私を虜にしていたのは、クセナキスという建築からコンピューター音楽、
レーザー光線での今で言うインスタレーションでした。 1970~1975年頃でした。
ともかく、主任教授は、「東芝へ行け」という命令一言でした。
それが、結局はCG=Computer Graphicsの世界にまでやがて拡大していくのです。
「音響空間」=音場と音像、
そして音響生理学を東芝の総合研究所で故・K医学博士の所長にたたき込まれたのです。
「空間・形態・形体・多様体・次元」に出会っていくために、
私が、学ばなければならなかったコト、その言葉に出逢います。
「投影・反射・透過・屈折・吸収・回析」でした。
おそらく、これらは今ではパソコン上でのアプリケーションで十分に、
パラメーター的な操作も全くいらなくなりました。
しかし、私はカナダ・トロントでこうした言葉とともに、「空間」を意識することになるのです。
現在、「情報空間」を探っています。
来週の講義は、Media IntegrationからMedia Allianceで「アンビエント・アフェレーシス」です。


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