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Posts Tagged ‘産業経済’


『「文具大賞」も甘えすぎているから6つを講評』


   


     7月 1st, 2019  Posted 12:00 AM



「日本文具大賞」では、表彰式で審査委員長として講評を述べます。
今回は、文具業界で日本が大変に貧しくなってくる傾向を知り、
「6つだけ、覚えてほしい」と言わざるを得ませんでした。
まずは、■ 話題(topic)応答(reply)商品から、
    ■ 課題(question)回答(answer)商品から、
    ■ そして問題(ploblem)解答(solution)商品を目指す
これが全く意識すらなかったことです。
その三つに対して、
    ■ 問題解決・難問解決
    ■ 価値の創出
    ■ 未来産業を呼び込むこと、
この6つはすべての産業界に根を張るべきだと告げました。
それこそ、「Ship of the Year」で審査に関わる船舶業界は
世界の競争激しく、日本は6位になったのです。
しかし、当然多少気づいていた人がいましたが、
今後貧しくなる産業経済、日本は真実貧しい国になります。
文具は100円から高くても5000円の市場価格なのです。
日本の持ち味でしたが、ユーザーが工夫をしていることに、
文具業界が相当に甘えきっている現状があります。
グランプリや入賞したモノも、
厳しく言えば応答であり回答商品を超えてはいないでしょう。
おそらく、日本のモノづくりが貧相になっていくことを
私は改めて確信をしました。
出版関係の審査員には、海外製と国内製を比較して下さい、と
同時開催しているデザイン賞も
受賞作品はすべて「台湾製」だったと言いました。
デザインの平和呆けから脱却すべきです。


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『セルロース戦略とカーボン戦術は発電も可能だ』


   


     1月 16th, 2017  Posted 12:00 AM



地球環境を二酸化炭素=温室効果ガスとして、
このガスこそ、地球存続のためのサーキュレーションとした
国際的な決定である「パリ条約」は見事な取り決めでした。
しかし、この条約厳守は全く困難なことであり、新たな手法が必然です。
わが国の決定事項はほとんど不可能だと評価すべきでしょう。
それは産業経済での化石燃料の排出を80%も削減し、
樹木での吸収を20%という、この曖昧さに起因しています。
だから、2030年には26%、2050年には80%というのは、
あまりにも無謀であり、正直、メチャクチャな協定を納得したと判断します。
まして、この協定契約がこれまでの学術的な裏付けと
さらにはデザイン界ではほとんどが無知なことです。
2050年にはもう私は存在していないでしょう。
となれば、次世代デザイン界、それもコンシリエンスデザインの理念と
デザイン技能を知り尽くしたデザイナーに語り継ぐことが義務でしょう。
私にはそのアイディアがあります。
それは「セルロース戦略」と「カーボン戦術」として置き土産にするつもりです。
このアイディアは、3.11という天災人災から学び取ることができました。
セルロースの実際的手法は広島の土砂災害で実証することができました。
そして私の寄附講座に新たな招聘教授をむかえ入れて、
昨年末、今年度最初の実験でたどり着いています。
セルロースパウダーを低温で焼却することで、
この焼却時間で発電すら可能かも知れません。
低温焼却ゆえに気化することなく、セルロース+廃油は
炭化して、それを土壌改良までが可能になってきたことです。
3.11の哀しみを私たちは、この経験から学び取ったことを
「パリ協定」に日本から、問題解決のアイディアにすることです。
せめて、2050年への実現を私の置き土産にしたいと考えています。



* 「2010年米国原子力計画は光景である」
* 『コンシリエンスデザイン事象を創出する職能』
* 『サスティナブルであるための原意と欠落点』
* 『SF映画が示唆していること=その真実性と想像性』
* 『地球環境の変動と株価変動でみる企業意識』


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『葉巻を語り直すことで「グローバル化」の神髄に近接』


   


     5月 9th, 2016  Posted 12:00 AM



日本が「グローバル化」を国家戦略にして久しいと思います。
正直、自分には「グローバル化」と「ローカル化」は
同値の国家戦略だと考えてきましたが、
大きな違和感があったことは確かです。
なぜグローバル化ということの本質的で実務成果が見えないのか、
この理由を探していました。
そして気づいたのは、若い頃、海外での仕事では食事の時の話では
よく、オペラや現代美術での評判を話合う場面に自分がいるのです。
こんな場面で、こうした会話に望んでいる自分のことを思いました。
そんな思い出とともに、たまたま喫煙文化におけるタバコの歴史は、
癌の元凶ということから、総否定が蔓延しています。
「葉巻」だ、「パイプ」だなんてことはほとんど否定されています。
かつて喫煙については自分自身も禁煙をしていましたが、
改めて「葉巻」に取り憑かれた私が、大きく気づいたのは、
日本が「グローバル化」を語るのはすべて産業経済でのことであり、
「葉巻」・「乗馬」・「ライフル撃」・「鉄道模型」などの「文化」は、
日本でも余り表立ってこず、欠落していたということです。
そこで、「葉巻文化」をクラブづくりとともに、
日本の「キセル」での喫煙文化も加味することで、
確かに喫煙が病因的な元凶であったとしても、
国際的に文化を語り直すことで、政治や経済を離れた文化を共有する
「グローバル化」の語り直しを行う重要性を見直したいと思いました。
葉巻クラブの結成を言い出したら、とんでもなく様々な人からの
参加申し込みがありました。
そこでこのクラブのマークやすでに商品化しているデザイナー仲間と
クラブ結成とその理事長までを決定して国際的な存在をめざします。

*『葉巻文化、その道具こそプロのデザイナーの仕事だ』
*『葉巻文化と筆記具文化の統合性は凄いのだ!』
*『知ったとしても、ダンディズムがあると思う!』
*『酒とタバコと、そして・・・』
*『風土とゲマインシャフトがグローバルへ』


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『人口ピラミッド視覚化で明確な高齢社会の重石』


   


     5月 8th, 2016  Posted 12:00 AM



わが国の少子高齢化は人口ピラミッドの視覚化により、
明白な事実が確認できます。
自分自身が「団塊の世代・s22・s23・s24」の一人として、
この図解はきわめて事の重大さを納得させてくれます。
高齢化というより高齢社会は人口の巨大な重石になっています。
少なからず、1949年生まれの私には2050年はありえないでしょうが、
少子化の重大さは、いくつかの国家的危機を明確にしています。
まず、防衛的問題が政治的にはトップ問題ですが、
経済システムの大変更は
2018年大学問題・国公立私立大学は半分になるでしょう。
入学者数の無い私立大学は不要です。
そしてこの教育問題が産業経済への多大な影響になることは
すでに一般的には暗黙の理解になっていることは間違いありません。
最も重大なことは「年金問題」と「介護問題」がこの少子化の
人口ピラミッドを見れば一目瞭然となります。
18歳からの投票が可能になりますが、彼らの「不安」の中心は、
「政治に荷担しても何も変わらない」という印象から
投票しないという発言です。
しかし、この不安感の実態は「年金」問題もさることながら、
実際は「介護者不足」は2025年には250万人の介護士が必要です。
この実態は18歳には届いていませんから、
彼らの投票参加がなければ「シルバーデモクラシー」になるでしょう。
しかし、もし、投票がインターネットであれば、
18歳人口は彼らのSNSネットワークで、
マスコミ操作不要の新たなデモクラシーが出来上がります。
その時には、ネットワークによる新たなリーダーが求められるでしょう。
その時には自分は逝ってしまっているはずです。

*『日本システムが壊れた理由のひとつ』
*『災害への勇気と希望の世代間団結』
*『世界・世界観変革が始まる』
*『2018年=日本の大学制度は崩壊するかもしれない』
*『忘れた頃にを想定内に!』


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『未来創世を象徴している地場産業産地でのデザイン』


   


     6月 27th, 2015  Posted 12:00 AM



デザインには二つの役割があると私は思っています。
かつては外観性や装飾性であり、
産業経済のための付加価値を支援する実務という理解が一般化しました。
確かに、デザイン、その源流的な職能意味であったことは確かです。
しかし、外観づくりや装飾性の設計実務は、
二つの明快な役割がはっきりしてきました。
それは「問題解決」と「未来へのモノづくり」、
その明確な方向性とモノづくり思想を与えることでした。
これはメジャー=巻き尺に過ぎませんが、
メジャー筐体は切削加工によって緻密に製造されています。
この金属、アルミやステンレスの精細な切削加工は、
新潟県の燕三条の地場産業によって製作され商品化されています。
燕三条の地場産業は、和釘産業の産地でした。
その地場産業は、釘づくりを金属加工へと時代の要求を先取りするために
デザイン=未来への産業としてのモノづくりに挑戦をしてきました。
これは、付加価値産業ではなくて、明らかに全体価値としてのモノづくり、
その基本をデザインに求めてきたことを高く評価しています。
しかし、大きな問題が残っていることも書き記す必要があります。
それは、価格設定に限界を与えてしまっていることです。
ブランド設定のためのデザイン投資が海外メーカーのブランド戦略に
まだまだたどり着いていません。
私自身が地方産業・地場産業・伝統工芸産業・中小企業全体が
未だに、デザインには「付加価値」しか求めていない傾向があることです。
それはこの商品にも、問題解決への未来的正解へのアプローチが未然です。
ここまでの精彩な切削加工ができるのであれば、
メジャーそのものへの未来的知識、その先取りが必要です。
私は願わくば、その詳細をこの企業に伝えたいと願っています。
しかし、この精彩で精細な切削加工アイテムを
拡大していくためのデザイン主導は優秀賞なること十分です。


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「椅子取りゲームは、今なお続いている・・・」


   


     11月 28th, 2012  Posted 12:00 AM



24年前のプロジェクトは、
この画面から始まりました。
当時はスライドでした。Musical chairs=椅子取りゲームです。
つまり、椅子はいくつもありますが、自分が座るべき椅子を明確に定め、
そして、自分が座った椅子にスポットライトが当たるのです。
これは、いまなおマーケティングをゲーム化したとき、
「時代が、社会が、注目したモノづくり」です。
しかし、もはや、
「モノ(商品)づくり」+「コト(情報)づくり」が必要であり、
これだけでも産業経済を活性化して、
理想的で確約された日常生活を存続させていくことは不可能です。
24年前に、このMusical chairsをスライドで見せて、
製品開発に入りました。
しかし、商品化まではたどり着くことはできませんでした。
それは、私の大きな悔恨になっていますが、
再度、私にその主導役が回ってきました。
今、このMusical chairsは相変わらず、世界の経済活動の根本的原則です。
そして、注目されてこの椅子取りゲームの勝者は
その性質や存在感の変異が求められているのです。
いつまでも一つの椅子に座り続けられるわけにはいかないのです。
椅子の持ち主になり、なおかつ、注目されない限り、
社会的な存在性を失います。
40余年もデザイナーであると、
まるで予言者のごとく見えて来るものがあります。
たとえば、この企業名ではダメだとか、
商品名が時代遅れだとか、
パッケージがダサいとか、
とどのつまりは、経営者がダメだ!とかが見えてきます。
Musical chairsを考えれば、自ずとわかることですが、
椅子取りゲームの音楽が始まります。
リズミカルで、軽快で、それだけに、
急停止するだけの即応性が必要です。
リズミカルであるというのは、
時代性の流れに身を任せることが出来るのです。
急停止する即応性は、
経営センスにいつでも、「軽やかな信念」が必要です。
「軽やかな信念」はどうすれば鍛えることができるのでしょうか?
私は自分の生涯をかけて
この「軽やかな信念」の鍛錬をしてきたと思っています。
だから、「軽やかな信念の無い」リーダーには
牙を剥くことにしてきたことも事実です。


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「『までいProject』の原資確保」


   


     3月 29th, 2012  Posted 12:00 AM


3.11の復旧・復興への対策事業は被災地各地で開始。
しかし、すべてが金太郎飴的な対策案になっています。
 ●災害に強い「町づくり」
 ●経済産業の復興
 ●コミュニティの絆強化
ほとんどがこの三つであることを確認しました。
私は、根本的な解決と、
特に被災地各地からの人口流失を考えると、
「帰りたいふるさと」としての「まち」づくりが肝要と考えています。
その「まち」は、
「とち」・「つち」、そして「まち」=町と街になります。
また東北方面では
「とおり」=通りという地名や街道が多いことにも注目が必要です。
そして産業経済の復興については、
これまでの東日本がすでに産業的には厳しい状況にありました。
だから抜本的なそれぞれの町もしくは街に、
特色ある産業を創出していかなければなりません。
私が一番懸念するのは、まだ防潮堤を築こうという発想です。
今回、手抜き工事だった防潮堤がかなりありました。
さらに10m以上を想定しての防潮堤では、
海岸線の景観はすべて失ってしまいます。
「つち」と「とち」のあり方からの発想が必要だと考えてきました。
それは「人工地盤・人工岩盤・人工水盤」までを整備する、
それほどの壮大なプランづくりが必要だと思っています。
「空中都市計画」を21世紀だからこそ、日本が構築していくべきでしょう。
そして、最大の問題はその原資です。
増税してもそれは社会保険や福祉手当になるだけです。
むしろ、これまで日本では根付いてこなかった
PFI(Private Fainance Initiative)を日本流に、
そして被災地毎対応にアレンジすべきです。
そうしてPFIを制度設計化して原資獲得をしなければ、
先立つ「お金」がありません。
まして日本全体の経済が冷え込んでいる中で、
復興費の獲得などほとんど不可能です。
どうやれば、PFIとその配当を投資した個々人や
組織、企業に還元できるかを徹底的に考えつきつめるべきでしょう。
私は今日、まず「石巻市」でそのシミュレーションモデルをプレゼンして、
新たな問題点を聞き集めたいと考えています。
そして、行政からさらには住民や特に被災された人に
共感してもらえるプランづくり=デザイン戦略が
大きな役割と考えています。


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『資本主義からの逃走』
   「一極集中・東京が引き込んだ失策」


   


     11月 9th, 2010  Posted 12:00 AM

地方の時代
日本、それは東京でした。
地方は消えていました。
結果、国際的なすべての情報発信も東京。
一度、ふるさとでデザインしていた私には、
東京はパスポート無しの海外都市だったのです。
「地方の時代」が叫ばれたのも80年代初期だったと記憶しています。
同時に、ローカルからグローバリゼーションが、
地方活性化策にはなったが、せいぜい、地方都市が、
姉妹都市関係を結ぶ程度でした。
国策としての地方都市からのグローバリゼーションは、
地方の青年会議所が視察しているだけと私は傍観していました。
グローバリゼーションは、あくまでも行動的な企業に限定されていたと思います。
では、東京がグローバリゼーションに成功してきたのかとなれば、
これもバブルとともに終焉し、
今や、東京が国際的なローカル都市になりつつあるのです。
まして、地方都市にグローバル化の政策は無いにも等しい。
グローバリゼーション
私は、グローバリゼーションとは、観光都市になることでもないのです。
端的には、グローバリズムの中心が何かを突き止めることであり、
それは、経済至上主義の流動性でしかないのではないかと思います。
何がグローバリズムかは、世界全体が見失っていると判断します。
だからこそ、グローバリゼーション・グローバリズムへの国策は、
産業経済、景気循環、これらの流動性=虚構性そのものを、
情報空間とあらゆる領域での「ホスト国」・「ホスト地方都市」、
その条件整備をデザイン=策略化の創出、
この制度的機関すら整備されていないという問題が明白となってしまっているのです。
一極集中していったことで、東京そのものがローカル都市化を引き込んでいます。


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『資本主義からの逃走』
    「 富、あるいは高級感をという文脈の再考」


   


     9月 4th, 2010  Posted 12:00 AM

富としての高級感
南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲ族、
そして、西太平洋・トロブリアンド島民、
彼らのことを紹介しました。
それは「労働」・「仕事」の成果、その評価のことでした。
彼らなりに、富の分配方法はあるでしょう。
しかし、私たちの産業経済でひたすら「豊かになること」は「富の分配」でした。
私たちはその「富の分配」結果を熟知してしまったと考えていいでしょう。
そして、もし、富ではなくて審美性や美学となると、
もうひとつ重大な価値感覚があります。
「高級感」ということです。
日本語は、この「高級感」は、言葉もこの一つに集約していますから、
「何が高級感?」ということでは、多様な定義が可能です。
しかし、たとえば英語なら、「高級感」は様々な語彙があって、
それぞれの語彙に、それぞれの感覚に制限や限度があると思うのです。 
とりあえず、五つ挙げておきます。
   ■ High class
   ■ Deluxe
   ■ Quality
   ■ Exclusive
   ■ Expensive
さて、この五つには確かに高級であり、贅沢であり、豊かさがあります。
私は、「富」という概念には少なからず、こうした価値感が宿っています。
それは「富」が集中蓄積されたところに「程度としての高級さ」があると言ってもいいでしょう。
私たちが日常生活の基盤としてきた資本主義、それによって構造化された階級、
あるいは格差には、程度たる「高級さ」があることは否めません。
高級感と審美性
したがって、私たちが今、真に再考を求められているのは、
「高級」を加飾している審美性は確実に、資本主義が育んできた局面性だと言っていいでしょう。
実例とするなら、
「ブランド価値としての高級感」;「高級ブランドの審美性」を議題にすることができます。
そうするとこの議論はやはり「富の再分配」が、
社会主義に対して資本主義が勝っていたということなのだろうかと私は考え込んでしまうのです。
考え込みつつ、「高級」なモノのデザインも随分としてきました。
それは単純には「高級」=「高額」だっただけかもしれませんが、
そのモノにもちろん審美性を意図してきました。
いわゆる「高級」なモノにも、私のひとつの嗜好性があることも認めておきます。
私なりの納得と矛盾、そして、それでも「高級な審美性」も確実にあるわけです。
「富」・「高級感」・「審美性」は、あらためて論考されるべき大きなテーマだと思っています。
私は、おそらくマエンゲ族やトロブリアンド島民の「耕作行き届いた畑」に、
審美性を確認できる感性があるのかどうかはまったく不明であることを告白しておきます。


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