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Posts Tagged ‘画家’


『猛酷暑お見舞いの絵手紙を描きつつ恩師を想う』


   


     8月 13th, 2017  Posted 12:00 AM



美大時代に仕送りが無くなりそうになると、
主任教授の故米田先生宅に夕ご飯を食べに行くことにしていました。
先生宅では、先生が奥さんに急かされて色紙を時折描いていました。
「川崎、台所からナスやキュウリを持ってきなさい」
「配置が悪い、落款を正確に」とか、
当時、先生は光風会での代表的な画家でもあったので、
先生の色紙は高額だったと覚えています。
そうやって、絵が下手だった私ですが先生には個人的に鍛えられました。
米田先生とはある約束をし東芝入社ほどかわいがってもらっていました。
先生が倒れたとの連絡で東芝ではチーフに借金をして金沢に帰ったのです。
薄暗い病室で先生を見舞ったら先生は病院の玄関口まで見送っていただき、
先生はその一週間後に逝かれました。
この猛酷暑にあたって、「残暑お見舞いします」では無いと思い、
水彩絵の具で大急ぎで絵を描き、筆を取りました。
そうして、私も数種の落款を持っていますが、下手な押し方でした。
こうして最近はもっとしっかりと絵を描こうか、
書をちゃんと書かなければと思っている次第です。
思いついて若手デザイナーと始めた「日本デザイナー書道俱楽部」も
もうまもなく100名になります。展覧会を企画しようと思っています。
少なからず、越前和紙に私専用の絵はがきを発注しようとか、
水彩絵の具とその筆もすぐに取り出せるように考え、
故・米田先生の色紙の描き方を鮮明に思いだしました。
美大では水彩画はしっかりと学んだと思っています。
ちなみに油絵は描いたこともありませんし、
あの油の臭いは好きになれません。
その点、水彩画の絵の具は絶対にこれでないとがあります。

#「日本デザイナー書道俱楽部

* 「お盆・精霊馬の風習は願いを込めて、今年も!」
* 『私は、東芝が大好きだ』
* 『英語に加わったオランダの異文化から美術用語が』
* 『書そして運筆なら空海がお手本になる』
* 「スケッチは能力訓練に過ぎず、逃走訓練として」


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『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』


   


     8月 14th, 2016  Posted 12:00 AM



芸術作品、特に画家はその表現対象を社会に向けます。
そしてアーティストという枠組みは大きな変化をしてしまいます。
芸術という主観的な造形言語がとてつもなく一瞬にして、
芸術の概念を破壊し、一般からは「なぜ、なんで、これが?」という
大疑問を投げかけられます。
マルセルデュシャンの作品は、彼の生きた時期に、その現実を
彼の芸術で社会構造までを破壊することで多くの表現者に
自分の造形言語=表現意志・意欲・意図を変革させてくれました。
彼の作品が及ぼした表現力については建築家の著作では見かけましたが、
建築家自身の講演会では敬愛する北川原氏が
講演の中でマルセルデュシャンの現実の社会構造を
彼の建築で示そうとしていたことが明白。
マルセルデュシャンと言えば、
市販されている便器に彼のサインをほどこし、
便器存在にサインがあることで、
芸術家作品のこれまでの認識を一辺に破壊。
これは立体的作品の立体性をアッサンブラージュ化させて
現代芸術そのものを提訴していました。
レディメイドでの作品によって、改めて表現者は自分の表現、
その社会性での位置を再確認させられたと自分は理解しています。
ところが、彼のアッサンブラージュは、
丸椅子に自転車の車輪を組み合わせることで
コラージュの限界を示しています。
続いてパピエ・プレでは
アッサンブラージュそのものを提訴しているのでした。
そのように思わせる作品を発表しましたがその作品は写真しか無く、
まったく現存していないのです。
自分はアッサンブラージュでの限界どころか、そのデジタル化、
すなわちその否定を提案していると思っています。
おそらく彼にはデジタル表現においての
芸術表現は想像不可能だったと判断できます。
そこで画面にある様々な映像化は、
デジタルコラージュ、デジタルパピエ・プレなどを引き継ぎ、
デジタル的な映像表現がさらに人間心情にまで
表現内容が伝わることとデザインで拡大を意図しています。


* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 『意識して見つめたい「光」を』
* 「絵画に惚れることの重大さ」
* 「大好きな画家・これが私のまなざし」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


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『「学芸員の父」が母校の初代学長・森田亀之助でした』


   


     5月 20th, 2016  Posted 12:00 AM



この肖像はだれでしょうか?、といっても
一般的には有名ではありませんが、母校・金沢美術工芸大学の
初代学長・森田亀之助先生です。
終戦直後、金沢市には疎開していた画家や芸術家がいたのです。
敗戦直後の展覧会は行列になるほど、人は美術・工藝に癒やされたのです。
そこで美術学校を創ろうという話は議会テーマとなりました。
敗戦直後、何を無駄なことをするのか、と大議論になりました。
金沢市の判断は決まってこういう具合なのです。
「もし、前田の殿様が居たら、市民があれほど展覧会を喜んでいる、
 無駄だからというなら無駄でいい、今のこの敗戦時に不可欠だ」となり、
その初代学長の「美術・工藝そしてデザイン」という方針が決定。
専門学校、短大、美大の伝統理念になりました。
私はこの話を、Yちんという主任教授から聞かされました。
Yちんは光風会の画家でしたが金が無くなると先生宅で夕食を頂きました。
無論、先生への手伝いは色紙に描いた絵に落款を押していました。
絵が下手だったことで辞めようとしたときにも随分はげまされ、
他企業が受かっても卒業はさせないから東芝に行けという命令でした。
先生が倒れたと聞いた私は上司にお金を借り飛行機で金沢に帰りました。
もう暗くなった病室で、「来てくれたのか大丈夫だ、大丈夫」と言われ、
病院の玄関まで逆に先生に送られたのです。
ほぼ一週間後に、先生は逝きました。それを会社で聞きました。
だから東京で一晩泣きに泣きましたが葬儀には行きませんでした。
車イスになって 母校の非常勤講師を命ぜられた時に、
Y教授からの伝言をM教授から聞かされて
ビックリしてその命令に今も従っています。
が、その伝言に、M教授の前ではばからずにまた大泣きしました。
出逢わなかった初代・森田学長は「学芸員の父」と呼ばれています。
母校開設70年です。
その最初からを史実記録にしなければなりません。

下落合がずいぶん長い森田亀之助

*『オーディオ界で出逢った新技術と二人のエンジニア』
*『毎夏、再自覚決心の日』
*『やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう』
*『終戦間際の消された歴史・亜細亜の中の日本』
*『天衣無縫な時代と社会に活気がある』


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『権威権力者を「演じる覚悟」を見せた建築家』


   


     2月 15th, 2016  Posted 12:00 AM



「KK塾」第5回目は、建築家・内藤廣氏を講師に開催。
彼は極めて温厚で交友関係においても幅広い人格者です。
しかし、国立競技場のコンペでは副審査委員長でしたから、
あの大変な審査混乱では、立場上その調整役に回されていました。
しかも東大名誉教授・元東大副学長という役回りで「体制側の代表役」、
まずこの「権力者」=友人を失ったという告白も聞いていました。
それは「権威と権力のシンボル」に彼はなっていました。
私は親友の一人として、彼が東大教授であり、
国政サイドの権力者扱いの彼個人の苦悩を身近に見てきました。
この混乱状況に追い込まれながらも非難されながらも、
彼が苦渋の決断をあえて選んだことを見てきた一人として、
周辺のアンチ派や擁護派ともどもを平準化してみてきたつもりです。
それ以上に、
彼との友情はあくまでも「デザイン才能者」関係で講師を依頼しました。
彼は「1960年に戻らねば」・・・という彼自身の問いかけから
彼の講演は多岐にわたって芸術から憲法までの展開を見せてくれました。
「もう一度日本は1960年代に戻らねば・・・」に
私は真っ向から、
「それはロマンでしかないこと」、建築家とデザイナーを対立させました。
その根幹は、
彼が大学人として、東大の土木工学・建築学・都市工学を
「デザイン」で統合化した最初の人物であり、
私がGマーク審査委員長時代に、
彼を次期審査委員長候補として意識していました。
ただし、
彼には「デザインとは何か?」があり、
私には「何がデザインか?」の対比構造化を対立させました。
彼との対談を初めて公的に見せたことでした。
その興味は確実に会場には満ちていたと思います。
それはこの講演後には、
私と彼を久々に招いてくれた世界的グラフィックデザイナー
「サイトウマコト」の存在があったからです。
すっかり国際的な画家となっている野性的なサイトウマコトは、
私にも内藤廣氏にも
「猛獣的かつ辛辣な専門主義破壊」を二人にぶつけてくれました。
「そんなことはゴミだ!クズだ!」と断言する闘いを
世界相手にサイトウマコトはしていました。
また私が3.11と向き合った最初に
土地主義・土木主義の国政問題を教えてくれた
唯一の専門家は内藤廣であったからです。
なんといっても、
彼はいつも私の闘争を受け止めてくれています。
おそらくこの友情は持ち続けていくでしょう。


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『芸術は宗教である。=私は信じている。』


   


     11月 16th, 2014  Posted 12:00 AM



モンドリアンの全てを私は信じています。
現代、芸術史に美術の歴史上では、その芸術家は貧乏の極致であり、
決して生きている時は認められなかった作家は沢山います。
私が直感で、気に入り好きな作品、その作家は自殺した人がとても多く、
自分でも「なぜ?」と、思っていて、いつかすべてを熟考記述します。
モンドリアンのこの「ブロードウェイ・ブギウギ」は、
いつも本当に良かったと思い、私にとっては、最も落ち着ける作品です。
画家を志し、彼の作風はやがて完全な抽象画になっていきます。
彼が、芸術運動=デ・ステイルの中心人物になり、
ようやく、彼が個展で認められて、スターになったときはすでに70歳。
それまでの、画風様式から、「解放」されたがごとくの、この絵は、
芸術の修道士とまで言われ、結婚もせず、完璧な絵画で、
デザインそのものが再考を余儀なくされましたゆえに画家ですが、
私がデザインの完全主義を学んだ重要人物です。
だから、私にはモダンデザインの基礎は、
彼の創作思想を追いかけました。
しかし、社会からやっと認められたからなのでしょうか、
彼の人生最期にはそれゆえの超完全主義がこの絵画になりました。
MoMAに行ったら、この原画の前にずーっといることができます。
芸術が宗教だ、とまで断言してもらえたこの表現こそ、
完全主義を乗り越えたからこそ、ここまでの表現が、
私は確信の真実はここにまでいたるべきだと思っています。
私自身、宗教は信じると言うより、
学んできた対象では重大なものです。
しかし、宗教に私の確信性はありません。
むしろ、自分は自分の中に潜む美、
この美だけが生きがいの対象です。
それゆえに、モンドリアンの思想、生き方、
芸術は宗教断定を認めます。
極貧に耐え抜き、社会的にも認められず、ゆえに修道士のごとく、
自分の思想と理想を守り抜いて、生涯の最期の最後に、
大絶賛はたった2年間です。彼の完璧完全に生まれた、
まさにブギウギ、
この生涯こそ、私は自分もこうありたいと完全に願っています。
私は、作品を創りあげた作者の生き方=思想こそ、
学ぶべき対象だと、自分に言い聞かせています。
この作品にまでなんとしても自分はたどり着きたいと思っています。


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『「図鑑」=作品集はもう一冊は出したい』


   


     11月 13th, 2014  Posted 12:00 AM



デザイナーになって40年の活動は図鑑「川崎和男Design」に
まとめることができました。
だから、自分の仕事を紹介するにはとても重宝しています。
しかし、本来は阪大の最終講義に出版をと思っていましたが、
自分で編集に加わってからは、どうしても書籍というモノ、
モノのプロダクトデザインとして、紙質から製版までをなんとか
最先端にしたくなって1年も延期してしまいました。
また、出版社からは「川崎和男・全仕事」が売れ筋と言われましたが
全仕事ではなくて、今も進行中の仕事を最終と考えたい、
そう言い張ってしまったのも延期することにつながりました。
幸いにして、この書籍出版では、現在最高峰の技術を集めたので、
おそらく、この種の美術図鑑ではこれ以上の仕上げは無いとさえ、
自画自賛しているありさまです。
だから、本来なら配布したい人がいますがこれも敢えてやりません。
今は傍らに置いて改めて詳細な校正というより説明を付加しています。
デザイナーである私の作品は写真表現になっていますが、
その作品一つ一つは、製造・生産に関わった人たちだけではなくて、
この作品に至るまでのスケッチ、何枚もの図面、企画書など、
作品の写真に集約されているだけのことであり、実際は、
とてつも無く多くの人たちが支えてもらえたからこその出来映えです。
もし、画家なら、自分の力量で作品は描けたかもしれませんが、
デザイナーであるからこそ、発想のスケッチから企画計画を立案し、
私のことですから、随分とわがままなる喧嘩もしてきました。
私自身は、これで4冊目の作品集ですが、
私の人生最期の仕事=今関わっているすべては、メモも、それこそ、
電話の声も、会議も残したい、その記録としての作品集、
そのようまモノが残せるのだろうかと、考えてしまいます。
でも、現在進行形の仕事も必ず「図鑑」にしたいと願っています。


『作品集は合計やっと4冊になりました』
「64歳ー私のデザイン作品集『図鑑』編集中」


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『意識して見つめたい「光」を』


   


     2月 12th, 2014  Posted 12:00 AM



生きている実感は「光」を視るからかもしれません。
それは私には三つの体験からの一つの結論です。
日常は全く「光」には何の興味も持っていないものですが、
私は幾たびか入院し、しかも生命が危ないという体験もあります。
そして思い起こすのは大抵、その時は眠っているのでしょうが、
自分の記憶の中では、暗闇に「光」があるという、
これこそ「光景」の中に放り出されている実体験が残っています。
だから、私は明らかに「光」が太陽から雲から出ている写真、
この写真を集め、またこれまでの画家達がこの光景を描いたことに
とめどない興味があります。
色彩が光の物理的現象ということも、単なる知識にすぎません。
むしろ私はこの物理現象よりも、幻想にある光景にこそ、
これまでのあらゆる思考の学や論が意識に沈殿しているのです。
したがって、私が「色」を体感する以上に「光」があります。
物理的・科学的なことよりも考え抜くことは、
「まず、光あり」という宣言に心惹かれています。
こうした自分の体験や幻想、それらは全て私の想像力ですが、
この想像力をいつも整理するためにこのブログだけは、
できる限り書き残そうとしているのかもしれません。
端的に言えば、私の欲望はほとんど光のごとく在るのでしょう。
できる限り私のデザイン、その効用と効果も光のごとくなのです。
私たちが光を具体的に印象化しているのは、
太陽を視ること無くても、雲があって、差し込んでくるものです。
差し込んでくるからこそ、これを自分の実体験にまでするには、
相当の想像力と光を同根にまでしなければなりません。
なぜなら、せめて「光」のあるところには行きたいと思うのです。
それは決まって、私が暗闇に放り出されて苦しんでいるその時、
私は必ず、この一点=差し込む光を求めてきました。

【ブログの関連記事】
「想像力の尊大さをリドリー・スコットに観る」
「暗闇に光をというのは・・・」
「『痛み』・・・辛いことはこの世に戻るとき」


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「この画家をもっと知らせたい」


   


     6月 6th, 2013  Posted 12:00 AM



多分、私はこのままだとこの画家のことを書いていくだろう。
ニコラ・ド・スタールの人物ゆえに、彼の作品のことです。
忘れたように引っ張り出しますが、
有名になる直前に自死を選んだ性格が見いだしたことです。
彼は何を、見たのでしょうか?
観てしまったのでしょうか?
このことに惹かれる生涯を選んだということかも知れません。
もちろん、私の「プラトンのオルゴール」作品の一つです。
ビートルズの曲は「JULIA」です。
5年ぶりに前回パリに行ったときも彼の作品集を探し求めました。
私は、画家という職能とその作品を、
なぜ、人間は知性と感性の最高感覚として、
知性が選ぶ才能として、絶対に受け止めない人物は貧しいのです。
しかし、最近では、
「デザイン」は、あたかも知性ある人間として、
安易にその指導者ぶりや商業を押し隠している人物を多数、
私は知り尽くしてきました。
アートではないけれど、これがデザインだという、
最も貧弱な知性ぶった人間を蔑んでいます。
高校時代だったら殴っていたでしょう。
それ以上の価値などはありませんから、
命を奪うことはありません。そんな価値も当然無いからです。
先般、現政権の「COOL JAPAN」が海外で受け止められている、
その商業主義の浅はかさを聞かされました。
デザインの職能団体が、
時代と共に衰退していく事を目の当たりにしました。
つまらないイベントに、日常から逃げ出している輩を見ました。
これが「人間界」だというなら、
生涯にその最も汚濁した部位を表現の一つにすること、
それは画家という職能の最大重要点だと断言しておきます。
なぜ、JULIAという音楽が彼の作品と同調するのでしょうか?
なぜ、彼の作品は、最期には色彩が無彩色=まるで墨絵、
白と黒の絵画世界観に達していくのでしょうか?
私は生涯、この気持ちを下敷きにして、
自分のデザインを、日常の汚濁には決して配置しないと思います。
彼の最期の作品(左)は私のPCの壁紙にしています。


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「大好きな画家・これが私のまなざし」


   


     5月 14th, 2013  Posted 12:00 AM



日本で美術全集を企画すると、必ずこの人から始まるらしいのです。
それはピエール=オーギュスト・ルノワールです。
日本人好みの極みでしょう。
そして、きっと、この画家を知る人はほとんどいないでしょう。
昔、親友の有名なグラフィックデザイナーから、
「お前の好きな画家は?」って尋ねられて、
彼の名前を出したら、
エーッって、凄く驚き、
「彼を知っている日本人は二人目、しかも二人ともプロだった」、
と言われたことがあります。
「彼の絵、買っておけば・・・」と言われました。
しかしとても高名過ぎて買えるようなモノではありませんでした。
私が生まれて、もうこれほど身震いをして眼差しを知った絵でした。
彼の絵画が私の身体をぶるぶる震わせるほどのモノでした。
ちょうどそのとき私は入院していて、妹が東京で学生でしたから、
彼女に彼の展覧会でのカタログを頼みました。
それ以後、フランスでは彼の作品集だけを探して、
私の大事な収集作品集になっています。
今年の3月に、5年ぶりにパリに出かけて、
また彼の作品集を買い求めました。
帰国後、これまでなかなか落ち着いて作品集を見れませんでした。
ようやく私の傍らにおいてゆっくり読み、見たいと思います。
これまで、私の「色彩論」はほとんど彼の絵画を使ってきました。
無論、私のパソコンの壁紙は彼の作品です。
ただ、私が絵画で選ぶ人は早死するか自死しています。
結局、画家という職能は、主観性で生きているだけに、
デザイナーが客観性で作品を仕上げるのとではまるで異なります。
画家であって自分の作品を追い求め過ぎると、
結局は寿命を自分で結果を出してしまうことが悲しいです。
しかし、彼の作品は、
たとえばパブロ・ピカソが現代絵画を進化させた代表だとすれば、
彼は、絵画の具象性と抽象性を見事に融合させた唯一でしょう。
彼を著名にした作品には「サッカー競技」がありますが、
その作品の色使いには、
現代のサッカーの興奮度を確実に予測していた色彩、
その対比で、競技場と観覧席を描きわけたものがあります。
この画家の名前は、
Nicolas de Staël=「ニコラ・ド・スタール」です。


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「最も、障がい者の存在を描いた画家」


   


     7月 1st, 2012  Posted 12:00 AM



オランダ・フランドル地方に画家がいました。
その画家はピーテル・ブリューゲルです。
彼はその当時のルネッサンス華々しさを多分知らずに、
一般的には「農民生活を描いた画家」として有名です。
ところが彼の絵画には多くの障がい者が描かれています。
彼の描写力はほとんど写真的な写実正確性があります。
だから、障がい者はいっぱい存在していたと思います。
当時はそんな彼らを周囲はどう見護ってたのでしょう。
16世紀中頃です。
ただ、彼の絵は多分、そうした人たちの存在を、
ある種の教訓的な意味もあったという解説も見かけます。
しかし、私は人間には全ての人には、
外観の差異性が多様であることを描き分けたのでしょう。
それは、彼の農民生活を描いていた視線、
彼の眼差しの方向を詳細に見れば分かってくることです。
たとえば、農民の結婚式情景は、
どの方向から画面設定をしていたのかなどが実例です。
彼の障がい者を描いた絵を追いかけたメモを残します。
さて、この絵画にはどれだけ多くの、
どのような障害を持っていた人物がいるか、
確認をして下さい。


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