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Posts Tagged ‘目標’


「デザインから『ちの理想主義』は創出できるだろうか」


   


     9月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

3.11は天災と人災で多くの同胞を失いました。
打ちひしがれた私たちに、オリンピック・パラリンピック、
この東京開催は、目標と時間設定を確認させてくれました。
多分、プロのデザイナーとしての人生も、
この東京開催まで、自分を支えられるかが最大目標です。
私は、一方で大学人ですが、それは先導と主導が可能だろうか、
これが一番の課題になっています。
デザイナーゆえ、ビジュアルでその理念や手法をまとめます。
三つあります。
 ● デザインは形態設計を制度設計にデザイン対象の拡大
 ● 「原資」獲得の具体的手法を先導
 ● なんといって「モノづくり」主体者の意識改革主導
これら三つは、現代の資本主義と民主主義への疑問の整理。
しかし、疑問を溶解するには、
新たな「理想主義」を私は「かたち」で生み出す必要があります。
資本主義の拡大は、歴史的には常に批判され、
その根本は評論以上にはなりきれません。
民主主義への最大抵抗は宗教主義での認識心情を変えるだけ。
私は、この二ついづれも疑ってきました。
4月に「危機解決産業創成デザイン重要拠点」として、
私は、「デザイン講座」と「プロジェクト」を立ち上げました。
あくまでも、「かたち」から入っていきます。
それは、「かたち」が「きもち」を動かし、
「きもち」は「いのち」を絶対に護ることになるでしょう。
それを言語と空間に造形化すれば、
「とち」の「つち」を見直し、「まち」の「かたち」になります。
すべからく、私の理念は「ち」一語に集約するのです。


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「デザイン講座は制度設計と形態設計での問題解決」


   


     8月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

『March 11. 2011』東日本大震災が立ちはだかったままです。
前政権の政府力量の皆無さをなんとしても解決するべきだと、
私は大学を去るにあたって、最も大きなストレスでした。
ところが、退官後も阪大に残りました。
あらためて、デザイナーと大学人を残った人生の役割にしました。
名古屋市立大学で大学人になってからも、
プロのデザイナーとして作品を商品化して、
産業経済の実務家としても、それ相応の仕事と使命を自覚。
それこそ父から言われ続けてきた「行学」を続けてきたはずです。
あらためて、「行学」についてまとめると、
「行為と学業、修行と学問」を十二分に果たしてこそ、
己の生きがいと働きがいを生き様にするということです。
まして、自分の生涯で、やっと祖父や父たち世代が、
敗戦から、理想的な国家はすでに全滅瀕死の状態だと思います。
私は、デザインをまさに策略であり、問題解決の手法、
このように考えてきましたから、8年前に阪大に転籍後には、
学問領域を四つにわけて、さらに中心の実務学を配置しました。
しかし、一人でこの四つの領域を成し遂げることは不可能です。
ただし、絶対に書き残すことは、
もはやデザインを専門学校や美術系、あるいは工学系では、
とても問題解決の先導であり主導である実務手法は不可能です。
定年退任してから、私はこれまで以上に多忙になってきました。
理由は、四つの「塾」をデザイン講座先導と主導、
これらの「行学」の根本にしました。
その実務手法の目標と目的を具体的なモノとコトにしました。
何をデザインで解決した形態設計の行学だろうか。
何をデザインで解決した制度設計の行学だろうか。
私にはこの実務手法を残された時間に配置しました。
活動はこの秋、10月から活動を開始する覚悟です。
今は「国難」の時です。
それは大震災と大津波で「地球環境」を思い知ったのです。
原発事故も何ら解決していません。
けれども、先進国家のわが国だから出来るのです。
「行学」を果たす者には、最も最適解を出していくのは、
「デザイン」だから可能だと信じています。


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「ソムリエナイフの歴史的進化は普遍的です」


   


     8月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

私は左右利きです。が、基本的には左利きが進化しました。
世の中には「左利き用」ツールが最近では増えてきましたが、
私の子ども時代はほとんどありませんでした。
だから、ハサミも左利き用ハサミはかえって私には使いづらいのです。
ところで、ワインオープナーは様々に改善されてきました。
最近では空気圧を使って簡単に開けることが出来るようになりました。
私は越前打刃物あってこそ、
デザイナーとして再起できたと思っていますから、
あらゆるナイフを一応は使い、さらに使いこなすことを目標としています。
そこで、ソムリエナイフには
レフトハンドと呼ばれる「左利き用」(右写真下)があります。
ソムリエナイフはその代表的なブランドメーカーのモノが最高です。
そしてこのブランドによって、
ワインオープナーとしてのマルチ的使用のナイフが創作され、
その歴史的な工夫には、
詳細な使い勝手を自分なりにトレーニングが必要とされています。
つまり、「使い勝手」は自分で培うべきものです。
もっとも、ナイフは14歳から使い方を習得させるという国もあるほどです。
日本では、危険物ツールですから、ナイフそのものを使いこなせません。
鉛筆削り、リンゴの皮むき、木材加工、
魚の解体などへのナイフ使いが大事です。
ソムリエナイフのトレーニングは、
栓開けのナイフ使いからこのナイフ先端使いもマスターすべきです。
そして、スクリューナイフでコルクを抜くための回転が重要です。
ここで、私のような左利きには、
左利き専用ソムリエナイフの存在価値があります。
スクリュー形体からも明確なように
回転方向が左利きにとってはとても使いやすいのです。
このソムリエナイフブランドメーカーの刃づくりや切れ味は、
ペティナイフなステーキナイフ、
チーズナイフなどにおいても抜群の切れ味を持っています。
他の有名ブランドへのOEMにもなっています。
ブランドとともにあるソムリエナイフ形態は普遍性を確立しています。
だからこそ、マルチツールナイフは、
この歴史的な進化を取り入れてないことが惜しいのです。


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「DESIGN TOKYO 三年目の成果が見えてきた」


   


     7月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

日本が「ホスト国」であり続けること。
これは私が、日本の貿易立国・見本市コンベンションの最大目標です。
「製品デザイン」の中心国であることを意図して、
「DESIGN TOKYO」展を創って三年目になります。
この展示会は、二つの領域で構成しています。
まず、この展示会に出品できるかどうかは、
「審査会」を設けています。
今年はMoMAのアシスタント・キュレーターも入っています。
同時に様々な領域展も開催しているので、
日常生活のあらゆる商品・モノが見れることと商談が可能です。
アジアはもちろんアフリカ・欧米からバイヤーも増えてきました。
特に、「DESIGN TOKYO」はデザイン中心主義を高めると同時に、
次世代デザイナーの発表の場があります。
これは、私の強い狙いがあります。
海外で発表すると大変な出費になります。
そして発表成果はほとんど無いと言ってもいいでしょう。
しかし、この場なら、バイヤーと直接デザイナーから売り込みが可能です。
欧州の有名な次世代デザイナーや企業がショーアップしている展示会は、
高額な出品料を取られて、投資効果はゼロです。
韓国の次世代デザイナーはほとんど出品しなくなりました。
「DESIGN TOKYO」であれば、MADE IN JAPANが明らかです。
今年は台湾政府から
台湾デザインセンターが選別したモノが持ち込まれました。(写真右上)
ふるさと福井からは毎年、
Hacoaが審査通過して発表しています。(写真中央下)
ワイフが座って確認しているのは、
デザイナー提案の「椅子」であり、
毎年発表の場にしていただいてます。(写真右下)
来年は、出品意図を明解にしてもらうためにどうすべきか、
次世代デザイナーには、新たな産業を紹介し、
このような領域という「テーマ」そのものを提案します。


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「ロボット・『舞』の意図すること」


   


     4月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

「ロボット」、その言葉=戯曲からの由来はすでに教科書的です。
が、その由来名辞から解放されているとは言い難いと私は思っています。
J・ボードリヤールは「物の体系」で、
「ロボットは想像的なものの局面が神話として
到達したものに他ならない。
それは目に見える機能性の投影という局面である。」と、断言。
私は、わが国のロボット学者や企業は、
ヒューマノイド系とメカノイド系に
輪郭化されていることに不満がありました。
この指摘を「私のロボットデザイン」で
評論的な表現にモデル化したいと考えてきました。
ベースは、中村雄二郎先生の「形態論」と「身体論」です。
「形態論」=安心+安全であり、
「身体論」=安全+安心として再考すると、
スポーツや舞踊が引用できると結論づけることができました。
ところが、「舞踊」は日本だけでなく、
世界中の「踊り」が見事に二分できるとたどり着いたのです。
それはボードリヤールの指摘からも、
ロボットという名辞からも解放されるデザインから
技術仕様を決定していく一つの「基礎学」でした。
「舞」は、足裏を決して見せません。
能舞が日本の伝統芸能として的確でした。
名前も『Nomenclator』という古代ギリシア語を選別しました。
「Nomenclator」というのは召使いですが、
データを把握している情報マンのことです。
誰かが歩いてきて領主的な主人に挨拶をすると、
「あれはどこそこの誰で、先般、病気をしていたとか」、
性格や立場を主人様に伝達する奴隷でした。
しかし、人間ゆえに「感情を持っている」という決めてがありました。
だから、私のロボットは呼び名を変えて、足裏を見せないで行動し、
なおかつ感情=泣いたり笑ったりという表情を、
ヒューマノイドでもメカノイドでもない
形態の身体化を図るということでした。
これは私の人工心臓の究極である「感情=交感神経β1と副交感神経β2」で
鼓動しているような「性能化」感覚と一致しています。
例えば、帰宅すると出迎えてくれて、
ユーザーの想いを共有してくれることが目標意図になりました。
これは大阪大学に特任教授となったときに、
阪大フロンティア研究機構で、ワーキングモデルとして、
「感情共振」=Emotional Domainまでへのアドバンスデザインとして
開発具現化できました。
このモデル化は「玩具性」を離脱する一つの方法だと思っています。

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「生きることの模範・範疇・範囲として」


   


     3月 5th, 2012  Posted 12:00 AM

マリアン・デレオ監督「チェルノブイリ・ハート」、
これは「反原発」のドキュメンタリーです。
このドキュメンタリーは重大な原発事故後の報告映像です。
どれほど原発事故が人類史上悲惨の極点を伝えています。
そして、この映画の冒頭には
「日本人のみなさんへ」という次の詩が流されます。

「生きることについて」

生きることは笑い事ではない
あなたは大まじめに生きなくてはならない

たとえば 生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはいけない
(中略)
そのことをいま 嘆かなくてはならない
その哀しみをいま 感じなくてはいけない
あなたが「自分は生きた」というつもりなら
このくらい世界は愛されなくてはいけない

私たちが原発事故で佇むべき熟考の
動機付けになると確信します。
無論、日本は原爆被災国家であり、
さらにフクシマでは、自らの原電制度によって、
またもや「原子力発電・放射能」について、
多大な犠牲者の屍への哀しみを、まず、国家体制へ、
そして私たちの電化生活文明への猛反省を求められています。
私は「反原発・脱原発」も「原発推進」も、
結局は「放射能」へのアポリアで思考停止していると考えています。
「範原発」という目標と目的を掲げ直したいと提案します。
原子力発電所を、「建設から生産へ変更」、
「集中から分散へ、例えばタービンレスへ」、
「プルトニウムへのブレークスルーで別原子核へ」、
原子力技術の全否定=「反原発」は、
何も解決に至らないから「原子力技術自身の革新」を主張しています。
その具体例をデザイン提案していきたいと考えてきました。
私はこの原子力技術の手法の変換、革新、
その範疇・範囲・模範への智恵創出を
「範原発」と呼ぶことにしています。
チェルノブイリの立ち入り禁止地区という範囲には、
絶滅したはずの動植物のパラダイスともなり、
その範囲からの放射能汚染・ホットスポットは今なお人間の生存、
遺伝子破壊は連続しています。
放射能・放射線の諸刃の剣的な人間との関係性に「範」を与えること、
この重大さに発想を向けるべきではないでしょうか。
美しい花を愛でて日常を高度文明の中で護られ、
生き抜いた結果の死だからこそ、
美しい花に包まれた死をと私は願っています。


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「健康は失い薬づけだが幸運なり」


   


     1月 12th, 2012  Posted 12:00 AM

28歳交通被災で車椅子生活。
交通被災時に心臓も直撃されたために心臓障害。
これが私の宿命でした。
絶望だけはせずに、自分を諦観の中で生きてきました。
ところが、幸運だったのは大学人になってさらに、
名古屋市立大、大阪大でもそろぞれの附属病院で、
詳細に体調管理されていることです。
入退院、手術は幾たびも、しかも敗血症まで、
こんな重篤も乗りこえることができました。
これは幸運なことだと思っています。
だから、「幸不幸」はコインの裏表みたいなものです。
「幸不幸」から幸運や幸福をつかみとらなければなりません。
毎月病院で診察を受けます。
これは体調が良いときです。
体調が悪いと診察にも行けないのです。
敗血症から生還してきたとき、
病院の待合室で大勢の患者さんを見ていてこう思いました。
「病苦で自死を選ぶ」というきもちがつくづくわかりました。
毎月毎月、死ぬまで病院通いなんていうのは耐えられないし、
常時食前食後就寝前に服用しなければならない薬を見ると、
きもちはすこぶる落ち込みます。
ICDを入れる前に比べると、格段に薬の種別も激減しましたが、
それでも常に万一を考えると、薬づけの生活です。
だからこそ、「薬」の形態や色彩のデザインが不可欠です。
そして薬の形式をもデザインで変えてしまうべきと考えています。
なんとしても「ドライパウダー化」して経肺吸引が目標です。
現在は、ワクチンをミスト吸引するシステム開発が進行しています。
機能食品という名の「健康維持のサプリメント」ブームです。
しかし、サプリメントととの最適性などは、
もっと確実にしていく必要があると考えています。
いづれ、私の常備薬がドライパウダーになってくれたらと思っています。
自分のための造形された、デザインされた薬が必要です。
デザイナーとして、
こんなことに気づかせてくれたのは「幸運」だったと思ってきました。

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「瓦礫と化した自動車が問題ではない」


   


     12月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

安政の津波時には「舟で逃げるな」と語り継がれました。
3.11大津波では映像の中の自動車は、
押し浪で車は津波とともに凶器となり、
引き浪で行方不明者を巻き込んで海に引き込んで行きました。
そうして陸上では、津波で破壊された自動車車体が瓦礫になりました。
20世紀から自動車こそ、人類の智恵技術の結晶でした。
しかし、自動車が凶器となることを万人が知り尽くしています。
私も交通被災者ですから、
車という存在にはデザイナーとしての想いも重なります。
車は大好きなモノでもあるのです。
しかし、もはやハイブリッドだのEV車が車産業の目標ではありません。
「その車内に居れば生命が完全保全」、
そんなカーデザインが必至だと考えます。
私はプロダクトデザイナーとして、
エレベーターと車は根本的徹底的に技術開発目標を再設定すべきです。
ともかく、天災時に「逃げ込んで命を護る空間」、
それがエレベーターと自動車です。
車デザインについて具体的に表現すれば、
「車に乗って海に飛び込み自殺は絶対に不可能」という
車体空間と非常時船舶となるデザインです。
このあたかもSF的発想が、
「天災・人災」への対策デザインであるべきです。
今回の震災では、凶器となる自動車、
自動車が無ければ救急救命もできない、
この矛盾こそ問題設定であり、その問題解決対象に、
カーデザイン、本来の人智的デザイン設計が希求されています。
3.11の津波映像で、大量の車がメチャクチャになっていく様子、
瓦礫記録写真での、考えられない自動車の破損状況は、
デザイナー・技術者・設計者の魂に焼き付けておかなければなりません。
そして、自動車はガソリンが無ければ走りません。
けれども発火すれば爆発します。
電気自動車になったとしても、その車体空間は、
私たちの肉体と生命を護りうるモノにすることです。
これが復興テーマの大きな一つです。

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「小さな国の使者からの偉大な祈祷」


   


     11月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

その国の名前は知っています。
場所も多分、あのあたりだろうという程度の知識です。
ブータンという小さな国の若き国王夫妻が来日されています。
九州ぐらいの面積に人口70万人、
私のふるさと福井県が人口80万人ですから、
人口から国力ということも想像が可能ですが、
まったく、「国の生き方思想」が違っています。
もっとも北陸三県も幸福度指数は日本でトップクラスですが。
「国民総幸福度」という指標を唯一保持し目標としている国家です。
その国王夫妻の来日、お二人の存在、国王の品格と言動、そしてお言葉、
これらを見聞して感動を覚えないとするなら、
相当に自身が壊れていると自己評価すべきでしょう。
31歳、私は彼のちょうど2倍生きてきました。
しかし彼の発言は、まさに幕末の志士を思わせるほどの
威厳と風格と、そして何よりも日本への敬愛がありました。
1000年に一度という国難の中にあって、
これほどの献辞的なご祈祷をいただいたことは
素晴らしい賓客だったと思います。
私は何度も報道されている発言訳を読み返しました。
国会演説の最後は自国語で「お祈り」を捧げてもらいました。
その祈祷を聞いてみたいと思っています。
仏教、それもチベット仏教ですから、
あの「死者への追悼祈祷文」は、
私の音楽ライブラリーにはあるはずですから、
あらためて聴いてみようと思っています。
国際関係はすべからく何事も経済の自国優先中心主義です。
国交のあり方を、もし21世紀に再創出するなら、
このような国家との関係論に基礎があるということです。
彼らの伝統的衣装も、やはりアジアの小国なればこそ、
きわめて着物に似ています。
彼らの仏教への信仰心から、彼らの国家目標こそ、
大国同士の「経済分配主義」から逸脱できる、
仏教的思考軸があるのだと確信します。
国家という自然性・伝統性・宗教・思想、
そうして国際化の中で、
「人間」としての生き様と国家の連綿性を、
あらゆる局面で壊れてしまったわが国に、
ひょっとすれば、仏教発祥の地から
「使者」としての賓客であったのだと私は思っています。

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「映画のApple製品がMedia Integrationだ」


   


     10月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

私の大好きな映画の一つ。
007シリーズがあります。
第14作目「美しき獲物たち」(A View to Kill)。
これは1985年の作品、主題歌はデュラン・デュランです。
1984年、Macintosh128kの登場との共時性が明白です。
この時から、マイクロプロセッサー、
このハード要素をあくまでも基本に、
ジョブズ氏の発想と決定という仕掛けが
私たちに「意識革命」を日常化させてくれました。
「意識革命」とは本来は、
ドイツ発脱工業化社会のマニフェストでした。
1970年代末に「情報化社会」を示唆していたということです。
情報化=意識化、あるいは意識化=情報化は、
脱工業化社会、その具体的製品こそ、
パソコンでありトリガーでした。
そのトリガーシンボルはAppleIICだった、
私はそう評価しています。
さてこの007映画にもAppleIICが使われていました。
映画ストーリーも、シリコン採掘カルテル支配による
マイクロプロセッサーの独占と、
シリコンバレーの破壊活動を007が阻止する話でした。
AppleIICは「ウォールストリート」でも小道具でした。
このAppleIICには液晶パネルを見かけ、
私はこの液晶パネルユニット探しに渡米したものです。
たまらなく魅力的でした。
「ウォールストリート」は時代背景を
現代に連続させて最近リメイクというより連続物語になりました。
いづれにも、コンピュータが小道具になっていますが、
小道具としてよりも、特にApple製品の登場は、
いつも、最先端時代感覚の共時性から将来性を語り、
ファッション的な存在感が強烈です。
映画だけでなく、TVドラマでも必ず、
ストーリーのプロットに対するApple製品やMacには、
監督の演出センスを感じ取ることができます。
映画やTVドラマでMac以外が小道具になれば、
決してファッション性はまったく感じられません。
結局、小道具以上の演出意味性は、
Apple製品やMacintoshそのものにメディア性があるのです。
私は、こうした製品存在性こそ、
「Media Integration=メディアインテグレーション」であり、
「コンテンツ産業」である映画の実質的な価値観です。
すなわち、デザインが対象とするのは、
この「価値創出性」であり、これは商業主義を逸脱させる方法です。
ジョブズ氏は、こうした「意識革命家」だったと思います。
「映画」というメディアあるいはコンテンツに、
インテグレーションされる製品発明こそ、
デザイン職能の目標だと私は定義しておきます。

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