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Posts Tagged ‘石川県’


『チタニュムを車イスでは選択』


   


     1月 10th, 2020  Posted 12:00 AM



さて、マグネシュウム合金は製造段階で発火がします。
これが現在ではどう直されたのかをチェックしていません。
私の車イス開発では、超軽量さが求められマグネシュウム合金ではなく
カーボンファイバーか、チタニウムの性能を利用したいと考えました。
当時は、丸パイプとそれを加工したモノばっかりでした。
丸パイプでは、今でもそうですが切断面が少なくてすみます。
車イス設計では、造形意図通りの表現やおさまりがかなわずに、
チタニウムを使いました。こうして素材が選定されていきました。
が、それでも真空での加工には、かなりの技術が要りました。
当時は、石川県と福井県の工業試験所でも製造工程で無理がありました。
そこで、台湾にある技術が幸いし、その技術習得のために、
製造技術担当者を毎月、現地に送り込んでいました。
そういった全ての時間と労力を車イスの完成に注ぎました。
そして、当時からアプローチしたカーボンファイバーには、
様々な私なりのアイディアが蓄積されました。


* 車イス


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『「キスリング」で夢中の頃から登山用品が進化している』


   


     8月 12th, 2018  Posted 12:00 AM




今ではリュックサックと言えば「縦長」であってその形式に私は驚いています。
高校時代には山岳部にいました。
高校ではまず福井県内の石川県と岐阜県の境の山々はすべて踏破しました。
大学に入ると空手部に入りましたが助手の先生が藝大の山岳部だったので、
ともかく、空手部では退部試合に出て、それは全員から殴られました。
が、それがあるから今でも空手部時代の先輩には、信用があります。
大学ではロッククライミングや縦走が主でしたし、
当時は入山手帳に記入をするなんていうのは臆病者でした。
かっては「岳人」という雑誌が最高でした。
ところが今ではそんな雑誌などはワンダーフォーゲルという連中だけです。
そして、決まって「キスリング」というリュックサックでした。
私は、まず、これには段ボールで形を整えて、
両方には、水とガソリンとお餅を入れていきました。
さらにアルミの背負子はとても良かったと思っています。
大学では、常に剣岳の長二郎谷雪渓と源治郎谷雪渓で、
金沢美大、京都芸大、東京藝大と一緒に4年間は40日余り、
最後には個人個人で縦走でした。私は40日の針ノ木岳から直降すれば、
大町からの鉄道で戻ってきました。
なんといっても、この「キスリング」は非常に危険でした。
それこそ、私も白馬岳から不帰岳では、
リュックに重さをとられて、落ちそうになりました。
しかし宇奈月から早月連峰を4日で剣岳のベースに着くには便利でした。
今や車倚子になっても、
登山ツールやホェブス(知らないでしょう)の進化、
テントやツェルトなど、新しいモノが次々と開発されています。
なんといっても、登山靴などの進化は、
これで夏山はいいかも知れないが冬山では絶対に無理だろうと思います。
それくらい、登山用具の進化は進んでいます。


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『都市伝説であれ、地震雲あり空をよく見よう』


   


     9月 13th, 2015  Posted 12:00 AM



日本は地震大国であり、私自身は母の胎内で命が宿った時に、
福井大震災。結婚したてだった父は、
救援を求めるために石川県に自転車で県境を越えたと聞かされてきました。
それだけに、阪神大震災、東日本大震災で決定的に、
地震には特別な感情を持ってきたと思っています。
3.11以来、あれが地震兵器で、すでに開発されていたという説も、
それなりに徹底的に読みあさりましたが、そのことは都市伝説とし、
現在、地震予知は公的には禁止されていますから、
最も身近な、
ほとんどこれも都市伝説でしかない「地震雲」を見てきました。
また、3.11以後、この「地震雲予知HP」は無くなってしまいました。
しかし、プレート移動説という科学性予知をさらに決定している、
太陽黒点とプラズマ核融合=これはすでに新たな核融合炉が完成ですが、
この太陽黒点増減が電磁波として成層圏に移動値変動を与えています。
私はこの成層圏での電磁波変動値が雲の造形を変えている説を
本当に信じていますから、電磁波値の高低増減を知りつつ、
今後の地震、さらには火山活動をなるべく知りたいと考えて
私なりの情報収集をしてきました。
そして、この変動値で、この一年はほぼすべて地震が起こってきました。
そんなおりに、
FBでの友人(横浜)や元スタッフ(東京)の写真がアップ。
私はほぼ直感で、「怪しい,危険かも」と返信しました。
そうして、確実に震度5という地震が起こりました。
私が千里眼でもなんでもなくて、地震は予測し予知して、
外れることなど平気で構わないと思うのです。
外れても懲りることなく、危険かも知れないが蔓延して構いません。
それよりも準備万端にするべきだと考えます。
阪大退官時には「危機管理工学として」デザイン講座を持ちましたが、
「危機は管理出来ない」むしろ「危機は解決させる」ということです。
「危機解決こそデザイン=コンシリエンスデザイン」という講座を
阪大内にて、首都直下型から南海トラフに向けて、
その危機解決デザインを看医工学デザインに向けています。
気づいていることをともかくできる限りをデザイン対象化して、
実現度や具体的な実務化、
さらには制度化も国際的な訴求発表などを急いでいます。
今回は、この二つの写真で見事に地震は的中しましたが、
もう一つの雲の形も地震雲データになりそうです。
私たちは雲からのメッセージを読み取る能力が必要です。


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『お米は合鴨米か、コシヒカリ』


   


     10月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM



コシヒカリ、元来は福井県産の努力の賜でした。
新潟特産は大きな間違いです。
だから、私は、福井県産コシヒカリと、
石川県で、元スタッフが丹精込めてつくってくれた合鴨新米です。
当時、私はスタジオすべて、Macintosh XLをサーバーにして、
全スタッフがMacintosh 512Kをデザインツールにしていました。
Macintosh XLというのは、LisaのスタイルのMac版でした。
そして、社内LanはMouse Exchangeが中心環境でした。
この管理は私がしていましたから、
スタッフの通信はすべて読むことが可能でした。
しかし、それはほとんど無視していましたが、
あるとき、二人のまったく意味不明なやり取りを見ました。
それでも、それは二人の合図程度と思っていましたが、
結局、二人は結婚してしまいました。
紆余曲折いろいろありました。
なにしろ、相手がデザイナーともなると結婚なんぞという考えは、
相手の親御さんには致し方なく、
私が説得することもありました。
彼らは夫婦と成って、デザインを教える立場ですが、
折角ある稲作りを彼は覚えてくれました。
そして、この季節になると、毎年の出来映えを教えてくれます。
そうした話を聞く度に、日本人にとってどれほど、
「お米の大切さ」を知らされます。
そして、残念なことは、田植えから始まり実りの秋まで、
米作り労働対価はまったく現代経営とはかけ離れていることです。
特に、コシヒカリ、合鴨米の労働対価はつりあっていません。
日本人にとって、米作りは、新たな労働評価経済軸が必至です。
そして、日本の米作りはすでに高度な文化づくりゆえに、
新しい経済主義によって、米づくりと国づくりは一致している、
その思想づくりをやるべきと考えます。

 


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「長谷川等伯と狩野派の対決から」


   


     11月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

長谷川等伯には心をひかれています。

だからこれまで美術専門誌で彼への想いを依頼されて、
何度か書いてきたことがあります。
狩野派=安土桃山時代に、
権勢をふるっていた中央画壇とその体制に、
果敢に挑戦して画法革新を具現化していた田舎絵師等伯は
ここ数年ブームになっています。
出光美術館では、ずばり、等伯と狩野派を対比させる
展覧会を開催しています。
なんとしてもこれは絶対にと思いじっくり鑑賞しました。
これほど多くの観客が訪れながらも静かな展覧会でした。
皆さんが解説をじっくりと読み、
400年前の二つの対決、それなのにお互いの影響ぶりを
堪能されているとても素晴らしい雰囲気の展覧会でした。
長谷川等伯は能登(石川県)七尾から京にて、
大権勢と政治力のある画壇に、静謐な画風で、
狩野派に嫉妬と嫌悪され、
次々と様々な策謀に巻き込まれた画家でした。
画法ひとつでそのような政治力や権謀術策に立ち向かったこと。
私にとってはたまらない魅力があります。
無論、等伯の中国ではほとんど見向かれなかった画法、
「骨法用筆」=輪郭線表現をしないで、
光と大気に対象物を描き出す手法を完成させた画家でした。
狩野派は彼の存在を歴史から抹消させようとするほど彼を敵視しました。
織田信長、秀吉、そして家康という時代は、
画家だけで無く、宮大工や刀鍛冶までも、
パトロンである時の権力者に愚弄させられます。
それでも、「作品」は権力を超越した価値観を、
現代にまで伝えています。
あらためて、等伯・長谷川派と狩野派を見比べられました。
やはり等伯の「骨法用筆」には、権力との闘いなど皆無の静謐さ、
交響曲のアダージョが聴こえてくる印象がありました。
ホテルにもどってからも、展覧会のカタログに読みふけりました。
特に「竹林図」を観ると現代日本からすっかり竹林は消滅しています。
地震国日本に竹林は不可欠でした。
なぜなら、竹林は根が複雑に張り巡らされていて、
地盤を強固にしていたといわれています。
あらためて、水墨画から「やまと絵」までを存分に
楽しむことができました。



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『資本主義からの逃走』
    「曹洞宗第一道場・吉峰寺での『薪』割り」


   


     8月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

浄法寺山
福井市内から北東には加越国境と呼ばれる山並みが見えます。
加賀(石川県)と越前(福井県)を区切っています。
冠岳・浄法寺山1053m(記憶が正しければ)・鷲ケ岳がすぐに目に入ります。
その山系の奥に奥越国境があり、白山が見えるのです。
冠岳(808m)は高校時代に最初のロッククライミングを始めた岸壁が頂上付近にあります。
浄法寺山は高校時代は5月の連休でも渓谷急斜面の残雪でスキーができました。
高校時代には、とりあえず台風が来るとなると登山にあけくれ,
中間考査をいくたびか下山できないとかでサボっていました。
この加越国境の手前に九頭竜川があります。
道元は丈競山という双子の山に登りその浄法寺山にて寺院建立案を考えました。
そして、九頭竜川を挟んだ真正面のささやかな盆地、
そこに「永平寺」を建立することを決意したと言われています。
その「永平寺」建立の間に「吉峰寺・よしみねでら」地元では「きっぽうじ」を仮住まいにします。
吉峰寺
さて、私はこの「吉峰寺」には中学時代と高校時代の夏休みに、
祖父と父の命令で私は修行させられた経験があります。
多分、今も永平寺の第一道場として、曹洞宗の禅僧エリート養成所のはずです。
何故、このお寺に預けられたのかはあまり言えません。
目に余る喧嘩や悪い仲間とのつきあいを窘められての教育だったのでしょう。
朝は3時に起床し、便所掃除から顔ふき、さらには食器洗いまでもう色あせた手ぬぐい一本で、
ともかく中学時代は泣きたくなるほどの生活をさせられました。
高校時代は、サボり方も覚えたのと禅僧のエリートの人たちと仲良くできました。
おそらく、ここの住職は、永平寺の管長さんクラスの偉い人だったはずです。
いっぱい話を聞かされ、書を徹底的にやらされました。
この体験が、私は「道元」に惹き付けられている最大の動機だったのでしょう。
薪割り・作務
もっともできなくて危険だったのが「薪割り」でした。
中学時代にはまったくできずに、高校時代にはそれなりにやりきっていたと思います。
「薪」というのはもちろん燃料であり、
風呂焚きと食事、そして冬の暖房のために薪割りは大変な作業でした。
なぜ、「薪割り」なのかは、今、明確にわかります。
草冠の下に「新しさ」があるのです。
新しいというのは、まさしく斧で木を割った樹木、その切れ目を表しています。
それが草冠というのは「エネルギー」であり、
燃えるから「食べる」・「洗う」・「暖をとる」ということができる素材を表しているのです。
「薪」
私は、「薪」にこそエネルギーの根幹的意味があると思うのです。
食べて生きて清潔で飢えと寒さから、
人間は明日「新しい日」を向かえる源泉・元気さを獲得できるのです。
道元が「作務」と言い放った薪割りとは、
生きるエネルギーを得る合理性は自然の樹木から「新た」にする身体的修行であり、
その「作務」は座禅と同様な生きることの意味の思索活動だったと今は納得することができます。


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