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Posts Tagged ‘確信’


5月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 11th, 2010  Posted 9:30 AM

5月11日 友引(丙辰)

自分の能力に
自信と確信を持つには、
得手とする何かが必要だと思う。

『デザインは言語道断』得手


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1月12日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     1月 12th, 2010  Posted 6:00 AM

1月12日 友引(壬戌)

「デザインを決定」するという、
デザイナーにとって
最終決断を迫られる状況が常にある。

その時、
民主主義的な自由さとか平等などを
無視したデザイン手法の方が、
理想を追求していく
デザインの効用としては
確実だと確信している。

『プラトンのオルゴール』
デザイン・対・民主主義


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『資本主義からの逃走』
  「Bit資本主義の「デザイン数理学」へ・3」


   


     1月 10th, 2010  Posted 1:00 AM

e-Management to exponent-Design Management

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Atom的な「モノづくり」がBitなモノへの、
デザインへと必ず誘導するはずという予感があります。
exponentが術語で「指数」だと前述しました。
その代表的な三つの思考算式にふれておきます。
こうした思考を「デザイン数理学」にしたいのです。
新たなイデオロギーは、Bit-Designの具体化で、
経済論から制度論から文化構築の基盤になるでしょう。
「指数」というのは、Axでのxです。
日常的には会話用語として、
「物価指数」や「株価指数」などがあります。

これらは
● ラスパレス算式
● パーシェ算式
● フィッシャーの理想算式、までが生まれました。
こうしたことは、必ず「デザイン数理学」にします。
だから次世代のデザイン教育は、
こうしたことを理解できる資質が絶対に必要だ、
と、確信しているのです。
でも、安心してほしいのは「数学が得意」であるべき
なんてことを私は全く意図していません。
中学・高校の数学ではありません。
あれらは数学ではなくて数学的なパズルです。
数学的な思考を教え・学ぶという環境こそ本当は、
「デザイナー資質を育成する」場であるべきです。
実際には、ラスパレスが算式を考えていた同時代に、
マルクスは、見向きもしなかったのではないかとさえ、私は推察しているのです。
だから、「資本論」は「批判書」としても、
欠落部分が多いのです。


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12月27日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     12月 27th, 2009  Posted 10:00 AM

12月27日 仏滅(丙午)

デザインに立ち向かっていく時、
私はその「かたち」は
常識から逸脱させたいという思いが強い。

まだ見たこともない
「かたち」であるということが
とても大切で重要なことだと確信している。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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『資本主義からの逃走』
「資本主義と民主主義の、andとorの集合論」


   


     12月 25th, 2009  Posted 10:00 AM

「政権交代」で静かな革命を進行してほしいものです。
ところが、相変わらずの「喧噪さ」は、
決して、マスコミでもなくて政治屋集団、自らの演出、
いや、見識無き騒動芸に過ぎないでしょう。

仕分け・仕訳

「仕分け」と言って騒いでいましたが、
「仕分け」には、
●「仕分け」と「仕訳」という日本語が二つあります。
そして、TVで観劇していると、
ほとんど「仕訳」でした。
「言い訳」をともかくさせたい、それが権力の行使だと
思っておられる政治屋さんが多いのです。
そして、
政治屋さんも、言い訳に、「民主主義が失われる?!」と、
絶叫されています。美しい姿勢ではありません。
正しい日本語で、「仕分け」と「仕訳」の報告が、
政治家の役目ですが、日本語がメチャクチャだから、
権力・国際関係・社会福祉・医療制度、・・にとどまらず
さらにインフルエンザ・台風・自殺が加算されています。
こうした言葉もメチャクチャです。

だから、私が「政治用語である民主主義」を信じません。
確信できるだけの経験がこれまでありませんでした。
多数決なんて、とても私には、その仲間には入れません。
逃げ出します。逃げ出しています。

「美しいかたちの世界に」

まだ私の懊悩の中にきっと潜んでいる「美」を
現前にしたい、その一心しかありません。
その一心にたち入ってくることや「喧噪」・「騒動」には、
私から攻撃を辞しません。
そこには多数決など民主主義の根本などありません。
「政権交代」で静かな革命を進行してほしいものです。
ところが、相変わらずの「喧噪さ」は、
決して、マスコミでもなくて政治屋集団、自らの演出、
いや、見識無き騒動芸に過ぎないでしょう。

and・or

論理を飛ばして、一括的な発言をすれば、
資本主義と民主主義のandとorという集合論は、
ありえません。
政権交代には、民主主義どころか、
最近では社会主義の革命ごっこであってほしいのですが・・・
?権力構造に、民主主義は消えています。
消えることは私には願ってもないことですが、
このような消え方は完全に、
自ら、政治屋である能なし集団を自己告白しています。


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