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Posts Tagged ‘社会階級論’


『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』


   


     11月 4th, 2015  Posted 12:00 AM



「KK塾」スタートは米国から、すでに大阪大学招聘教授である
濱口秀司氏の講演と私との対談、観客からの質問により、
予定時間を大幅に超える熱気の中で行われました。
講演内容は、林信行氏が、
会場から同時間のままSNSアップをしていただきました。
この実況があったためか次回参加者の申し込みが殺到しました。
したがって、ここでは私が彼との対談や観客への回答を
記述しておきたいと思います。
私からの対談テーマというか質問は、
IoTの今後、特に人工知能の可能性でした。
私は彼のプレゼンテーション映像や彼が認知している、
特に彼は「Bias的手法での成功例」や、
阪大親友・石黒教授との合作である2体のロボット会話、
その会話に、人間が加わるだけで、
2体ロボットには、全く人工知能化はいらないことを説明。
そこで、私の持論となりつつある「人工知能無理説」、
つまり、DNAと神経がロボットに実装されない限り無理を
人工心臓デザインの実際や、エボラ出欠熱がRNA破壊など
そうした実例での人工知能の無理説、無謀論を述べました。
人間細胞を決定している遺伝子=DNAはすでに解釈されていますが、
DNAを制御しているRNAを破壊するエボラ出血熱は
ほとんど医療治療は不可能です。
これは100億人を地球環境がとても支えられないことへの
自然淘汰なのかもしれません。
濱口氏の回答は明解でした。
ともかく仕事としての問題があれば最適解を必ず出しますという姿勢。
これこそ、私がデザインを学術性と芸術性を統合出来る能力者、
こうした次世代を大阪大学大学院の私の講座、
「コンシリエンスデザイン」で育成したいテクノロジストです。
そのお手本がまさに濱口秀司氏でした。
観客からの質問は二つに集約できました。
濱口氏は「ともかく練習・訓練が必須」でありその方法論紹介でした。
そして、私にも向けられた質問は、
自分の提案が拒否された場合は?でした。
これは私がデザイナーとしての40余年間の生き様でした。
私の提案が拒否されたなら、
「拒否する人物の社会的存在そのものを総否定する」ことです。
この意見には濱口氏も賛同をしていただきました。
理由は簡単です。
私はデザインからのイノベーション定義こそ必要と考えます。
イノベーションの提唱者であった
「社会階級論」著者・シュンペンターは、
革新ではなく、コンバイネーション(独)、
「新結合」でした。
これこそ、コンシリエンスであり、
これも18世紀の造語であり、対語であったレジリエンスを
現在の大学機構、特にデザイン系大学では
この教育が無いことです。
だからこそ、
私は「KK塾」でも一般的な認知論を開講したのです。
次回からこの講演レポートを配布します。

講演実況 by林信行氏*http://togetter.com/li/893475


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『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』


   


     11月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM



大阪・京都から東京パルコ劇場に直行しました。
友人たちの革新的なことばと場踊りを観劇したのです。
松岡正剛・田中泯・石原淋・宮沢りえ、「影向」yow gowを
新たなことばとパフォーマンスとして受け止めたまま、
いよいよ、翌々日、
「KK塾」を大日本印刷のDNP五反田ビル 1Fホールにて開催。
キックオフ講師は、
国際的イノベーター・濱口秀司氏を米国から迎えました。
イノベーターというより、私にはデザインとエンジニアリングでの
企画コンサルタント=テクノロジストであり、
私が大阪大学大学院・医学系研究科に開設した
「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」の育成目標人物です。
まず、私は前座で「コンシリエンスデザイン」を紹介して、
なぜ、濱口氏からかを紹介して、彼の講演を開始しました。
私は、最近、「デザイン思考」という、
スタンフォード大学のd.schoolとIDEOの手法論から
拝借しているデザイン論が、
デザイナーだけでなく一般的なイノベーション開発手法として、
東大のi.schoolでそのコピーが用いられていること。
また、イノベーションとは、提唱者であるシュンペンター自身が、
「革新」:コンバイネーション(独)「新結合」と呼び、
すなわち、私的にはコンシリエンスであることを説明しました。
シュンペンターのイノベーション=革新が、
共同的な発想で行えるコトへの大疑問や、
1927年・「社会階級論」が、結局は彼の予知どおりに
1929年の「世界大恐慌」につながったことなどから、
わが国の3.11復興策こそ、新たなコンシリエンスデザインです。
コンシリエンスも18世紀の造語であり、なおかつ対語的なレジリエンスが
決して、デザイン系大学教育には登場しないだけに、
まずは看医工学という提示とその教育成果こそ濱口秀司氏だと紹介し、
彼は約280枚のKeynote画面とホワイトボードで、
詳細な成功実例での方法論を懸命かつ賢明に講演していただきました。
DNPホールの現代ホール性能では、私も濱口氏もMacでKeynoteプレゼ、
これはおそらく初めて、映像と音楽を運用することができました。
よって、まだまだこのホールのPA音響から
コードマネージメント、さらには照明を変えることが可能です。
丁度、大日本印刷とは、「デジタルアッサンブラージュ」を進行中。
そしてこの大ヒントは、松岡正剛氏の「影向」が与えてくれました。
「KK塾」の今年度最終の講師は松岡正剛氏です。


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「『ノンカラー企業』と名辞:ブラック企業と同等の社会悪」


   


     9月 20th, 2013  Posted 12:00 AM



派遣社員が国内の大主力企業で格段に増加しています。
彼らの存在が企業の主体実力なれど、
正社員たち自身は企業病の蔓延にも気づきません。
長時間労働、無賃残業、休日出勤、やがて過労死という企業。
このような事態の企業を「ブラック企業」と呼び出して久しく、
にも関わらず、体裁を「デザイン」で装飾しています。
一方、決して「ブラック企業」ではありませんが、
「デザイン価値本質」の置き換えで誤魔化し企業があります。
私は、このような企業を「ノンカラー企業」と呼び、
こうした企業経営者のノン美学性に呆れています。
初めてこのブログにこのことを記載しました。
このようなことを言葉にし、経営者にも真正面に向かうために、
デザイン企業としての存在は「怖がられます」。
現代、正当性が軽んじられます。反発が怖がられます。
しかし、好き – 嫌い、虚 – 真、損 – 得に、
デザインの本質はサンクションを明確化します。
サンクションとは、賞罰の価値決定です。
私はブラック企業裏側の新興宗教背景が制度観形成にこそ、
わが国企業存在の最大欠点だと確信しています。
「ノンカラー企業」のデザインは、
あくまでも装飾、加飾、粉飾の手法に汚れていますから、
商品はどう評価しようがインチキだと断定します。
デザインは正悪・賞罰のサンクションですから、
いわゆる「イノベーション」はその訳語=革新ではありません。
シュンペンターが「社会階級論」で提示したコンバイネーション、
これはその最終結論が、景気循環はある種の企業錯乱状況であり、
その状況回復は、モノの体系と新制度体系の創出となっています。
私は無論「ブラック企業」の絶滅と同時に、
「ノンカラー企業」も絶滅させる制度設計の真実美デザイン、
この絶対的必要性を訴えます。


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『資本主義からの逃走』
「イノベーションの錯乱作用」


   


     8月 15th, 2010  Posted 1:26 AM

「社会階級論」
コンピュータ、特にパソコンが登場した頃には、
「電脳」と中国風な呼び方がありました。
電子端末機やケータイ、今や、ガラケー(わが国の孤立している携帯電話)、
そして電子出版などは、イノベーションだろうか、となげかけつつ、
私は「イノベーションにあらず」と断言しています。
まずは、イノベーション=技術革新という日本の基本的な認識違いを指摘しています。
つまり、イノベーションを提示したシュンペンター・「社会階級論」1927年には、
次の裁決が予知されています。
「暫時的な経済には、
 社会主義的な管理体系の可能性が準備され、
 個人的な企業能力者の無用による
 ブルジョア階級の衰退が予想できる。
  そして、
 資本主義文明は崩壊する」

とまで予知断言されているのです。
1929年の大恐慌を、彼の予言はあまりにも見事に的中させました。
そして連綿とくすぶってきた資本主義文明の脆弱さは、
まさに現在の日本そのもののように思えるのです。
景気・価値・モノ・制度に対する「革新」が及ぼす錯乱作用の結果だと考えます。
資本主義文明は、「技術革新」の結果が電脳から電子出版へのあたかも進化だったと考えても、
この文明の結果は崩壊ということになります。
私はわが国自身がすでに崩壊していることに気づかず、
まだまだ資本主義そのものへの諦観が「逃走」と言い続けているのです。
無論、私は電脳が大好きであり、電脳による価値・制度・モノの革新は確信しています。
しかし、景気への錯乱作用はまったく資本主義至上主義者には予測不可能となっています。
ここが最大の問題であり、とりわけ、わが国はまず「政治的」な錯乱から逃走ができないのです。
私は電脳を花とすれば、道元の示唆に重なります。
愛着・棄嫌
『花(=電脳)愛着に散り、
草(=これが何かですが)棄嫌におふるのみなり』 だとさえ思っています。


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