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11月24日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     11月 24th, 2009  Posted 5:41 PM

11月24日 大安(癸酉)

時折、
私は現代の情報にかき回され、
呆然とせざるを得ないときがある。
それは痛さを忘れている
混純とした社会のなかで、
痛みとはどういうものであったのかを
思い出そうとしても思い出せないでいる
わけだ。

『デザインの極道論』いたい


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11月21日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     11月 21st, 2009  Posted 12:00 PM

11月21日 友引(庚午)

デザイナーであることの
アイデンティティ=かけがえのなさ、
というのは、
作品が社会と密接に
連動していることだ。

『デザインの極道論』したわしい


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『資本主義からの逃走』
  「デザインやアートに、民主主義は似合わないというトポロジー」


   


     11月 10th, 2009  Posted 10:09 AM

現実、デザイン、そしてアートが社会化される社会は、
民主主義が構築されている日常です。
しかし、デザイナーにしても、アーティストにしても、
その「個人性」には、主義としての民主性は皆無です。
民主主義的な決定はありえないと、私は思っています。
これは、民主主義と個人性の距離=近さへの思考です。
数理的には、「近さ」というトポロジー的観念と、
私は断言することができます。

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つまり、民主主義を位相空間的にとらえるという、
きわめて私流というか、私の特異性に起因しています。
私は、前述しました。
民主主義をずーっと疑ってきたことを告白しました。
「多数決」という基盤的な型論理でした。
民主主義には、もう一つの型論理があります。
「合意形成」です。
私はこの「合意形成」にも、自分は賛同できません。
それは、
デザインを「多数決」でとか、「合意形成」での、
決定論に持ち込むことなどは、不可能だからです。
むしろ、デザインもアートも、「独断的決定」です。
この「独断的決定」が、「民主主義」の日常との接点、
これがなぜ有効となっていくのかというのは、
「トポロジー」=位相空間的な思考解釈が必要です。
この意志決定論に異議申し立てをしたのが、
カタスロフィー理論であり、
「トポロジーを全否定」した人物の思考に遡及する、
ということになります。

民主主義が構築された社会の日常に、
独断的なデザイン・アートが、なぜ不可欠なのかを、
その理論を創出する時期が今世紀だとさえ思っています。


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