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Posts Tagged ‘科学技術’


『脱原発などありえない、範原発への期待』


   


     3月 9th, 2015  Posted 12:00 AM



福島の原電事故で本当に学ぶべきことを混乱させています。
私は原電のプルトニウム発電は即停止すべきだと考えています。
それはウラン239・ウラン240を発生させたことは学ぶべきことでした。
しかし、核分裂・核融合・核変換を学び直す必要があると思います。
原子力の陽子と中性子の核変換と原子力素材を見直すことです。
科学の力を全うに考えれば、ヘリウム3をどう扱うべきかです。
月面に存在するヘリウム3を中国政府は独占化を狙っています。
中国でまさかプルトニウム原電が70基開発などは、
とても不安どころか危険極まりありません。
反原発、これはプルトニウム原電開発には反対です。
半原発、現状の国内原電を確実な安全と安心工学でしばし利用、
それよりも、中性子衝突技術の進化をもっと科学技術化して、
核変換を行うことで、
放射能の無害化を現実化=範原発することです。
だから、脱原発というのは言語学的にも大間違いであり低能です。
私は反原発と範原発をデザインが有害化の低減を図るという
問題解決を行うべきだと考えています。
理想は、ヘリウム3をまず月面から地球に搬送する技術と、
もう一つは中性子衝突を使用済み核燃料でそのデザイン化です。
そうすれば、中性子の衝突で核分裂が起こります。
モリブデン・ヨウ素はそれぞれの半減期でテクネチウムとキセノン、
そうした核変換の技術指導をデザインしていくことで、
放射能無しのルテニウム・セシウムを人類は入手すると考えます。
そのために、マスコミ報道の安易な記事で惑わされてはダメでしょう。
もっとデザイナーとして、謙虚で賢明な発想によって、
核反応での核融合・核分裂、そして、
特に、核変換へのプロダクトデザインの造形言語化が必要だと
私は範原発を考えています。


『中国の月面着陸ロケットの思惑・範原発を!』


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『VFXのロボットが柔らかくなっているのは進化?』


   


     12月 20th, 2014  Posted 12:00 AM



この大きくて白い映画のロボットがまだ上映前だから、
映画館にディスプレーされていました。
このアニメーション映画のTV-CFを見かけながら、
私は空想力・想像力の中でも性善説真ん中に一つの安らぎを感じます。
今、映画には様々なロボットが登場してきますが、
私はようやく柔らかい表現のロボットが登場してきたと思っています。
ワイフは絶対にこの映画は観たいと言っています。
この映画のアニメーション技法はVFXが無ければ出来なかったでしょう。
VFXとは、視覚表現にコンピューター技術を運用した視覚効果技法、
さらにSFXは、撮影現場そのもの場での特殊効果でもあり、
最近はこうした映画技能者が監督にもなってきて、
その技術駆使で、空想力毎の映画ジャンルが出てきています。
私はデザイナーとして、VFXの進化とロボット工学の一体化が
あくまでも科学技術、さらにはコンピューター運用進化こそ、
次世代のデザイナー職能にも深く関与してもらいたいと思います。
なぜVFXという技術に注目しているかを明らかにすべきかと言うと、
一方には、ぬいぐるみというキャラクター玩具があり、
もう一方には、完全にハードでメカニックなロボット玩具が、
空想力さえも分断している気配を強く感じます。
映画、漫画、SF、宇宙物語への想像力には、19世紀末当たりから、
素直な未来想像力が育ってきたと思います。特に、日本人ほど、
こうした空想力は鉄腕アトム、鉄人28号、8マンによってそれこそ、
日本人の遺伝子にも組み込まれているとさえ言われています。
それは、日本から二足歩行のロボットが出来、
日本の子ども達は笑顔でロボットに対面できますが、国外では、
幼児たちは泣き出してしまうことは確かめられています。
私はやわらかいロボットは、ぬいぐるみとの融合性が、
海外から始まってしまったことに、国内技術の立ち後れを感じています。

「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』


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『SF映画が示唆していること=その真実性と想像性』


   


     12月 18th, 2014  Posted 12:00 AM



毎月必ず映画は3~4本は観ようと思っていますが困難です。
何事もリセットしたくて、いつものごとく京都で映画を観ました。
なぜ、京都?、それはワイフが京生まれ京育ちでもありますが、
車イス使用者にとって、私は京都が一番だと断言できるからです。
映画は、「インターステラー」というSF宇宙物語でした。
久しぶりの長時間映画であり、理解は相当に困難なものでした。
この映画監督や物語内容は、観ていただくか、読んでいただくこと。
滅亡していく地球から、惑星間移動の冒険を冒して、
地球環境の保全というストーリーでは、
5次元空間論が語られ、ブラックホールの新しい概念映像化、
SFで語り切るべき、場面構成や、コンピュータ運用での
新たな映画づくりはある意味では工業デザインでの想像力表現でした。
2次元の円が3次元になれば、球体となり、
どうすれば、ワープが可能になるかまでの正当な提示は、
おそらく観客自身の多次元空間やそれこそ光速度転送などの連続ゆえ
映像表現だけでは、とても難しい限りのSFでした。
余りにも宇宙空間や多次元性、光速度時間と現実時間での5次元は
もういちど、この原作を再読する必要を大きく感じました。
確かに、私が、心臓心拍の2次元から、3次元での置換から、
まず、想像であっても、2次元が3次元になれば、立体化どころか
光造形での形態化に気づいた想像力と同一でした。
しかし、この映像と物語性にはもっともっとせめて5次元空間が、
この映像表現だけでは、とても理解は不可能かもしれないでしょう。
正直、SF映画のほとんどが、地球環境の破壊は人類の存続性を
否定しています。これはとても重大な示唆だと思っています。
確かに、2030年までにこの地球環境には、
科学技術での修正と修繕が緊急に必要とされていること。
私はこのSF映画が地球滅亡からの解放を訴求してると確信しました。


「想像力の尊大さをリドリー・スコットに観る」
『SF映画に示唆される未来性の確認には「目印=sign」がある」


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「KAIST=韓国科学技術院の先生を招いて」


   


     6月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM



なんとしても風邪を治さなければ、
この想いを実現できました。
KAISTの先生お二人を招いて阪大での講演。
Prof.Kim Myung-Suk先生とはすでに20年来の友人であり、
Prof.Bae SangMin先生は、New York留学中に、
私の講演を聞いてもらったこともあるという仲です。
KAISTはおそらく、全世界的にみても、
最高級の大学・大学院であり、デザイン系でも筆頭です。
Kim先生は「環境デザインとしてのロボット」を
Bae先生は「国際貢献としての製品デザイン」、
それぞれが実現されているプロジェクトを語っていただきました。
私もKAISTで講義をしましたが、
この大学が世界からも注目されている「未来創生の発想」は、
いくつかの重要なキーワードでした。
Why・なぜデザインを、なぜ生きるのか、
Implement・必ずデザインを実現させて未来を創る、
Evolution・常に進化は「融合」=Consilienceを、
Donate=Sharingを、Passionを、と、
重大なキーワードを沢山いただきました。
しかも確実にコンセプトは製品形態に集約化されていました。
私は、3.11以後、デザインによる復興をと考え続けてきただけに、
改めて、デザインの理想主義を語る二人の教授に、
支え直してもらった気持ちでいっぱいになりました。
たとえば、家電は当然ながら、
造船もどれほど韓国は進歩させたか、
その事実を知っているだけに、韓国の勢いを体感しました。
日本も韓国もアジアの小国です。
これからはお互いの交流をさらに深めて、
世界の先導国になっていくべきだと思い直した次第です。
お二人に励まされたようで、すっかり、風邪から立ち直ったと思います。


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「資本主義からの逃走」
     「識ること、科学という訳語の原点視界」


   


     1月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

訳語「科学」の間違い
「科学」という訳語は大きな間違い。
哲学者N先生から私は学びました。
この指摘を受けられたことは私の幸運です。
したがって、デザインをあたかも支援している科学を吟味してきました。
さらに科学と技術、その認識デザインの関係に大きな誤りが最近ますます蔓延しています。
この蔓延状況に翻弄されているデザイナーへの忠告です。
「だから、あなた方のデザイン造形が美しくない」ということに至るわけです。
それは「意識」としての「識る」ことが、
ラテン語・sciusからフランス語・scienceに定着したことに関与していることです。
この原野から見直すべきでしょう。
それはScienceのことです。
scentia・良心的な知性の育成であるべき学域領域の訳語間違いに端を発しているのです。
日本語訳では、様々な「科目」=「分科している学域」、
これが「科学」となってしまったことをN先生は多くの著作で書かれています。
科学技術はもっと間違い
しかもこれが「科学技術」となれば、
原意・原点的な経緯と由来が正確に意思に反映された意識・意志にはつながりません。
もし、正確無比を目指すなら「科学」と「技術」です。
科学技術では、デザインの意思決定、すなわちデザイン意識の基盤ではありえないのです。
したがって、文明・文化の下敷きとして科学・技術をそのままデザインの背景とすれば、
デザイン表現である造形「美」の間違いが氾濫することになるわけです。
願わくば、意識=「識る意思と意志」がscienceという前に、
むしろ「芸術」からのデザイン意思が良心的な解釈だと考えてきました。
デザイン決定=造形への思索・意思が、科学あるいは技術で支援されるとするなら、
芸術・artと技術・technology/engineeringの意思を再度見渡しておくべきでしょう。
芸術原野への「意」
その視界には芸術でインクルーシブされた科学と技術、
この原野に取り囲まれている融合性へと、デザイナー意思を向かわせるべきでしょう。
あえて科学的な表現をするなら、
「学際的な統合」としてのデザイン、
デザイン造形への決定意志は「意」の原点にあるということを私は確信しています。


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