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Posts Tagged ‘空’


『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』


   


     12月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

「力」という概念は「ち」と「から=空」だと考えています。
そして「力」の概念は単純にはベクトルで一つの理解点ができます。
ベクトルには、作用点・大きさ・方向があります。
そこで、医学と工学で作用点から医学と工学の合力ができます。
この合力の大きさはストレートにすでに「医工連携」になります。
同様に、文系と理系の合力が「文理融合」というわけです。
そこで、これらそれぞれの作用点に「デザイン思考」を置いて、
あたかもそれぞれの合力は、学域を拡大力化して大きな効果、
すなわち、イノベーションとなって変革・革新をしてくれるという
そのような錯覚あるいは錯誤感を与えていることは間違いありません。
これは私自身も「力」を概念化して発展的な希望論にするときには
利用・運用可能な手法であることは間違いありません。
こうした「力」=作用点・大きさ・方向はニュートン的な合力形成です。
私はこれが明確な誤りだと断言できるわけではありません。
しかし、「力」の概念が進化していることをさらに深度を深める必要を
私自身デザイン手法であるデザイン思考そのものの
進化と深化を提唱します。
あらためて、この図示を見比べてほしいと考えています。
二つのことに気づいて欲しいのです。
医学と工学で確かに「医工連携」力が出来上がります。
これにデザインが加わるとするなら
医工連携とデザインでの方向が必要です。
さらに、文系と理系で「文理融合」が出来あがり、
これにデザインが関与した場合の論理は生まれていません。
そこからが今年4月からの私のミッションでした。
そこで、この合力にそれぞれデザインとの合力では
「何がデザイン」になっていくだろうかがテーマでした。
つまり、「デザインとは何か?」ということの要素や要因が浮かびます。
これはすでにニュートン的な力学での合力である、
それこそベクトル的な論理では無理なことが明らかになりました。
そして私のミッションである合力ベクトルでの「力」は、
ニュートン力学から量子論的な力学での、
「強い・弱い、いずれかの相互作用」と
「重力」と「電磁力」のメタファー的な力学を関与することが必要でした。
相互作用は距離感や学域の効用効果の範囲を決定します。
同様に、重力的なことは時代性の影響力であり、
電磁力は、経済と文化と歴史がフレミング的な影響力を与えると思います。


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『今のコンパクトカメラはこの三台』


   


     9月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

スマホの普及で本当に写真が多くなりました。
私はこのブログや資料には、カメラを使います。
そのため、どうしてもカメラの新商品には、
心惹かれてしまって、所有欲が出てしまいますから、
とりあえずコンパクトカメラは今のところはこの三台にしています。
無論この三台を撮っているカメラはもっと高性能なモノを使っています。
ブログのためには大急ぎで撮ることが多いために、
失敗だ、と思っても仕方なくブログアップしてしまいます。
さて、この3台にしているのは理由があります。
所詮、これらのカメラ内部回路実装はすべて日本製ですが、
ライカ(パナソニック)とハッセルブラッド(ソニー)では、
レンズ部分や、デザインでの改善を明らかに確認することができます。
こうしたコンパクトカメラは「ブログ」用として、
結局はメモ用です。
それなら、iPhoneやGoProでも十分な時代になっていると思いますが、
これまでの銀塩カメラとの大きな違いはデジタル性の使い心地です。
デジタル性での瞬間的なシャッターチャンスというのは、
光源の使い方で明確に、絞り優先あるいはシャッタースピード優先、
この使い心地はこれまでの銀塩カメラを大きく変えたと思います。
しかし、ブログ用には構えて撮影なんていうのは3~4ヶ月に一度です。
コンパクトカメラで最も確実なことは、
テキスタイルや表面質感の表現が的確になってきたことです。
そして、銀塩カメラでは作品写真撮りのために、
それこそプロのカメラマンの人たちの特に、光源と陰影、テクスチャを
最も学んできたのは、花の写真でした。
そこで、最近は何でもデジタルアッサンブラージュ表現には
もっと、自分自身が鍛えられるべきことがあると思っています。
おそらく、空、波、花、水が基本で、
その次が、テクスチャであって、そこから私の専門分野である、
モノ撮りが大事だと思っています。
私がモノ撮りでは、自分のデザインしたメガネの写真を撮り比べれば、
コンパクトカメラの性能と自分のシャッターチャンスの関係が
明確に解るのではないかとさえ思っています。


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「『ち』は知の草書体になった理由に神髄がある」


   


     9月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

私は海外では必ず日本語のことばにこだわります。
特に、「ち」です。
血・地・稚・値・置・治・千・致・智・恥・・・・、
と限り無く、言葉=漢字とその意味の多用性に大きな意味があり、
「ち」は草書体での「知」に他なりません。
人体はとち・つち・まちにあり、血が知から智にまで至ります。
こころは、から=空であり、ところは=所であり、ちから=力。
なるほど、こころ+ち=心地を形成しています。
私が、3.11の復興計画=までいProjectも、
とち+つちに重きを成し、よって、まちの居心地をデザインです。
こころ+ちからも、結局は「空」の世界であり、
天地は乾坤を無し、
それに、人間は血から知への人生を持つのでしょう。
「空」と「知」こそ、力なのかも知れません。
その力の限りに智が宿るのかもしれません。
私は、かたち・きもち・いのちを、つちととちとまちに求めます。
かたちが創り上げるのはここちになることも純粋理解可能です。
私は「かたち」を生涯の目標にしてきました。
40余年やりつづけてきて、辿り付いたら、結局、心地・良さ。
心地良さをきもちに入れて、3度、いのちの端に佇みました。
そして、かたちを身体=血は、
いのちのきもちに「知」がありました。
「芸術の知性と科学の感性」ある人物を敬愛します。
それこそ、いのち・きもち・かたちからここちを教示するのです。
したがって、まち・とち・つちに人は帰るのでしょう。
だからこそ、失われた、痛みきったつちに新たな心地を設計です。
私の「ち」は、限り無く「智」を求める「知」だと思います。


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「時代はグリーンだが、私の緑をしっかり確認!」


   


     4月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

色彩論は40余年前に美大で強力に仕込まれました。
しかし、本当に「色・色彩」を全身で感じられるようになったのは、
車倚子の身になり、ふるさと福井の自然・田畑・空の利休鼠色でした。
グリーンと言えば、まさに現代色であり、商売色になっていますから、
グリーンは、私にとって軽薄極まりない色彩です。
ところが、緑・碧・翠はまさに自然そのものと、
エメラルドや翡翠の冷感があります。
だから、
緑と金色の伝統的な日本の組み合わせはまったく身体化しています。
ふるさと福井でどれだけの緑で視力を鍛えたでしょう。
名古屋時代は、
自宅間近に隼人池周辺の四季の緑を眼底に焼き付けていました。
大阪では、大阪大学の吹田キャンパスは日本でも巨大であるばかりでなく、
様々な植物があり、その緑の季節変化は見逃すことができません。
この画像は阪大病院入り口の緑ですが、多様な緑があります。
この色覚えてほしい、とスタッフや学生に伝えることがあります。
私にとって、色彩は「色彩論」というデザインの基礎学問であるとともに、
私の眼前で、その色彩の詳細を常に気遣って見ている色です。
私の持ちものはブルー系ですが、
このブルーと緑は常に対比する一番の色かもしれません。
したがって、パソコンでの文章作成は、薄緑系に青色の文字です。
そういえば、パソコンメガネでブルー色反応が取りざたされ、
あたかもブルー低減レンズが最適とか言われていますが、
確かに、モニター再現色でのブルー色云々より大事なコトがあります。
それは「ドライアイ」を防止することが最も肝要だということです。
さて、私は8割はブルー系のネクタイですが、
緑系はたった1 本しかありません。
まったく私に緑系のネクタイやマフラーは似合いません。
これが60 年生きてきた緑と身体の関係かもしれません。
それだけに、あの利休鼠色は確実に「緑系」であると私は思っています。
私がワイフに最初にそろえたバックや小物は、
すべて緑からスタートさせました。
その理由?
それは私なりの目論見がありました。
女性にとってのバーキンでは緑系は本当に少ないのです。
そこに私の色の計算があるのです。


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「やはり、持ち物はブルーが基本」


   


     4月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

身の回りをじっくりと見渡して見ました。
そして、とりあえず、最近使っているモノを並べて、
写真を撮って見ました。
やっぱり、ほとんどというか全てがブルーの色のモノばかりでした。
基本は時計と筆記具、そしてネームカードと名刺入れです。
筆記具は、
ワイフから誕生祝いに私が最も評価しているビスコンティのモノでした。
これを選ぶとは、私のコレクションで覚えたのでしょう。
とても欲しかったモノであり、国内入手は難しいと思っていました。
それで、
その万年筆に合っているモノはクロスで見つけたボールペンでした。
ボールペンはデザインのスケッチでは必需品です。
したがって、鞄もブルーのモノを選んでいます。
コレも最近なかなかのデザインです。
さて、ブルーという色は、
海と空の色に別れています。
もっと詳細に言えば、水と水以外の自然の色です。
一般的に「ブルー」と言われる元来の自然からの色彩論は、
すべてをリタイアしたら、書き残そうというのが私の夢のプランです。
時計は、おそらく全てが高級品だと思います。
自分でも「時計のデザイン」をして商品化もしていますが、
かつて、名古屋のマンションで仕事が終わると、
記念に収集をかねて持っていたすべての時計が奪われました。
正直、2年ほど立ち直れないほど落ち込みました。
しかも、その時盗まれた時計は全てがブランド品でした。
いわゆる「デザイナーモノ」は全く泥棒には無価値でした。
そのとき、デザイナーモノの一般的な価値感不足を見せつけられました。
それから、特に「スイス製」は徹底的に工房や職人技を知った気がします。
したがって、時計に関してはどれほど高級ブランドであっても、
市場価値の流れが分かるようになりました。自信を持って本が書けます。
私は、モノに拘らないというデザイナーが制作しているモノは、
きっと残らないモノと判断しています。
それは、私がデザイナーで出発したときに、
上司から、「高級品をしばらく勉強」と言われて、
銀座のある高級品ブランド店で学んだことがあります。
これは私の逸話にもなるので、また、書き残したいと思っています。
ともかく、大学を退官してからどういうわけか、
毎日、論文作成が大きな一つの仕事になっています。
と同時に、
これまで会員となっていた幾つかの学会を退会もしています。
ブルーを身につけることで、
あらためて「大学人の自分」と向き合っている気がしています。


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「日本が貧乏になっていく、と思うのは・・・」


   


     8月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

私の移動、その大半は飛行機です。
そして、プレミアムシートでは軽食が出ます。
その軽食の種類、量、
パッケージが段々とコストダウンをしていくのを見ると、
「貧乏になっていくなー」と感じます。
敗戦後、日本は「豊かな国、国民になろう」と考えました。
結果は、貧乏だというのはお金が無いこと。
お金があれば「豊かになれる」と思ったのが、気がつくと、
それは「豊かさ」とは全く違うことがやっと分かったのでしょう。
最近は、格安航空券ブームです。
したがって、この軽食の質も格段にコストダウンをしています。
シャンパンがまずブランド品から格下げになり
スパークルワインになりました。
最も明解なのは、ファーストクラスの食事など、
「これが?」というほどになっています。
無論、それは一部のことだと言えますが、
「貧しい」ことの解釈が「豊かさの勘違い」を引きずったままだからです。
航空機会社ではファーストクラスを廃絶したところもでてきました。
世界的な傾向でしょうし、
それがスタンダードになっていくのだと思います。
私には未体験ですが、客船でも1等客室も2、3等客室でも、
食事は平等になりつつあり
それなら3等客室で十分という話を聞いたことがあります。
つまり、「貧乏」というのは、
「贅沢」との格差、その感じ方だと思います。
「贅沢さ」=「豊かさ」ではありません。
「貧乏」=お金が無いことではありません。
今、私たちに問われているのは、可処分所得の高低が貧乏さを決定したり、
贅沢・豊かさ・貧しさ、ということへの、
自分自身がどのレベルで「心」を満腹に出来るかということです。
ちなみに、「心」とは武士道では「腹」にあり、
よって、「切腹」とは、
腹の清らかさを確認する自死行為だったということです。
だから「腹づもり=心構え」こそ、
貧乏も贅沢も切り捨てた美学だと思っています。


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「ブルー青色へのヒューマン・ファクター問題」


   


     8月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

最近は空を見上げることが増えました。
今年はまだ海の青色を見ていません。
青は私の持ち物の基本色にしています。
だから、大好きな色です。
ただし、デザイナーは好きな色は持たないことは鉄則です。
色全てが大好きでなければいけないということを私は美大で学びました。
私も「色彩論」では、学生には「全ての色を好きになること、
色に対する依怙贔屓はしないこと」を教えてきました。
青色は、空と海と鉱石や貴石に存在しています。
写真は銀座の夏空に、工事クレーンが一つの風景を成していました。
とても清々しくて、被災地にもこの青色が広がっているけれど、
被災地の皆さんは希望を持たれているのかと想像しました。
さて、可視光線・青は450~495nmの波長があります。
パソコンが普及して20年目に一つの結果が出てきたようです。
450~495nmの青に対する眼球反応が
とうとう生理的な劣化が始まってきているという指摘があります。
これは、かつて私がプラズマTVからの近赤外線が
子ども達の視覚に危険で相当の懸念ありかもしれないと発言し、
メチャクチャに叩かれました。
今もその時の叩かれ文が残っています。
が、結局、プラズマ表示画素は市場存在価値を失いました。
最も、トリノの冬オリンピックでのプラズマTV販売は
欧州からは拒絶されていたことは知られていません。
プラズマ技術が私の予想通りに、
対人間への弊害が明確になっていたからでした。
そこで、最近は、パソコン画面用の眼鏡は、
「青色対策」として喧伝されて商品化されています。
しかし、私は、現在喧伝されている商品が
「青色対策」を確実に具現化しているとは評価していません。
解決をつけるべき問題提起と問題解決には、
単なる商業主義的な能書きしかないと断言しておきます。
私は、パソコン画面なら、まずは「ドライアイ対策」そして、
「青色反応劣化の原因が、なるほどパソコン画面なのだろうか」、
450~495のどこをフィルタリングしているのか疑問だらけです。
まだ疑問点や安価な製品での限界がありすぎます。
もっと懸念すべきはWiFi電磁空間が人体に及ぼしている結果が、
やはり20~50年後に明らかになるかもしれないことの方が心配です。


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「環境の中心と周縁・距離感の再認識」


   


     5月 26th, 2011  Posted 12:00 AM

環境という言葉。
私世代が知るのは1970年代です。
私の記憶では「ローマ会議」の頃・・・
そして最も重大になってきたのは、
「環境ホルモン」という存在への大衆的な恐怖感。
当時、ビスフェノールのことでは、
「ポリカーボネイト」素材でそれなりの思い出があります。
今や、すっかり「ポリカ」は廃棄・回収などの
社会的で制度的なことが整備しました。
それでもWHOでは「懸念される素材指定」となっています。
さて、環境は今では最重要な世界観のキーワードです。
環境というのは言葉からも、
取り囲まれた空間イメージがあります。
環=円環と境=境界ですから、
その円環の中心と周縁というイメージが必要でしょう。
ということは、環境の中心がまず問われるでしょう。
それはその中心地・中心領域であり、その機能性です。
そして、その中心=核心を取り囲んでいる環=周縁です。
フクシマ原発を中心として円弧が描かれ、
その円弧半径を距離性と見なして、
避難地域が指定されています。
しかし、その中心での出来事が把握できていません。
中心を推測しイメージしているのでは、
結局、その場は「空」になっているに等しいわけです。
そして円弧で指定されている「場」が周縁になります。
確実に中心=空の機能は殺人装置になっているわけです。
しかし、それはイメージでしかありませんが、
その機能能力は確実に被曝させる力を持っています。
フクシマ原発の環境は、そのまま現在の日本列島です。
けれども周縁である「場」での対策は見えていません。
これは、日本システムの中心がいつでも空であり、
中心機能が周縁に及ぼす影響度もイメージ認識です。
私はあらためて、中心+周縁=環境の距離空間を、
再設定すべきだという結論に至っています。
それは「プロクセミクス」の再認識です。

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「資本主義からの逃走」
      「自分の中の『多数決』」


   


     1月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

決定に論無し
私の決定。意志決定。
それには決定論も決定論理もありません。
自分に問いかけてきたのは、
どうしてこの「造形」=デザインに決めたのだろう。
私の意志決定は、デザインの決定に繋がっています。
しかし、決定論、あるいは決定論理を常に求めてきました。
その決定、造形決定、デザイン決定には、
自分の中には「論」も「論理」も正直ありません。
というより、無もしくは空です。
ちょっと日本人らしく言ってみるだけのことですが、
それでも、「論理」を常に求め続けてきたと考えています。
もし、論理的な思考があったとするなら、
それは、「最大公約数」と「最小公倍数」の素数での計算方法でした。
方法論、もしくは手法論はあったかもしれません。
そして、私のデザイン造形で評価されたモノは、
公約数的な素数ではなくて、公倍数の素数の中の「公約数にはありえなかった素数」です。
それは、少なからず、私の中に潜んでいたデザイン要素ですから、
多分自分の中にしか無かったものだと確信しています。
これが私の決定手法であり、もし論理だとするなら、
多数決には決して至らないものではないかと推測しています。
よって、私の決定には決して「多数決」という意志は皆無だと考えています。
この思考ゆえ、私には「多数決」の論も論理もありえないということになります。


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『資本主義からの逃走』
    「2010年・行学は『かたち』創出をめざす」


   


     12月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

空なる「かたち」を
ボールペンスケッチの一年。
私のスケッチはまずラインに込めます。
思考の集約と収束が描くのは「空」です。
いつも「ことば」にこだわりながらも、
「空」のラインが立体化していくと私の「かたち」になります。
「ことば」思考もすべてを「空」なるまで自分を追い込み、
思考の集約も収束もボールペンBとモレスキンJapanese+iPadに走らせます。
ただ、iPadでのスケッチはまだまだ私の表現力不足です。
私のスタッフたちにはマーカーを捨てさせて、スケッチパッドでレンダリングを、
しかし3Dレンダリングよりも、ソフトモデル=ペーパー実寸モデルづくり、
光造形でのラピッドプロトタイピングをマスターさせています。
次世代、次・次世代デザイナーへの行学のススメです。
ところでこの一年、私が感激し感動するデザイン造形=かたちは創出されなかったと思います。
そして、確かに韓国はじめアジア諸国のデザイン表現力は格段と進歩してきました。
ガラパゴスと呼ばれるわが国の産業界ですが、
私は、真のデザイン力はまだまだわが国に潜んでいると思っています。
悲しいかな、「かたち」を創出できるデザイナーは激減しています。
理由は二つでしょう。
デザイナーの創造力を見抜けない経営者、センス無き経営者ばかりになりました。
いわゆる政財界にリーダーがいないことです。
そして、デザインへ、デザイナーへ、先行投資をという大きな器ある人物も激減していることです。
となれば、あらためて日本の技術と日本のデザイン、
このアライアンス基盤をもう一度リストラクチュアリングすることでしょう。
「空」なる「かたち」という日本文化を表現できる次世代を育成すること、
これが私の世代、私の役割だということを思い知らされた一年でした。
だから、私は私の「空」からの「かたち」をボールペンでともかく描き、
来春には、その「製品」そして「商品」を準備することはできたと思っています。


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