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Posts Tagged ‘経済学’


『資本主義からの逃走』
 「日本の哀しみ、松柏後凋の心を語り継ぐ」


   


     9月 29th, 2009  Posted 9:36 AM

私は、米国内でも「資本主義の失敗論」が
最近は語られ始めていることに、多少、期待感があります。
しかし、それらは大きな間違いの論評が多いと感じています。
彼らは結局2008年に資本主義が失敗し失速状況に入っている.
と考えているのが余りにも多いことです。

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米国は、二大政党の入れ替わりによって、
自国の利得主義を第一義にし、
世界の先導国家意識に浸りきっています。
けれども私は、
日本人ゆえの、三つの争点を上げておかなければならないでしょう。

●「情報化時代の到来によるポスト工業下意識主義の終焉」は、
まず、西ドイツで予測(=意識社会化)されていたという事実を、
米国が主導したという勘違いがありました。
そのことは東西ドイツによって
「ベルリンの壁の崩壊」(*Wikipedia)=「社会主義の終了」になっていったのです。
実際的にもこの時点で、資本主義も終焉していたのです。
そのことに気づくことない金融工学という幻想学識の拡大と実践に、
資本主義のさらなる進歩というこれは妄想に米国は取り憑かれていきました。

●次に、共和党の「保守性」は、これも米国主導での中近東対策でした。
それは、天然ガスの剥奪戦=テロとの戦いとしていく9.11事件で、
さらに彼らは、その「保守性」の強固な保全、口実の明白さづくりに入っていきました。
その反省があったにもかかわらず、
今度は民主党の「保守の保全」がいかにも「革新」と言わんばかりに
アフガンのベトナム化再来に向かっています。

●そして、疑似資本主義である「市場経済主義」という社会主義を
中国全国民に隠避している中国の台頭は、
米国の予想以上であったのではないかと私は推測しています。

はてさて、この三つの誤認識を真正面から米国に指摘できなかった日本は、
アジアでの存在感を失って取り残されているという次第です。
「誰か知らん、松柏後凋の心を」と私はもう一度、
書き改める役割を感じています。
この役割は、橋本左内の辞世の句を持ち出すことです。
しかも、この重圧を生涯持ち続けなければならなかった福沢諭吉の存在です。
その代表的著作「文明論之概略」に集約し、
そこで語り残せなかったことにまで遡及しなければなりません。

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『資本主義から逃走せよ!』
 「民主主義はすでに終わった!」、と思う・2


   


     9月 24th, 2009  Posted 8:26 PM

「民主主義」は
理想的なイデオロギーであったのでしょうか?
私は、二つのとても怖い文字から、
「民主主義」をとらえ直しています。

「民」と「幸」という漢字です。
「民」とは、目に針を突き刺して盲目にした人々という原意があります。
これが意味するのは、
支配層が、大衆あるいは民衆という被支配層には、
「何も見せない、知らせない」ということだったわけです。
「市民」という言葉は、この情報遮断をしながら、
あたかも、「何もしらないあなた方」が主役=民主という制度こそ、
政治形式の理想としてきたことです。
わが国が、侍時代=ある種の軍事政治支配制度から
明治維新を成し遂げました。
それは、民衆の「平等と自由」=そのような幻想は人間社会にはありえないことを、
西欧列国との同列化によって
独立性を内外に広報する手段にすぎなかったのです。
決して、「民主主義」への確信も確約も「国民=市民」にはしていません。
日本国家の伝統性に根ざしていたものではなかったはずでした。

「入欧脱亜」を掲げることで、
わが国は、当時の政治家や学識者の知恵では独自に制御することができなかったのです。
そうして、二度の世界大戦に入らざるをえなかったわけです。
結局、敗戦・敗北は、いわゆる「戦後民主主義」として、
なんでもかんでも「民主主義」という言葉で、片付けてしまいます。
「民主主義」と言えば、
すべてが「思考停止してしまったわが国」が取り残されていることに
もう、気づく時期になっているのではないでしょうか。

もう一つの文字「幸」は、
人間の「しあわせ」は「不自由さ」にあるという意味を持っています。
「幸」は両手を縛られた象形文字です。
両手を縛られているというのは「不自由」であることを指示しています。
そして、「幸不幸」という名辞が中国の古典に登場します。

koufuku

もし、断崖に立たされていて、
後から突き落とされても、
「生きていれば幸と言い、万一、死すれば、不幸と言う」
という解説が残っています。
つまり、人間は、生まれながらにして、
「幸」の文字が表すように、「不自由な存在」であるということです。
東洋の思想の原型あるいは原点には、
自由な存在としての人間観は無かったのです。
けれども、民主主義を支えた思想の基盤には、
キリスト教の教条が配置されています。
「自由・平等・愛」という人間の理想です。
しかし、「自由」は「拘束」によって制御され、
「平等」は「差別」によって人間社会を階層化し、
「愛」は「暴力」を引き込む人間の野性を呼び起こしてきました。
この総体的な攻撃性こそ、
「戦争」という歴史制度を繰り返しているということになります。

私が参考までに読破した関連図書です。
この四冊が入門編でしょう。
そして、こうした書籍が完全一致しているのは、
「民主主義のあやしさと、この言葉で呪縛され思考停止に陥ってる」
という現状のわが国です。

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『資本主義から逃走せよ!』
 「民主主義はすでに終わった!」、と思う・1


   


     9月 20th, 2009  Posted 12:01 PM

「政権が変わりました」。

時代が変貌していく気配を感じ取ること、
これを「景気」と言います。
私たちは「不景気感」から解放されるのでしょうか。
私は、「政権交代」がそれを成し遂げてほしいと一応は望んでいます。
ただ、日本人は、郵政選挙や今回の政権交代という大きなうねりに
即効、反応する「揺れ方」こそ、日本人の大きな欠点であり、
良い方向の選択であったなら、長所だったのかも知れません。

「不景気=depression」です。
「depression=鬱病」を意味します。
医学術語であることから、不景気というのは、
人間感情がそのまま社会的な生理に病変的要因が
覆い被さっていることは明らかです。

しかし、「政治」や「経済」という領域がそれを癒し治し、
社会生理の健全さ、その獲得を成し遂げることなどは、
もうわが国には失なわれてしまっているのではないかと考えています。

それには大きな理由が三つあります。

● まず、「政治」という手法・手段は、まったく時代との連鎖、
つまり、科学・技術芸術などの高密度な進歩とは隔絶していました。
あらゆる領域との学際化や、
横断的な相関性も図ることなくその職能を進化させてこなかったことです。

● 次ぎに、「資本主義が終焉」しているにも関わらず、
「資本主義の次の経済=経世済民哲学と世界変革」を
誰も学識者が構築しようとしていません。その勇気が無いのです。
特に政治学者、経済学者にこの気概と能力の欠如を見ます。

● 最後が、わが国の「自虐史観」を捨て去って、
わが国の伝統的な文化的倫理意識から
「民主主義を疑う」という世界観を持つという覚悟を
謀議的に廃絶してきたことです。

私の立ち位置は、ここにあります。

したがって、ここでの「資本主義からの逃走」は辞めます。
「資本主義と民主主義への決別」に変えていくことにします。
そして、何よりも私は、強く自身の下意識主義には、
日本史観の連続した問題意識を強く残しています。
それは、「安政の大獄」から、「明治維新」、
「日清・日露」、さらには二度の世界大戦、敗戦、
現行憲法を「独立国家として」書き改めない限り、
今日の「連綿連鎖した景気史」を政治や経済には任せられない、
というデザイナーとしての責務を感じているからです。

「たかがデザイン」ではありえません。
「されどデザイナー」ゆえに、
「かたち」に性能と効能と機能が生み出す「」に、
「景気観」を仕組むことができる唯一の職能家だから、
その役割を果たそうと思っているのです。


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『資本主義から逃走せよ』
 「かわいい・カワイイ」はデザインにあらず!
  大誤解の産業活性施策はかわいくない!


   


     8月 21st, 2009  Posted 10:42 AM

「米国ツアー・その2]

米国ツアーの報告はこのブログで、と考えていたのですが、
帰国後もスケジュールがいっぱいでした。
特に、大学での講義や、学位指導。
大阪大学大学院からようやく工学博士を一人輩出。

さらには、デザイン界での役割を努めました。
これは「グッドデザイン賞審議委員会」にて、検討委員会を新設しました。
>グッドデザイン賞審議委員会、「あり方についての検討委員会」を発足

これは、いつか、なぜ、新設しなければならなかったのかを
記述しておく必要があると考えています。
デザインコンペなどの審査が連続していました。
こうしたことの連続の日々でした。
やっと、本当に久しぶりにこのブログに向かい合う時間がとれました。

米国ツアーでの様々な経験の中で、
私が常に意識していたのは、三つありました。

まず、最初に、「デザイン」はいまだに、
「芸術家きどりの話」にすぎないという印象があったことでした。
私自身、美術大学出身ですが、油絵なんぞは描いたことすらありません。
彫刻は彫塑といって、工業デザインの基礎造形として学んだ程度です。
それでも、西洋美術史と日本美術史はメチャクチャ大好きです。
ただし、これは大学を卒業してからのことで、
大学時代には、本当にすごい教授たちに教えられていたのに
気がつかないという有様でした。

私は、「デザイン」はすでに、科学であり、技術であり、
さらに芸術の進化形だと信じていることです。
すなわち、「デザインこそ学際性が実務となっている」、のです。
さらに「デザイナー」というプロフェッショナル性への
大誤解がまだまだ蔓延しています。

これは常に私が主張している
「デコレーション」=「デザイン」と思われていることです。
確かに、デザインにはデコレーション的な要素の表現性が必要な場合もあります。
が、決して必要条件でも十分条件でもありません。
「デザイン実務」は、デザイナーと自称する人の本当の能力評価ができます。

だから、「デザイン実務」には、
むしろ、「簡潔性」・「清潔性」・「倫理性」は必要十分条件です。
たとえば、今やNHKですら、「かわいい」という言葉、
ひょっとすれば、コンセプトともおぼしき言葉を流行現象として、
すでに「世界語」だと放送しています。

もっと、日本語として重要な文化的な言葉、その深度を放送してほしいと思います。
ところで、明らかにこの「かわいい」ということば、
その周囲には「デコレーション」が取り囲んでいます。
しかし、この「カワイイ」は、フランスのファッション現場では、見事に拒絶されています。
「カワイイ」を世界語として、経済社会へ進出の手がかりにしようというのは
とても、浅はかで、日本本来の伝統文化への反逆だとさえ私は指摘しておきます。

私は、米国ツアーでNew Yorkに滞在しましたが、
まったく講演準備に追いまくられていて、出かけたのはApple Storeでした。
ここで、幼児と思われる子供たちほとんどが熱中していたのは、
『WALL-E』でした。

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すでにブームも過ぎ去っているとは思うのですが、子供たちの熱中ぶりに感心しました。
結局、私が買い求めたゲームソフトは、『WALL-E』でした。
そして、帰国後、
今や私の傍らにはこの『WALL-E』の最も低価格の玩具が、声を上げて踊っています。
ロボット玩具=今、ロボットと称しているモノ、
そのほとんどが「玩具」以上のモノではありません。
さらに、ワシントンの米国日本大使館のみなさんから、
帰国間際にプレゼントされたのは、「クレヨンしんちゃん・グッズ」でした。


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『資本主義から逃走せよ』
 「資本論から逃走」することは、
 「新たな経済と文化へのデザイン闘争なのだ」


   


     6月 29th, 2009  Posted 11:59 AM

「米国ツアー・その1]

私は、この6月に2週間、
公務にて米国の三つの都市で講義と講演をしてきました。
在米シカゴ総領事館の企画でした。
それは本当にデザイナーとして嬉しい企画でした。
シカゴ、ニューヨーク、そしてワシントンにて、
「JAPANISE DESIGNS・DESIGNS made in Japan」というタイトルで、
その哲学とデザイン実例を紹介することができました。

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この米国ツアーでさらに私には、
「資本主義の終焉」を本当に確認する毎日になりました。
まず、在米総領事館・米国大使館・国際交流基金が、
「デザイン」を日本の産業と文化を看板にして
「日本を知らしめよう」という想いを実現していただいたことです。

実は、もう20数年間、とても悔しい思いがありました。
それは、海外のデザイナーたちが、来日してくると、
彼らは在日の大使館領事館の参事官クラスが必ずアテンドしているのです。
そして、彼らを日本の大企業に強力な売り込みをします。
親友のデザイナーだったりすると、
食事をする約束も、参事官は無効にされたことがありました。
また、とんでもないデザイン対価で、
とんでもなく評価できないデザインを押し売りしたデザイナーもよく知っていますし、
私のアイディアをアレンジというか盗作したデザイナーもいました。

しかし、日本では決して、
デザイナーが外務省との関係は無かったのではないかと思います。
そういう意味では、
今回、シカゴ領事館の総領事・久枝氏には限りない感謝があります。
確かに私は昨年の大統領選挙で、
副大統領候補だったアラスカ州知事・サラペイリンのメガネが
私のデザインだったことから、世界的な話題になりました。
ところが、久枝氏は、サラペイリンのメガネは、ひとつのきっかけになるだろうけれども、
それだけではなく、私の活動や著作から、
「貿易立国であるための必須条件であるデザイン・デザイナーの存在」を、
「日本のイメージ戦略」にしようと発案していただいたことです。

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『資本主義から逃走せよ!』
  金融工学の始祖はマルクスだった_16 
  「カード」という「メディア・インテグレーション」


   


     6月 3rd, 2009  Posted 7:30 PM

「貨幣」の速度性が、まったく、経済の論理と、
経済社会での都・対・鄙の構図を変貌させてしまったことを指摘しました。
貨幣=コインで具体例を述べました。

次に、「カード」というメディアが、
経済構造に食い込んできたことにも注目しておきましょう。
「カード」といえば、おおよそ、3種類ほどあります。

 
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これは、貨幣そのものと考えていいでしょう。
しかも、このクレジットカードには、
「貨幣速度論」に照らし合わせると、
商品やサービスへの対価支払いが、分割されたり、後払い、
すなわち支払いを延長させるという速度調整ができることです。
これは、「貨幣」機能があるということです。
クレジットカードは、「貨幣機能」の代替機能があるということに
注視しておいてください。

02_point
購入した利点を、サービス対価として、還元させたり、
購入支払いに対するなんらかの権限を拡大したり制御する効能があるということです。
これは、機能ではありません。
効能です。
つまり、効能というのは、「薬・薬剤」などの効果のことです。
ここでは、機能と効能の違い、その差異についてはふれません。
考えていただくことをお願いします。

03_id
文字通り、身分証明書の形式が、カードになっています。
自分が社会的にどのような立場であるか、
社員証や学生証、そして趣味趣向での会員証から、
経済に関与するサービスの性能性があるということです。

私は、すでに日常化している「カード」という形式には、
「機能性・効能性・性能性」が、
それぞれのカードに付与・付帯しているということを整理しておきます。
なぜなら、これは、「貨幣経済」が「情報管理」によって、
「メディア=形式」での、経済内容が
変質し、変貌し、変容していることをあらためて指示しています。

端的に言えば、「資本主義」でのマクロ経済もミクロ経済も、
「カード」という形式、その機能・効能・性能が
深く関与してきてしまっている、ということこそ、
「資本主義を終焉」に追い込んでいる
「メディア・インテグレーション」の事例だと考えているからです。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_15 


   


     5月 12th, 2009  Posted 9:15 AM

子供の頃から「収集癖」があります。
それは「一人っ子」だったからかもしれません。
さらに、「欲しくなるモノ」は他人が持っていたり、
流行するモノはまったく欲しくありませんでした。

今、こうした「収集癖」をあからさまにしているブログがあります。
1949coin2

さて、「貨幣とスピード」の話をしたいと思います。
イメージしてください。

「東京の地下鉄で切符を500円硬貨で買いました」。
「人口が1500人の山里に一軒だけある
スーパーマーケットで500円硬貨を使いました」。

それぞれの500円硬貨は、どんな旅をすることになるでしょう。
東京の切符自販機の硬貨は、すぐに、取り出されて、
めまぐるしく、人から人へと渡っていくのです。
つまり、その500円硬貨が「使われる度に」
その価値は、500円×使用価値度数となります。

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ところが一方、田舎=鄙のスーパーマーケットの
レジスターに入っている500円硬貨は、
ひょっとすると1週間、あるいは1ヶ月後に、
銀行員によって集金されるかもしれません。

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人から人へと次々に何度も使われることは、
東京=都会=「都」の500円硬貨の役割だったのに、
田舎=「鄙」の500円硬貨とはまったく異なる価値になっているわけです。

私が指摘しておきたいのは、「貨幣論」で言うところの
「貨幣=硬貨価値」は、それがどこに存在しているか、ということによって、
その「スピード価値」が付帯しているということです。

この「スピード」すなわち「貨幣使用速度」が経済学的に方程式になって、
「場と使用速度」の関係までは
まったく無視されていると言っても過言ではないでしょう。

現在、地方都市の商店街が、「シャッター街」=すでに、
日常的な商売から撤退している街の500円硬貨と、
大都会で何度も何度も人から人へ使い回される硬貨=貨幣価値は、
まったく、「貨幣価値」が変容していることを理解しておくべきことでです。

そして、「経済学」での
「貨幣使用度数×使用速度」式を私は知りたいと思っているわけです。
私は、自分の生年1949年の銀貨に限って集めています。

1949coin

そして、こう思うのです。
このコインは60年、どんな旅をして、
今、私の収集品として、銀貨はピカピカに磨いて、
「ごくろうさん」とコインに語りかけるのです。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_13


   


     4月 13th, 2009  Posted 11:00 AM

なんだかここまでマルクスの事を記述してくると、
私はまるでマルクス全否定論者のようになっている、
と感じている人もいると思います。

しかし、そうではありません。
思想として、「資本論」を受け入れるわけにはいかないだけです。

そして、マルクスについては、
生涯かかっても読み切れるはずもないほどの著作が氾濫していますが、
大きな間違いにはうんざりします。
たとえば、マルクスは数学が大の苦手だった、
というのは間違いでしょう。
苦手なら、「数学ノート」を作ってまで、
それをエンゲルスに説明用とまではしなかったはずです。

確かに、「資本論?」では、
数学的な記号での、特に「貨幣論」が展開されますが、
さほど高度な数学的な論理にはなっていないことは確実です。
もっとも、「資本論?」からはエンゲルスが書き残したと言われています。

いわゆる「経済学」の大きな根幹、要素には
「貨幣」の意味、「貨幣」の運用、「貨幣」のサイクル性が取り上げられます。

ところが、マルクスの時代には想像外、想定外のことが
世界の「金融要因」が発生してくることです。
想定外は、三つあると私は思ってきました。
さらに、「要因としての金融」と「金融とサービス」が
これからはさらに変貌することが想像可能です。

ともかく、その三つをあげておきます。

 ■ 「クレジット」信用を「カード」化
   これは「クレジットカード」というプラスチックマネーの登場です。
 
 ■ 「貨幣」は要素ではなくて
   「要因としてのスピード」はまったく想定外だったこと。
 
 ■ 「金融サイクル」は計算ではなくて、
   「金融演算」、すなわち、コンピューター上でのサイクル性は、
    即、「景気」連動につながった。

私はこの三つは、マルクスの「資本論」の想定外だった。
しかし、金融工学の根底には
やはり「資本論」がその基盤を構造化していたことは認めているのです。

この4月に、ある金融機関・銀行の「入行式」で記念講演をしました。
これから、金融業界・銀行人になる人たちに
「時代とともに働く意味」という話をしました。
この講演の根底では、確かに、私の金融への想いには、
マルクスの『資本論」があったことは確かです。
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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_12


   


     4月 3rd, 2009  Posted 12:00 AM

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「使用」は、「用途」の場合が上図でわかります。
『対象化された用途」、その形式と内容によって、
モノの価値感が分類されていることが一目瞭然です。
「使用」することの形式とは、『用途」の方法と考えます。
その「用途」の実際的な内容が付随しているということです。

使用が、まず、モノが採用されることから始まり、
「急用」として使われるのか、あるいは、「専用」となるためなのかは、
使用の内容である用途が、形式を決定する価値感になっていることです。

マルクスの「価値」分類は、
基本的にはゆるぎない二極性だったことは、
次に、そのモノが、あるいはモノは、「所有」されることによって、
形式がもう一つの内容の軸で分類されることに特色が生まれます。
使用するために「持っている」ということの、「内容」であり「形式」です。

「所有」は、「収集」するという欲望とか、
またはもう「蓄財」しておくだけとかいうだけです。

保有や保持、
それが「所有する何かを明示することに」まで及ぶことになります。
「所有」できるということが意味することと、
「所有」ということが意味されることがあるということです。
これは明らかに、マルクス以後に、「記号論」としての解釈につながっています。
単純にいえば、「保持」できるということは、
その人の購買能力を表していることです。
そして、この能力は社会的な存在や立場です。
その人の階級を顕示することを意していることになります。

別の言い方をすれば、「所有」という価値性が、
その人の社会的な階級を意味しているということです。
ここに、「使用と所有」という二つの価値観が、
さらに分別されて、意味性をMANDALA的に明示しているのです。

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明示された意味性を知るためには、
歴史という時間の経緯や手続きがありました。
この経緯や手続きこそ、
歴史を支えていた支柱あるいは基盤であったことは、歴史の重力感にすぎません。

だから私は、マルクスの思考が、
どれほど「科学的社会主義、あるいは科学的共産主義」だと言われても、
歴史の重力感でしかないから、なんら感動することはありませんでした。

高校から大学、特に大学では70年の学園闘争時代を共時していたにも関わらず、
こうした闘争こそ歴史を突き動かすと妄信している連中を、
私はむしろ冷徹に見下していました。

なぜならば、マルクスは、「価値の意味性」に言及していたというわけではありません。
むしろ、「使用」と「所有」が、人間の社会的な存在性=階級性に、
もっとも焦点をあてていた論理だったにすぎないからです。
論理であるから論理構造の明確さは認めておきますが、

「意味すること」と「意味されること」を知るようになって、
ようやく、論理・思考・思想の差異性を知っていく自分、
その自分がが確信できるコトは何なのかを自分自身に突きつけていた気がします。
この差異性、あるいは距離感覚で掴んだのは、
階級的存在となる人間の差別という問題の方に自分の興味は大きかったと思います。

階級性は、ある種の差別を生み出していて、
この差別を促進される構造が、
「資本主義」という論理というよりは、思考だったのだと私は思ってきました。
それが、「思想」なのだろうか?、ということをずーっと考えてきた気がします。


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『資本主義から逃走せよ!』
金融工学の始祖はマルクスだった_11


   


     3月 31st, 2009  Posted 10:00 AM

「四句分別」というMATRIXは、MANDALAとして、
一つの概念が単純に8つの概念で取り囲まれると私は考えるようにしています。

それは、概念を核心とする概念機能、
あるいは概念の機能性や概念感覚を把握し認識するための条件と考えているからです。

まさしく、曼荼羅に描かれた仏像の機能と言っては言い過ぎかもしれませんが、
人間の思考は「ことば」に、特に、その概念があらわす
夢・願望・期待・理想を表しているという仮説を私は持っています。
10thmandala001

そして、これを、私は「ことばとかたちの相対性」と呼んでいる思考の構造化にほかなりません。
そこで、「使用」ということをMANDALA 図に載せて分類をします。
それは、どういう「使用」というのがあるのか、
ということをともかく配置してみるとその構造=関係が見えてくるのです。

「核概念」の上部には上位概念が左右に並びます。
そして中心と左右は同等の重力を下位概念に上下にわたって及ぼしているのです。
さらに、「核」・中心に対しての対立やあるいは対位性は、
中心感覚を平衡化するバランス感になっていくものだと考えています。

まずはじめに、「使用」を中心、「各概念」に配置します。
そうすると以下の図のような、「使用」の目標や目的、そして効果が視えてきます。
10thmandala002

「使用」を取り囲んでいる8つの「ことば」に対する意味とその「感覚」は、
そのまま「使用観」という世界図象として、
私たちの感覚を世界観として成立させているのではないでしょうか。

たとえば、「使用」するというのは、
急用もしくは専用のために採用することから始まっているのだと考えてみることができます。
採用感は採用するための自分の世界観だと考えれば、
その「使用」の「価値感」=「価値観」ということで、
個人的な感覚、私だけの感覚であっても、それを一般化させることも可能になるわけです。

つまり、「使用価値」がどのように分解されて、
なおかつ統合と集約を、それぞれの概念価値として要素化、
あるいは要因化しているということになるわけです。
10thmandala003

ただし、この曼荼羅図は、あくまでも二次元での仏像の配置です。
そのアナロジーとして、MANDALA図に「ことば」その「感覚」を配置してみました。

本来は、仏像界という宇宙観は多次元空間での存在にほかなりません。

それは、「ことば」もその発信性や意味論は
宇宙観にただよっている感覚にすぎないと考えることが出来ます。
平面界での配置であることも注意をはらっておきたいと付け加えておきます。

結局、世界観は私は3次元から多次元化していることをすでに知識として認識しているからです。
それは、「価値観」あるいは「価値感覚」は
多次元化された時空間に存在しているということになります。

問題は、この多次元的な「価値」、ここでの「使用観」は、多次元的に時代が変容させたからです。
すなわち「多様化」している「使用価値」へと拡大と収束が起こっているということです。


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