kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘経済’


「建築家よ、吟味すべし仮設住宅建設を」


   


     4月 28th, 2011  Posted 12:49 AM

大震災からの復旧・復興は未だ大間違い。
復旧や復興の大前提が叶えられていません。
まだまだ「救援」と「救済」が不可欠です。
救援とは「援護」であり、
救済とはまさに「経世済民」=「経済」復活です。
救援救護の具体策は、「仮設住宅の建設」でしょう。
30000戸が必要と報道されていますが、
「仮設住宅」ではありえず、
私は「佳設住宅」であるべきだと考えてきました。
しかも、この住宅建設に確かなチェック機構があるのでしょうか。
確かに、屋根材であるガルバニウム鋼板屋根は、
プレハブリケーション工法としては、安価かつ合理性を認めます。
しかし、TV報道画面で見ている限り、
あの屋根材の基礎工事が釈然としません。
吸音素材と断熱・断水素材は省略されているはずです。
すぐに撤去させるからということも推測できます。
だとするなら建設と撤去費用を考慮すれば・・・・・?何か変。
壁面のパネル工法も半世紀前の技術そのままだとしか見えません。
住設設備も時代遅れ製品群ばかり。
市町村が仮設住宅地を設定し、
地権者の承認(これが膨大であったり)を求め、整地をし、
それからインフラである水道・電力送電を県承認受けるという、
この手続きをどうして「超法規化」できないのでしょうか。
どうして、建築職能家たちは「佳設住宅」を提案でもいいから、
発言も行動もありません。
しかも、「仮設住宅建設」事業の既得権益は、
全くチェックされていないと見ています。
ひょっとして、これからの国策的復興事業には、
復興事業に関与するすべてにわたって、
既得権益制度を「なんとか族」なる代議員たちの集金装置・・・。
私が名辞する「仮設」ではなく、
「佳設住宅」とはSmart Houseであり、
そのまま「まちづくり」を意図した企望です。
建築界の正当なまなざしを期待しています。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「社会保障としての医療制度は、資本主義では不可能」


   


     2月 11th, 2010  Posted 10:00 AM

医療というFormation
DynamicsとFormationを先行させてしまいました。
医療こそ、人間の「生老病死」への科学的対応です。
したがって、「生老病死」を経済論理では語れません。
生老病死
「生老病死」はまさに、Dynamics論理が不可欠です。
さらに、医療はFormationによって、
その解決を計れれば、「幸運」であり「幸福」です。
経済活動の格差が、
そのまま医療制度に反映されることになれば、
「生きる」という連続性は経済とはLogarithm的です。
無論、「死」は万人に平等です。
平等は、「生きる時間」が限定されていることであり、
その平等性は、Dynamicsであって、
いわゆる寿命には格差があることは明確です。
医療制度を社会保障する、というのは、経済論理が
まったく適合していません。
むしろ社会主義としての平等性を、
担保する必要があります。
それは、資本主義的な医療は「生死」すら経済性で、
決定づけてしまうということになります。
せめて、「生死」と医療を結合させる論理は、
Formationを社会構造に組み込んでいくことですが、
その論理あるいは制度設計の方法は発見不可能です。
したがって、
医療Formationを社会保障制度にするには、
それを医師・看護師・医療従事者だけに委ねることから、
決別する時になっているのです。
ましてまだ治癒不可能と言われている難病・癌などに、
「社会保障としての医療制度」は、
デザインが入り込んで、制度設計と環境設計に
「向き合う」必要性が見えています。
私は、デザインは、「命を護る・守る」ことまでは、
決して出来ないけれど、
いのちと向き合うデザイン
「いのちと向き合う」ことは出来るということを、
実践第一から制度設計へと、
向かわせることをめざしています。
Formationというのは、
本来自然の中での生物の「生死」競合性の制度です。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「貨幣感覚が地価からクレジットカード=Bitsへ、
  これが危ない!」


   


     1月 29th, 2010  Posted 1:01 AM

とち・かち・いのち

特に日本人は「土地」とち=に価値と命まで重ねます。
資本主義が利潤をなんらかの差異性や差別感覚に、
すっかりと置き換えたときから、
「伝統的な」、品格と美学性を失い始めました。
そしてそれが資本主義の自由競争だとさえ、
虚妄的に思い込みが正当化されました。
私が、デジタル社会orBits社会という制度生理に、
なんて思っていると、それはとてつもない蟻地獄です。
負債は土地価値=地価をつりあげます。
そして急転落を仕掛ける機関を政治も見逃します。
地価が暴落することは、この半世紀繰り返されました。

地価暴落は「変」!

しかし、これが「変!」ということも、
今度は時代生理になって、経験値が出てきます。
そして、債務・借金は、「見えなくて触れない」、
にもかかわらず、その正体はクレジット=Bitsです。
かつて古今東西、貸し手は借り手が返済可能な範囲で、
貸し手の利潤に論理性を品格・美学を持っていました。
それは、100円貸したら、
200円までを限界として、利息・利潤を、
時代生理と社会生理にしていました。
資本主義のスタート時には、
このルールはまったく健全だったと考えて正解です。
バブルがどうでした?
バブル崩壊がどうでした?
サブプライムはひたすらの利潤追求でしょう?
金融取引って?
自由資本主義社会に関わらず国営企業はつぶれない?
なぜ・・・・・?ですね。
こうした基本にBitsの計量経済が影響してたことは、
間違いありません。
クレジット金融は、スパイラルな蟻地獄です。
スパイラルな蟻地獄は、本来はアナログだったのに、
なぜでしょうか?
決して、
Bits社会とBits時代を信用=クレジットするなんて、
品格も美学も失います。

利潤限界と利潤限度の制度化=クレジット・リデザイン

利潤に「制度としての限度」をBitsで決定する、
それはもはや政治では不可能です。
デザインという職能だけが出来るはずです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・02」


   


     1月 20th, 2010  Posted 1:00 AM

ふるさと福井にもどらざるをえないほど、
私は体調を悪化させていました。
が、徐々に回復をし、越前打刃物へデザインを導入。
そのとき1984年にMacintosh128Kに出会います。
高校時代の親友は、福井キヤノン事務機の社長でした。
彼は、私をコンサルタントにしてくれていました。
彼の援助は、福井時代にわたって、
私の経済状況を支援し続けてくれました。
Macintosh128K
その彼のショールームで、Macintosh128Kは、
ものすごいインパクトを与えてくれたのです。
MacPaint・MacDrawはもとよりMacTerminalで、
初めてDAIALOG(ロッキード社)につながったのです。
国内メーカーのパソコンはまったく駄目でした。
当時のパソコン雑誌に米国に衛星回線でつながる、
という記事は全て嘘だったのです。
なぜなら、私はすべての雑誌社に確認をしましたが、
「おそらくつがるでしょう」、
という推定記事ばっかりだったのです。
最初の通信は、電話カプラー300bpsが、
机の上で鉛筆が転がっただけで通信不能だったのです。
福井の若手経済界は、福井にデザインの必要性をと、
福井市青年会議所の幹部メンバーから、
本格的なデザインスタジオ開設を求められました。
株式会社資本金2000万のデザインスタジオには、
Macintosh512KMacintosh XLで、
LANがつながり、
Exchange MouseとRed-riderが通信ソフトでした。
モデムも1200bpsから2400bpsで、
BBSも開設していました。
もっぱら、MacDrawで図面、Mac-FullPaintで、
ほぼ正確なレンダリングというように、
私はこれからの「デザインツール」だと確信しました。
そして、私は、EWSでのUNIXの独学を始め、
IRIS3030
本格的なEWS=IRIS3030(Silicon Graphics Inc.)が、
絶対に欲しい(1億4000万円/国内価格)と思い、
米国内の見本市・学会・まだベンチャーばかりの企業を
うろつくことに決めたのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「Bit資本主義の数式論「デザイン数理学」へ・2」


   


     1月 9th, 2010  Posted 9:00 AM

e-Management

AtomからBitへというのは、
パーソナルコンピュータが日常化した結果です。
そして、次のようなマネージメントの言葉、
その手法は戦略論になっていきました。
100109emanagement

すべてに「冠詞」=「e-」によって、
コンピューターをビジネスツール化したことです。
e-=electoronicsであり、
それはデジタル化という意味性を包含していました。

exponent

この「冠詞=e-」を私は、exponentという概念、
数理的な概念として理解していくことが正しいと
判断評価しています。
exponentは、数学術語では「指数」といいます。
そして、
数理論的には代表的には三つの思考算式があります。
私はこれらの思考をデザイン思考として援用する、
ということをめざしています。
「デザイン数理学」を、
大学人として提案するのが夢です。
それは、明らかに、Atom産業がBit産業として、
新たな経済イデオロギーへと向かうという予感が
あるからです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「デフレ・スパイラルは、極度な鬱病」


   


     1月 3rd, 2010  Posted 8:00 AM

100103

鬱病景気

21世紀になって、10年目を迎えます。
新しい世紀が「革新」だという情報操作に、
全世界が期待しました。
ところが、「宗教戦争」という名の「資源剥奪戦争」は、
金融工学という詐欺工学で世界を「鬱病景気」へと
落とし込んだのです。
その時点で、「大学」という科学と技術と思考の学府は、
世界中の大学が破綻したのです。
そのことに気づいている大学学長はほんのわずかです。
この予測は二人の人物が指摘していました。
この二人を特定すらできない大学人だらけです。

日本は、イノベーションを「技術革新」と訳したときに、
もう取り残されていたのかも知れません。
これが私なりの検証です。
イノベーションは「景気循環の起因論」でした。
だからインフレーションはその「景気循環の疾病」だと、
日本のいわゆる経済評論家は誰も指摘もしていません。
理由は簡単です。
日本で「経済」は文科系学問であり、
計量経済学もそれほど理系要素を教えられる大学の存在を
私は知りません。
「マルクス」に乗っ取られてきた大学もひょっとすれば、
敗戦とともに情報操作されていたのでしょう。
「インフレーション」はどれだけ日本の「経済学」で、
教えられ、学ばされてきたことでしょう。
けれども「デフレーション」の核心、
ましてその対策を戦略化できる経営者は、
彼らの経験的「野性」に頼るしかありえないでしょう。
「イノベーション」と「インフレーション」の構造は、
「デフレーション」へのトリガーを内在していました。
だから「デフレスパイラル」なる「不景気=鬱病」を
臨床的に治療できるのはデザインという理想主義です。

理想主義実践者=一部のデザイナー

けれどもデザインといってもデザイナーではありません。
デザイナーという職能家すべてが、
その治療ができるはずはありません。
私はそれをやるつもりです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「Serviceという経済のウロボロス化」


   


     12月 13th, 2009  Posted 1:00 PM

091213service2
091213ouroboros_b1

Serviceという言葉は、止めどなく拡大化してきました。
だから、その由来性は消尽してしまいました。
その由来性を辿ると、
それは「宗教」・「宗教性」と「経済」・「経済性」に、
「ウロボロス」という原始宗教的な、「善悪」の曖昧性を
歴史の中で消去しようというある企みが見えてきます。
その企みを主導したのは資本主義です。

断言をする時期がきています。
「サービス産業」とは宗教という労働集約性の欺瞞・悪が、
実は背後で蠢いています。
時にそれは、頭脳集約を目標化させる正当・善らしさに
変貌しています。
サービス語源の由来から判断すれば、
「サービス産業」とは新興宗教法人です。
あるいは学校法人という経済構造の制度です。

「サービス」は無財なる経済の対価制度として、
資本主義経済の中でその由来性を抹消できたのです。

● サービスが宗教音楽であったことをご存じでしょうか。
  バッハであれベートーベンであれ、
  serviceに頭を垂れて、音楽に対峙していたのです。
● サービスが軍事奉仕であったことをご存知でしょうか。
  愛国心に命を捧げることになぜ勇敢だったのでしょうか。

つまり、
人間は、人間界は「生きて」なお、
「神」それはあらゆる宗教神に、「奉仕=service」して、
「死」をむかえることになります。
私たちは、「神に頭を」垂れます。

「サービス産業」は、「頭を下げて」、
経済労働=感情労働の対価を得るのです。
日本の「サービス」という言葉は、
やはり米国からの外来語でした。
「サービス産業」は、感情労働の対価の区分を、
ようやく、わが国も制度化しました。
「サービス」、特に「情報サービス」は、
資本主義の頭で尻尾を飲み込む姿に変身し始めています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「資本主義の偽善さと善良さの対決」


   


     12月 3rd, 2009  Posted 8:00 AM

091203gizen4

経済の偽善さは「資本主義」を纏っています。
そして、見事に展開していくのです。
「ドバイ・ショック」が今度は襲いかかってきました。
日本人は、国内は「性悪説」の国家となりつつも、
国際的には「性善説」、
それを演じて生き延びるつもりなのでしょうか。
これは、見事に、「資本主義+民主主義」の
まことしやかに「敗戦」をひきずっているからです。
逃れる策略=designが不可欠です。

さて、「ドバイ」は、黄金の国家というイメージ戦略が、
成功していました。
しかし、あの国は「貿易商品の廃棄場」だったのです。
もし、あの国に貿易商品が流れついたら、
それは、もう、「廃棄品」という烙印を押されたということです。
そのことに詳しい経営者が、
なんとわが国には少ないことだったでしょうか!

サブプライム・ローンは、貧しい労働者をだましましたのです。
そこで、リーマンショック!です。
ドバイ・ショックは、富める有資産家への詐欺でであり、
彼らの動向はまったく不明ですが、
あらたな恐慌の形式と質が変容したのです。
このハリケーンがトルネードのごとく
襲いかかってきている日本では、
「デフレ・スパイラル」に善良な市民は巻き込まれています。

「偽善」と「善良」を分別するには、
「民主主義」を見直すことでしょう。
その基盤が、「資本主義」に乗っかっていることに、
もう一度、目を向けない限り、
わが国のこのささやかな資源無き領土で、
私たちは息絶えることになります。

091203funbetu1

私のまなざしはいつも、
デザイン」という理想主義で、
「偽善」と「善良」を分別することにしています。


目次を見る

11月11日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     11月 11th, 2009  Posted 12:00 PM

11月11日 先負(庚申)

経済活動のための
欲望の刺激装置としてのデザインの
時代は終わった。
そのことを、
プロであるデザイナーがまず
誘導し主導しなければならない。
もし、
経済や産業に
デザインが与するとするなら、
それは、わが国が
貿易立国として存続していく
戦略や戦術としての
デザインである。

『デザインの極道論』むなしい


目次を見る