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Posts Tagged ‘結局’


『モノ真似防止、他のデザイナー作品は暗記すべきだ』


   


     5月 29th, 2016  Posted 12:00 AM

美大生時代には徹底的に「作品の暗記」をさせられました。
海外のデザイン誌に載っている作品を覚えました。
自分のデザインが決して誰かの作品に似てはならないことを
体に叩き込まれました。
あるときテーブルのデザイン依頼があり、図面化しました。
しかし、なんともどこか喉に引っかかっている気がしてならず、
ひょっとしたら、自分の記憶にある造形をしてしまったのでは?
この思いにとらわれてしまいました。
そこで、デザイン誌を積み上げて再チェック。
ほぼソックリなテーブル造形がありました。
それを見つけ出した喜びがあり、続いて、自分にがっかりしたものです。
それでクライアントにその誌面と自分の図面を持っていって、
気づいたら真似でしたと告白して締め切りを延長してもらいました。
クライアントからは
「もっと凄い造形が期待出来る」と言われ、
結局実現はできませんでしたが、信頼された思い出があります。
ところが、最近では、亡くなってしまったデザイナーの作品が
登録されていないからとか、
すっかり忘れられているからいいだろうということで、
物真似、あるいは盗作と呼ばれる事態が起こってきています。
その評判によって、日本のデザイン界全体が非難され、
デザイナーなんて、その程度、と言われてしまう状況です。
確かに、工業意匠登録は20年ということですが、
著作権となれば、それは永久に道義的な責任が問われます。
デザイナーは、知財権での権利保有とともに、
著作権としての道義的なデザイナープロ意識を毅然と持つべきです。
どういうわけか、
国際問題になりかねない盗作に対する訴えが自分に集まります。
しかも自分のモノ真似を「不細工」と発言すれば、
自分自身がSNSで非難されるそんな時代に直面しています。

*『ジェネリックデザインは模倣=犯罪である!』
*『GRiD社キーボード位置をどう乗り越えるかだった』
*『不細工なモノは不細工である』
*『物真似を超えデザイン評価をグローバル化すること』
*『知財権は意匠権によってコンシリエンスデザインとなる』


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『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』


   


     5月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

政治思想はすぐに国際関係論という
結局は得体の知れない論理で国際間には軋轢、
そしてそれは戦争に至り、限りない悲しみは歴史汚点になります。
しかし、強靱なまさにレジリエンスな美学的な文化論は
この国際関係論以上の力を有しているのです。
かつて、朝鮮が日本に与えた多くの民衆文化は、
「民藝論」として、その言葉に強力なモノの美学性を与えていました。
柳宗悦によって唱えられた「民藝」という美学論理の核心であり革新は、
有事状況である戦時中に、この美学論理は、
朝鮮文化の象徴である「光化門」の破壊を主目的としている軍部にむけて、
それこそ「ペンは剣よりも強し」を貫いていました。
あらためて「光化門破壊を食い止めた民藝美学論」、
その中心人物であった柳宗悦の「民藝」、
その基盤を再興すべきと考えます。
それは、京都破壊を食い止めた米軍の本土攻撃否定論理と同等です。
つまり、「民藝」として、それこそ「井戸茶碗」を持ち出してきた
陶磁器の歴史は、元来は朝鮮の美学文化を剥奪した野蛮さに対して
日本は「民藝」という名辞とその論説によって御礼を返したということを
もう一度、再認識をしておくべきだと記述します。
青磁があり白磁があり、高台があり、日本の陶磁器は
「民藝」抜きで語られるべきではないということです。
それこそ、ある伝統工芸産地が400周年記念を語り宣伝する前に
「民藝」が護り抜いた「光化門」を語るべきでしょう。
その見識も知識もなく日本の伝統工芸は語られてはならないのです。
柳宗悦の「軍部への絶対抵抗」は、
妻である声楽家柳兼子女史は決して軍歌を歌わない、
という美学が、さらに後押ししていました。
柳宗悦は、恩師・柳宗理の父であり、
柳宗理は「デザインと民藝」への距離感を
確かに教え子の私たちには独学を強いていたと思い出します。
しかし、アノニマスとゲマインシャフトという連鎖を
民藝からデザインへのコンシリエンスを支えている主張は
常にデザイナーの「耳鳴り」になっています。

*『教え子で得をしたことがあります。・・・』
*『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』
*『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』
*『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』
*『いつも見かける私の作品はすでにアノニマス』


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『災害時の衣・食・住・医・職・趣その不便と不安の解決』


   


     5月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

九州大学での「レジリエンスデザインチーム」と
現場におけるこれからのデザイン活動を論議しました。
その結果は、ともかく巨大な「不便さ」を
被災者社会は受け入れざるを得なくなるということです。
熊本現地にデザインチームの「調査」は
予想していたとおり、デザインがなんで調査に関係がある?
この質問に取り囲まれたということからでした。
明確な方向を「レジリエンス」=ストレス・プレッシャーに
克っていく個人とその社会づくりは、
「衣・食・住」にまず、天災は不測の事態が突然襲いかかり、
衣料も食・水、さらに住まいが不足することです。
これはもう一つの「医・職・趣」に関わります。
不潔さは感染症を引き起こし、医療が必要です。
職業は当然、休業になります。それこそ、不利が
その集団を取り囲むのです。
ところが、たとえば救難所では編み棒が欲しいとか、
何をして、災害避難所で編物や刺繍とかが求められるのです。
そうした不備さや、自宅への盗難などの不穏さが、
結局、不平と不満が個人毎のストレスやプレッシャーになります。
不信感と不真面目さを被災者は気持ちにため込んでいくのです。
しかしこれらは自律的な解消を個人個人が自克しなければなりません。
こうした「不平感」は、自律的な克己性を高めなければなりません。
ところが不潔や不足、不備や不利、不穏さは他律性で解消解決が当然です。
「不便であること」と「不安であること」の自律性と他律性をデザインで
すべからく問題解決するというのが、
まさに「衣・食・住・医・職・趣」への災害時・防災のデザインです。
すでに 37大学支援がこのチームにあり、
具体的に防災課題の実例報告が入ってきています。

*『「危機」・ことばの定義について』
*『資本主義、逃走した後の文明と文化の対象』
*『デザイン領域の「統合」による安全・安心・防災・防犯』
*『「不安」が最大なことは被災することである』
*『お月様が見ているよ・・・性善説の人にもどるために』


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『電子ペンはすっかり日本開発が海外に負けている』


   


     5月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

電子ペンはその登場以来、自分は全てをこれまで使用してきました。
この技術はもうすでに25年程度になると思っています。
さらに元々の出発メーカー・海外からも、
私が使用者と知って相談を受けたこともありますが、
すでにこの電子ペンの実装を知っていたので、はっきりともうこの方向では
絶対に失敗しますから、この分野に向けるべきですと言いました。
案の上、そのメーカーは追い越されて、
とうとう新規の電子ペンが出ました。
文房具としての電子ペンに対しては、
自分の使用性では、まず、「書」が可能?次に「スケッチ」が可能?
それからようやくやっとメモが書けるかということです。
電子ペンは、まず紙媒体にそれこそレイヤー設定、あるいは色設定で
紙に書いたり描いたりをスマホからPC
さらには PADにまで展開と転用です。
この可能性がまた広がり始めましたが、なんのことはない、
海外での発明が一度駄目になり、日本流に改善不足がありながらも、
この商品の欠点や、もはや当然となっているノートに
様々な展開がでてきています。
結局、日本のもう一つの弱点がつかれてしまっているという悔しさです。
すでにPADでは自由なスケッチ技法からアナログ的なレンダリング手法を、
教育出来る程自分の技能は身体化していると思います。
まだそれでも新製品電子ペンは勿論、スタイラスも、
日本独自の開発をするべきだと考えています。
阪大医学部附属病院小児病棟にある学校で
「スケッチ」を教えるつもりです。

*『使い心地を試し使い果たしている電子ペン』
*『私のデジタルアイディアスケッチとスタイラス』
*『iPadでのスタイラス先端が新たなペン先になった』
*artgene blog『デジタルペンその1』
*artgene blog『デジタルペンその2』


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『LPレコードのアーカイブが出来上がりつつある』


   


     3月 30th, 2016  Posted 12:00 AM

僕はオーディオのデザイナーから出発という幸運があります。
東芝では当時オーディオ専門ブランドAurexに関わり、
Aurexブランドロゴから製品開発・商品化だけではなくて
ショールームからコンサート企画、
そしてLPレコードづくりまで担当しました。
単純に担当というより、
自分で企画書を書き上げて上司を説得していました。
そんな中でも、
LPレコード企画などが東芝では通らないことはしばしば。
そんな時にはその企画を
DAM(当時最大の量販店のオーディオクラブ)に、
僕は持ち込むと同時に、 DAMから信頼も受けていたので、
TV-CFやDAM販売キャンペーンのディレクターもしていました。
無論、東芝の上司にはほぼ公認をしてもらっていました。
DAMといえば、特別高度な音質のLPレコードを出版していました。
これは当時、東芝EMIの力添えがありました。
東芝EMIで担当であった方が亡くなり、その遺言から、
DAM レコードを後世に残す話が持ち上がり、
東芝の社員であり、また45回転で超厚のレコード盤制作に
まさにはまっていたことからも、協力者の一人として参加。
DAMのLPレコードは、音質の優秀さで、有名な指揮者事務所や
有名歌手グループ事務所からなどクレームが出るほどでした。
私が直接関わったレコード盤は、
「トラックダウン=レコード製作プロセス」を知らせることで
それはオーディオ機器、カートリッジやプレーヤーシステムまでの
音質チェックになるレコード盤があり、レコードジャケットデザイナー名を
入れてもらうことで、東芝に納得をつけてもらっていました。
これはバイノーラルレコード出版につながりました。
東芝ではOKがもらえなかったのですが、
DAMでのヒットゆえに、
結局は東芝のプレミアム広報として実現しました。
かつて、オーディオでの最も正確な音質レコード盤の
アーカイブが完成しました。
アナログレコード盤としては最高のモノづくりだったので、
今では徐々にファンが増えてきています。
私はひたすら音響関係のデザイナーであればそれでいいと思っていました。
だから、今でもその思いは残っています。
大学人をリタイアしたなら、
もう一度、オーディオ機器のデザインと設計に関わりたいと考えています。
すでに、ヘッドホンアンプの設計とデザインに取りかかっています。

*「企画は必ず具現化すること」
 https://ouzak.co.jp/blog/?p=23523
*「ここまで粘り、あきらめないこと・・・」
 https://ouzak.co.jp/blog/?p=23541
*『世界でトップだったアナログ45回転レコード盤の復活』
 https://ouzak.co.jp/blog/?p=42369


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『ディスクールはアンドロイドロボットで消滅させられた』


   


     1月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

昨年は「ロラン・バルトの生誕100年」でした。
ロラン・バルトは構造主義者として、ディスクール=言語表現、
つまり、書かれたことや言われたことの概念提唱者でした。
生誕100周年記念として、まさに、ディスクールのパターンを
スカーフにした表現はディスクールのデザインでした。
そのパターンの原書が「恋愛のディスクール・断章」そのままのモノ。
僕は読み直しましたが、生誕100年にして、
ディスクールでの抱擁は見事に破壊されていました。
それは、アンドロイドロボットの出現でした。
アンドロイドロボットは、「なぜ、人間は人間であるか」という
この難問解決のデザインだったからです。
単純なアンドロイドロボットとして「ハグビー」があります。
日本人は抱擁し合うことは照れ(若者には無くなりつつある)が残りますが、
フランス人からは、メールの最後にWarmest hugsと書いてきます。
結局、恋愛はすべての小説の最大テーマであったと言えます。
それこそ、日本最古の小説・源氏物語さえそうであったのです。
しかし、無論、恋愛には言葉・言語が本当は要らないように、
恋愛の言語化構造は
ハグすることで一遍に改めての意味が溶解し消滅します。
つまり人間にとって恋愛は一瞬の熱病=これは僕の私見ですが、
その熱病は感染して起こるのか、感染しているから熱病=恋愛でしょうか、
まさに生誕100年目に断章された結果は「ハグビー」というロボット、
つまり言語(ことば)では無くて形態(かたち)によって、
結論が明らかになってしまったことです。
これは言語の脆弱性を形態=ロボットが消滅させたことになります。
なぜか人間は抱擁されることで
コミュニケーションの新鮮度が増加されます。
人工物アンドロイド・ハグビーを抱き合うことが、
あの熱病=恋愛のごとくコミュニケーションを強めてしまうのです。
喋りまくる子供たちはハグビーを抱きしめれば、集中力を持ち、
アルツハイマーの老人の孤独感を消化してしまい、
断絶した者同士が、見知らぬ者同士が饒舌に会話しあうということです。
しかし、恋愛のディスクール・断章はロラン・バルトの生涯のテーマ、
その一部分に過ぎませんでした。
それはアンドロイドロボット・ハグビーに
「作者の死」をつきつけています。
ディスクールの作者が、彼の死に言説化を求めたように、
アンドロイドの創作者は、
どのようにその死と立ち向かうのでしょうか、ということ、
その指定出が起こってしまったということです。


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『銀河系の帝国主義、そのアーキタイプは未だ戦争か』


   


     1月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

「STAR WARS」という映画を観るたびに、僕はこの映画、
そのシリーズは興味深いですが、
この世界共通の神話的なアーキタイプと
汎神論的な、世界が共通的に抱えてきたフィクションが
やはり、善と悪、民主主義と帝国主義なのか、
結局は銀河世界での未来戦争を知ります。
はっきり言えば、人類学的、神話的であっても
「戦争」でのワクワク感に落とし込まれる映画表現の罠、
そうした大変な仕掛けを見直してしまいます。
結局、この考え方に行き着いてしまう怖さになるのです。
「こんな考え方でフィクション化できる国とは」と考え直します。
どこかで人間いや米国人は「民主主義の崩壊」はそのまま「帝国主義」を
それほどまでに望んでしまうのだろうか、
と僕は今回も改めて確認しました。
たまたまフランスで「BB-8」を見つけて購入していました。
「STAR WARS フォースの覚醒」が封切られると、
日本でも大きな話題になりました。
僕も正月早々に京都でこの映画を観たのです。
早速、フランスで購入した「BB-8」をiPhoneでコントロールしてみると、
映画のロボット表現は、これまでを一新していたのは確かですが、
僕には、銀河系フィクションだったとしても、
民主主義の破壊=戦争=帝国主義というアーキタイプが再提出されていて、
決して僕の好みの映画ではありませんが、
工業デザイナーとしての想像力は、
未来と銀河系の正義感を護るロボット存在を確認します。
キャラクターとしてのロボット存在を見逃すことはできませんが、
かつて、あの金色ロボットC-3POと、如何にもロボットR2-D2も、
ボストンのコンピュータミュージアムにあり、
ライトセーバーなる剣を米国土産に買って帰ったものでした。
そして、玩具のライトセーバーも大きな変化を見ましたが、
フィクションの戦争も「斬り合い」になるというのが
未だに僕には奇妙です。
人類の想像力は、未来映画でも「戦争イメージ」と「戦争アーキタイプ」も
まるで変わらないという不気味さを見直すだけでした。
米国映画は、あくまでもアクション映画も宇宙映画も「戦争」です。
米国はいつもどこかで「破壊」のイメージ強化を
確認しているのでしょうか。
そろそろ、STAR WARSのアーキタイプでの汎神論的な方向性を
全く革新することを望むのは僕だけでしょうか。


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『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』


   


     1月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

我ながら、どこまでApple製品に囚われているのでしょうか。
そう想いつつも確かなPCもPadも進歩はしていません。
そして、ベルトが二重巻きのApple Watchに至っては、
時計もそれなりに気ままに使ってきた私でさえその未来は見えていません。
それにも関わらず、絶対に二重巻きの時計は手に入らないとなると、
元来、一人っ子だった僕の物欲が呼び寄せてしまうのです。
もはや時計、クロック、Padにしろウォッチにしろ
稼働部品は極めて低額です。
実際、生産原価はどのブランドにしてもほとんど知り尽くしています。
Apple Watchも、稼働ユニット部品は定額コストであり、
筐体やベルトでのほとんどそれこそ付加価値での競合にすぎません。
Padのスタイラスペンにおいても同様です。
僕はプロのデザイナーですから、結局、モノとブランドの価値で、
所有価値と使用価値を価値判断にしてしまっています。
このApple Watchは皮革ブランド独自の価値を借用して、
時計の価値を高めているだけにすぎません。
最も、僕は銀座のApple Storeで現物を見、その説明を受けました。
結果、この店員さんからは絶対に購入しないと決めました。
そして、ブランドショップで改めて質問をした結果、
商品知識ははるかに勝っていましたし、
ほとんどいつ注文しても困難でしたが
結局、すぐに私の所に来てしまいました。
それこそ、Padのスタイラスにしても、
僕がそれなりに認めているブランドと
新興ブランドは、一方はレンダリングスケッチ用であり、
もう一方はすでに書道用に落ち着いています。
商品価値がブランドに左右される時代にあって、
デザインがデコレーション価値になってしまうことはやむを得ないですが、
やはり、僕はデザイン=問題解決・価値創造・未来創成ですから、
ともかく、現代性でデザインのこの三つを満たしているモノの世界観に
僕自身は取り囲まれていたいと思うのです。
デザイン=問題解決・価値創造・未来創成の結論は、
「美」に集中と集約される焦点でなければなりません。
それは、僕自身が「真善美」三つはとても自分には立ち向かえないけれど、
「美」って決して分からないかもしれないけれど、
「美しいモノ」に取り囲まれるコト=環境に
ありたいと思ってきたからです。
物欲も年齢とともに消えていく、
そんな気配が忍び寄っているのも事実ですが、
あくまでも、自然は自然なりに美があっても、
自然も人間も裏切りがありますから、
デザインされた「美」には自分を浸すことができます。
自分の生涯において物欲からの「美」は求めるつもりです。


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『わが人生最期の車は美しいデザインを』


   


     1月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

ベンツSL500を10余年乗って使ってきました。
車を10年以上も乗るなんてことはありませんでした。
なんとかワイフを口説いて、私の人生最期の車を選びました。
私にとって前提は、車イス対応ゆえに、二つの大きな条件があります。
車イス収納と両手だけでハンドル操作とブレーキ・アクセルを、です。
ともかくAMには、男の子としての背景に007がありました。
選び抜いた車は、4ドアスポーツタイプ「ラピードS」。
注文後7ヶ月、途中直接ディーラーがAM英国本社で、
車イスユーザー用のアタッチメントを検討してもらって、
国内での取り付け工事。これさえ最初のことのようでした。
アタッチメントは全く進化していないことをFBでぼやくと、
いくつかの提案をいただき、ディーラーが工事企業を調査し、
英国本社ともコンピュータ制御と取り付け検討で部品決定。
その間のやりとりはこれまでに未体験多くて、
モノづくりの根本で新しいやり方を知りました。
こっそりと1/12サイズモデルを探し出してワイフに叱られました。
ところがなんと本社対応では、
全ての注文仕様で素材も同等の1/8が注文可能だと知りました。
しかも、そのモデルで軽自動車2台は購入可能を知りました。
ナンバープレート番号入りの写真と、
左の取説を今はじっくり読破中ですが、
エェッという機能はこれからの自動車のあり方、
それはデジタルとアナログの使い分けがとても明快でした。
結局、自動と手動の使い分けで、
絶対コンピュータ制御を避けて、マニュアル制御を護り抜く、
この考え方には大きく同意しました。
私には、車とオーディオ、そしてカメラには、
これからのアナログとデジタルの
インターラクションの決定手法があります。
それは特に、車とオーディオには共通項が多いことでした。
それこそ、カーオーディオは自宅で使用のB&Oが仕込まれていました。
しかも現代流のBluetoothで制御が可能になっていました。
ある時、ワイフが、
「あの車とても美しい」と初めて言いました。すかさず私は、
「あれがアストンマーチンだから、どーお?」
「・・・・・」、妻の完全沈黙、あれからの説得でした。
ともかく、徹底的な美しさだけを最期の車に求める結果が選んだ理由です。
本当はSL500を手放すことは随分とためらいました。
私は自分の人生は、すべて左ハンドルでした。
車イスには絶対、左ハンドルでなければ、通行上にも問題があります。
さて、これから3年かけて自分用にしていくというのがポリシーです。
なるほど、自分の身体との整合性を求めていく過程を楽しむということ。
67歳になって最期の車を、ゴールドカードの免許証のまま、
私が最期に乗っていた車にするつもりです。


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『モバイルバッテリーはやり直しが必要だ』


   


     9月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

一体いくつ持てば気が済むの、って叱られています。
私はそれでもモバイルバッテリーを次々と使ってきました。
mAhだけに拘らずに、結局はmWh容量ですが、
多分今では22400mAhが最大だと思いますが全く納得できません。
それはこれまで試用してきたすべてのモバイルバッテリーには、
大落胆しているのです。
バッテリーとしての条件は、いくつかありますが、
まず、電流・電圧よりも容量、容量があっても、
大きさと重量、そして急速充電性、堅牢さや経年変化です。
さらに大問題は、今回のあの洪水でも明らかになってしまった、
ハイブリットやEV車両のように電気の塊としての安全性です。
そういう意味では、ソーラー関係は無視しています。
これからの水素系も私は期待できません。
それなら、プラズマ発電でのモバイルバッテリーです。
私は基本的に、人類は「太陽の恵み」以上は望んではいけない、
だからソーラー発電にも期待はしていません。
再生可能エネルギーという、このエネルギー用語自身の矛盾に、
私は全然納得していません。
ところが、生きている現実では膨大過ぎる電力が必要です。
まして私は今ではすっかり電動リチウム電池駆動の車いすが私の足です。
一度、電動車いすの電源が失われると全く行動が出来ずでした。
私はエネルギーとは、水・食料・電力と思っています。
現代文明は「エネルギー社会の保全」につきているのです。
しかも、電流と電圧を保全し安全である電力確保こそ、
安心な日常生活になるわけです。
方法はまったく新しいヘリウム3やプラズマの人工太陽しかありえません。
私の行動、といっても、歩けない私には、
スマホとMacが動かなければ、行動が全く不可能です。
願わくは、モバイルバッテリーそのモノの、
根本的な素材=金とのイオン化傾向差を、
核融合させても安心と安全の確保です。
そして、私たちが電力容量を知っているのは「太陽光の恩恵」だけです。
これ以上を望んでしまった私たちが、
絶対に真摯に取り組む最も身近なモノ、
それはモバイルバッテリーだと考えています。
容量が大きくても、モバイル性があること、
それ以上に安全で安心な電力というエネルギー、その開発デザインは、
デザイナーにとって、最大のテーマになっていると私は認識しています。
それはソーラーパネルからのバッテリーでは絶対に違うと思っています。


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