kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘能力’


「ブリューゲルが描いた盲目の人たち」


   


     7月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

目の不自由な方・盲目の人を描いています。
この絵画には二つの意味があると言われています。
すべて盲目の人たちが列を成して歩いていると、
池の中に落ちてしまう、という構図です。
これは、盲目の人の行動を描いたわけではありません。
健常者が無知なまま行動すれば、
それも無知な健常者の集団が行動すると、
とんでもなく、まるで池に落ちるように、
大失敗するという、その教訓的な意味の表現です。
そして、もう一つは当時、盲目の人には、
これだけの種別があるという表現です。
まず、先天的な盲目の人と後天的な盲目の人、
それぞれの容貌が描き分けられていて、
当時の特に後天的な眼病の結果表情があるらしいのです。
まさしく、教訓的な意味の絵画性=教訓性は正解です。
というのは、特に、先天的な盲目の人は、
決して池に落ちるわけがないのです。
余程、健常者の人の方が、
見えず、感ぜずが確実に多いはずです。
白杖一本で、自分の歩行環境を感得する能力は、
健常者の人よりはるかに高いと思います。
ブリューゲルは、盲目の人たちが池に落ちるという表現、
それは無知なる健常者こそ盲目だということを教訓として
ずばり描き切っていると言うことです。

これは世界盲人会連合で1984年に制定された、
視覚障害者の人たちが安全やバリアフリーを考慮された
環境・機器・設備から信号機、書籍に表示されています。
しかし、このマークの機能性は私には不明です。
健常者に向けての注意喚起・思いやりの発揚でしょうが、
私はもっとデザイン精度を上げる表現知恵不足を感じます。


目次を見る

「キャナルシティ博多での二つのショップ、二人の経営トップ」


   


     3月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

「マクドナルド」と「フランフラン」、二つのショップ。
キャナルシティ博多でも活況を呈しているショップであり、
「今現代」を企業存在・企業活性・企業展開、
この三つを最も体現している超優良企業です。
私自身、街中で散策するということはほとんどありません。
出張先でのショッピングも時間的にはむずかしいのですが、
キャナルシティ博多では、
なんだかワクワクしながらいくつかのお店を見て回り、
ワイフのショッピングに付き合って楽しむことができました。
特に、この二つの店舗とその経営母体については、
両方とも経営者とは知人でしたから、
ことのほか、現実の店舗を実体感できたことは面白かったのです。
マクドナルドの時代共時性ある商品開発での躍進ぶり、
またフランフランの徹底的な豊富な商品アイテムでのブランド展開ぶりは、
TVの経営番組でも必ず紹介されていますが、
自分で店に入り、実体験してみればすべからく納得してしまいます。
この二つの企業、そして経営者は、もう30年ほど前に出会っているだけに、
二人ともスゴイと絶賛評価です。 
マクドナルドのH氏とは、
Apple時代は、営業本部長で本社副社長だったと思います。
その時代にも彼の決心スピード=意思決定度や詳細な行動力には、
何度も何度も感服していました。
だから、現在、彼がリーダーであり、
すべてが成功していることには納得可能です。
彼がアップルからマクドナルド社に変わった直後に、
彼と会って話をしましたがいくつも教えられることがありました。
フランフランのT氏は、なんと同郷です。
しかも彼は福井のある家具製造企業で東京営業所長時代に、
私もこのメーカーで
デザインと企業戦略やスタッフ教育に関わっていました。
当時の彼への印象は、ハンサム無口でしたが、
肝心肝要な発言ぶりで、将来はこの企業を率いると思っていたところ、
起業し現在ではこの領域業界でもリーダーです。
フランフランを知った時、彼が社長だと聞いて驚きましたが、
「なるほど」と一辺に納得しました。
二人に共通していることは、
「デザイン」にとても精通した経営者であること、
「時代把握感覚の鋭敏さ」です。
そして、「デザイン」と「時代感覚」は現在を知り尽くしているからこそ、
「明日を創る」という能力は天分であり、
無論、努力ということがあったとすれば、
彼ら自身の意見を実行していく中では、
様々な障害が他からストレスとなっていたことだと推測します。
しかし、結局は、こうしたストレスは自分自身に突き返し、
自分を常に今日より明日のために「自分自身への修練」、
まさしく精進の成果を連続させるエネルギーだったのだと断言できます。
本当に今は、こうした人物が激減していると私は思っています。
私は、こうした人物たちとも
人生のある時期に懸命になれたことは幸運だったと思っています。

目次を見る

「講演会でも感じ取ってしまう近頃!」


   


     11月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

先日の市長選、そのTVドキュメントを見て、
最もビックリしたのは、元府知事がトイレ使用を
ある場所で拒絶されていたシーンでした。
「独裁者に!、トイレなど貸せるか!!!」、
この横暴な選挙民になり果てた一部の大阪人は情けない存在です。
今回の選挙戦での幼稚な闘争を見ると、
本当に潔い日本人が居なくなったようです。
同様なことを最近、講演会や講習会で感じます。
特に「サラリーマン」しかも大企業の社員たちです。
比べて地方や中小企業、
さらに海外の中国や韓国には礼節と熱心さがあります。
遠慮無く質問は多様にわたり、時には講演時間以上になります。
大企業の社員に限って、
日常的な学習と自己修練が欠落し始めているのか「質問無し」。
最も大企業の経営者能力が日本人らしさを失っているから、
社員に日本人の無礼節さが伝染しているのでしょう。
地方や中小企業では、講演が終われば「質問攻め」です。
大企業の社員は、仲間内の手前もあってか照れ故か「質問無し」です。
もっともそれは私の講演内容に問題があったものと自己反省します。
が、少なからず2画面で16:9、PinPスタイルなど、万全を期しますから、
「質問無し」はショックです。
けれども最近は、
大企業の社員のレベルが低いのだと判断することにしました。
そして正社員しかそうした講演に出席出来ない、
この企業組織問題に連関しているのかもしれません。
企業で、当然ながら専門知識があるはずなのに、
ある質問では、私は本当に驚いてしまいました。
その程度の知識を知らずになぜ「商品化」しているのだろうか、
こんな思いにかられました。
経営者の利益独占に感染しているのでしょう。
これまで、大企業での講演やコンサルを経験してきました。
大学人から解放されたら地方行政から、商店街、
中小企業、宗教界、そして大企業、大学まで、
私が生きた証として、能力性・倫理性・美学性、
さらに礼節性を書き残したいと思っています。
そういえば、大阪市主催の講演会は本当にわずかです。
大阪市活性化を懸命に訴求してきましたが、
「具現化プラン」に向かったことは、
この6年、一度もありませんでした。
大阪市役所も大企業なので、
サラリーマン的症状に冒されていたことは明白です。
福井時代も市や県に向けて批判すれば、
必ず「仕打ち」にあってきましたが、今はまったくなくなり、
よく私の提案やアイディアを受け入れてもらえます。
さて、このブログでの大企業サラリーマン向け発言も、
「トイレは貸さない」というようなしっぺ返しにあうかも?です。
構いません、それは大企業のサラリーマンとして、
「生きていない」ことを自己証明しているのです。
まったく、東北の市町村にはリーダーがいっぱいおられます。
ところが、東京の政治集団はもちろんのこと、
政府・官僚・経財界にリーダーは皆無です。
これが日本の現状です。
地方、中小企業が、日本を再生することは間違いないでしょう。

目次を見る

「韓国の勢い・16茶より17茶という意気込み」


   


     11月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

仁川国際空港から、KAISTの街までは直線道路。
まさしく臨戦態勢の高速道路は、
そのままジェット戦闘機の離着陸が可能です。
防衛体制は無論のこと、
私が、韓国の勢いを感じる一つの事例をあげておきます。
日本の十六茶に対して、韓国は十七茶があります。
一つ先を行こうという想いなのかどうかは分かりませんが、
私はいつも韓国でこのお茶をみると、
日本より一つでも多くをという姿勢、すなわち勢いを感じます。
それこそ、MacOS Xなのに、Windows7は、
その名称ですでに遅れている感があるようなものです。
もし私が商品戦略をするならWindows11にします。
関西国際空港や中部国際空港と仁川国際空港を比較しても、
仁川の方が建築的にも、設備的にも、
デザイン的にも熟慮されていると私は思っています。
私が子供の頃に、まさか韓国に行くようになるとは、
正直思ってもいませんでした。
軍事政権で常に内乱がありました。
米国の大学で韓国からの留学生と出会う頃から、
彼らはきっと韓国を繁栄させるのでは、という印象。
現在はまさにそのような国になりました。
スタッフで、日本のデザイン系大学院卒の韓国人がいました。
EIZOブランドをスタートしたときのメインメンバーでした。
今、彼は韓国の母校大学で教授になっています。
彼も飛び級で韓国の大学を卒業後、日本に留学し、
デザインスタジオ2年経験をして、韓国に戻りました。
彼が、私のスタジオで一番苦しかったのは、
週報を日本語で書くということだったと帰国直前に告げてくれました。
休日でも出勤し、デザイン能力はとても優れていました。
今もスタッフには韓国人がいますが、
精神的な強さにおいては同世代の日本人より強いと思います。
それは徴兵制があるからではないかとさえ私は思います。
隣国である韓国とは国際関係においても、
理想的なパートナーシップを持ち続けるべきでしょう。

目次を見る

5月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 31st, 2011  Posted 10:00 AM

5月30日 先勝(乙酉)

自分のその時々のエネルギー、
能力というパワーを
どれだけ使い分けていくかを
制御することは非常に難しい。

モノの使用方法も、
「十分に使う」使い方と
「充分に使う」方法は
差異があると思う。

『デザインという先手』十分なる「先手」


目次を見る

11月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 25th, 2010  Posted 12:43 PM

11月25日 大安(己卯)

「器量によりて、荷をば持て」
というではないか。

日本の能力によって、
それにふさわしいことをしている事実を、
日本人としては世界に向けて
発信していかなければならない。

『デザイナーは喧嘩師であれ』器量相発


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「情報化の逃走訓練には資格条件あり」


   


     8月 1st, 2010  Posted 12:00 AM

情報による資本主義の変貌
生産・消費での資本主義は、大きく変貌しています。
変貌の具体的内容は、変質・変容・変態です。
大きな一つは、資本を「能力・才能」としたときには、
能力や才能が「情報」と対峙できるかどうかです。
それは能力ある人なら、
情報リテラシーの管理と統合が無論可能であることは当然です。
しかし、私は能力の情報化と才能の情報化には差異性があるものと判断します。
それは特に学生たちを相手にしていると、
能力があるにもかかわらず、
自分探しに翻弄されていることを観察してしまうのです。
また、能力が評価できないのに、本人は自尊心こそ能力だと錯覚しています。
そのうえで、才能ということになれば、
私は、才能というのは自分では決して認識できるものではない、
という経験値があります。
才能は「周囲が認めてくれて」こそ、自分にはあるかも知れない、
という自己期待感の中で自信を勇気づけるものだと考えます。
私はここで、能力・才能のさらに情報力の能力・才能に焦点化してみたいと思います。
新たなこれからの「資本としての能力・才能の情報力強化」という訓練こそ、
資本主義から逃走する体力的な知力だと考えるからです。
したがって、「逃走訓練する条件」の一つに、
「情報」に関わるさらなる能力と才能のトレーニングということを提示したいからです。
条件をあげてみます。
● 共時性の保持力
情報と自分を対峙させるハード・ソフト・ネットワーク、
その驚異的な進化速度に自己を適合、
ある意味では流行性とも共時できること。
● 進化性の予測力
ハード進化・ソフト変化・ネットワーク変容、
これらに対して想像力が常に拡大や拡張し、
自己予測力を常に働かせることができること。
● 経済性の持続力
新商品化されるハードやソフトを購入し,
基本的なネットワークを個人的に整備できる
可処分所得内での購入費用は常に確保ができること。

そして、いつでも情報環境の時代変化に興味を持ち続け、
流行現象に押し流されることはあってはならないと思います。
好き嫌いの価値感には囚われず、
「自分流」なりの自己リテラシーを構築する精進を
地道に積み上げることだと考えています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「スケッチという資本、その構造」


   


     7月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

資本の分類
「資本」は、利益獲得の元手という意味では次の三つになるでしょう。
また、それらを拡大することで、
現代的自由経済での資本主義の構造を構築したきたのです。

   ■1・生産物の蓄積・道具や原材料から食料、住居
   ■2・土地や天然資源・天然に存在するすべてのもの
   ■3・個人の才能や能力、熟練された技術

知的資本
つまり生産や将来に対して、
その利得につながるであろう蓄積の全体を構造化しているものです。
以上のことから、私はデザイナー能力による「スケッチ」は資本だと考えます。
デザイナーの能力あるいは才能が生み出した具体的な「スケッチ」そのものは、
資本としてそこから蓄財されるものがあります。
スケッチに限らず、企画書や、図面などもそうした資本であると考えられます。
マルクス当時の資本主義批判には、こうした考え方はなく、
むしろ生産からの収奪や搾取が語られていたことです。
そして当時の状況からは、
<個人の才能や能力、熟練された技術>が資本という発想は無かったも同然です。
これは、現代の「知的財産権」としての制度である資本の構造化だと考えられます。
ただし、「スケッチ」がまさしく、
たとえば銀行がその価値が再生産されるという認識は皆無です。
もし、「スケッチ」が社会的な蓄財として保証されるのは、
デザイナーやアーティストの「アート的作品」という成果物としてです。
本来、「知的財産権」という資本の蓄財、
その社会制度が効用するとするなら、
これは資本主義を革新する大きな動機になることは間違いないでしょう。
私は、スケッチ=資本に「逃走の場」があるものと予知しています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「つつしみの育成は消極的な自己改革だと感じる」


   


     7月 7th, 2010  Posted 12:00 AM

つつしむ直感
「感情」ではなくて「感性」の領域に、私は慈愛とつつしみを置いています。
これを精神論と捉えることは、「事の本質」を見誤ります。
まず、「感情」と「感性」の差異性は明確に、歴史的な論理検証をしてきました。
そして、「感性」の中で、
「直観」=「直感」を「つつしみ」にまで結びつけようということになります。
ただし、これは「直感」を、
デザインという職能で発揮できる資質は限定されていることは否めません。
自己判断、自己修練、自己啓発によって「つつしみ」ある能力と態度が求められます。
「つつしみ」は、「感性」、ある意味では「精神性の発露表現」です。
ところが、現代のわが国では、「つつしみ」は積極性を控え、謙譲的であって、
この感性を忘却、もしくは喪失していると言っても過言ではありません。
つつむ
「つつしみ」は「つつむ」ことにその由来があります。
包む限りは、より大きな空間=空なる世界観で、包含し、内包させる機能を示唆します。
これを「インクルーシブ」と言います。
ここから前述した「インクルーシブ・デザイン」に連続させることができます。
すなわち、私が決定的に表現する「つつしみの使い勝手」、
それは「つつしむという性能+効能=機能」だと考えるわけです。
これは精神性をも包み込む態度です。
この態度あるいは姿勢を、日本人デザイナーは取り戻すべきだというのが私の主張です。
乱暴な主張、そのスローガンが、
「コンセプト不要」=直感の強化で即表現というデザインプロセスの採用ということです。
私たち、日本人は、確かに工業時代でのデザインによる産業経済効果と効用によって、
わが国は豊かであり、自尊心を持っていました。
しかし、ポスト工業時代と情報化時代に入ってからも、
「手法論の大転換はできなかった」のです。
「不景気感」に覆い尽くされているわが国は、 不景気=depression=鬱病です。
精神的破壊を疾病的に抱いているなら、そこから再生還すべきでしょう。
「つつましく」あることは、鬱病的疾病に対しては、二つの効能があります。

■ 積極性より消極的心情・精神性の強化を意味しない。
弱さを否定せずに優しさを自己獲得する。

■ 自己主張をつつしむ=饒舌性を放棄することを容認。
「直感」は何人も否定しない効果と効用があることを共有。

正直、私自身の「つつましさ」は想像できかねることも自白しておかなければなりません。
それでも、「コンセプト」で語らずとも、
「直感」での造形・形態・価値づくりをする自信と自負心はあります。
この自信と自負心は、決して、私の精神性ではありません。
もし、精神性を背景にする方法は、唯一、「日常的連綿性」を果たしていくだけです。
そういう意味では、ここに、ブログをただ「想い」を記録していることは、
「直感で包まれている自分」を自分から離脱しながら見詰めることができるのです。
何事かに包まれている自分には、
つつまれていることの認識が「つつましさ」の芽吹きを感じることは間違いありません。


目次を見る

6月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 2nd, 2010  Posted 1:35 PM

6月2日 大安(癸未)

デザイナーが収集すべき最も重要なものは
「イメージ」である。

これをどのように
保存し、蓄積し、整理をしておくかが、
デザイナーの能力を決定する。

『デザイナーは喧嘩師であれ』収集数奇


目次を見る