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Posts Tagged ‘自然’


『レジリエンスデザインチームで少しでも支援を』


   


     4月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

熊本の地震状況は日毎に悲惨さを増してきました。
正直、何も出来ません。
自分のような車イス使用者は活動停止を強いられます。
九州の障がい者の知人たちからも実情が届きます。
現地の崇城大学で教員の後輩、九州大学の元私の准教授が
中心になって「レジリエンスデザイン」活動をしています。
そこで、大阪大学で中核整理をしたwebsiteに、
いくつかのデザイン系、建築系の大学からも支援を受けて
「レジリエンスデザインチーム」をつくっています。
何が出来るかといわれても、デザイン・建築の教員とその学生で、
少しでも「レジリエンスデザイン」の知恵を集めることが出来るはずです。
レジリエンスとは、ストレスやプレッシャーに、
身体的・精神的に克てること、それをデザインできうると考えるからです。
自分はコンシリエンスデザインを提唱して、
その対象の一つにレジリエンスデザインがあると主張してきました。
しかし、「まさか」ということが熊本、九州で発生してしまいました。
九州大学では丁度、「レジリエンスデザイン」がデザインテーマだけに、
即、実務活動でその実績を上げていってもらいたいと願っています。
改めて「レジリエンス」がデザイン・建築で再補強されると思っています。
自然、その天災は、とてつもなく人間を活動停止させてくるものです。
しかし、人間は天災のストレス・プレッシャーに克たなければなりません。
そんなチームになってほしいと素直に期待しています。

*『コンシリエンスデザイン看医工学の学際化』
*『あれから20年・・・阪神淡路大震災のこと』
*『コンクリートから解放されること・今世紀のテーマ』
*『Consilience Design Phenomenaの形態・制度設計の効用』
*『「土地の記憶」は鳥居の位置その変遷にある』


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4月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

4月19日 先負(辛未)

自然は人間に冷徹である。
自然と人間は「調和」は出来ない。
けれども、
人間は自然からのプレッシャーを
必ず対抗出来るはずだ。

川崎和男の発想表現手法


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『レジリエンスデザインを熊本に差し出す』


   


     4月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を次世代デザイン手法として
取り組んできました。
Consilience=Con+silienceから、
ParasilienceとMetasilienceに論理展開を拡張しました。
それにはもっと重大な課題回答としてのResilience Designの実現があります。
地震大国であることは3.11で国民すべての経験になりましたが、
5年経過して、忘却の風潮にあったところで、
九州・熊本ではとんでもない大地震が、それも連続しています。
熊本の後輩はじめ友人たちは無事でしたが、
九州と言っても熊本の事態はとんでもなく、 
3.11の経験や教訓だけではとても対処できる天災ではありません。
レジリエンスデザインを教えている大学はほんの僅かです。
ある大学でその研究費が認められましたが、
「レジリエンスデザインって何ですか?」と聞かれたぐらいです。
人間の精神的強靱力をさらに向上させる、ということを
一言で言いきれば「ストレス=心的障がいを乗り越える」という
この問題解決をすることです。
レジリエンスデザインチーム」で、熊本・九州を支援する程度ですが、
3.11とは全く異なる事態が発生しています。
このチームを創ったら、いくつかのデザイン系大学から
参加の申し込みが来ています。
これは都市計画・建築・環境、そして自然と人工の問題があります。
それだけに、安全と安心、防犯と防衛が関わってきています。
とりあえず、websiteやFacebookなどのSNSでこの展開を開始しました。

*レジリエンスデザインチーム
*『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』
*『減災・防災・救災のために』
*『世界中が・March.11.2011ならば・・・』
*『安全と安心・防災と防犯は学際化デザインになる』


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『KK塾最終回 松岡正剛氏からの新たな知の編集』


   


     3月 29th, 2016  Posted 12:00 AM

2015「KK塾」最終回は松岡正剛氏に講演を依頼しました。
1992年箱根でのマルチメディア会議に民間出身4名の一人でした。
その会議で基調講演ではムーアの法則のゴードン・ムーアが
3原則論を述べ、
これを聞いたのはその会議出席者では、私と彼だけでした。
箱根の強羅花壇で初めて挨拶をしてからの盟友です。
おそらく「隠坊」の話で人生を学んだ共通点があります。
「隠坊」とは、死者を火葬する時に夜通し火葬状態を見守る人であり、
死の世界へ人間を送り込む職業があったのです。
「隠坊」については書き残す必要があると思っています。
松岡正剛が「千夜千冊」はとうとう1604冊です。
これは書評ですが、これを読めばその本を読んだこと、
その疑似体験ができて、本格的に読むべきかと言う書評は
この日本にしかありませんから偉大な仕事です。
私もそれなりの読書家だと自負していましたが、
彼の読書しかも批評眼にはとても太刀打ちできません。
彼の書評している本のうち400冊ほどは読んでいる程度です。
全てを「編集工学」という名辞は、新しい言葉を生み、
新語を生み出してくれていますから、漢字と書の世界観があります。
これこそ、彼の言う「日本という方法」、
日本は国家であるより方法を定義しています。
「遊」という雑誌こそ、まさに文理融合統合、
私が言い始めているコンシリエンスデザインです。
それこそ、知的関心の方法を編集学化した「知の巨人」は松岡正剛でした。
「情報の歴史」と「アートジャパネスク」こそ、
すべての若者の教科書です。
彼が率いてきた「連塾」には私も講演をさせてもらっています。
その後、「日本という方法」は、あの3.11で終了しましたが、
なんとあの天災と人災は「3.11を読む」に編集されました。
それは原子力発電の問題が中核ですが、
その背景には蝦夷と沖縄の問題が
全知識人へのおおきな謎かけになっています。
彼を支援しているスタッフの役割分担力は
おそらく日本ではトップでしょう。
スタッフ一丸となった講演支援の見事さは圧倒されました。
3.11 で日本は、もう一度、国の立て直しを自然と今度は文明の
しかも最先端である原子力の虚像を晒け出してしまいました。
彼も指摘しているリスボンの大地震が欧州を少しは変えたぐらいだけに
3.11の自然と人工でのこれぞ革新の本質を松岡正剛の知こそ
その方法論=編集工学で一新される必要性を再度、
彼自身から語ってもらった気がしています。
当然、私のルーチンである講演開始のプロフィール映像の音楽は
Lady GaGaであり、
対談ではお互いが大好きなグレングールドの話で終わりました。
2016の私のミッションとして
「KK適塾」をこの秋から開講するつもりです。


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『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』


   


     1月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

我ながら、どこまでApple製品に囚われているのでしょうか。
そう想いつつも確かなPCもPadも進歩はしていません。
そして、ベルトが二重巻きのApple Watchに至っては、
時計もそれなりに気ままに使ってきた私でさえその未来は見えていません。
それにも関わらず、絶対に二重巻きの時計は手に入らないとなると、
元来、一人っ子だった僕の物欲が呼び寄せてしまうのです。
もはや時計、クロック、Padにしろウォッチにしろ
稼働部品は極めて低額です。
実際、生産原価はどのブランドにしてもほとんど知り尽くしています。
Apple Watchも、稼働ユニット部品は定額コストであり、
筐体やベルトでのほとんどそれこそ付加価値での競合にすぎません。
Padのスタイラスペンにおいても同様です。
僕はプロのデザイナーですから、結局、モノとブランドの価値で、
所有価値と使用価値を価値判断にしてしまっています。
このApple Watchは皮革ブランド独自の価値を借用して、
時計の価値を高めているだけにすぎません。
最も、僕は銀座のApple Storeで現物を見、その説明を受けました。
結果、この店員さんからは絶対に購入しないと決めました。
そして、ブランドショップで改めて質問をした結果、
商品知識ははるかに勝っていましたし、
ほとんどいつ注文しても困難でしたが
結局、すぐに私の所に来てしまいました。
それこそ、Padのスタイラスにしても、
僕がそれなりに認めているブランドと
新興ブランドは、一方はレンダリングスケッチ用であり、
もう一方はすでに書道用に落ち着いています。
商品価値がブランドに左右される時代にあって、
デザインがデコレーション価値になってしまうことはやむを得ないですが、
やはり、僕はデザイン=問題解決・価値創造・未来創成ですから、
ともかく、現代性でデザインのこの三つを満たしているモノの世界観に
僕自身は取り囲まれていたいと思うのです。
デザイン=問題解決・価値創造・未来創成の結論は、
「美」に集中と集約される焦点でなければなりません。
それは、僕自身が「真善美」三つはとても自分には立ち向かえないけれど、
「美」って決して分からないかもしれないけれど、
「美しいモノ」に取り囲まれるコト=環境に
ありたいと思ってきたからです。
物欲も年齢とともに消えていく、
そんな気配が忍び寄っているのも事実ですが、
あくまでも、自然は自然なりに美があっても、
自然も人間も裏切りがありますから、
デザインされた「美」には自分を浸すことができます。
自分の生涯において物欲からの「美」は求めるつもりです。


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『まず、ニュートン的力学の隠喩としてのデザイン』


   


     12月 27th, 2015  Posted 12:00 AM

学術と芸術が分離あるいは分担されてきた教育、
このわが国の教育システム・制度の歴史はとても長いと思います。
幸いにして、私は学術と芸術、それも芸術に派生してきたデザインを学び
プロのデザイナーになることが出来ました。
人はいずれ長じれば自分の職能的な経験値を伝える使命と義務があります。
このことは、すでに大学の恩師達には分かっていたのかも知れません。
私が想像もしていなかった交通被災で車イス生活を余儀なくされた時、
恩師たちからは、大学に戻れと言われ、その大学を辞した時には、
別の大学で、教育系では情報デザインとデザインを、建築系でもデザイン、
こうした教育側の訓練を受けていたのでしょう。
私が大学人を選んだ時には、「やっとその気になったか」と納得を受け、
大学人とデザイナーとして今日を迎えています。
そして、芸術と学術、文系と理系の融合化統合化によって、
私は「コンシリエンスデザイン」と「レジリエンスデザイン」を知り、
デザインを看医工学に焦点化した時には、
学域のデザインは人間の社会と時代、生涯に向かいました。
結果、健康と福祉は「命」=生きることを支えることを明確にしました。
これは私が芸術=美術大学時代の教授達が今なお私に、
プロとしてのデザイナー、その経験に基づく新たなデザイン、
その手法を発見させて、次世代への教育目標を創らせたのでしょう。
私は素直にニュートン的なベクトルの合力によって、
作用点に人間の思考・知識を置いて、その合力が人間に向かえば、
明らかに、健康と福祉が命を支えていること、
この支援力には、
レジリエンスという、例えば自然や社会からの
抑圧に抵抗する力をレジリエンスデザインとし、
レジリエンスデザインを充分に知り尽くしているからこそ、
コンシリエンスデザインが人間の支援力になるということを
明確に確認させてくれているのです。
学力・デザイン力を「コンシリエンスデザイン」とし、
まして私は、身体障害者であり心臓障害者ゆえに
「命」とデザインの関係を相反させて伝えていく使命と義務があるのです。
そして、すでに、このニュートン的な力、合力だけではなくて、
量子力学的な相互作用的、重力的、電磁力的な隠喩としての
新たな「コンシリエンスデザイン」を定義して、
次世代デザインを提唱していくことになるでしょう。


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『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』


   


     12月 24th, 2015  Posted 12:00 AM

工業デザイナー仲間と話をすると必ずこの車の話になります。
フェラーリでも、ポルシェでも、ランボルギーニでもなく、
ボンドカーになってしまいます。
成金趣味を超える所有と使用、
その価値は爆買する中国人には売らない主義、
それを今も護りどこまでデジタル化を許しアナログ性を護り抜くべきかは
企業現在のモノづくりの限界設定であり、
価値感のあり方に対する「閾値」決定論になっていると私は考えています。
「価値論」の根本は今流行の「デザイン思考」では決して到達しません。
なぜなら、
デザインには三つの方向があります。
相互作用力と重力=現在時代力、電磁力=経済と文化と歴史です。
さらに思考には、思うことと考えること、
この三つが反映されてこその「デザイン思考」には大欠落があります。
それは「野生の思考」から「デザイン思考」が
生まれたわけではないのです。
元来、デザイナーの方法論がビジネススクール以上の方法論、
それも「イノベーション」を導き出すというのであれば、
シュンペンター発想が歪曲された資本主義上では成立不可能なことです。
そこで私の使命は「コンシリエンスデザイン」に辿り着きました。
日本のモノづくり原点から一度は経済的な大試練を受けた、
新たな公益な資本主義と
デザインの統合主義=コンシリエンスデザインです。
具体的に私は一つのカーデザインにその具体性を唯一見いだしています。
だからデザイナー仲間が集まるとこの車、ボンドカーになるのです。
そのディテールには風=風圧と速度を曲面造形の抵抗とその解消解答です。
これはコンシリエンスデザインとレジリエンスデザインのシンボルです。
レジリエンスデザインというのは、一言で断言してしまえば、
ストレスには決して押しつぶされない抵抗自力の端正力です。
人間は決して自然とは調和などできるわけがなく、
しかも人間には有限があります。
生きていくことが死んでいくことへの道程であり、
そのことを忘れて生きているにも関わらず、年老いて直ぐに気づくのです。
ボンドカーにある曲面造形には、風圧抵抗:前進しなければならないこと、
その抵抗を真正面で受け止めて、
後方では見事に重力で地面に張り付くという造形での解決策です。
私は安易に「デザイン思考」とは呼ばずに、
「コンシリエンスデザイン」と呼んでいます。


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『安全と安心・防災と防犯は学際化デザインになる』


   


     10月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

気候変動と感染症の増大は天災を我々に与えます。
決して自然とは調和など不可能ですから、
天災はすぐに人災になります。
危機は管理ではなくて危機解決を即、実行しなければなりません。
安全と安心・防災と防犯によって私たちの生活は強固に守られるべきです。
私はデザインを理工学・医工学・文理学・政経学に冠して、
設計学・計画学・編集学・情報学で取り囲んできました。
そしてその根幹には「学際化」=コンシリエンスを与えました。
安全と安心は、価値学・信頼学によって解決が可能です。
防災と防犯は、健康学・防衛学が解決を近接させるでしょう。
デザイナーの資質にはどうしても学術性と芸術性が必要です。
これまでのデザインではどこか文科系のような印象でしたが、
私は理科系が必須だと考えています。
それを端的に集約しているのは、人間学の根本です。
確かに人間学部とか人間学科がありますが、
よくよく人間学を問い詰めてみるとそれは保健学に焦点化できました。
その保健学と防衛学を計画学で医工学と政経学の均衡上に配置しています。
防衛学は70年間戦争をしてこなかった敗戦国だけに、
こうした学術+芸術=学際に位置させることは日本では異質ですが、
戦争というよりテロ社会は
防災と防犯にデザインでの問題解決が不可欠です。
一方で価値学と信頼学がデザインに関与することで、
安全と安心が人間社会に確約されることになることは間違いありません。
私は長年、デザインは学術+芸術・文科系+理科系の学際化が、
物事・事物の「学際的デザイン」がデザイナーには求められていることを
ことばとかたちの相対論で40余年語ってきたと思っています。
コンシリエンスデザインによる学際性を看医工学に集中させました。
それは明らかにデザイン医工学が人間学としての保健学を基盤にして、
具体的には、「完全無菌」=アレルギー・アトピー・感染症を無菌化し、
人間が無菌になればなるほど弱体化することは間違いありません。
よって、その防御を「抗体保健」=免疫学へのデザインアプローチを
私は次世代デザイン=コンシリエンスデザインと看医工学で具体化します。
「KK塾」ではこの次世代デザインを方向付ける講師陣を選びぬきました。
この講座には招聘教授は現在2名を配置しています。


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『何がデザイン思考かは終わったのだ』


   


     10月 4th, 2015  Posted 12:00 AM

デザインはエンブレム問題・盗作問題・Gマーク問題で
一般的な不信を背負ってしまいました。
これは未だにデザイン=問題解決の手法というより、
デコレーション・装飾性や付加価値性が強いからです。
一方では、「デザイン思考」これなどはスタンフォード大学からの
借り物に過ぎませんが、私はユニバーサルデザインを
米国から持ち込み、その定義を政府に提示した一人です。
しかし、ユニバーサルデザインも誤解され、
ヒューマンファクターデザイン:HFD、UXデザイン、
インクルーシブデザインなどの大勘違いを指摘しました。
そうして「デザイン思考」に行き着いたわけですが、
この借り物を「コンシリエンスデザイン」にしました。
根本は、March 11.2011東日本大震災から、
気候異変・感染症増大に対してのデザイン実務背景を整理しました。
これは文科系+理科系をさらに学術+芸術にして、
信頼学・価値学・保健学・防衛学を加えることで
安全・安心・防災・防犯へ。
デザインを危機=危険時を機会として
解決を図るデザイン実務文理学際学にすることが可能になります。
危機解決では、リスク:起こるであろう危険だけではなくて、
クライシス:起こってしまった危険との、両方の危険回避と解決を、
デザイン実務に向けるという論理的な図解も、
学術と芸術の学際はデザインに集約するという段階に至りました。
実際は大阪大学大学院の医学系研究科にこの寄附講座を設置して
後期からは私が授業をやり、社会的には「KK塾」を
霞ヶ関にある大阪大学の分校的な場所で講座を開設します。
講師は、私がすべてのとりまとめをしますが、
選び抜いた講師陣を配置することになっています。
「KK塾」は、以前は大阪で実施してきましたが、
どうしても東京でという
この要請が強いことや講師陣を東京にも拡大することができます。
「デザイン思考」が例えば、医工連携+デザインになってきましたが、
私が看医工学という、保健学がきわめて真の人間学、
それは環境化(人工:ロボットや情報と自然との調和ではない)に
最適であることをこの図解では、明確になっていると考えます。
当然にPKD=Peace-Keeping Designと「完全無菌」対「抗体保健」を
なんとしても3.11復興と気候異変+感染症防止に向ける開発は
年内には、「デジタルアッサンブラージュ」としての
機器装置からロボティックス情報環境づくりで
これがデザインであるという、
デザインと何らかの発想を大転換できると考えています。


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『腕時計というモノの機能性、その反射・代謝・照射ゆえ』


   


     4月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

この時計は私の宝物であり、探し求めてやっと手にいれたモノ。
腕時計の最も肝心なことは、この時計は私の生命と一致していること。
つまり、私の生命が母の胎内に初めて存在し、発売時期までが、
しっかりとメーカーに記録が残っていることです。
パティックフィリップ社の有名機種「カラトラバ」1948から1949モノ。
いわゆるアンティーク品ですから、ベルトは使用を考えたこれも、
専門メーカーゆえ、リザード皮革の手仕上げにこだわっています。
まだ、戦後ゆえ、今ではありえないステンレス製にも関わらず、
極めて高額な腕時計です。このことはある人から教わりました。
今では、腕時計がデジタル仕様に大きく変換して、
いわゆる機能拡大になっていますが、機能性の真の意味知性を
失っていると言わざるをえません。機能性は、三つの分類があります。
まず、自然の模倣学習の反射、物理的な科学技術の代謝、
これが現代の機能性ですが、機能性は心的かつ神的照射があります。
それだけに、腕時計の真の機能性は、アンティーク要因を
必ず含んでいない限り、そのモノの性能と効能は宿りません。
腕時計は身体に密着させるには、生命との関係性が重大です。
ようやく、最近の有名ブランドもその記録性を考慮していますが、
私は10年近く探し求めていたようです。
私がこの世に生命を受けた当時は工業製品の素材は貧困でしたが、
そのためか、この当時に現代のスタイルが決定していたようです。
人間にとってモノの存在は、性能と効能を支える
機能性の反射、代謝、照射が、デザイン知性の要だということが、
デザイナーとしての私の職能経験からの知的美学性の結論です。
腕時計・万年筆・カメラ・オーディオ・自動車・自転車などは、
男なら知的美学性が最も求められている分野だと私は確信しています。


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