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Posts Tagged ‘若さ’


「70歳、JIDA永年会員証をもらいました」


   


     6月 28th, 2019  Posted 12:00 AM



70歳になって、JIDA(日本インダストリアルデザイナーズ協会)から、
「永年会員証」を受け取りました。
JIDAはICSID=国際インダストリアルデザイナーズ協会の日本支部です。
ICSIDのエクセレントアワードは
故・栄久庵憲司氏に続いて私が2人目の受賞者でした。
凄く立派な彫刻をいただきました。
JIDAには、文芸美術国民健康保険証があり、
フリーランスのデザイナーには役立ちました。
ところが福井県で使ったら「このようなものはない」と言われました。
後に、中部JIDAから北陸JIDAを立ち上げる際には、
私も若かったから随分中部JIDAと一応喧嘩をしました。
しかし、いわゆる工業デザイナーが全て会員となっているわけではなく、
団体として役割があるのに活動に物足りなさを感じることがあります。
最も、中には「除名」を受けた者が大学人としているのはおかしいです。
今、本当に重要な国際的存在や大学人が牽引してほしいです。
それこそ日本がデザイン界でトップになるべく、その「役割」があります。
そういう役割を期待しています。
「理事乞食」などいらないのです。
若さや経験の人や、ともかく英語が出来る人,
選挙などは要りません。
また、工業デザイナーの今の資格制度なども全く駄目です。
70歳だからこそ私は言わなければならない経験と立場があります。
見届け、恩返しし、後継者たちがその潮流を作ることを願っています。
最近は米国のDesign Thinkingを「デザイン思考」と言ってデザインを
語ることには納得がいきません。
その根幹の「思考」すらきちんと論じている著作はありません。
私は「Consilience Design」を提唱しています。


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『ふるさと福井の大震災を胎内で経験していたと聞く』


   


     7月 1st, 2016  Posted 12:00 AM



1948年(昭和23年6月28日16:13pm)福井大地震が起こりました。
地震規模はM7.1、1945年の大空襲は日本での三大空襲の一つでした。
羽二重によるパラシュートの産地だったからです。
地震1ヶ月後には集中豪雨により、3度も市街地は破壊されました。
自分はまだ母の胎内に命がようやく出来た頃で、
翌年の2月にこの世にでてきました。
大地震が発生した時、母は実家の竹藪に入ったそうです。
母の実家裏の竹藪は300坪ほどありました。
そして竹藪は竹の根が強くて地盤がしっかりしていたそうですが、
夕焼けと同時に福井方面の空が真っ赤だったと聞きました。
戦争から復員して、父はノンキャリアの警察官であり、
その若さから、
県境を自転車で乗り越えて石川県警に伝令を努めたそうです。
福井から県境に行くまでに数人の倒壊家屋に閉じ込められた人を救ったと、
戦争の話は従軍7.5年ながら、一切話さなかったことにくらべれば、
小さい頃にそのいくつかのエピソードは聞かせてもらいました。
阪神大震災の時には、父はすでに退官していましたが、
私はまだApple本社とのつながりがあり支援金と、
PowerBook100台が東京から福井に届き、
それを福井県警が最も早く神戸入りをするときに運んでもらいました。
と同時にキヤノン販売には、神戸にあるショールームのプリンターを
避難所にいるボランティアに開放していただきました。
しかし、その直前まで開発していた「ラリア」という
非常事態専用SOSラジオの中断が
とても悔しかったことを今も忘れていません。
以後、行政がらみのデザイン意義はないものと考えています。

*『最近見なくなった竹藪、その思い出』
*『都市伝説であれ、地震雲あり空をよく見よう』
*『あれから20年・・・阪神淡路大震災のこと』
*『想像力と直感あれど『東京ラリア』具現化出来ず』
*『児童を守らねばならない! そんな国ではなかった』


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『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』


   


     1月 5th, 2016  Posted 12:00 AM



僕の自動車遍歴は運転免許証を手に入れるところから始まります。
最近はカーデザイナーを目指しながら免許証も持っていない学生には
驚くばかりですが、それ以上に、
「車が欲しい」という欲求が皆無という若者が増えてきています。
僕も大学に入ったその年の夏休みには自動車学校に行きました。
しかし、当時の学校の教官はとても品格が無く、
言葉遣いも命令調でありその指導態度は我慢出来ないほどでした。
若さの余りに私はその自動車学校で事件を起こして、
しかも父は警察官、その学校の校長は父の元上司ということで
即刻、退学させられましたから免許証はありませんでした。
ところが、交通被災直前に私は実施試験とペーパーテストで合格して
免許証を手に入れていました。
美大は、なんといっても全国からカーデザイナー希望者が集まる
それこそ当時は数少ない工業デザイン専攻でしたから、
カーデザインのレンダリングが学生時代から、みんながとても上手くて、
僕は理由を聞いて、カーデザインという言葉すら知りませんでした。
車イスになって退院と同時に車は左ハンドルであるべきと、
シボレーのモンザ・モンテカルロ・カマロと乗ってきました。
カマロもベルリネッタ8気筒で、
それこそ、福井・東京間を競ったくらいでした。
それをデザイン企業支援者たちから見かねて、
僕は運転手付きでボルボのステーションワゴンに5年間乗りました。
それでも、僕の車遍歴がとどまらずに僕仕様の車を求めました。
一時は5台もあった時代があります。
BMWもベンツの時代もありました。それも数台乗っていました。
ワゴン車でスタッフ移動に使っていた頃もありました。
キャディラックのロングリムジンは、ある経営者から突然プレゼント。
流石に、全長7mのリムジンは名古屋から大阪に来るときに辞めました。
ベンツの時代には、6万kmで乗り換えてきたぐらいです。
正直、工業デザイナーですが、それほどの興味対象ではありません。
最も、カーデザイナーをめざす学生には
徹底した教育=レンダリング訓練を厳しくしてきたと思います。
カーデザイナーや車関係は、全ての教え子を企業留学させています。
従って僕には車仕様は「障害者対応の仕様」とその「部品デザイン」、
これにはメーカー本社と日本の制度を一致させていくことが目安です。
車遍歴は常に「障害者対応」が僕には基盤になっています。


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「大阪は革新都市になりうるだろうか」


   


     11月 29th, 2011  Posted 12:00 AM


「革新」とは原意、刃物で切り裂くことです。
「革」は獣の皮をピーンと張った象形であり、
「新」とは斧があるように、樹木を切った切り口。
いづれも、緊張感と切り口から新芽が出るさまを
見事に表しています。
大阪都構想を掲げた大阪府と大阪市の闘争は、
民主主義にて選挙戦になりました。
大阪都を形成しようとする元知事と現市長の闘争でした。
私は大阪府・大阪市いづれも府民も市民も公務員も、
本当に関西弁の重要な言い回しを失っていると、
在住しながらその思いに悶々としてきました。
「好きでっか」・「儲かりまっか」・「ホンマでっか」、
この言葉だけが価値観になってしまった風俗は、
偽装し、悪事に平然とする風土になってしまったのです。
つまり、「好き嫌い」・「損得勘定」・「嘘・本当」だけの価値観。
かつての関西独自の高度な人情味あふれた「正義感」、
その言葉「よろしゅうおましたな」という
判断を喪失してしまったのです。
生活保護の不正受け取り、ひき逃げや軽犯罪の多発、
こんな生活環境の中では、損得勘定だけの街でした。
私は18歳の時、一年間大阪で浪人生活を、
人情味あふれる天王寺阿倍野界隈で過ごしたことがありますが、
その時の人情味は消え失せ、損得勘定では、
「ぼったくり取引を平然とする」ことに呆れました。
したがって、根本的な解決イコール「革新」を期待せざるをえません。
正直、市長に革新の意気込みは感じること適わず、
されど若き府知事の言動には、
憤り任せだけではとの心配もあります。
しかし、今、この大阪に憤りからの革新があれば、
何かが変わるかもしれません。
ところが、元府知事の出自を激しく罵る風潮が、
選挙戦での嫌らしさこそ、大阪の汚濁の象徴になりました。
これは教育委員会はじめ行政の奢りが明確であり、彼らが独裁でした。
大阪の行政組織の大きな抵抗が現在の日本を示しているでしょう。
結果、府知事が市長となりました。
投票所の入り口には元府知事を支援する若者が静かに立ち並んでいました。
「若さ」は無茶を選びがちですが、それはまさに、
「革」をピーンと張り、樹木に斧を振るうがごとき情景です。
これこそ「革新」の具体的景観であってほしいと願っています。
40年ぶりのダブル選挙であり投票率は60%以上に到達しました。
大阪市民府民の革新への期待の大きさが表れています。
新知事と新市長に大阪の「革新」、
それは日本を革新することにつながってほしいと願うばかりです。
今回の選挙結果は、日本の将来への不安を希望にしたい結果でした。


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