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Posts Tagged ‘表現’


12月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 9th, 2011  Posted 10:50 PM

12月9日 先勝(戊戌)

「発想・表現・伝達」。
これらは、
プレゼンテーションをするための
基本要素である。

『プレゼンテーションの極意』「口説き」、それは三位一体


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11月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 10th, 2011  Posted 10:57 AM

11月10日 赤口(己巳)

デザイン手法、
プロダクトデザイン・
インダストリアルデザインでの
表現内容をアートとして、
永久収蔵されるのは
本当に心からうれしい。

デザインそのものを変容し
革新できないかと苦しんできたが、
それは報われたことになる。

『デザインという先手』あとがき


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10月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 16th, 2011  Posted 10:00 AM

10月16日 仏滅(甲辰)

まっすぐにというのを、
敢えて私流に表現すれば、
過激さでしか表現できない。

『デザインという先手』志


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9月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 4th, 2011  Posted 10:00 AM

9月4日 友引(壬戌)

デザインもアートも、
時代とともにその表現の内容を
添わせていくものだ、
と思っている。

『デザインという先手』掌


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「現代文房具はどうして面白いのか」


   


     6月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

文房具は、私はなぜか好きです。
おそらく嫌いな人はいないでしょう。
そして、文房具の種類は圧倒的に膨大。
これは文化と直結しているモノの大体系です。
「書く」という行為、
人間が表現をする「書く」という所作を取り囲んでいます。
基本は、「紙」と「鉛筆」、消しゴムであり、
やがて、紙周辺、鉛筆の進化、
書いても訂正するというためのモノに広がっています。
そして、さらに電子化と情報処理が加わって、
文房具のアイテムは格段に増殖している世界に私たちは居ます。
「鉛筆」というモノの発明が、
私たちが表現する世界をさらに拡大し、
表現された事を記録し、残していく所作の道具や器具も、
文房具になっていくわけです。
あらゆる鉛筆への興味は、
筆からペン、万年筆、さらには電子ペン、
それらが趣味収集の対象にしているの事が、
私の生涯をすべからく表していると言ってもいいわけです。
ちなみに、私はどんな服装の時でも、
「ペンの類」が無いと不安になります。
だから、ちょっとした外出でも、
それに見合ったペン=ボールペンなり万年筆を携帯します。
出張ともなれば、万年筆は使わずとも6本は選びます。
万年筆の新製品には心を奪われます。
そして実は、万年筆の軸がプラスチックの場合、
このレジンの流行がメガネフレームの流行と連動していることを
知っている人はいないのではないかと思っています。

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『資本主義からの逃走』
    「アレオパジェシカから遊離した表現の自由」


   


     12月 13th, 2010  Posted 12:00 AM

アレオパジェシカ・表現の自由
「アレオパジェシカ」から見直します。
1644年に英国の詩人のパンフレットでした。
詩人・ミルトンのこの指摘は現代にまで
「人権」を語る重大な発言として世界基準で支えてきました。
それはある種当時の権力=検閲への怒りそのまま「表現の自由」を激しく求めたことでした。
「表現の自由」というのは、まさしく「人権」の具現です。
しかし時に、私はなんでもかんでも、特に偏重したマスコミがこの「権利」を振りかざされると、
何ともイヤな気分におそわれます。
何かというと「表現の自由」となるわけですが、
私は、この「表現の自由」には表現する側に尽くすべき義務があると思います。
それは、人間の営為である「表現する」という権利は自然権ですが、
その自由さは当然として社会的な倫理観に照合された美学性が必要だと思っています。
アレオパゴス・倫理観
ミルトンは、ピューリタン革命時に絶対王政によって検閲されることへの怒りを、
古代アテナイに存在していた裁判所・アレオパゴスから名辞されていると言われています。
つまり、この裁判所での決定事項には、
当然のこととして人間としての倫理観が徹底されていました。
それだけに「表現」は人間の自由権利だから、
すべてが許されているという、特に、マスコミの偏重思想団体や、
宗教法人として納税もしないようなところからの表現発言には異を唱えたいと考えます。
ミルトンに限らず、ロック、ボルテール、さらにはガリレオまで、
学問的な真理を守ろうとしたことも「表現の自由」につながっています。
キリスト教・反ベクトル
私は、この背景にはキリスト教の根底にある懸念、
すなわち相反する矛盾が見え隠れしていると思えてなりません。
「自由」には「拘束(検閲)」という反ベクトルが働きます。
「平等」には「差別」という反ベクトル、
「愛」には「暴力」が反ベクトルです。
したがって、私も「表現者=デザイナー」ですから、
「デザイン表現は自由」であるべきという基本権は十二分に理解できますが、表現者であるまえに、社会的な存在者としての社会的な義務を十二分に果たしているかが問われるべきでしょう。
「表現」に明らかな拘束性、差別性、そして暴力性が感じ取れることは、
「表現の自由」の大勘違いだと指摘しておきます。


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11月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 3rd, 2010  Posted 10:00 AM

11月3日 大安(丁巳)

「言語道断」とは、
道元が発した禅宗の、
いわば哲学的な言説語である。

ことばでの表現が
全く不可能な世界観を示す、
「道断=言わず、道断=言わず」という
現成公案(=心理は常に
すべての存在の上に、ありのままに
はっきりとあらわれているという解釈)
の一つであった。

『デザインは言語道断』あとがき


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10月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 16th, 2010  Posted 2:03 PM

10月16日 大安(己亥)

「自分を表現すること」…
それは、何かをつくることだ。

絵を描いてみればいい。
音楽を創ればいい。
ただし、文章で自己を
表現しない方がいいだろう。

『デザインは言語道断』面罵


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7月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 26th, 2010  Posted 11:28 AM

7月26日 友引(丁丑)

「カッコいい」という表現は日常語である。

本来は、「恰好」というのが正確な漢字表現だ。
「恰」は、あたかも、とか、ちょうどいい、
という意味を持っている。

『デザインは言語道断』格好


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『資本主義からの逃走』
   「つつましさによるインクルーシブデザインへ」


   


     7月 6th, 2010  Posted 12:00 AM

コンセプト否定論
おそらく、「デザイン教育」の基本には、
発想=コンセプトの立案とそのスケッチ技術習得
表現=レンダリングはじめモデリングなど
伝達=プレゼンテーションによるデザイン具現化訴求
に集約できるでしょう。
以上のことが、「デザイナー育成教科書的」だとすれば、
「コンセプト発想の否定」は、
これまでのデザイナー教育を破壊していることになるでしょう。
しかし、本来は、「コンセプト立案ができる能力の否定」と受け取ってください。
なぜなら、デザインとコンセプトの関係もわからずに、「その否定は不可能」です。
よく、「企画職につきたい」という学生がいますが、
「企画」は「計画」が出来ない限り絶対に不可能なわけです。
いづれこの話に入るでしょう。
ともかく「コンセプト否定」をする、その直観デザインはどうすることなのだろうか?
インクルーシブ・デザイン
私の応答を記します。回答でも解答、まして正解ではありません。
私はこの考え方をそのまま、「研究室名」にしています。
「インクルーシブ・デザイン」であることです。
つまり、「直観」と「直感」が連動し合うのは、「会話」です。
「私」と「あなた」という「情景」です。
この会話においては、お互いが「私」と「あなた」が交換されて会話が成立しています。
「私=xは、あなた=yがAであってほしい」。
「いや、私=yは、あなた=xがBであってほしい」。
さて、この場面です。
この場面でのAとBが何かは不明ですが、
xさんとyさんが会話の話題がA・B になっています。
この情景では「一人称」と「二人称」、「私」と「あなた」の関係が成立しています。
この会話関係に、「三人称」(彼・彼女・彼ら・彼女ら)が入ってきます。
この会話関係の「内部会話」をinclussiveと呼びます。
Inclusive Design
つまり、『Inclusive Design』とは、この情景内の対象すべてをデザインすることです。
「インクルーシブ・デザイン」を包含されたとか、
包括的という抽象的な定義は、何も定義していません。
『Inclusive Design』は、まず「一人称」=私が対象とするデザインを、
「二人称」あなたのためにを基本にしてこそ、
「三人称」までをも対象にできるデザインと考えるべきです。
したがって、まず、自分が望んでいるデザインは、
あなたから、彼らまでの「望んでいるモノ・コト」であり、
そこに、デザイン対象へのコンセプトは不要です。
「自分が欲しい」・「きっとあなたも望んでいる」・「彼らの夢」
というインクルーシブ=内情を最も意識することです。
だからこそ、このインクルーシブの関係では「つつましさ」が無い限り、
基本の「会話」は成立しません。
ただし、「つつましい」とは、精神性の表現ですが、
この精神性は、基本的能力であり、
能力から姿勢・態度にまで自己修練は限定されたデザイナーになるでしょう。
その理由を語る必要はないでしょう。


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