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Posts Tagged ‘装飾’


「人形・ワイフのコレクションにみる『ブランド価値』」


   


     8月 12th, 2012  Posted 12:12 AM

人形の収集には「ダンディズムがある」。
これは私のオーディオ恩師であるS先生から教わりました。
しかし、私にはどうも「人形」までという興味は
なかなか自分に持ち込めませんでした。
しかし、ワイフにはそれがあったようで、
今回は彼女のコレクションを借りて紹介してみようと思います。
感心するのは、
この趣味は必ずコレクション価値が
投資効果につながっていてオークション価値が高くビックリします。
さて、このコレクションは、VISIONAIREに登場したシリーズです。
VISIONAIRE TOYS、44と45すべてです。
最近は地震対策もあって、
室内に展示し配置していませんから、久々に取り出してみました。
すべてが有名ブランドを象徴しています。
一目瞭然のモノもありますが、
ブランドイメージを彷彿させるだけのモノもあります。
すなわち、「ブランド・イメージ」を
決定的な人形アイコンに装飾するだけで認知可能を考えてみるべきです。
私は、日本のあらゆる業種の企業には「ブランド・イメージ」こそ、
企業存在が「社会的認知」を国際的に確立することが出来る。
そして、この「ブランド・イメージ」だけが、
実は「決定的なビジネスモデル」であるということが分かっていません。
残念ながら、そこまで、この資本主義経済の根底を理解している経営者は
日本では皆無になりました。
かつては何名かが存在していました。
いづれ、ブランドイメージに対して、
どれほど無知な「これほどの経営者」を書き残すべきと考えています。
この12体の人形の表面でも、
すでに「認知」されている「商品への信頼性」こそ、企業美学です。
企業美学無き企業は、
断言すれば、世界を汚し、世界の夢を破壊しているのです。
私の喧嘩師としての「闘争」を再確認するには、
ワイフの収集している人形を見るだけで信念になります。
まさしく、「人形という形態の表皮装飾」でも、
企業、そのブランドの社会的な存在性・効用性は
きわめて明確だということを主張しておきます。


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「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」


   


     3月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

モダンデザインというよりも、
デザインの源流として、
私はロシア・アヴァンギャルドを位置づけています。
マレーヴィチやマヤコフスキーなどがその代表者ですが、
陶磁器でみると、1920年代には、スエーチンやチェホーニンの作品から、
ロシア革命が一段落し、
革命後次第にスターリンやレーニンの独裁制が強まり、
彼らからの粛正によって、表現形式と内容の後戻りが見えてきます。
シュプレマティスムとしてのスエーチンのレプリカは
MoMAで手に入れることができました。
それから岐阜の現代陶磁器美術館での
ロシア・アヴァンギャルド展は感動的な展覧会でした。
ロシア革命が「ナロード・ニキ」=(人民の中へ)という平等主義は、
コーヒーカップでの加飾においても、幾何学的な正方形や長方形、
そして単色での色面構成でした。
しかし、次第にそれはかつての貴族的な装飾に戻っていきます。
モダンデザインの源流が
次第にデコレーションとしての加飾性を抱え込むことで、
共産主義あるいは社会主義の階級制は復活するのです。
それはデコレーションを過飾してしまうことで、
モダンデザインの破壊につながっていきます。
ロシア革命を芸術・建築・演劇をデザインで統合していったリーダーたち、
彼らの芸術表現活動への圧力や粛正に注目します。
彼らは自殺や虐殺される歴史こそ、
イデオロギーが芸術によって
意識改革できる手段であることを証左しています。
クズキッツフやチェホーニンの作品=シュプレマティスムが
影を潜め始めます。
私の想像では、スエーチンのコーヒーカップ、
そのレプリカをMoMAが製作した意味に、
モダンデザインの源流があったからだと思っています。
こうしたロシア・アヴァンギャルドでの陶磁器技術は
現代と遜色ありません。
むしろ、その色面構成などは現代での商品価値を
今でも確実に持っていると評価しています。

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「貿易立国最初の輸出品・九谷焼き」


   


     3月 8th, 2012  Posted 12:00 AM

明治維新後、日本のアイデンティティ明示は、
岡倉天心の国家プロジェクトで、狩野芳崖の「悲母観音像」でした。
西欧諸国が驚愕したこの絵画一点を証明したのは、
1873年ウィーン万国博での「九谷焼き」商品でした。
日本が貿易立国となっていく最初の商品が九谷焼きになりました。
私はこの最初の貿易品が九谷焼きだったのなら、
長い間どのような陶磁器であったのかと思い続けてきました。
改めて逆輸入された当時の輸出品そのものを九谷産地で見つけ出しました。
今では私の大切なコレクションになっています。
これは現在の九谷焼きをはるかにしのいでいるとともに、
日本の現代の陶磁器技術を超えていると評価できます。
まず陶磁器とは思えない、
まるで「ガラスのようなセラミックス」であり軽いことは究極です。
さらに、装飾=これをデザインとは私は呼びませんが、
デコレーション=装飾・加飾技法もずばぬけています。
だから、加賀の伝統は今も健在だとは言い切れないと思っています。
最近、全国の陶磁器から漆器に至るまで、
デコレーション=加飾の描写技法デッサン能力の低下を私は憂いています。
ずばり、
伝統工芸産地での自然写生デッサン力は下手くそになり果てています。
そのようなデッサン力で「人間国宝」の作家が数多くいます。
これは日本だけでなく海外の有名ブランドでも起こっている傾向です。
それこそ、何の花か、鳥らしいが何の鳥、葉っぱなどの描き分けは
完全に間違っているモノが多いのです。
自然観察力とデッサン能力は世界的にも力量低下しています。
世界の自然景観で失っている動植物が多いのかもしれません。
私は、最近は陶磁器を徹底的に収集をしています。
デザイン資料は「使わないと」本当の機能・性能が不明ですから、
いざ購入ともなれば、
自分がコレクションするのだから吟味に吟味します。
陶磁器はCHAINAと呼ばれてきましたが、
漆製品=JAPANでは無くて現在はLUCQER WAREと呼ばれます。
したがって、陶磁器産業はセラミックス産業として、
まず、陶石や陶土を伝統工芸陶磁器現地産から解放されるべきです。
さらに、写実的なデコレーション、
これを私は絶対にデザインとは呼びませんが、
デッサン描写力を強化すべきです。
となれば製陶技術を
さらに高度な技術開発をベースにしたデザイン導入が必要です。
結局、陶磁器はあまりにも伝統工芸への大きな誤解、
産地存続の継承にだけ踏みとどまり、
全く「革新」をしてこなかったと判断しています。
なぜ、明治維新後、日本の国際化・貿易立国としての輸出品が
九谷のセラミックスだったのかその詳細を見直せば一目瞭然です。
この技術はもはや九谷に残ってはいないのではないでしょうか。

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「12月のデコレーションと絢爛豪華」


   


     12月 2nd, 2011  Posted 12:32 AM

12月は決まって「デコレーション」が似合っています。
まず、クリスマスツリーや、
夜は、照明が煌びやかで歳末というより、
クリスマスを感じます。
しかし、今年は東日本大震災・原発事故という国難を
私たちは背負い込みました。
そして、まだまだ油断ができそうにありません。
慣れたくはありませんが、
時々日本列島は地震がどこかで起こっています。
被災地が揺れるとたまらなく悲しくなります。
だから正直「デコレーション」が今年は何か空しく感じるのです。
もっとも、デザインが装飾という言葉に重ねられている一般認識。
私は、デザインとデコレーションの明白な違い、
そしてデコレーションの意味をすでに40年も語ってきたと思います。
きっと、死ぬまでデザインとデコレーションを語るのでしょう。
けれども、クリスマスを待ち受ける今年のデコレーション、
今年、日本の様々な街に飾られている
色々なデコレーションへの「きもち」は、
何かを心に刻み込んでおく必要があると私は思っています。
寒暖のリズムは激しく変化し、
適うなら、もうわが列島は揺れないでほしいと願います。
ワイフに告げました。
若いときに「絢爛豪華な装飾いっぱい=デコレーション」なんて、
大嫌いだったのに、最近はそんなデコレーションのある
デザインをやってみたい。
しかし、デコレーションと絢爛豪華は絶対に違うのです。
おそらくなんとしても日本文化の絢爛豪華には伝統がありました。
それはデコレーションとは全く異なっていたと思います。
わが国は、デコレーションではない絢爛豪華が必要な国家なのです。

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7月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 25th, 2010  Posted 9:00 AM

7月25日 先勝(丙子)

私は、
デザインにおける饒舌さ=過飾は認めない。

装飾とはデコレーションであって、
決してデザインではないからである。

『デザインは言語道断』品格


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『資本主義からの逃走』
 「『付加するデザイン』は、デコラティブデルージョン」


   


     7月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

デコレーション誤解
デザインの勘違いを40年間膨大に観てきました。
私は、デザインとデコレーションとを分別しています。
また、「これ、本当にデザインかな?」と思っていた人に、
「あれはデコレーションです」と言うと、
「なるほど!」と理解していただける人は確実に増えてきました。
デザインとデコレーションとは、なかなか区別できない人が多いのは、
「デザイン」という言葉は洋装が日本に入ってきた戦後であり、
同時期には「図案」や「装飾」がデザインと邦訳されたことに起因しています。
ファッションという言葉も同様です。
そして、必ずしもそれは間違いだと断定できない意味もあります。
デザインはファッション、というのも否定的な意味もあり、肯定的な意味もあります。
過飾的妄想
したがって、私自身は、デザインとデコレーションについては、
装飾そのものを否定するわけではなくて、
問題解決というデザインの本質に装飾が必然である場合は、これは容認しています。
しかし、加飾=装飾を施すこと、過飾=加飾いっぱいにすることは
華燭を越えた装飾し過ぎていること、
すなわち「不必要で実用性も無く、
商品の存在性を事大主義的に誇張すること」をデコラティブ=decorativeとみています。
ところが、このデコラティブであることを妄想的=delusionにまで拡大していることを、
「デザイン」ということは、目に余ります。
確実に「デザイン」の必要性が訴求される時代です。
だから、加飾・過飾・装飾が虚飾化された過飾的妄想=decorative delusionを
デザインというのは、見過ごすことはできません。
これを直感的に判断して否定する言葉が、
「simple is best」というパロール=会話文節も正しい見識ではありません。
デザイン系を有さない大学や行政などには、この認識が蔓延しています。
デザイナーとしては「視覚的・認識的に痛い」とすら感じる
ポスターやパンフレットがあふれています。
これらは「付加」されたデザインですが、デザインの妄想にすぎません。
デザインが妄想の中にある人は増加しています。
特に、経営者、技術者や社会学者や経営評論家が「デザイン」を語るとき、
この過飾的妄想=デザインとなると困惑します。
デザイン行政の担当者で、
「デザインを見下して、あたかもデザインの定義」として語られるときは、
見過ごすことは私には不可能です。
デザイン価値の美学性
「過飾的妄想」が社会に存在していることは、
ある種のサブカルチャーだということも私は理解することができます。
これは「一過性的」であって、連続している騒音的なことですが、
文化の一面であることも否めません。
文化は確かに玉石混淆です。
が、デザインの純粋性にのみ、「デザイン価値の美学性」を私は求めたいと考えています。
私がデザイナーとして育成したいのは、less is moreをしっかりと確認できる資質です。


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『資本主義からの逃走』
 「デザインは『付加』するものではないということ・1」


   


     7月 19th, 2010  Posted 12:00 AM

デザイン価値
大企業でのデザイン活動と、
地場産業や伝統工芸産地でのデザイン活動の大きな違いは、
「デザイン価値」の認識です。
国内の大企業は、かえって、「デザイン」によって「付加価値」が上がる、
と単純に思っている所が多いと私は思っています。
つまり、経営者は「デザイン」を装飾程度のものと思い込んでいる人が多い、
これは私の体験です。特に、サラリーマン社長に多いというのが経験値です。
デザイン部門への依頼は「外観・意匠設計」、これは「装飾」にすぎないと考えているのです。
現代、いや最近はますます、この程度の経営者ばかりになっています。
それが日本の「モノづくり」の質、その低下に拍車をかけています。
むしろ、地場産業や伝統工芸産地にとって、
カタカナである「デザイン」は、
その本質を「モノづくり」の根本で語り合えば理解は深まるというのが、
もう一つの私の体験です。
さて、越前打刃物に飛び込んだ私の「伝統」と「刃物」に、
私はデザインを突きつけたことになりました。
それは、デザイン価値を伝統と刃物、
そのモノづくりの根本を革新するというまずは意気込みでした。
この意気込みや覚悟を、職人さん達に理解してもらわなくてはなりませんでした。
ところが、すでに産地活性化は、
「地方活性化政策=国家行政政策」として幾たびか試みられていたのです。
結論は、産地は「デザインに失望」していました。
理由は簡単です。
行政も、デザイナーの高名な先輩たち自身が、
「デザインという付加価値」が欠落しているということで、
製品開発をしても、東京で展覧会をやればそれで「行政指導」なるものは終わりだったのです。この事態は今も改善はされていません。
その結果、「デザイン高度化事業」の成功例は皆無と言っていいでしょう。
その事例をどれだけ多くみてきたことでしょうか。
だから、「デザイン行政」は根本から変革する必要があります。
この戦略は別稿とします。
私は三つの戦略方針を掲げました。
■「伝統」=伝統技や素材に対するデザイン
■「技術」=手づくりの継承に対するデザイン
■「情報」=産地物語に対するデザイン/
これらを統合化すれば、伝統産地の「情報化」と「製品価値」の結合です。
すなわち、これこそ、innovationであり、
伝統産地の物語情報戦略、そのデザインということでした。
すでに30年前の話ですが、
このデザイン手法は、現在も「方向づけ」として正確だと確信しています。
なぜなら、これがデザインの本質だからです。
この本質論は、「モデル化」することができます。
すなわち、「デザイン価値の定義論」だと認識しています。
デザイン価値=脱工業化であり、情報化=物語構造論へ価値論を持ち込むことになります。


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3月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 5th, 2010  Posted 11:50 PM

3月5日 友引(甲寅)

しかし、デザインは一般的には
外装→装飾→コスメチック(化粧)のみが
仕事の領域だという誤解が
いまだに世間には蔓延している。

『プラトンのオルゴール』
デザイン「製図」はビットの時代へ


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2月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 18th, 2010  Posted 11:50 PM

2月18日 大安(己亥)

学生時代には、
花鳥風月なんて目もくれなかった。
花鳥風月を現代デザインの要素とは
考えたこともなかった。

むしろ、装飾のアイデアとしては
安易すぎると見下していた。

『プラトンのオルゴール』
花鳥風月、風のごとくデザイン


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