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Posts Tagged ‘製品’


『デザイン対象となる医療関連の開発について』


   


     6月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

確かに少子化と高齢社会に対して、
医療関連のデザイン開発は対象化できます。
自分のデザインも単なるIoTではなくて、
Internet of Medical Things=IoMeTを具体的に研究開発し、
コンシリエンスデザインの目標にしています。
したがって、この風潮が多少出てきたことも現実ですが、
余りに安易な開発の講座や、現実製品開発が進んできました。
しかし、医療用ということでは、
相当に難しい制度・基準から基礎知識が求められます。
まず、GMPという基準制度があります。
Good Manufacturing Practiceという無菌状態での製造生産があります。
現実商品でも、
食品や医療機器にはこの適合から違反しているモノもあります。
さらに薬事法なる制度が、
医療品だけにとても厳しい審査が待ち受けています。
このデザイン開発は
相当の知識が求められていることが忘れられています。
自分が最近、危惧していることは、たとえば、現実素材があるから、
その生産地場に医療産業を簡単に未来開発として目標化されることです。
特に、現実素材がそのまま医療用に転換できるわけがないということです。
医療用素材は専門メーカーによってと
大学の研究機関で相当に研究されています。
医科大学の医師からの要請だけに基づいた新産業の創成化は
とても困難だということです。
たとえば、現実の素材がそのまま医療用アイテムになることは
まずありえないことを明言しておかなければなりません。
すでに、たとえば手術しても体内留置可能な素材開発は
医療用として開発進化しているのです。
確実に、この医療開発デザインには、
医工連携では困難であることを主張し続けてきました。
医学系・工学系・看護系・保健学系を統合化できるデザイン系が
それこそ、コンシリエンスデザインとして可能になると
記しておかなければなりません。

*『デザインはすでにここまでが必然となっている』
*『仕分けされたプロジェクトの重要性から現政権を否定』
*『医薬品業界の誤った市場認識と経営方針・大錯誤』
*『スピーカー企業の社長は学者であった』
*『IoMeTのためのMedical LogとConnect nome』』


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『デザイナー能力の格差が拡大している』


   


     4月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

デザイナーの能力が想像以上に低下しています。
これはデザイナー教育の教員能力が低ければそのまま学生に反映、
デザインコンペも審査委員能力が低いと、受賞は低レベルです。
ところが反対に、熊本の収束が見えない連続する大地震に、
直・現場の崇城大学のデザイン系教員と学生、
九州大学のデザイン系教員(レジリエンスデザインがテーマ)と学生は、
目の前で起こっている被災状況に必死で取り組んでいます。
あるデザイン系大学では「防災もデザイン?」とか、もう呆れかえります。
自分は「コンシリエンスデザイン」を昨年、正式に訴求してきました。
しかし、大企業のデザイン部門では、
「デザイン思考」が社内では理解されているわけではないけれど、
他部門は、企業ビジョンとか、イノベーションがデザイン思考で改善する、
かもという期待感が最もらしくブームになっているとのことです。
とても、造形言語=designing language、
形態言語=designed languageによる、形態デザインと制度デザインが、
デザイン意図・デザイン内容で、その社会的なプライミング効果がある、
このような論理展開はまったく通じないことだと思わざるをえません。
あるデザイン事務所が小冊子130号出版をやり終えていました。
この中身は、それこそ、言語論であり、記号論でした。
素晴らしい小冊子を発行されてきましたが、
この書籍を読了不可能なデザイナーがリスペクトされないのは当然です。
40数年デザイナー、そしてデザイン学者として生きてきて、
果たして、まもなく動物実験結果がわかり、
製品と論文と、そして制度設計が待ち受けている
プライミング効果としての期待をされるデザイナーが育成不足です。
デザイナー教育に大問題があるのでしょう。
デザイナー能力格差が激化しています。

*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『『007』形態言語を変更した新たな造形言語の失敗事例』
*『『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語』
*『特別講義・多摩美術大学『制度設計と形態設計』』


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『物欲によるモノの美と美あるコトへの自分』


   


     1月 6th, 2016  Posted 12:00 AM

我ながら、どこまでApple製品に囚われているのでしょうか。
そう想いつつも確かなPCもPadも進歩はしていません。
そして、ベルトが二重巻きのApple Watchに至っては、
時計もそれなりに気ままに使ってきた私でさえその未来は見えていません。
それにも関わらず、絶対に二重巻きの時計は手に入らないとなると、
元来、一人っ子だった僕の物欲が呼び寄せてしまうのです。
もはや時計、クロック、Padにしろウォッチにしろ
稼働部品は極めて低額です。
実際、生産原価はどのブランドにしてもほとんど知り尽くしています。
Apple Watchも、稼働ユニット部品は定額コストであり、
筐体やベルトでのほとんどそれこそ付加価値での競合にすぎません。
Padのスタイラスペンにおいても同様です。
僕はプロのデザイナーですから、結局、モノとブランドの価値で、
所有価値と使用価値を価値判断にしてしまっています。
このApple Watchは皮革ブランド独自の価値を借用して、
時計の価値を高めているだけにすぎません。
最も、僕は銀座のApple Storeで現物を見、その説明を受けました。
結果、この店員さんからは絶対に購入しないと決めました。
そして、ブランドショップで改めて質問をした結果、
商品知識ははるかに勝っていましたし、
ほとんどいつ注文しても困難でしたが
結局、すぐに私の所に来てしまいました。
それこそ、Padのスタイラスにしても、
僕がそれなりに認めているブランドと
新興ブランドは、一方はレンダリングスケッチ用であり、
もう一方はすでに書道用に落ち着いています。
商品価値がブランドに左右される時代にあって、
デザインがデコレーション価値になってしまうことはやむを得ないですが、
やはり、僕はデザイン=問題解決・価値創造・未来創成ですから、
ともかく、現代性でデザインのこの三つを満たしているモノの世界観に
僕自身は取り囲まれていたいと思うのです。
デザイン=問題解決・価値創造・未来創成の結論は、
「美」に集中と集約される焦点でなければなりません。
それは、僕自身が「真善美」三つはとても自分には立ち向かえないけれど、
「美」って決して分からないかもしれないけれど、
「美しいモノ」に取り囲まれるコト=環境に
ありたいと思ってきたからです。
物欲も年齢とともに消えていく、
そんな気配が忍び寄っているのも事実ですが、
あくまでも、自然は自然なりに美があっても、
自然も人間も裏切りがありますから、
デザインされた「美」には自分を浸すことができます。
自分の生涯において物欲からの「美」は求めるつもりです。


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12月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 15th, 2015  Posted 12:00 AM

12月15日 先負(乙丑)

「一石を投じるべき」か?

そう思いますが、
どれほど、製品アイディアをつくし、
商品化に至らずとも
「美しいデザイン」の作品は
すでに出版された「著作権」があります。

しかし、
発想を法的制度よりも
重大なことは
モラルの問題だとかんがることが
「発想」の根本であるべきだ!

川崎和男の発想表現手法


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『手づくりから物事デザインと事物デザインを決める』


   


     10月 8th, 2015  Posted 12:00 AM

私は工業デザイナーゆえに工業製品の確実さを最も信頼しています。
だから「大嫌いなモノづくり」に『手づくり』があります。
現代手づくりの大間違いは、手づくりだから一点一点違いがあります。
これは嘘です。本来、手づくりならば、正確無比でなければなりません。
そういう意味では、私が手づくりで認めているのに、
この万年筆とボールペンが在りますが
これらのいわゆる作家二人は亡くなりました。
だから最期の製品だということです。
もうこの手づくりは無くなるでしょう。
ボールペンは跡継ぎは、この手法をすべて機械づくりにしてしまいました。
残念ながら、もう選ぶことが出来ません。
手づくりには、手造りと手作りがあります。
万年筆は手造りであり、ボールペンは手作りです。
この違いが分からないデザイナーが増えてきました。
それが、人の手が入っていて「手づくりの良さ」とか言われると、
それこそ、物事のデザインと事物のデザイン、この差異性も論理化できない
デザインの無知さを指摘しないわけにはいきません。
すでにデザインはモノからコトに変わってきました、
という言われ方があり、
これは物事のデザインです。
ところが、コトのデザインが出来ているから、
これぞグッドデザインというのは、大間違いです。
事物のデザインとはおそらくIoT=Internet of Thingsになります。
ところが、IoTを語るITベンチャー企業は、
30年後には1000社が2.8社残るどころか、
5年後ほとんどが消滅していると断言しておきます。
手づくりは、手作りと手造りが、
物事のデザインと事物のデザインを成し遂げなければなりません。
アートもデザインもその差異性も語れないのに、ともかくデザインを
簡単に誇張している作品に、これまたマスコミが絡みついているのです。
正確無比なデザインが手づくりの万年筆を探し出すことは
とても困難になってしまいました。
それこそ、この万年筆もボールペンも米国の作家でしたが、
もう亡くなってしまったのです。
今、この傾向がペルシャ絨毯の世界にも広がっています。
幸いなことは、日本の本当に数少ない伝統工芸産地の
ある才能には残っていることです。
物事のデザインと事物のデザインをI2Tにしていくには、
真の「手づくり」、その正確無比さをデザイナーが
語り直す必要があるようです。


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『人工腎臓のFirst Model15年後現在・ここからまた出発』


   


     3月 21st, 2015  Posted 12:00 AM

私がCG研究で米国で出逢った光造形の原型を忘れられなくて、
結局、名古屋市立大学での教授になり、光造形システム装置から、
私はトポロジー(位相空間論)さらに、空間・形態論としました。
そのトポロジー空間論は今も批判する輩には、
すでに人工心臓は3つのモデルと実働モデルを動物実験しています。
そして、人工臓器の中でも腎臓のネフロン単体の人工化は、
すでに15年この考察を続けていて、この5月には本格的に
医療機器メーカー・ショールームにて展示計画が進行しています。
その最初の人工腎臓初期モデルがようやく、
現在のダイアライザーを変革するものと確信しています。
当然、ここに掲載した造形言語はあくまでもデザイン意図形態ですが
この造形言語に対して、新素材アイディアを具体化していきます。
先般も、放送大学の「産業とデザイン」最終回では、
これからのデザイン方向として、私の人工臓器が事例でした。
デザインにとって、これまでは人体外部の製品・商品でしたが、
私は人体内部の臓器そのもののデザインを対象化しています。
まだ正確ではありませんが、この人工腎臓の素材も私なりに、
その素材メーカーのアプローチに入っています。
いわゆる人工透析という医療システムはすでに私は破綻していて、
その原因は「使い捨てのダイアライザーとその一式」です。
すべてが医療廃棄材であり、それはゴミにすぎません。
私のコレまで15年とこれからの研究開発も私世代では、
とても完成には至らないかもしれませんが、
すべてを書き残し、次世代デザイナーに残しておく覚悟です。
しかし正直には、なんとしても私自身でここからの人工腎臓も
すでに人工心臓はじめを完成させたいと考えています。
そのためには、これまでのデザイン教育の限界を打ち破る、
「コンシリエンスデザイン看医工学」、その講座と
産学協同プロジェクトを開始しています。

 


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『デザインディレクター・職能名の定義をしておきたい」


   


     1月 31st, 2015  Posted 12:00 AM

「デザインディレクター」という職能名が一般化してきています。
そこで、よく、私が聞かれることに、
「デザイナーとディレクター」とはどう違うのですか?ということ。
これはまるで異なっています。
デザインディレクターということについては、
丁度バブルが来る直前に、
数名が毎月ある会合をしてきた時期がありました。
だから、デザインディレクターという職能名を決めていたメンバーは
限られていますし、その時の事情を知っている工業デザイナーです。
工業デザインも、インダストリアルデザインから、
プロダクトデザインに変わってきていました。定義が違います。
当時は、「日本D機構」の組織化をねらって議論をしていたのです。
実際は、ある著名グラフィックデザイナーにマーク一連を依頼し、
その周辺も出来上がっていました。そのメンバー達だけが、
このデザインディレクターという職能名を知っています。
まず、デザインディレクターとは、工業デザインが主であること。
工業デザインは、少なからず、10年は必要になると考えています。
その工業デザインを含んでさらにデザイン全体価値を監督可能なこと
これが最も大事なことであり、それは限られた才能と実績が必要です。
製品デザインから、製造プロセスから商品化すべてでの
製品・商品の全体価値、その創造と管理運営が出来るコトです。
したがって、安易にデザインディレクターと自称している輩は、
すぐにバレるでしょう。スケッチも描けない、情報化環境もできない。
ましてや、金型製造から管理、商品計画の展開も出来ない、
そんなデザイン職能は、決して長続きしませんし、
その人物のデザイン能力すら疑われると私は判断と評価をしています。
先般も、「これデザイナーに頼んだのですが・・・」と
私に尋ねられると、私は即座に断言決着を言い渡しています。
「これはデザインどころか、ましてディレクターの仕事ではありません」。
もし、心配なら、当時議論をしていたメンバーに問い合わせ下さい。
それって、誰?、そして間違い職能者?、いづれ書き残します。

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「HMD1994年から取り組んで・・・絶対に勝つ!」


   


     8月 9th, 2013  Posted 12:00 AM

HMD=Head Mounted Displayのことです。
私はこの開発に取り組み未だにこの開発の商品化を狙っています。
かつては大手企業とまだ通産省とのベンチャー起業化しました。
その後、あるベンチャーでGマークも獲得しましたが、
その機種をGoogleにプレゼンして、
すっかり技術は追い越されたようですが、あの企業において、
まったく気づかれていないことがとても多いようです。
メガネフレームを30年もデザインしていますから、
目に近づける製品に欠かせないことが、
現在のエレクトロニクスデザインには大欠落が制度的にも欠落。
製造物責任に問われる設計が成されずには、
眼球保護と顔面保護にはデザインの未完成を多く発見します。
この画像は、HMDは必ず現実画面に情報がバーチャルであるべき、
つまり、通常風景視野に情報のアイコンから画像、映像表示です。
すでに商品化したモノは今も映画鑑賞で売られていますが、
やがて、私たちはこの画面でPCからケータイ、
さらには、この画像のような手術用HMDになるものと考えます。
この時、操作は音声か、触覚フィードバックで、
空中のアイコンや画像に実感的な触覚操作ができるでしょう。
そういう意味では、今後は、PCは勿論のこと、
Padもケータイも主要なモニター装置アイテムは変革します。
先日は関西JIDAで、あるベンチャーのすでに商品機器を見ました。
スタッフが質問したかったことを聞いて、
もう彼ならそこまで到達したデザインコンセプトがあるようです。
このところ、私の阪大講座の招聘教授が決まったり、
私が常に念頭に置いていた近代医学史の著者とその行動を成した、
故・大阪大学名誉教授の末裔の方が、このブログで発見されたり、
3D-Printing日本戦略への参画表明を三つの行政がOKです。
私は、この国難ゆえに、HMDにしろ、3D-Printingにしろ、
さらに、「危機管理デザイン工学」の集約は、
現在のすべての提案に結びついていることを確信しています。


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「モスキートとは、凄い技術だ!」


   


     7月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM

ヘリコプター大好き人間にとって、
この玩具に過ぎないモノには、人間との関係が仕組まれています。
これまで、スタッフや学生から誕生プレゼントで、
リモートコントロールのヘリコプターの素晴らしいモノなども、
プレゼントされてきましたが、
とても優雅で、おそらく、これが飛ぶ、それだけで充分であり、
デスク周りにディスプレーされながらも、
必ずいつかは飛ばす、と意気込んでいました。
この玩具がTVで紹介されると気になって仕方がありませんでした。
ほとんど仕事の連続でしたが、思い切って充電して、
飛ばしてみました。この私がドキドキします。
もういきなり飛び上がると天井にぶつかり、急激落下です。
回転翼の速さは驚くほどでした。
ともかく、部屋中にぶち当たり、
戻そうとすれば私に攻撃してくるなど、今度は怖いほどです。
5000円未満ですから、大変な企業努力があったのでしょう。
この緻密で精微なモノづくりに感心します。
デザインはといえば、玩具性であれば納得できます。
何度か、写真撮影をワイフに頼みましたが、
パイロットの操作性がただドキドキしていて、
無性にコントローラーの指に力が籠もっているだけでした。
したがって、©amazon.co.jpそのままの写真を載せました。
手の中に入ってしまいますが、動きの鋭さはビックリモノでした。
モスキート、ずばり、「蚊のような動き」です。
しみじみと見るとこれが日本製であり日本だから出来た製品です。
そんな時、友人デザイナーのシリコン製教具が中国でまたもや、
模倣されたという連絡がありました。
おそらく、素材は怪しげなモノに違いないでしょう。
Facebookコラムですぐにシェアしました。
他国の国旗を焼く国民の国家と共存し共時がもとめられます。
そんな時代にあっても、私たちは知性的に対応するのです。
だからこそ、このような玩具技術が生まれるのです。
私は、やがてこの玩具が実際の交通機器になるだろうと思います。


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「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」


   


     6月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

美術学校には入ったけれど、油絵を描く力もなく、
まして、美術といえば、セザンヌは好きだけど、ピカソはなぜ?、
という私には、「現代美術」?、美術がなぜ表現手法?でした。
その私に「ことば」で、心から美術・建築・音楽までを
最も理解させていただいた人、それは「宮川淳」でした。
もし、世界で最も最高の出版物は、彼の「遺作全集」です。
そして、この著作を読んでも分からないとするなら、
もう一度、自分の知性そのものを疑うべきだと今なら言えます。
だから、私がデザインという世界への道筋は、
彼によって形成されたと確信さえしています。
当然、私の「プラトンのオルゴール」の一人であり、一台です。
私はこの作品には、回る円錐形と赤いLEDとを使いました。
音楽・ビートルズは「MOTHER」でした。
彼は客死しました。
そのニュースを聞いたときに、私の体が沈んでいく感覚でした。
彼自身のデザインに対する一節は、
私には冷徹で空々しさしかありません。
その空々しさを打ち消そうとして生きてきた気がします。
彼の客死を評論した文章はほとんど読んだと思っています。
私は「ことば」の評論が、網膜に映る美術あるいは芸術を
これほど明快にした人物はいなかったとさえ思っています。
私が、敬愛する倉俣史朗氏を評論しようとしたとき、
そのテキストは彼の著作を何度も読み返しました。
私は、自分のデザインの評論は、
必ず彼の網膜が紡ぎ出す「ことば」だったら、
どのように評論されていただろうと思うことにしています。
それは、他のデザイナーの作品・製品・商品、
そしてそのモノが日常生活で位置することも、ことばになります。
だから、形態はまさに「言語」になりうると考えるのです。
おそらく、この抽象的な文章は理解してもらえないでしょう。
それなら、はっきりと言い切れば、
デザイン・建築・美術・音楽などに対する、
あなたの知性の再考を私は求めます。
デザイナーなら、なおのこと、
あなたにデザインの才能などあるわけがありません。


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