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Posts Tagged ‘設計’


『低レベルな能力でデザイン評価はしないでほしい』


   


     8月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

元来、デザインは応用美術とか図案や装飾美術からという源流があり、
意匠になり、設計になり、そして策略や資源と時代変遷してきました。
しかし、私は美大時代、工業デザイン専攻では、
すでに、発明の設計実務学、問題解決学として
学習と訓練を受けてきました。
美大卒業し、家電入社したときには意匠部でした。
したがって、デザインの真意論・本質論・技術論・文化論では、
ようやく、産業から健康、文化として
文理融合と学術芸術の統合として、
「コンシリエンスデザイン」にたどり着きました。
ところが、楽しみにしていた東京オリンピックでは、
建築とグラフィックに、統合的なディレクター不在と経済効果での
アスリート興業商業主義の悪用としか思えないデザインの大勘違いが
横行し始めています。
建築コンペも狂い、エンブレム選別も知識不足の商業デザイナーでは
コピーだ、ジェネリックだ、せめてアプロプリエーションぐらいの
ハイレベルにも到達せずに、
情報社会で低レベルマスコミに混乱させられています。
そこで、かって35年前に私が伝統工芸産地で包丁、
キッチンナイフの「一体化」と新素材開発、刃先アール寸法など、
問題解決の解答デザインをしました。
ところが、たとえば、ほとんど最初に素材でダマスカス鋼風が、
あたかも刃物という恥ずかしいほどの
能なし刃物産業が世界的に流行しています。
オリジナルデザイナーの没後に、
デザイナー名を騙って自分デザインとは、
ジェネリック家具で氾濫を始めています。
そこに、TPPでの著作権問題を米国主導にするとは、
多くの官僚と議員たちの権力志向の能無しレベルを加速しています。
やがて、私、没後には
私のオリジナル=問題解決=デザインは消滅するのでしょう。
せめても生きているときには、恩師の作品やオリジナル性には
脳外喧嘩師でありたいと決心しています。
ともかく、官僚と議員からデザインの離脱を宣言しておきます。
つまり、オリンピック・パラリンピックを支えるべきデザインが
根本で間違ったがゆえに、夢は消えたのです。


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『偉大な死は小賢しさで一時無視される、が、必ず残る』


   


     7月 20th, 2015  Posted 12:00 AM

死はこともなげに奪う、ということを現実的に知らされるものです。
揺るぎなくある人が亡くなれば、
後継者はそこそこの能力があるがゆえに、
目の上のタンコブ的存在を追い越して、
あたかも後継の権威づけを簡単に示そうとするものです。
しかし、オリジナリティの天分的な能力がねじ曲げられた瞬間に、
その死ゆえに「失われたこと」の悲しみを再確認してしまいます。
私にとってApple社の存在は
コンピューターへの夢をすっかり無くしていたときに、
Apple ?で見直し、1984年Macintosh 128Kで決定的になりました。
そして思いがけずも私はクパチーノのApple社で、
ジョンスカリーやアランケイと仕事をするチャンスがありました。
それだけに、私のパソコン生活はすべてAppleであり、
パソコンもパッドもスマホもAppleでした。
しかし、最近、大きな違和感を感じるのは、
Apple-WATCHとApple-MUSICのロゴタイプを見たときに、
ジョッブスの最期の置き土産だったiOSと同時に成し遂げられていた
あのレタリング形式がすっかり失われていることから、
WATCHもMUSICも、Apple理念が消滅していると感じてしまいました。
しかし、このことを胸にしまっていました。
ともかくあらためてこのロゴタイプを見詰め直してみても、
カリグラフィーからモノの美しさ、
特にあるべき終着点を知り尽くして決して妥協をしなかったことが
ジョッブスの死とともに抹消されていました。
このことを世界的なコンサルタントであるH氏と話をしていて、
さらに大確認をしました。
「そうですよ。ジョッブスが生きていたら絶対に許さなかったことが
安易にプログラミングされていますよ」
そのアプリケーションも教えてもらいました。
Apple社の後継者達はまだましかもしれません。
おそらく、日本では「デザイン」は未だに政治的にも装飾に過ぎず、
設計=デザインと言っていた中国がデザイン=策略からも
デザインは大きく後退しているだけに。
Apple-MUSIC、Apple-WATCH、
このロゴタイプをもっと注視すべきだと思います。


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『これからのデザインを語るために=・・・signare・・・』


   


     4月 28th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザイン=designを語るために、その原意・原語としての
ラテン語、designareという言葉を40年間も追い求めてきました。
それは、あくまでもsignareを中軸にして、その展開に注目したのです。
1970年だから、レジリエンス=resiliennceが騒がれるようになり、
もう一つのsiliumやsilienceが気がかりになっていました。
それこそ、科学者=Scientistという言葉も、
結局は造語であり、そのことを言い始めた人物がひっかかっていました。
ウィリアム・ヒューエルという人物の存在であり、
彼がまた造語化した「コンシリエンス」が、思いがけずにも、
この概念を利用してエドワーズ・オズボーンは、
この造語に新たな概念を付け加えていくわけです。
私が何よりも人智の凄さを知るのは、思考する連続性や連鎖性であり、
その凄さこそ、人間が思考する動物であり、なおかつモノづくり、
その設計や企画、すなわちデザインという行為です。
それもなぜ、設計し企画するのかと問い直せば、決まって、それは
問題解決であり、難問対策に直結していることです。
私は美術大学でデザインを学ぶことで、デザイナーになりましたが、
これまでいつも立ちはだかっていたのは装飾であり、
デザインは装飾では無いという教育を受けて育ってきた私には、
最大の問題とは「死なないこと=生きのびること」という、
その問題解決でした。特に、March 11.2011=東日本大震災は
私に決定的な問題解決と対峙しなければならなくなったことです。
designを徹底的なコンテクストで考え続けてきた私に、
今、大震災=生きのびるという問題解決のために、
resilienceとconsilienceが浮かび上がっています。
これこそ、間違いなく、「これからのデザイン」であり、
その具体的な実務事例を提示していくこで、
明らかに未来のデザイン、そのあり方を提案出来ると考えています。


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『エトルリアという国家で生まれた言語=ラテン語』


   


     12月 3rd, 2014  Posted 1:30 AM

デザイナーという職能になって以来、
デザインという言葉に取り憑かれて生きてきた気がします。
designとはdesignareというラテン語が原語だということから、
その言葉をつくりだしたエトルリア人=エトルリアという都市国家と
その人たちの言葉であるラテン語がどれだけ美しい言葉だったかは、
オウィディウスの詩集には、その韻律が今なお残っています。
私たち日本人には、ラテン語という原語である言語は、
全く教育されていないことが残念至極だと私は思っています。
もし、私たちが英語学習の前に、ラテン語を少しでも学習すれば、
英語教育は大きく変わっていたと私は思ってしまいます。
最近は幼少期から英語というこの考え方に、
私は大きな疑問を持っています。
まず、エトルリアという都市国家の存在は、大学を最初に発想し、
ラテン語を紀元前8世紀〜1世紀には、この言語体系があったから、
やがて、欧州の様々な言語に流れていくことになるわけです。
なんといっても、designareは、do+sign=designになったことです。
do signとはそのまま「目印をつける」という言葉を生み出します。
それは見えて区別することですが、
思考そのものへの目印という意味は、思考決着にいたること、
それは分別をつけることであり、表面的にはどうしても装飾を
引き出すことが、戦後の日本には洋装・ファッションの用語意味が
強調されたがゆえに、装飾は意匠となり、やがては思考決着である
設計に至ってしまったのかもしれません。
したがって、21世紀に入ると、中国がデザインを設計から策略とした
このdesign訳語は日本のデザイン訳語を乗りこえてしまったことです。
比して、台湾が資源とした訳語も私は正解だったと思っています。
オウィディウスとゲーテとの友情関係などを
私はデザイナーになって、ラテン語を追いかけていくとき、
彼らの関係を知ってとても驚愕したものです。
それこそ知的なエトルリア人をもっと知りたいと思った動機でした。
designという言葉が、私をこの国家の知性まで引き込んだことは、
どれほど大きな幸運だったかと思っている次第です。


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『ロボットに工学設計はあってもデザインされていない』


   


     11月 22nd, 2014  Posted 12:00 AM

ロボットと名辞されれば、それこそが未来的という風潮があります。
是非とも、ボードリアールの「物の体系」を読破していただきたい。
工学的な設計だけであって、デザイン、デザイン思考が皆無です。
つまり、ロボットには、1970年にはすでに「不気味の谷」という、
機械と人間の外観的な感情反応の仮説がありました。
こうした仮説を科学的ではないという批判者がいましたが、
私は明確なロボットの機械性と人間性の外観性からの印象を
指し示した代表的な論理として、この論説は正解だと思っています。
むしろ、1970年代の論理を、すでに21世紀の現代、
ロボット学者たちは、読み間違えている気がしてなりません。
デザイナーのロボット設計は大勘違いしていることが明らかです。
工学的な設計がロボットデザインだという勘違いを横行させた原因。
その結果が、オモチャ形態=玩具で済ませてしまったことや、
ロボット外観だけをトレースして、Padを持っているのでは、
ロボット定義そのものが未来性を持っていないことは明らかです。
ロボットそのモノが工学設計で不気味さを纏ってしまっているのです。
それならば、私は未だにロボットは玩具以上のモノではないとさえ、
強く認識していますから、玩具であるだけで充分です、
ヒューマノイドもメカノイドも、この融合点を見い出していません。
かってロボット学会でこの講演をして表彰されたこともあります。
私はこの「不気味の谷」の森政弘先生の講義も受けていますし、
周囲には敬愛する著名なロボット学者も居て直に話も聞いています。
それだけにいい加減なロボットデザインは激しく批判するつもりです。
不気味の谷を私はもう一つの読み方をしたいと考えています。
それは、機械への感受性を最高にしたときに、見事に、
工学設計でのロボットや、知性無きデザイナーのロボットには、
不気味どころか、非在すべきロボットの墓場、
その場所設定が出来るとさえ考えています。

『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
「心を持つロボット表現として、『泣き出す表情』」
「Nomenclator・ロボット、GUIからAUIへの提示」


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「安全と安心・デザインの不在か非在か」


   


     8月 20th, 2013  Posted 12:00 AM

夏の連休には悲しいかな大事件が頻発します。
花火大会は日本の風情です。この風情が大惨事とは?
大爆発・大火事・大火傷、すでに3名が死去と聞きます。
発電エンジンへのガソリン給油とそのタンクに大問題です。
報道されているガソリンタンクを見ると、
私は、デザインがあったのだろうか?と考えます。
デザイン無くて、経験からの設計であればデザイン不在です。
これは危険極まりなくて、使い勝手からも必ず危険物です。
もし、デザインされているとするなら、デザインは非在です。
単なる、「格好良さ」、まったく不要なスタイルデザインです。
若い時は、登山用具でホエーブスというガソリンコンロを
ガソリンを蒸気化して使っていましたから、
一回、鉢ノ木岳付近で山火事寸前を経験しました。だから、
無人化しているガソリンスタンドは超危険だと思っていました。
ただ、ガソリンタンクゆえ「赤い塗装」と二つのキャップでは、
デザインの不在と非在両方からも設計どころかデザイン破綻です。
これは徹底的にデザインのやり直しが必要な物件です。
使い勝手から言っても、ユーザビリティは、
必ず、蒸気排気口を緩めること・・・そのキャップがこれ?、
ガソリン挿入口キャップ、挿入口そのものの対策はゼロです。
ガソリン発電エンジンの購入を検討しているときに、
このエンジンデザインにも欲しいモノは全くありませんでした。
ガソリンタンクも、素材からタンク構造的にも、
熱遮断、爆発防止、蒸気廃棄などデザイン仕様は難しいモノです。
ガソリンは、エネルギー源材料としてはすでに当然な物ですが、
その収容カプセルのデザインは、もう一度やり直しが必要です。
これこそ、「危機管理」の制度的な検証の合格品が希求されます。
「安全・安心」いづれも「安」という文字にその原意があります。
「安」とは、女性を屋根の下にて保護している象形です。
女性は世代交代をする人間にいて大切な存在ゆえ、
屋根構えの中で、絶対に危険なことから護りぬく存在なのです。
私は、現在のガソリン系商品の徹底的なデザインと、
その制度設計には、「デザインありき」を最前提と考えます。


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「デザインを国策に! 超党派にこそ頼みたい」


   


     8月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

デザインを「設計から策略」と訳した大国が中国です。
私は40余年、デザインを外観設計ではなく、問題解決の実務、
この定義付けを自ら実践し、教育し、
その一般化をデザイナーの目標と目的にしてきました。
しかし決して政治、国政、国策になっても、
根付いたデザインでは全く無くて浮ついたままでした。
現在「クールジャパン」があたかもデザインと語られそうです。
ところが、大きなイメージ展開の間違いを海外友人からも、
「クールジャパンにデザインは無いよ」と批判されます。
加えて、国内の大企業に限ってデザインへの投資は激減少です。
ミラノでこそ展覧会という若手デザイナーに警告のため、
私は「DESIGN TOKYO」を登竜門展示会として用意しました。
その審査員に、藤巻幸夫氏に加わってもらいました。
もう6年になりますが、スターデザイナーが出始めました。
余りに最近、彼を国会中継TV報道で見かけて、
「なぜ、国会にあれほど出ているわけ?」
「参議院議員に繰り上げ当選したんです」
「エッ!」、ということから、
福井県選出の稲田朋美国務大臣に会っていただきました。
彼女の与党大臣としての政策実務は実に明白です。
比して、藤巻議員の野党からの問いかけも明快です。
現在、わが国は「国難」の中にあります。
国内は、復興があり、エネルギー問題があり、
国際関係においては厳しい立場の中で、
先進国家を維持しなければ、貧しい国家になるでしょう。
それなら、「デザイン」を国策創出と国家表現の発信手法、
これが、ようやく、「超党派」での可能性が出てきました。
私は、「行学」の実行をデザイナー・大学人として、
この「国難」ゆえに、困難さをチャンスに変えたいと望みます。
となれば、「超党派のこの二人」ならば、
わが国を理想的な国家にする大臣と代議員だと確信します。
イデオロギーで政策討論などの時代は終焉しました。
デザイン・ファッション、
この本質はまさに理想実現の実務だからです。
私は、彼らの活動をプロとして、全身全霊で支援する覚悟です。


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「関西海事教育アライアンス・6年目の演習課題プレゼン」


   


     7月 4th, 2013  Posted 12:00 AM

三つの大学院、「海洋デザイン戦略論」教育をしてきました。
私は同時に「Ship of the Year」審査委員も務めてきました。
7月2日は「Ship of the Year」審査発表会でしたが、
私はこの講義演習のプレゼン講評で、今年の講座は修了します。
5名づつ4チーム毎、自発アイディア提示による企画案です。
今年は、各チーム毎にそれぞれのテーマが異なりましたが、
・「メガフロート」=最小単位と港湾関係
・「新エネルギー」=潮力発電と蓄電や急速充電
・「海洋流通」=1万個の荷揚げシステム
・「海事関連工場計画」=日本独自の減災港湾工場
この4つが出てきました。
この講義演習は、私はデザインディレクションの立場で、
外部からはデザインマネージメントから「海洋デザイン戦略」を
講義するとともに、海事関連を企画とモデルづくりをします。
当然、モデルなどは未経験ですが、
簡単なペーパーモデルのつくり方を教えます。
チーム毎の会議には、教授側が参加して知識と経験を話します。
この授業も6年経てば、ある種の伝統と、
「デザイン」の本質は伝えられたと思っています。
デザイン=機能美や格好良さづくり以上=発想と問題解決が、
ようやく浸透したと思っています。
私は、この4つの2つが組み合わされば、もっと提案が進む、
そんな感慨を持ち続けました。
プレゼン講評には、大学側からも教授たちも参加します。
したがって、彼らは自分の知識がまだまだ未熟であり、
海事関連だけでは知識獲得になっていないことと、
デザインと設計やデザインが極めて広範囲であることを知ります。
「Ship of the Year」応募作では「勘違いされたデザイン」が、
まだまだあります。
単なるスタイリングだとか、機能美だとか人間工学などを
「デザイン」とか言い出す海事企業が本当に多いのです。
だから、私は彼らに言います。
これから「デザイン=問題解決実務」だという大学院卒がいると。
私は、もっと彼らに「海事デザイン」=「海洋戦略」を
審査委員として、デザイナーとして、年上として、大学人として、
もっともっと語り励ましたいと思っています。


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「LSIに封じ込められている。だから、Don’t let me down!」


   


     5月 27th, 2013  Posted 12:00 AM

確実に「自分だけを信じ込む」こと。
正直、私の想像力、直感、断言する予知は、
世界が気づくまでには10年はかかるのだろうと思っていました。
フランツ・カフカに自分が魅せられたのは、
「職業」と社会、彼らの大きな教会観はそのまま、
私には産業・企業・デザイン界が社会観と同値でした。
2004年にこの作品を発表し、
2006年には金沢市に買い上げられましたが、正解だったことを、
現在はとても強く、あらためてやっと叫ぶことができます。
わが国は、いつまでもLSIが、
産業の「米」=日本の資源だという錯覚を捨てるべきです。
もし、現代文明の諸悪の根源を上げるとするなら、
アトムとビットの関係、その根底にある集積回路=LSIです。
もし、今後も日本の「米」にするには、
マイコン発想と設計には日本人が必務だったように、
再発想と再設計をし直すモノになってきたと思います。
フランツ・カフカの有名な「変身」の書き出し、
「朝、起きると私は虫だった」、というのがありますが、
むしろ、それよりは「流刑地にて」が参考になると思います。
この物語りに登場する「図案家」をデザイナーとすれば、
なぜか、自分に覆い被さる気がします。
人間は感情に支配されればされるほど、
陰の世界に閉じ込められます。
感情=陰という中国的な解釈は見事に当てはまるのですが、
感情の陽性化=Don’t let me down!でLSIに取り組み直すことです。
私は、これまでいつも10年先を突っ走っていると自覚し、
思い切り、時代と共時できずに落ち込みますが、
実装設計の現場に問題をデザインで提示しながら、
なんとしても、わが国こそ「革新をリード」できる国だと、
思い続けてきました。
電子回路が複雑、つまり、私たちの電子への要望が強まれば、
そのままに、LSIは発熱します。
10年前の予測、自分の未来感への予知は的中していたようです。
これを解決出来る胆識が、
今の日本には、残念ながら非在だと言わざるをえません。


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「3Dプリンターの素材と成型精度」


   


     4月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

光造形システム、私は17年携わってきて、
最初は紫外線レーザーが半導体レーザーに変わりました。
そして、エポキシ系樹脂も、
最初の湿度管理と装置からとても簡便になりました。
素材も、特に医療系は光造形データはシリコン系でも、
ほとんど内臓器官同様の柔らかさで「手術前シュミレーション」にまで、
使えるようになりました。
そして、今、阪大ではデザインのモックアップと
医療関連のスキャナデータを再現するのに使っています。
最大の問題は「造形サポート」設計がデメリットでした。
ところが、3Dプリンターでは、
2000分の1まで回路造形では可能になってきました。
しかし、私は「素材問題」はまだまだ開発が望まれると考えています。
チタンとカーボンもありますが、
カーボンは粉末ではなくて、やはりテキスタイルとしての繊維状成型です。
とりあえず、画像表現されている素材毎の成型は可能になっています。
しかし、私はこの素材提案には新たな感性が必要だと思っています。
何が3Dプリンターの素材かというと、
これまでの素材開発メーカーでは無理がありそうです。
現在私が必要と考えている素材は●●●です。
これは提案されてから具体的な応用範囲が限られていたから無理でした。
しかし、私には目論見があります。
なんとか、素材メーカーに具体物を持ち込んで説得しなければなりません。
画像は海外で試行された素材ですが、
これらの欠点はすべてがソリッド=塊です。
これは光造形がソリッドで考えられた頃と、
同次元の発想が残存しているからです。
3Dプリンターはサポートが無いだけに、
2Dへの吹きつけそのものを変換すべきだと考えています。
ただ、大きな問題は、これからの成形物は、
なんらかの清潔感や耐菌性や耐放射能までが考慮されるべきです。
まずは、「素材、その射出形状のデザイン」が基礎になるべきでしょう。


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