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『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』


   


     7月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

日本の布は「麻」と「絹」、植物と動物のタンパク質です。
それを進化させたものがポリエステルと考えていいかもしれません。
自分にとっては「絹」が最高の布です。
繭から得られる知恵でしたが蚕の繭づくりの観察はイタリアに負けました。
繭はフィブロインとセリシンという二つのタンパク質の天然繊維でした。
セリシンを取り除くことで得られた光沢感が
高級な品質上品さを創りあげました、
絹の歴史はあまりに不明なコトが多い。
紀元前3000〜6000年頃、中国では秘匿とされた製法が、
シルクロードとまで呼ばせた6世紀にイタリアに引き継がれて、
蚕が糸をはきだす動作の観察も20世紀後半に、
人間の知恵=Silienceで糸の精練や撚糸技術になっています。
昨年、蚕、養蚕産業における「風通し」の研究を見て、
とても感動しましたが、
その大学に研究資金配分を自分はかなり主張したことを覚えています。
そのことはまるで無視されていることこそ、
絹あるいはシルクというセンスが失われてきたと言わざるをえません。
ところが、夏になると、どうしても布の世界は麻に寄りかかります。
しかし、大麻技術での麻布は敗戦時に米国GHQで禁止されていました。
これを再度復興した布ブランドには断然、注目をしていきます。
ユネスコ認定で話題になった富岡製糸場も、
実は仕掛け人がおり、支えてきた欧州留学の3人がいたことも
既に忘れられていますし富岡製糸場での生糸生産が輸出禁止になったことも
もっと知られるべきでしょう。
この復活が羽二重であったことも、自分のデザイン対象になっています。
自分の大好きな布=羽二重こそ、ナイロン発明に繋がったことも伝えたい。
あらためて、布、その進化とともに
源である麻と絹、そういえばシルキーボイスすら、
いまではR&Bに変わってしまっています。

* 『糸は日本語漢字の重大意図を持つ』
* 『蚕・繭・絹・・・観察が『技』を決める』
* 『芸術という技法が引用したことから』
* 『落下傘としても羽二重は最高品質だった』
* 「『布』平織りの集積された知恵=晒を見直すこと」


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『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』


   


     7月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

踏みつけたくなるタイトルがあります。
それは「●●●●●●とは何か?」、という文章タイトルです。
たとえば、「デザインとは何か?」とか、「建築とは何か?」という、
とりわけ自分のプロ意識、職能意識にとっての
いわば質問形式のタイトルです。
そしてこれまでも科学的な知識を述べてきた書籍、講演、
あるいは運動などで、このような質問形式のタイトルが出てくると、
まずセンスの無さ=無能なる自分修練の浅薄さを感じます。
なぜなら「●●とは何か?」を全否定した芸術評論家の衝撃な思考のあり方、
あるいは、とりわけ「現代芸術のあり方」理念の
初期認識論を読んでいないからです。
「現代芸術」ほどその解釈や思考はとても困難なはずですから、
いわゆるハウツー本などで
この問いかけから始まる書籍は捨て去って構いません。
ところがハウツー本でもないのに、
この質問方式は能無しの典型だと断言できます。
これには二つ論理性で理由がつけることが可能です。
一つは、情報化時代直前に、この質問形式では、
これからの知的思考方法は時代遅れになるということ。
そのためには「■■■■が●●になる。」ということで、
「●●とは何か?」では無い論理組み立てが要るという発想があったのです。
もう一つは、「●●とは何か?」という質問での答えには、
三つの答の分類が出来るのです。それは、質問が
話題:Topicsであれば応答:Replyであり、
課題:Questionであれば回答:Answerであり、
問題:Problemであれば解答:Solutionになるということです。
したがって、「●●とは何か?」という質問での答が
応答、回答、解答のいずれかであったとして、
単なる応答や回答であるなら、その論理性は崩れています。
新たで明確な論理的な答であるなら解答でなければ意味はありません。
この写真の書籍での第一章からの質問形成では応答にすぎません。
よって、こうした書籍内容は能無しと判断しておきます。

*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』
*『デザインは機能美ではありえない』
*『記号論・文庫版になった定本だから再熟考対象だ』


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『アップサイクリングの真のリサイクルとは!』


   


     6月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

「アップサイクル」が一つの話題になりつつあります。
大阪大学の私の研究室にも、社学連携課経由で、
ある行政と企画企業から依頼が持ち込まれました。
幾たびかの打ち合わせ後、この企画はデザイン職能団体に、
企画・運営・ワークショップ・コンペの開催などを一任しました。
ワークショップはデザイン学生などを巻き込んで開催され、
その報告書などを読みました。しかしどうも違和感が残っていました。
論理的な内容を時系列的に再確認をしました。
まず、「アップサイクリング」という新たな産業形式の創案は正当でした。
しかし、根本的な過ちを発見しました。
この発見をリサイクルに照合して実際のデザイン実務との結びつきを、
あらためて検討し始めています。
まず、大きな過ちはリサイクルがサスティナブル思想であるという、
経済理念の間違いがありました。
従来のサスティナブル(持続可能)は
欧州の酸性雨対策を起源としています。
よって、リサイクルとは本当は無関係です。
このことにより、
工業生産しかも大量生産時で発生した素材廃棄物を再利用することで、
大量生産されたモノ以下の製造物に落ち着いてしまいます。
アップサイクリング(up cycling)ならば、リサイクルされた生産物は、
リサイクルされる前以上の性能性・効能性によって
新たな機能性を獲得する必要があります。
この発想が根本的に欠落しているという、
新規デザイン実務上では最も希求されている
現実生産を知ることができました。
ただ単に廃棄される素材=端材を利用する
製造システムでは無いという、この再確認が必要です。
そのサンプルとなるプロジェクトを開始します。

*『サービスの勘違い・地球に『優しい』?』
*『石畳の街、その文明と文化』
*『カーボン素材の3D-Printing開発をめざすことは・・・』
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』
*『デザイン史の講義を語るにはロシア・アヴァンギャルドから』


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『宇宙開発の信頼・安全性工学からデザインが学ぶこと』


   


     1月 26th, 2016  Posted 12:00 AM

宇宙工学とデザインの関係は、まだまだ双方から、
お互いのとりあえず話題が語られることがありません。
話題ゆえ応答、そして課題ゆえ回答、問題ゆえ解答です。
昨年から、宇宙工学とデザインを私が主宰する「KK塾」で、
それも私のいとこ(父の姉の息子)と講演会をしています。
宇宙工学といっても、その最大の問題点である
「信頼・安全性工学」という宇宙工学のさらに専門からの話です。
まず、何と言っても宇宙工学では、
「修理を一切しないで寿命どおり」しかも一日24時間稼働の
それもシステム設計どおりのモノづくりでなければなりません。
いとこ・長谷川秀夫工学博士は航空工学から、
宇宙開発事業団時代は、ヒューストンにてNASDAの所長として
NASA・NASDA・ESA合同で
宇宙実験棟「きぼう」の実質統括設計者。
最初の宇宙飛行士・毛利氏を飛ばした責任者でした。
以後も、H2Aロケットやはやぶさに関わってきたディレクターであり、
現在はJAXAから宇宙開発機器の発注管理企業の社長です。
信頼・安全性というのは、
何と言っても「修理・修繕無し」が鉄則であり、
たとえ話でいえば、「手術は不成功でも患者は助かる」ということです。
そのためには、「知見」の裏付けが詳細に求められることになります。
なんといっても無事故・無修理・完全であるモノとシステムづくりです。
所詮、
人間が創り出すモノは失敗して当然ということは無視する世界観です。
「知見」とは、知識と見識をさらに深度を求めて、
知識と知恵は経験からの帰納的な結論に対して、
さらにどこまでも想定外を完全無欠化するという工程が
「組織」の組み立て・運用・維持が必須だということです。
それは想像力を果敢に発揮してしかも知恵や見識をさらに完璧にすること。
なぜならば、
宇宙工学での危機システムの部品点数は200万点をPDCAという方式。
Plan→Do→Check→Actionという手続きがあるそうです。
これは現代のモノづくり全てに適合した考え方です。
そのために、
「勘」を取り囲む「観」・「看」・「鑑」・「関」・「感」が配置された
「知見」は、まず、
ハードがあってそれをソフトでどこまで支援出来るかという
「事故シナリオ」が中軸です。
あくまでの「怖がる」ことの重要さというのは、
デザインでの問題解決以前に、問題提起があるのですが
スペキュラティブデザインというような軽さはありませんでした。
あくまでも無事故で無事なモノづくりを
デザインは宇宙工学から学び取らなければならないということでした。


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『女衒同族と羽織ゴロたる民法TVも国会も同罪である』


   


     1月 23rd, 2016  Posted 1:30 AM

敗戦後、米国がわが国に押しつけたのは「新憲法」でした。
その実現=民主主義(資本主義経済社会の大衆養成)具現のために、
用間=諜報の具が用いられました。
この記述が明言される時期が、
僕は到来してきたものと考えざるを得ません。
それには冷静な判断と3.11によって破壊されてなお、
全く正当さと釈然としない日本社会があります。
特に大誤解されている民法TVと、
その労働者であるタレントと呼ばれる芸能人、
その支配がまさに用間でしか無かったことを忘れ
なおかつ同族経営化での事務所と称した芸者置屋と
女衒同族の存在を僕は嫌悪するからです。
しかも、未だに民主主義のジャーナリズムを
構築できない民放TV局への怒りが僕にはあります。
SMAP=Sports Music Assemble Peopleというのは
とても上手い名辞です。
私なりにこの芸能人=タレント集団は、
S:スポーツ・M:音楽・S:アート趣味・P:演劇に
とても秀でたテレビ男芸者達でありそれぞれに優れた才能がありました。
しかし、用間の手立てでしか無かった彼らの労働成果は、
見事彼らの収入であるとともに、大衆への夢売りを成し遂げました。
よって、彼らが女衒同族からのパワーハラスメントは、
SNSはすでに終焉し始めているエセ・ジャーナリズムTV放映とともに
強烈に非難し、TVと週刊誌での経済効果の分配の構図は成功させました。
しかし、敗戦直後から配置されてきた芸能による労働意欲の洗脳継続は、
やがて大きな崩壊を迎えることを明確化しました。
SMAPの正当性=真摯に彼らの役割を果たすことと
彼らの労働条件への抵抗は全て葬られたのです。
国会で彼らの話題が至極真面目に取り上げられましたが、
これによって、
僕たちが政権から放置されている事態を知る人々が居るのです。
SMAPが女衒と現代の羽織ゴロと化した破滅間近の民法TV局は、
SNSで武装されている現代社会構造には無知過ぎます。
現政権も、本来、議論を徹底すべきは、
違法公然としたスキーツアーバス事故を
せめてSMAP同等なる国会議論を放映すべきでした。
そのバス事故で、15名もの社会構成を成し遂げる能力を
国会議題からも外していたのです。
無知なるTVジャージャリズムには期待もしていませんが、
国会こそ、超党派での議論を積み上げる術としての用間を
再考すべきだったことを書き残します。


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『銀河系の帝国主義、そのアーキタイプは未だ戦争か』


   


     1月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

「STAR WARS」という映画を観るたびに、僕はこの映画、
そのシリーズは興味深いですが、
この世界共通の神話的なアーキタイプと
汎神論的な、世界が共通的に抱えてきたフィクションが
やはり、善と悪、民主主義と帝国主義なのか、
結局は銀河世界での未来戦争を知ります。
はっきり言えば、人類学的、神話的であっても
「戦争」でのワクワク感に落とし込まれる映画表現の罠、
そうした大変な仕掛けを見直してしまいます。
結局、この考え方に行き着いてしまう怖さになるのです。
「こんな考え方でフィクション化できる国とは」と考え直します。
どこかで人間いや米国人は「民主主義の崩壊」はそのまま「帝国主義」を
それほどまでに望んでしまうのだろうか、
と僕は今回も改めて確認しました。
たまたまフランスで「BB-8」を見つけて購入していました。
「STAR WARS フォースの覚醒」が封切られると、
日本でも大きな話題になりました。
僕も正月早々に京都でこの映画を観たのです。
早速、フランスで購入した「BB-8」をiPhoneでコントロールしてみると、
映画のロボット表現は、これまでを一新していたのは確かですが、
僕には、銀河系フィクションだったとしても、
民主主義の破壊=戦争=帝国主義というアーキタイプが再提出されていて、
決して僕の好みの映画ではありませんが、
工業デザイナーとしての想像力は、
未来と銀河系の正義感を護るロボット存在を確認します。
キャラクターとしてのロボット存在を見逃すことはできませんが、
かつて、あの金色ロボットC-3POと、如何にもロボットR2-D2も、
ボストンのコンピュータミュージアムにあり、
ライトセーバーなる剣を米国土産に買って帰ったものでした。
そして、玩具のライトセーバーも大きな変化を見ましたが、
フィクションの戦争も「斬り合い」になるというのが
未だに僕には奇妙です。
人類の想像力は、未来映画でも「戦争イメージ」と「戦争アーキタイプ」も
まるで変わらないという不気味さを見直すだけでした。
米国映画は、あくまでもアクション映画も宇宙映画も「戦争」です。
米国はいつもどこかで「破壊」のイメージ強化を
確認しているのでしょうか。
そろそろ、STAR WARSのアーキタイプでの汎神論的な方向性を
全く革新することを望むのは僕だけでしょうか。


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『ゴジラというアンプ思想はアンプジラ2000に継承』


   


     9月 16th, 2015  Posted 12:00 AM

このところオーディオマニアで話題になっていることです。
GODZiLLAというパワーアンプの話です。
私が東芝で結局最後の仕事になってしまったSZ-1000という
エレクトレットコンデンサーカートリッジの
イコライザーアンプに直結した話にもどります。
理由は、私はオーディオの世界で社会人デザイナーになり、
おそらくありとあらゆるオーディオ機器は聴いたと断言できます。
正直、当時のアンプで,今も定評があるアンプは
私にはさほど大したことはありませんでした。
ある日、このイコライザーアンプはプリアンプなので、
パワーアンプを探していました。
そんな時、どこからか板金そのままで荒々しい、
とても商品とは言えないアンプが来ました。
一台は完全に分解されていましたが、
この時期にはトロイダルコイルの開発で国内メーカを、
探していました。電源部はトロイダルの話が蔓延していました。
それ以上に、荒々しいレタリングで素人が書き殴った
GODZiLLA:ゴジラは、日本の怪獣映画で、
パワー最大という印象がありました。
そのレタリングがシルク印刷されていてそれも焼き付けされていない程。
これはとても商品では無いと思いました。
当時この評価記事があったらしいのですがあり得ないと思っています。
なぜならこのアンプと鳴らすべきスピーカーシステムはJBLから独立して、
レッドツェペリンの後押しでできたメーカーで2名がAurex提携で来日。
私は磯子の音響工場で彼らと話して,彼らから来ないかと誘われました。
私はこのメーカーに企業留学を決めて交渉をしていました。
彼らから、このスピーカーシステムはJBLを超えるが、
それにはこのゴジラしかないと言われていました。
無論、このゴジラのアンプはアンプジラでした。
このスピーカーシステムを知っている人はまだ出会っていません。
しかし、ゴジラもアンプジラも製造物責任法が丁度できたのに、
使用者納得であり、製造物責任は今も放棄しないと使えません。
それは、このアンプで感電したり、
スピーカーシステムが破壊されたりしても「使う」ということです。
そして、ジェームズ・ボンジョルノの存在を知りました。
私は、SZ-1000は必ずこのアンプを繋いでならしていましたが、
表向きにはAurexのパワーアンプでした。
アンプジラ2000はようやく大阪に行ってから手にいれました。
しかし、そのためには整流器が当然必要であり、
電源コードもメディカルコードでなければなりませんし、
このアンプの下も本当は金素材ですが、
私はインド産の石材を使っています。
アンプジラ2000はジェームズ・ボンジョルノの最後の作品です。
彼はもう逝きました。
?


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『デザインは解である』


   


     8月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザインの本来の意味として、
通常の理解である装飾性との距離感を主張してきました。
デザインと言えば、大きな誤解が薄く張り付いています。
一つがデザイン=装飾性がファッションデザインに起因し、
もう一つが機能的とかシンプル性が、さもデザイン核心という話です。
デザインはその造形によって「答」を出す実務です。
それゆえに「答」には、三つの「答」があるという深度性に及びます。
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solutionの三つの答を出すことであり
最もデザイン力が発揮されるべきは、問題解決に集約します。
私はデザインが問題解決であることから、
最も的確に説明を与えるには「解」という象形文字を例示します。
象形文字であることから角ある牛に刃物でこの文字は構成されています。
そこで解決には三つの段階が明快になってきます。
解体・解剖・溶解するなりして対象を分解することから始まります。
次にはその分解された要素を一つずつ、解釈・解説をして理解をします。
この理解によって、人は納得をして解放されるということになります。
さて、そこで問題は、答それぞれにはどこに装飾性や機能性が、
一般の理解では、デザインによる解放感は得られません。
デザインが応答的や回答的なことであれば、
論理性を欠いた機能性は説明がとても困難だと言えます。
現在のわが国の産業でのものづくりが、応答や回答ではとても、
国際的な競争力を持つことはできません。そのまま経済に反映します。
私は、問題解決によって、性能性と効能性が完備され、
ようやく機能性を確保できることを、教育・研究・開発に伝え、
デザイン実務で、人間は解放されると主張してきました。
その解放とは、「美しさ」が解答の造形であるモノとコトというのが
私のデザイン=解の結論です。


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『デザインは問題解決の手法であると再度主張』


   


     8月 23rd, 2015  Posted 12:00 AM

ワクチンの経皮注射器を開発してPKD*の最初の製品開発をしました。
以後、注射器のデザインに取り組むと同時に、
遺伝子検査システム・ワクチンのデザイン開発・注射器の開発から、
経鼻デバイス=鼻からミスト状ワクチンを直接経肺から血管へ注入、
そしてワクチン接種のための遺伝子検査システムも、
これまで1ヶ月→1週間を5時間検査システムまでを開発しました。
これはその経鼻デバイスがようやく工業意匠権が確立して、
遺伝子検査とワクチン開発にたどりついています。
ワクチン接種に関しては、遺伝子検査からのシステム開発を
デザイン計画してきましたが、発表は、ともかくこのデバイス、
その著作権から知財権などが図面作成時から成立しましたが
工業意匠権の成立までは公表を控えてきました。
私はデザインは、問題解決と考えていますから、
デバイスの形態設計だけがデザインとは考えていません。
よって、遺伝子の検査システムは海外のコンペで、
日本代表に選ばれましたが、海外では難し過ぎるとの評価でした。
私は医工連携では決して問題解決は不可能と講演主張してきました。
結果、「コンシリエンスデザイン看医工学」の講座で、
研究・開発・教育にまで至っているわけです。
しかし、残念なことに現在のプロダクトデザインでは、
この分野に参入出来る大学が相当に限定されていることです。
最近では、雑貨品のデザインがマスコミでもスター扱いされます。
それこそ、今、話題のオリンピック関連も単なるグラフィックで
オリンピックという国家イベントは、国家政府ですら、
デザインの本質には理解不足どころか、無知過ぎています。
平然とした盗作がデザインだという一般認識が拡張されています。
かつて、名古屋市立大学芸術工学部時代にも、
芸術工学は英文ではDesign & Architectureとし、
先端統合デザインをデザインに接頭語を私は名辞してきました。
よって、先端統合デザインが医工学デザインにまで進化しました。
その進化が「コンシリエンスデザイン看医工学」です。
この経鼻デバイスが一つの実際例だと紹介しておきます。

* PKD=Peace-Keeping Design
「PKDの途中報告」


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『ハーバート・バイヤーを忘れた「デザイン風」の闘争』


   


     8月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

レタリングにはセリフ体とサンセリフ体があります。
これはレタリングの基本的な知識です。セリフは形素に過ぎません。
だからセリフを主体的にするのは疑問ですが前衛と理解します。
セリフ体というのは日本語では明朝体、サンセリフはゴシック体です。
これはデザイナーになるための基本的な書体描画トレーニングであり、
バウハウス時代(ドイツで創設さえれたデザイナー学校)時代には
ハーバート・バイヤーによってセリフ体は徹底した基本が整理され、
おそらくこのトレーニング教育がアルファベット作成の根本です。
今、私の母校ではこの訓練があるのかどうか知りませんが、
私の世代ではこの根本を泣きたくなるほど訓練されています。
私はCaslonでセリフを、Futuraでサンセリフをデザインストローク、
つまり定規無しフリーハンドで、身体が暗記するほど訓練をしました。
したがって、バイヤーの創作したサンセリフ体は、
現代世界共通で公的な利用が当然であるHelveticaでは遵守されてます。
このレタリング基本が無いアルファベットは「アルファベット風」の
単なる色彩構成に過ぎず真のデザインとは言えないでしょう。
しかしデザイン系大学でこのトレーニング訓練が無くなっている様で、
そのようなロゴタイプづくりやレタリングが氾濫しているようです。
これでは欧州では本来徹底して否定されても仕方ありません。
今話題の、ベルギーの劇場マークも東京オリンピックエンブレムも、
両方とも言うなればこの基本訓練が全くありません。
セルフ体でもサンセリフ体であっても円と直線の関係は、
「ヘアーライン補正」欠落のデザインはアマチュア作品です。
このことを度外視したデザイン風の色彩構成をデザインとは
絶対に呼ばないでいただきたい。プロフェッショナルデザインが
これでは専門職的な社会的な責務が果たされていないからです。
ベルギーも日本も、デザイナー訓練が全く果たされていないことを
私はプロのデザイナーとして、デザイン学者として書き残します。
エンブレムデザインでの商標権を著作権で訴訟とかいうベルギーも
デザイン職能倫理を両方が無くて何が訴訟争いだというのでしょうか。
デザインを台無しにしていることを私は指摘しておきたいと考えます。
こうしたデザイン基本訓練無しの教育を受けてきたデザイナー達が
哀れな闘争をしはじめていることを私は非難しなければなりません。
両方のデザイナーの能力がバイヤーの論理知識無しに呆れます。
私の疑いは日々深まり、これが社会批判の根元かと想う次第です。
デザイン系大学のレタリング教育を見直すべきです。
プロフェッショナルデザインとして社会批判は当然だと想います。


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