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Posts Tagged ‘越前市’


『毒虫の吸血システム、そのバイオミメティックス』


   


     8月 1st, 2017  Posted 12:00 AM

最期に「何の本を読みますか」と聞かれたことがありました。
私は「ファーブルの昆虫記」だと決めているので、
そう答えたことがあります。
小学生時代の夏休みは本当に楽しかったと思い出します。
学校で「夏休みのドリル」を受け取ると、
その日の内に教室で全部やってしまって叱られましたが、
それは夏休みの自由研究がやりたくてたまらなかったのです。
叱る教諭を見返してやるんだと思ったものでした。
ほとんどが「昆虫採集」。そして面白くて怖かったことは、
村国山(越前市の山)で、深夜まで「蛾」の採集でした。
襲いかかってくる大きな蛾はオオミズアオ?だと記憶しています。
さて、地球の温暖化が一段と進行しているためなのか、
とんでもない毒虫の上陸がTVニュース報道されています。
火蟻は絶対にあの国が仕掛けた生物兵器だと思っておりますし、
シマスジ蚊もとんでもないです。そこにマダニが出てきました。
そしてもう驚愕し恐怖なのはマダニが幼虫・若虫・成虫となり、
吸血することで生きるというこの虫の大きさです。
しかも、この猛毒虫・マダニの代表的な感染症は、
意識障害を引き起こし、必ず死に至らしめるということです。
吸血するその鋏角(きょうかく)はバイオミメチックス(生物模倣)という、
デザイン設計手法になるでしょうがこれはやっぱり怖い手法かもしれません。
この毒虫たちの形態を見詰めながら、
なんだかワクワクしている自分がいます。
怖いながらも、毒虫が人の皮膚を刺すノズルは「なるほど」なのです。

* 『流行の根源である伝染病は人類の破滅道理なのか』
* 『見詰める光は「あかり」になるという事例』
* 『電子書籍の誤ったデザイン解決、けれど使わざるをえない』
* 『デング熱は風土病ゆえにもっと厳密なジャーナリズム報道を』
* 「『突然変異』・決して起こってほしくないこと」


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『タケフナイフスクールは越前打刃物産地に開設する』


   


     7月 4th, 2017  Posted 12:00 AM

今は周辺町村と合併し越前市となりましたが、
かつて国府であり紫式部も父と共に在住していた武生(たけふ)。
私がデザイン主導してきた武生市に越前打刃物産地として、
「タケフナイフビレッジ」を設立してすでに30数年です。
これまでもナイフ講座をイベントとして、
ナイフや包丁を参加者それも子どもから一般にまで指導制作してきました。
タケフナイフビレッジは褒章者も2名出しましたことから校長と副校長とし、
私は以前より市長とも話合い、越前市の観光大使としても
タケフナイフビレッジの再拡大とナイフスクール開設を主張してきました。
対象は、児童から生徒(保護者同伴)学生から一般、マニア、プロという、
そうした人向けのスクールを設立することを進言してきました。
生徒とは中学生で学生は高校生以上を言います。
プロというのは、ナイフづくりと、シェフ=料理人向けを提案しています。
理由は簡単で、それこそ海外からの包丁ブームは確実であり、
中でもタケフナイフビレッジのキッチンナイフを超える
ビッカー値硬度ある刃物は、世界的にも全く皆無です。
国内の岐阜・関市や大阪・堺市にも伝統工芸での包丁がありますが、
私から批判すれば、伝統の継承だけや刀工からは許されない刃物依存です。
「火造り鍛造された蛤刃」を、モダンデザインされているのは、
タケフナイフビレッジだけだと私は自負しています。
それだけに、第一世代親方9名を講師に、時には私も参画して、
「ナイフスクール」をおそらく日本で最初に開設するつもりです。
千代鶴国安(二人説あり)という刀工が
鎌を農民に野鍛冶からスタートしたとのことですが、
私の研究ではそれこそ1500年前から鍛冶技術への兆候はあったようです。
また、「武生:タケフ」は、日本のエンジニア養成の中心人物
「工手学校」設立者である渡邉洪基=帝国大学総長・東京府知事。
私立大学設立提案者のふるさとでもあるのです。
叶うことなら、この夏にはそのスタート講座開設を考えています。
「ナイフ」はもし、無人島に行くとしたら持参すべき唯一のモノです。
なぜなら、ナイフがあれば道具を創り出すことができるのです。

* 『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』
* 『タケフナイフビレッジで第2世代を鍛える』
* 『ローカルな受賞なれど、とても大きな受賞でした』
* 『刃物の地肌、その偽物氾濫が流行している』
* 『伝統工芸での和包丁には間違いがあり過ぎる』


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『ローカルな受賞なれど、とても大きな受賞でした』


   


     10月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

若い頃はデザイン賞を常に狙っていました。
何と言っても国内では「毎日デザイン賞」や「国井喜太郎産業工芸賞」、
世界的には「国際インダストリアルデザイナーズ協会特別賞」という
ICSID Excellent Awardはまだ私で2名のみです。
デザイン賞はそれなりにおおよそはいただきました。
そしてこの度は「越前市市政功労賞」を県外にも関わらず受賞。
ともかく、越前市に前入りして翌日受賞式に、と思っていましたが、
伝統工芸、越前打刃物「タケフナイフビレッジ」は34年になり、
産地のメンバーから、ともかくこのホテルに来て欲しいと言われたので
ホテルに車で着くと1時間も遅れていましたがやっと到着。
なんと「受賞パーティ」が準備され、越前和紙、漆器、高校の同級生から、
スタート時から支援してくださった美大時代の空手部先輩、
武生市工業試験場で最初に出逢った人までが迎えてくれました。
とても驚愕するとともに自分自身はもう表彰をする立場ですが受賞を受諾。
いわばローカルな賞かも知れませんが、
実は、越前打刃物産地に飛び込み、「タケフナイフビレッジ」を設立。
第二世代の若者がいっぱい跡継ぎが生まれたこと褒章者も2名輩出しました。
伝統工芸産地が、これほどのことをやっていただけるとは、
どんな国際的な受賞よりも価値ありしかも懸命に取り組んでからでしょうか。
その成果は見事に開花してきたことには自負心もあれば、
まだまだ鍛えたい仲間達がこれほど待ち受けてくれたことに大感激。
サプライズでのケーキまでが準備には、涙ぐんでしまって、
「俺を泣かすなんて、なんてことだ!」って涙声になりました。
賞状は「越前指物の額縁と越前和紙」でした。
ローカルで懸命だったことは今もこれほど護って貰える素敵な夜と
そして大きな受賞をさせていただきました。
「指物」についてはデザイナーとして改めて書き残したいと思っています。

* 『Max Billの賞杯があったことを思い出した』
* 『伝統工芸産地を補助金漬けから開放し法律の改正が必要』
* 『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』
* 『毎日デザイン賞・同時受賞の佐藤晃一氏が逝去した。』
* 「タケフナイフビレッジ第二世代へ理念を伝える」


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staffblog 10月1日


   


     10月 1st, 2016  Posted 10:37 AM

10月1日

越前市表彰式に出席し、
市政功労賞を市より賜りました。

これまでの活動を評価いただいたこと、
それを仲間が喜んでくださったことが、
川崎にとりまして
大きな喜びになっています。

ありがとうございました。

最後はみなさんで記念撮影です。


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staffblog 9月30日


   


     9月 30th, 2016  Posted 11:16 PM

9月30日

この度、川崎は、
越前市より、
市政功労賞を賜ることになりました。
越前市における伝統工芸の
継承・革新への貢献を讃えられました。

式を明日に控えた本日、
タケフナイフビレッジを中心とした、
和紙、漆器の伝統工芸士や
若手の方々による
お祝いの会にお招きいただきました。

合間合間に皆様から懐かしい思い出話も。

懐かしい話の中に、今の若手への言葉が
たくさん盛り込まれていました。

お祝いのケーキまでご準備いただきました。

そのあたたかさに目頭が熱くなりました。

たくさんの方と握手を交わしました。

涙と笑顔に溢れた素敵な会でした。
ありがとうございました。


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『親方二人目の褒章受勲・タケフナイフビレッジ』


   


     5月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

東京から福井に帰ったときに、東京には在るが福井には無いものだらけだ、
どうして生きて行こうと思っていましたが、逆発想をしました。
福井にあって東京には無いもの。
それが越前市(旧武生市)の伝統工芸の打刃物であり、
あることで若手の刃物工業研究会との出会いがありました。
3ヶ月黙っている彼らに自分は難し言葉使いをやめて福井弁で話ました。
新素材開発でメーカー交渉を産地の代表として徹底的行いました。
国内外で展覧会をやり「タケフナイフビレッジ」を絶対に実現約束。
行政の力を借りずに「借金をして取り組んでもらう」ということ、
そのデザイン戦略をともかく盲信してもらうことでした。
ステンレスで鋼をサンドイッチにした高品位ステンレス鋼で
「ハマグリ刃:蛤のように断面で見ると中央が膨らんでいる刃」を
火づくり鍛造してもらいました。
世界で初めてすべて金属製ゆえの一体の刃物ゆえに、
熱湯で一変に大腸菌が防菌可能な一体金属の刃物を開発しました。
徹底的に図面に精確な研磨によりビッカー値硬度も60~62を実現。
その製品開発の中でも、高品位ステンレス鋼をグリップ部分に、
私の造形言語である「ウェーブレット(さざ波のよう波型)」を実現。
それを成しえてくれた今では親方・第一世代の加茂勝康氏が
瑞宝単光章を受勲できました。
昨年は安立勝重氏が受勲しました。
加茂氏はスキー、安立氏は登山家、それぞれの世界でも重鎮です。
第一世代では癌に冒されても「技を伝えて」と半ば命令していた浅井氏は、
工房でもう限界と言って2週間寝込んで逝ってしまった仲間です。
今、第一世代9名、第二世代20名を率いていますが、
新メンバー・新デザイナーを私は選別して、
「ナイフスクール」を本格的に開校します。
二人目の受勲お祝いの会は、さらに盛大に全員で祝いたいと思っています。

*11月5日Staff Blog
*『刃物の地肌、その偽物氾濫が流行している』
*『 ひとりの親方が逝った・・・ 』
*『タケフナイフビレッジ、恩人を見送った。』
*「鎌倉時代名刀と江戸時代名刀を語り合う」


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『広報誌がまだジャーナリズムである』


   


     8月 10th, 2015  Posted 12:00 AM

私は福井在住の頃、福井県行政のまさに敵あつかいでした。
それは福井県行政がいまだに時代遅れ、を指摘するからでした。
県行政からは広報誌など名古屋にはまったく送付無しでした。
今は福井市と越前市から「広報誌」が届きます。
つまり、全国にこうした広報誌はどれだけ発行されているでしょうか。
私は今も越前市の広報大使をしているので毎月の日毎の企画を知ります。
決してこうした広報誌が行政の税から作成されていたとしても、
いわゆる「ジャーナリズム」の基本の基本は全うされています。
だから一般マスコミの雑誌出版は消尽すべきだと断言します。
もはや出版業界そのものが低迷どころかもう時代的な即応性を
失ってしまっていますから、ジャーナリズムそのものは、
新たなメディア、それはインターネットでのHP以上があるのに、
すべての出版業界は発明も出来ないのには私は呆れています。
呆れると言うより、ジャーナリズムの基本理念を喪失してる業界の
能力レベルが時代的に露呈してきただけの実話に過ぎません。
私にとって、デザイン系・建築系・技術系・芸術系などは
現代は全てが行政の発行する広報誌以下のレベルに成り果てています。
その理由を決定的に記しておきたいと考えます。
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
現代を記事として出版しようがHPアップしようが時代読解力無しです。
そして、得てして出版は未来を語ろうとしても、
それらはすべて取材して編集、
それも編集学に無知な記事だと勘違いしているのが出版業界であり、
マスコミもサブカルチャー雑誌も、行政の単なる「日々の記録」を
決して超えることが出来ません。
かつて私は17年もある雑誌に連載をしていましたが、
それは出版としての経済投資効果を得られずに出版が終焉しました。
私はその変わりがこのHPでの小さな物語というジャーナリズムとして
それは自分自身への編集学そのものだと考えています。


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『タケフナイフビレッジ、恩人を見送った。』


   


     12月 19th, 2014  Posted 12:00 AM

越前市(元・武生市(国府))には、紫式部がいました。
彼女の父親が国司であったためですが、京に帰りたいという、
その切なさの歌しか遺さないのに銅像があるのです。
武生市で私は小学校5年から中学2年まで過ごしましたので、
かつてNHKの「ようこそ先輩」は武生西小学校で収録放映しました。
当時、父は警察大学校を出ると、市警察の刑事課長をしていました。
家に帰らない父には着替えをよく持って行っていましたが、
必ず、警察の隣に市の工業試験場があり、私は立ち寄りました。
ちなみに、武生市工業試験場は日本でも最初の工業試験場の一つで、
今はどこでも工業技術センターと呼ばれています。
その試験場の木工場の木っ端をくすねいて(無許可でいただき)、
それで、モーター付きの潜水艦や自動車模型を造っていました。
当然のこと、木っ端を黙っていただくのですから、
試験場の若い職員さんには何度も怒鳴られて逃げていました。
やがて、福井に車イスで帰っていた私は、武生市工業試験場に、
木工でコンペ用の模型制作依頼に行きました。
しばらくして、試験場長と次長が来宅されて、越前打刃物の窮状を
思い切り知らされて、武生市打刃物工業組合の若者たちと出逢い、
彼らにデザインを導入して、タケフナイフビレッジを創りました。
あるとき、その次長(後に場長)と話をしていたとき、
彼こそ、木っ端をくすねる私を怒鳴っていた人でした。
すでに30余年経ち、彼が病気で寝込んでいましたから、
逢いたくても会えなくなっていましたが、彼が一昨夜逝きました。
すでにタケフナイフビレッジの第二世代は彼を知りません。
彼の霊前には、タケフナイフビレッジ最初の展覧会案内が飾られたと
聞き、とてもやるせない去らぬ別れになりました。
今年は創立のメンバーでナイフ作家にまで成った同志が逝きました。
小学生の私を怒鳴ってくれた彼がデザイナーになった私に、
越前打刃物の窮状を語り、メンバーに逢わせてもらったからこそ、
私はタケフナイフビレッジを率いることができたのです。
私は第2世代を鍛えて、この産地を残したいと彼に伝えています。

『 ひとりの親方が逝った・・・ 』
『伝統工芸産地第二世代の新製品テーマ』
『30年前のデザインを伝統工芸産地で商品化して今なお・・・』


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『伝統工芸産地の系譜だから私自らが模写をする』


   


     6月 15th, 2014  Posted 12:00 AM

越前打刃物の産地には、歴史的な絵が残っていました。
それをじっくりと見たいと思っていましたが、
その絵の持ち主から、早急に返却を、と言われてしまいました。
私は写真で残すべきではない、自分が模写すればいいと思い、
描き直しました。それほど時間もなくて懸命でした。
しかし、一心不乱に描いた模写ゆえに、
私はじっくりと知ることになりました。それは「野鍛冶」です。
千代鶴国安が南北朝時代に武生(現・越前市)にて、
農民のために、なぜ、あの鎌を、なぜ、漆掻き鎌を、想像力です。
伝統工芸産地で、写真を撮りまくり、
下手をすれば彼らの道具を持ち帰ってしまった輩も知りました。
私は、たった一枚のこの絵や、当時の定書き、その作者を
ひとつづつため込むことができたと思っています。
この模写一枚から、どれほどの系譜を知る事ができたでしょうか。
私はとても幸運だったと思っています。
たった一つの打刃物産地を徹底的に知っただけで、
それは全国にある伝統工芸産地の歴史的系譜から、伝統技が、
全国各地との交流の系譜までを相当にまず、手で知りました。
結局、この経験は日本から世界にも通用していることまで、
私は伝統工芸にの場招待されたと思っています。
シェイカー教徒のモノづくりから、今では有名なブランドの根元、
それらは私のダンディズム構築にまでなっていると思っています。
日本なら古文書をどれほど見つけ出し、読み込むべきでしょうか。
海外の美術館よりも博物館や古文書館を巡ることを知りました。
だから、まだまだ巡らなければなりません。
そして、同時に、産地の職人さんにも一杯要求をしてきました。
みんなが着いてきてもらえたのは、私が懸命に、
そうした系譜の知識を集め、それを編集して、また、
伝統工芸産地でいっぱい話と図面とレンダリング、モデルづくりで
デザイン導入の本質を伝えてきたからだと自負しています。

「安政の決定事項にデザイン導入してから・・・」
「安易な包丁デザインは絶対しない」
「刃物・ナイフの基本の徹底基本」


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「憧憬の人物、その実筆書状を探す」


   


     7月 24th, 2013  Posted 12:00 AM

明治維新において、そのヒーローを坂本龍馬と人は言います。
私は大きな間違いだと思ってきました。
彼はその書状・手紙が多量にあっただけであり、
それほどの思想があったわけではありません。
小説になりやすかっただけの人物だから、あたかも歴史扱い。
江戸城の無血開城だとか、明治維新を無血革命も大間違いです。
「安政の大獄」は明治維新のために拷問・獄死・自決だけでなく、
斬首、その日の気分で優秀な能力を惨殺しました。
大勢の優秀な憂国の士の能力は血染められたのです。
子どもの頃から、私のヒーローは「橋本左内」です。
かつて、越前市(元・武生市)で越前打刃物の展示がありました。
その時、橋本左内と横井小楠、二人の「定め書き」を見ました。
その記憶をどうしても確実にしたくて、
市長に私自身も書状を書きました。
返事はさりげない「デジタル記録づくり」を知らされましたが、
納得いかずに、秘書課長あてにメール。
「そのようなものは存在しません」
私は執拗に「あるはず」。
「確かにありましたから、データを送付」。
これではないと確認すると、徹底的に調べました。
ありました。福井県が買い取って所蔵していたものでした。
写真撮影には2週間、書類審査があって・・・、
切れました。
何がなんで写真がほしいのです。
手をつくして、データをいただきました。
「デジタルデータにする」というその方法違っています。
おそらくそうした手法を全ての行政は知らないと思います。
私なりに送付されたデータでプレゼン資料を作りました。
15歳で彼は「啓発録」を書き、
16歳で大阪の「適塾」=大阪大学医学研究科源流に学び、
20歳で福井藩藩医となりますが、
一時、大老候補となった松平春嶽と江戸に出ます。
25歳、滋賀藩の井伊直弼大老によって政治犯となります。
その斬首刑直前の4通の書状を
徳富蘇峰が一時所有は明らかでした。
その4通の書状を見ながら、
26歳、斬首されました。
10年間の彼の行動は「書」が無いだけに今なお闇ですが、
「適塾175周年記念大阪大学の講演」で、
私は先端デザインの下敷きとして語るつもりでいます。


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