kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘身体性’


『前頭葉で「ち」と「は」=形と言語が制御されている』


   


     11月 7th, 2015  Posted 12:00 AM



これは私の極めて短絡的な予想イメージですが、
能力は頭脳。その脳みそに関わっていることは間違いありません。
しかも、その頭脳は現在の脳科学的には、
それこそ心や感情までが制御されていることは明白です。
しかも、脳というよりは「葉」ということばが多用されています。
特に、私が興味深いのは、「前頭葉」であり、
この前頭葉はじめ、側頭葉や頭頂葉など「葉」ということばです。
これは「言葉=ことばであり、言葉と言語、その言語を司る前頭葉に
私は最も興味があります。
これは心臓に関わったときにも、
どうして心臓の筋肉、心筋は感情の影響をまともに受けるのだろう、
こんなことが最も気掛かりでした。
この状況と等しく似ているのです。
「言葉」はことのはであり、はは、ことば、おば、おばばは
日本語では女性形名詞という区分がないだけに、
人間は、ちち・ぢぢ・おぢ・おぢぢが男性形名詞だとするなら、
あきらかに、「ち」と「は」の体系には「ぢ」と「ば」があるようです。
したがって、「ば」が場を意味する女性形名詞ならば、
「ち」は、とち、つち、まち、などの男性形名詞と対語です。
こうしたことからも、「前頭葉」そのものが、
感情と言語を司っている能力を決定していることは確かです。
最も、感情と感性も身体性と精神性の行動力を制御しています。
私は、脳科学を極めて素人的にも「前頭葉」が発想を促し、
しかもそれなら自分の前頭葉はどのようなものだろうと予知しました。
特に発想、とりわけ「全ては言葉にあり」をどう自分で理解するべきか、
これはデザイナーゆえに、ことば発想はむしろことばの世界、
それは女性形名詞ですが、
デザイナーはかたちのち、世界観ですから、男性形名詞にいます。
したがって、「は・ば」も「ち・ぢ」も言語と形態への発想は、
いずれも前頭葉、脳内頭葉での世界観に包まれているということを
最近はとても強く認識しています。
「ことばづくり」と「かたちづくり」も、結局は、
私の前頭葉が決定していることは間違いありません。


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『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』


   


     11月 6th, 2015  Posted 12:00 AM



「影向」:yow gowという松岡正剛の提示は、
流石と言わざるをえませんし、それは彼の膨大な認知力でした。
「かげ」には、光との関係が明白にあります。
それは私が「陰翳礼讃」では語りきれなかった不平不満を
全て取り出して、一挙にそれが、納得し解決しました。
陰翳とは、
確かに日本的な暗闇に存在する物への美学的アプローチでしたが、
私には、特に、デジタル化された光と、その影と陰には、
もっとその根幹であるひかりとあかりの翳りという動態こそ重要でした。
そこに、「影向」という言語が身体性で語り直されたわけです。
影にはあかりの翳り具合の形が、
それこそ夢幻抱影な印象解が必要でした。
それこそ薄暗闇にあたかも浮かび上がる世界観が「影向」だったのです。
しかし、影にはあかりに浮かびあがる形があっても、
陰には陰陽五行での遮断されている翳りだけでは、日本の美学は、
翳りのアナログ性を引き継いでもデジタルな翳りへの進化は
決して語り次ぐことは不可能なのです。
陰翳では日本の伝統へその美学性のコンテクストを引き継げません。
これが私的には不満足であり、大きなストレスでした。
デジタルサイネージが結局は電子看板という軽薄さでは日本流は不可能。
「影向」という、暗闇は翳り動態をしながらもあかりある影の形態こそ
抱影されたイメージそのものをデジタル変容させるのです。
だから私はサイネージを超えた「デジタルアッサンブラージュ」という
その新語による映像・照明・空調もデザイン表現を提案し始めました。
「影向」は、言語が場踊りという身体パフォーマンスを、
舞台芸術として革新するとともに私のデザイン表現そのものを
陰翳礼讃どころかデジタル光線の陰と影との翳り制御を発見させました。
私は「KK塾」第1回目の冒頭で「影向」にデザイナー感性を知り、
破壊されていた気分や気配でこの講座を始めることを宣言しました。
この一枚の演劇ポスターですら、
銀塩版での初期写真機撮影で、光の翳り具合撮影であったのです。
世界的なカメラマンが、群像写真撮影ならば絶対に断ったにも関わらず、
「影向」表現の演出には
ここまでのデザイン的な配慮があったと聞きました。
偶然といえば済んでしまう話ですが、
私は「コンシリエンスデザイン」を開始するにあたって
「影向」という、それこそイノベーションという誤解だらけの定義を
「コンシリエンス」=新結合=コンバイネーションを
手に入れることが出来たのです。


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『デジタルペンは効能性の再考である』


   


     5月 23rd, 2015  Posted 12:10 AM



iPad画面と身体性=手の感覚は、絶対にトレーニングが必要です。
と同時に私はデジタルペンにも、「慣れる」という感覚も
それなりに取り組んできたと思っています。
しかも、デジタルペンも初期に競べれば、まあまあ万年筆程度ですが
とても万年筆と同等のモノはありませんが進歩しています。
ただし、この進歩はデジタルでのモノ仕上げ観の限界でしょう。
だからこそデジタルそのモノの限界性を露わにしていると考えます。
この二種のデジタルペンは、共に、専用のノートが必要であり、
Padとの関係でもアプリのアルゴリズム性とプログラムが必須です。
これこそ、デジタルには、専用性とプログラム性がいるのです。
デジタルの人間との相性が求められているというわけです。
端的に断言すれば、不必要性をすでに表しているということです。
デジタルの効能性が試されているということに注視すべきです。
それこそ、Apple Watchやドローンなども、
デジタル性能以上に、
効能性=存在価値そのものが求められていることを証明しています。
つまり、デジタル性とは、まず、効能性そのものが
人間生活との存在価値性になっているということです。
おそらく、この製品は商品価値そのものが限定され、
不必要性と格闘しない限り、社会的な価値性が問われるということです。
したがって、私はこれらの存在価値性をなんとか見い出すべきです。
つまり、デジタルモノの効能は性能以上に重要だということなります。
おそらく、これらのペンの未来はほとんど無いと断言すら出来ます。
しかし、私にとって重要なこと、いや、デザイナーにとって、
デジタルの言語性をデザインしていく必要条件を再考するには
こうしたデジタルペンのあるべき存在性を生み出すことだと思います。


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「自宅Wifi環境の変革と自分のCloud化」


   


     6月 26th, 2013  Posted 12:00 AM



1984年Macintosh128Kに出会ってから、
ユーザーであるばかりか、
デザイナーとして、Apple社のコンサルタントも努め、
おそらく一番に、パソコンモニターもデザインしてきました。
Apple Linkでクパチーノとの連絡通信し、
同時に、maruzen marunetでまだServeの会員だった頃に、
やがて、自宅のWifi環境までをCloud化するとはという感慨です。
正直なところ、どれだけ、パソコンから自分を切り離すこと、
これがプロのデザイナーにとって、最も大事なコトだと思います。
しかし、特に、Mac関連機器が新発売になると、
どうしてもデザイン評価とともに自宅内システムが変わります。
そこで、新たなAirMac機器に変更すると同時に、
自分だけのCloud化を開始し出しました。
出来る限り、自分のパソコンからケータイ、パッドまで、
自分流にすることにしています。
また、そうしたことが出来る時代になりました。
私は、自分の研究でも「アンビエント・アライアンス」を提案。
この具体例はそのまま今後も展開していくつもりです。
いずれは、「メディア・インテグレーション」の世界は、
無論インターネットや自分のCloud化が重なるものと思います。
5GのWiFi環境下が、
本当に身体への影響を与えているかどうかはわかりません。
可能ならば、部屋壁面にはすべて水を流したいと思っています。
大阪大学の自分の研究室も「壁面に水を流す」と言い張りました。
文科省相手に出来るわけがなかったのですが、今でも私の夢です。
モニターも液晶表示画面が身体影響、視覚眼球影響などは、
それなりに明確になりました。
最も大きな影響は、「ドライ・アイ」問題です。
これは、私の次期眼鏡フレームデザインで正解商品化します。
ともかく、Wifi環境と自己Cloud化は、
これからのパソコンやその他のコンピューター機器制御に、
自分なりのシステム構築ができるかどうかは既に一つの趣味です。
そうして、これから一番の問題は、
「身体性との関係」だというのが私の提案。
一つは、循環器系や免疫系などとの環境調和だと思っています。
パソコン環境と身体の健全性確保が、今、私たちのテーマです。


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