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Posts Tagged ‘造形’


「造形の言語道断」


   


     2月 1st, 2012  Posted 12:00 AM

私のデザインは、簡潔な「造形」をめざします。
多分40年間でデザインしてきたモノのデザインは、
徹底的な造形、その簡潔さ=Lessにつきると思っています。
オーディオから始まり、伝統工芸から制度設計まで、
デザイン対象領域の拡大を図ることで、
デザインの本質的な目標と目的、
その社会的意義に倫理性と美学性を求めてきました。
その代表作が、タケフナイフビレッジを設立し、
伝統工芸にデザイン導入を図り、
その作品としての「商品化展開」をしてきました。
それは素材開発から造形にモノは集約しますが、
全体的な産地存在性を明確にするコトのデザインにつないできました。
今あらためて、その中のモノ=作品としてこの「fluctus」には
簡潔な象徴性があると私自身が納得をしています。
時折、私は何にこだわって、
あるいは何をめざしてデザインをしていますか?という質問を受けます。
その回答は、「自分が一番欲しいモノ」に他なりません。
そして、デザインの目標=ゴールと目的=オブジェクトが
合致しているのは「簡潔さ」です。
それは、シンプルさを超えた意義までという意味です。
だから、「Simple is best」では済まされないことです。
「Less is more」にまで至っているかどうかということになるでしょう。
それを実現するには、多分、「最大公約数的な一人称」と言っておきます。
つまり、自分の言葉=造形言語の言語道断さまで
自分を追い詰めることだと考えています。

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「健康は失い薬づけだが幸運なり」


   


     1月 12th, 2012  Posted 12:00 AM

28歳交通被災で車椅子生活。
交通被災時に心臓も直撃されたために心臓障害。
これが私の宿命でした。
絶望だけはせずに、自分を諦観の中で生きてきました。
ところが、幸運だったのは大学人になってさらに、
名古屋市立大、大阪大でもそろぞれの附属病院で、
詳細に体調管理されていることです。
入退院、手術は幾たびも、しかも敗血症まで、
こんな重篤も乗りこえることができました。
これは幸運なことだと思っています。
だから、「幸不幸」はコインの裏表みたいなものです。
「幸不幸」から幸運や幸福をつかみとらなければなりません。
毎月病院で診察を受けます。
これは体調が良いときです。
体調が悪いと診察にも行けないのです。
敗血症から生還してきたとき、
病院の待合室で大勢の患者さんを見ていてこう思いました。
「病苦で自死を選ぶ」というきもちがつくづくわかりました。
毎月毎月、死ぬまで病院通いなんていうのは耐えられないし、
常時食前食後就寝前に服用しなければならない薬を見ると、
きもちはすこぶる落ち込みます。
ICDを入れる前に比べると、格段に薬の種別も激減しましたが、
それでも常に万一を考えると、薬づけの生活です。
だからこそ、「薬」の形態や色彩のデザインが不可欠です。
そして薬の形式をもデザインで変えてしまうべきと考えています。
なんとしても「ドライパウダー化」して経肺吸引が目標です。
現在は、ワクチンをミスト吸引するシステム開発が進行しています。
機能食品という名の「健康維持のサプリメント」ブームです。
しかし、サプリメントととの最適性などは、
もっと確実にしていく必要があると考えています。
いづれ、私の常備薬がドライパウダーになってくれたらと思っています。
自分のための造形された、デザインされた薬が必要です。
デザイナーとして、
こんなことに気づかせてくれたのは「幸運」だったと思ってきました。

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「問題解決なのに「応答」商品の氾濫」


   


     12月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

今、日本のデザインは方向を間違っています。
誰かが指摘しておかなければならないでしょう。
私は、「応答商品」が氾濫し過ぎていると思います。
デザインは問題解決の手法です。
そして、問題には三つの種類があります。
話題・課題・問題です。
だからそれぞれに「答」がありますが、
これも三種類の答があることを認識すべきです。
話題に対しては「応答」
課題に対しては「回答」があります。
もちろん、話題に対する答としてのデザインは、
造形として、かわいいデザインであったり、
その商品存在が話題になるべき流行やファッション性、
これは不可欠のことです。
社会的な課題になっていることの「回答」商品も必要です。
そして、元来、根本、極めつけは、
何が問題であるかを見つけ出し、その解決「解答商品」が最も重要です。
どこか日本のモノづくりが歪み出しているのは、
「解答商品」を新商品で見かけることが少なくなってきました。
まだ、課題に対して「回答商品」ならば、
国際的な競争力があります。
しかし、ともかく社会的な「話題」だけを追い求め、
あたかも共時性があると錯覚している商品は、
「応答商品」にすぎません。
そのような商品づくり・モノづくりは、
頭脳集約産業の「答」商品ではないことを確認しておくべきです。
どの分野のどの領域かは明言できますが、
まずは、「応答商品」を話題にしている産業は、
確実に国際的競争力を喪失するのです。
私は自分が「買う」と判断するときには、
必ず「問題解決」を果たしているモノを選びます。
日本の再生として、ともかく「問題解決」がデザインであり、
その答としての「解答商品」づくりに
集中させなければならないと考えます。

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「天災人災で知った語彙からかたちを」


   


     4月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

なぜ、人は言葉を・・・、
文化人類学が教えてくれています。
人間は、毒のある物と、
役に立つ物に名前、つまり言葉を持ちました。
結局、人間は生きることと、さらに生き延びるために、
言葉を創り持つようになったということです。
そして、このような言葉の意味を知っていることが、
知識であり、日常生活では常識になっていったのでしょう。
私たちは今度の天災と人災で「識らなかった」言葉を知りました。
天災と人災で知り得た言葉=語彙は、身を守るための言葉でした。
正直なところ「知りたくなかった言葉」ばかりだったはずです。
大震災と大津波という自然の脅威に潜んでいた言葉は、
私たちが普段の日常生活では忘れていた言葉でした。
さらに、原子力発電所の事故では、
専門用語や放射能の意味まで知らなければ、
自分の「安全」を確保することができません。
人間が言葉を知る基本であった言葉でしょう。
まさしく、「毒=死」を予想するために知っておくべき言葉でした。
こうした言葉は語彙として日常会話語になってしまいました。
この日常会話語になってくれたことには大きな意味がありますが、
それは不幸な出来事の連続を背負い込んだにすぎません。
「予想外」とか、放射能を表示する単位語彙は、
科学者や技術者の言葉です。
私自身、デザインには様々な専門領域から言葉を移入します。
それが、専門的な術語、さらには原意から言葉変遷を追いかけて、
「言葉をことばとすること」で「かたち」との相対化が目標です。
「かたち」への相対化というひとつが「造形」です。
「造形」することと
「造形言語化」することが、デザイン実務です。
しかし、造形言語化は、結局、言葉であり、ことばとしても、
これらの語彙は、読まなければ理解できません。
したがって、デザイン手法によれば、
言葉→ことば→sign→図や記号=ピクトグラムにしていくこと、
これが目標であり目的、
すなわち、言語・語彙を突き動かします=do+signです。
designされた造形なら、「触ることができます」。
見て分かる「I see」できますということで、日常的な理解、
結局、納得してもらうことができると確信しています。
do+sign=designareという遡及こそ、designの原意だからです。
願わくば、すべからく「想定内」で分かっていることが重要です。

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「資本主義からの逃走」
 「全体価値を創る、自己確認するための痛み。」
  


   


     2月 27th, 2011  Posted 2:13 AM

あらためて、私の夢の形見
デザイナーになってちょうど40年です。
すでに残された時間ということを考えます。
しかし、28歳で最初の死に際を実感しながら
40歳までの時間を意識していたにも関わらず、
心臓病、敗血症、と3度も「あの世」の入り口まで行ってきました。
そのおかげで、何を残しておくべきかはすっかりわかっています。
デザイナーであるがゆえに、無論、「造形」から「思考結果」、
さらに、私の持ち時間では完成できないコトは、
次世代、次・次世代に期待と希望を託すだけになりました。
その大きなテーマが、
「デザインは付加価値ではなくて全体価値を創る」ことだというコトゴトです。
それを、今、私に要請されているモノづくりと、
自分が果たしたいコトを懸命さと賢明さでということを言い聞かせています。
具体的に、「私はここまでやったから、あとはよろしく」ということでしょう。
そういう意味では、大学環境と企業環境を往来できることは、とても幸運なことです。
「全体価値」が観えるというのは、
私にはとてつもない「欠損・欠陥・欠落」部を身体的に毎日自己確認できるからでしょう。
自己確認となる身体的痛み
その自己確認とは今なおひきずっている交通被災での損傷部位の「身体的な痛み」にあります。
喫煙すれば、この痛みは一定になります。だから喫煙は麻薬に等しいのです。
酒を飲めば、この痛みはまったく感じなくなることも充分に知ってしまいました。
しかも、この痛みという自己確認のマーカー値が暴れ出すとき、
私の心臓病は、頻拍から細動に至る危険性がありますが、
ICD(除細動器)を植え込んでいるのでパルス衝撃で食い止めることになるでしょう。
私の身体的痛みが毎日毎日明確であるがゆえに、
私だけが伝えることのできる人間であるという同一性を「かたち表現」にしています。
耐えきらないほどの痛みに立ち向かえることの体力と精神力を鍛えるためには、
「自分に喧嘩」を仕掛けるわけです。
62歳、スタッフや教え子たちが祝ってくれました。深謝です。
まだあと少し私定義の「全体価値」、みんなに伝えたいことがあります。
私の「夢の形見」でもあるのです。


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「資本主義からの逃走」
      「自分の中の『多数決』」


   


     1月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

決定に論無し
私の決定。意志決定。
それには決定論も決定論理もありません。
自分に問いかけてきたのは、
どうしてこの「造形」=デザインに決めたのだろう。
私の意志決定は、デザインの決定に繋がっています。
しかし、決定論、あるいは決定論理を常に求めてきました。
その決定、造形決定、デザイン決定には、
自分の中には「論」も「論理」も正直ありません。
というより、無もしくは空です。
ちょっと日本人らしく言ってみるだけのことですが、
それでも、「論理」を常に求め続けてきたと考えています。
もし、論理的な思考があったとするなら、
それは、「最大公約数」と「最小公倍数」の素数での計算方法でした。
方法論、もしくは手法論はあったかもしれません。
そして、私のデザイン造形で評価されたモノは、
公約数的な素数ではなくて、公倍数の素数の中の「公約数にはありえなかった素数」です。
それは、少なからず、私の中に潜んでいたデザイン要素ですから、
多分自分の中にしか無かったものだと確信しています。
これが私の決定手法であり、もし論理だとするなら、
多数決には決して至らないものではないかと推測しています。
よって、私の決定には決して「多数決」という意志は皆無だと考えています。
この思考ゆえ、私には「多数決」の論も論理もありえないということになります。


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『資本主義からの逃走』
    「2010年・行学の支障たる民衆主義に決別を」


   


     12月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

民衆主義の中のデザイン
一所懸命に向かい合ったと思います。
しかし、自力では無理難題に包囲。
賢明さだけでは解決不能が多発しました。
ということは、あまり懸命さと賢明さが不十分。
この不十分さを自分に押しつけることは辞めました。
こうしたことはワイフからのアドバイスで助けられました。
それでも肝心の「造形」というデザイナーの解決成果だけは継続させられたと思います。
未だに現役でデザインテーマも自分で設定し、
地道・蓄積・修練・研磨だけひたすら続けられたことは「幸運」だったと思います。
しかしこの一年、日本全体の不景気感は、デザインへの巨大な重力になっています。
これはすべからかく、「政治」がまともでないこと、
そのような選択をしている根本的な民主主義が民衆主義に覆い尽くされていることです。
したがって、本来、人間社会、世界的賢明さの歴史観が築いてきた「民主主義」の誤り、
それは「情報」で歪められる脆弱さと「情報力の巨大さ」です。
民衆主義を民主主義と勘違いしている現代世界観を覆す必要性がある、ということです。
「政治」がなぜ駄目なのか、この根本についての討議は民衆主義の中で融解しているだけです。
民衆主義に融解していく民主主義をつきつめていくことが、
いわゆるグランドデザインだと考えます。
来年のテーマの一つです。
その解答も「解決というかたち」を造形したいと思っています。
今年の実例で考えると、「なんとかデザイン」、つまりデザインの形容、
すなわち、デザイン職能の専門性と詳細性を決定する「なんとかデザイン」、
そのものをデザイナー自らに曖昧性と混乱性が増えていることです。
これも民衆主義的な中でデザインが語られることが頻発しているからでしょう。
特に、産業とデザインの関係性が、文化とデザインの構造化になかなか進化していません。
これが最も明快になったことです、これを来年のテーマにします。
つまり、民衆主義と民主主義を分別することです。
それは民衆主義も民主主義も両軸がもはや不要であることを、
「デザインの本質」に持ち込みたいということに他なりません。
これは今、わが国の存在、わが国に「生きる日常」すべてを皮膜している現実問題だと考えます。
民主主義を離脱するために、民主主義からあらたな主義を創造すること。
その根本が民衆主義に委ねきっている私たちすべての意識改革だと確信します。


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『資本主義からの逃走』
   「情報記号・印=サインからトポロジーへ・3」


   


     9月 26th, 2010  Posted 12:00 AM

印・sign=情報記号
Designはラテン語・designareから派生しました。
designare=do+signで文字通り、「印をつける」という原義です。
そこで、「印=sign」をややむずかしく情報記号と呼んでおきます。
その情報記号で、きわめて基本的なモノとして、
プラス・+とマイナス・ー、さらに数字やアルファベットを持ち出したいと思います。
私は、design=do+signと考えると、その基本形態の「印=sign」として、
数字とアルファベットがまず浮かぶからです。
特にアルファベットを取り出し、さらにこれらを図形的に分類することができます。
CILMNSUVWZ、EFTY、そしてDOと三つの分類ができます。
アルファベット文字=アルファベットという印=情報記号の造形です。
C・I・L・M・N・S・U・V・W・Zが、
もし、ゴムでできていれば伸ばせば、一本のゴムになります。結局、Iになってしまいます。
この分類とD・Oは、Iを伸ばしながら両端を接続した造形です。
こうした造形形態の分類を、幾何学でも位相幾何学=トポロジーと呼ぶわけです。
点・線・面への新たな興味
アルファベットという印=記号を点・線・面で見詰め直す手がかりに、
トポロジーって何なんだろうと考えたことが動機でした。
なぜななら、点・線・面は造形の基本形態であり、ここから形体と形態を峻別して、
デザインから「次元」を対象にすれば、
新しいデザイン対象やデザイン手法がきっと発見できると思いついたからでした。
そして、幾何学でもなぜ位相幾何学と呼ばれるのだろうかを知識としたかったのです。
位相幾何学の特色をあらためて整理し、分類し、その性質を情報化するときに、
なんらかのデザイン学理になる、ということにdo+sign=designから見詰め直したいというのが、
私の情報記号=印=サインからトポロジーの世界に入っていった理由でした。


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『資本主義からの逃走』
    「話し合う、この実体験から文脈へ」


   


     8月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

文脈の身体化
人間は「ことば」を持っています。
初めに「ことば」ありき、ということは、
自分が母親から「ことば」を身体化していきながら、
体験・経験でその「ことば」の内容と質をさらに「身体化」していくわけです。
私は、交通被災というとんでもない状況の実体験の中で、
その事件・事象・状況の中での「ことば」を「身体化」してきたのだと考えます。
そして、見つけ出しているのは「文脈」という「ことば」の脈絡性やその順列性で、
それらの意味を獲得することを、自分なりに創りだしたり制御できるということです。
しかも、この言葉の脈略性=文脈をさらに深く詳細にしていくこと、
それはそのままデザイン=造形による問題解決までを体験から決着させたいという意志と意欲です。
そこで、次のことばを並記してみます。
●「会話・会談・談話・対談・対話」です。
つまり、ひとまとめで言えば、言葉がこうした中で、
どのような脈略=文脈を持っているかを確認しておこうということです。
「会話という談話」対「対談という対話」は、
デザインという問題解決の中で、コンテクスト=contextが必ず常駐しているということです。
私が車イスという、いわば「不幸な事態」が、実際はその逆転であって、
「コンテクストへのまなざしを得る」=幸運さにつながっているということです。
私がデザイナーであったことは、
「問題解決」にコンテクストからの解答を造形化できるという自信を「身体化」できたことです。
それは「会話:対話」に、
コンテクストを必ず位置決めをして配置しておくことが必要十分条件だということを
車イスの「身体」・「身体の精神性」体験から教えられて知ったという幸運だったのです。


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『資本主義からの逃走』
   「デザイン手法の直観はつつましさを知ること」


   


     7月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

コンセプト不要
「空」・「無」というのは、
正直、日本の「知らなければならない」仏教的素養。
となれば、私は、教条的で、観自在性すら剥奪されそうだと思っています。
しかし、これまで「デザイン手法」あるいは「デザイン手続き」と言えば、
「コンセプトづくり」は手法中の決定打です。
私は、「コンセプト不要」と断言しました。
即、直観が造形を招き寄せることは、
デザイナーになって以来、幾たびも私にある種の「啓示」を与えてくれました。
「啓示」のごとく、ひらめいてくれたのです。
饒舌にならず
「コンセプト不要」と主張することは、「つつましさ」も無いと評価されるでしょう。
しかし、「コンセプト」は、言葉に、それも饒舌に語り伝えなければなりません。
「つつましく、饒舌にならず」ということを、
欧米的態度として私たちもその態度にならなければいけない、
そのことこそ教条的に受け入れてきたのかもしれません。
私は、「コンセプト不要」を断言するために、その準備はしてきたつもりです。
「言語道断」
「言語道断」という言葉でした。
「言葉、謂わず謂わず(言葉、道断道断)」道元です。
つまり、「言葉にはもうならない」、
「言葉ではとても表現できない」ということを喝破した観念=想いの長けです。
コンセプト即・概念では表現できないこと。
中核に言葉=周縁で取り囲んだコンセプトは虚しいだけです。
中核にコンセプト=周縁は言葉で納得しようというのは虚無です。
「言語道断」ゆえにぎりぎり「かたち」で表す。
当然、そのかたちが生み出し、表現する性能と存在の効能、
これらが統合化されて機能をデザインする。
こういうことから再考しようというスローガンが「言語道断」でした。
さて、ここからは、読者諸兄の「つつましさ」に預けなければなりません。
これまで、ほとんどデザイン手法の核心だったコンセプトから、
コンセプト無くして、デザイン無しとする慣習から決別できないならば、
「勝手に、コンセプト云々を!」です。
つつましさの使い勝手
私は、提案します。主張します。
「コンセプトから離脱を」
「コンセプトづくりと決別を」と!
あなたが「コンセプトを投げ出すだけの直観、その勝手さ」に委ねます。
私が啓示されているのは、「つつましさ」に使い勝手があるということです。
「使い勝手のあるつつましさ」に、
今、日本人デザイナーは、瞑想してでもそこからの「直観」を求めるべきではないでしょうか。
「コンセプト」から「デザイン」する手法では、
つつましさには近づけないことを妄信していいかもしれません。


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