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Posts Tagged ‘造形’


5月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 28th, 2010  Posted 10:20 AM

5月28日 赤口(戊寅)

点と線と面・・・・・・
これは造形の要素である。

視点・視線・視野・視界は、
点と線と面で、
より詳細に説明することができる。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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4月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 21st, 2010  Posted 11:21 PM

4月21日 仏滅(辛丑)

造形の存在感を際立たせる要素には、
リズム(律動感)
ハーモニー(調和感)
アクセント(強調感)
がある。

これら、三つの感覚は、
音楽の要因と重なっている。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


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『資本主義からの逃走』   
「Mー素材がかたちを呼ぶ」


   


     4月 8th, 2010  Posted 12:01 AM

Material
アルファベットは、表音文字と言われています。
しかし、これは正しくはありません。
ヒエログラフから派生した象形からの歴史性をもっています。
したがって、このMが最も端的にその意味性は、
「m」という小文字のアルファベットに象形的意味があります。
m
上部の形は、「波」表面の形です。
ここからおおよそ、海・羊水・振動という原意につながります。
Maritime=海は、umi=umuという「生む」ことです。
umu=umiはシュメール語・サンスクリット語に同等同値です。
なんだか、怖くなるほどの意味性がアルファベットに存在しています。
Mother=母、その羊水、そして振動=Musicに展開し、
Matetial=素材というところまでの言葉の拡大は意味性が、
見事なまでに、世界要素になっていることです。
私は、素材=MaterialがMotherであり、
素材が生み出していく、ひとつが「かたち」だと思っています。
そして、素材の「素」からも、
あるいは「振動」からも、かたちの源である素材を求めます。
これはすでに私の慣習にもなっています。
常に、何かモノのデザインでは、「素材」へ回帰し帰着します。
かたちの母だと考えることが出来るからです。
「素材」が生み出してくれる具体性が「形態=かたち」であり、
「素材」の「素」には簡素・簡潔・清潔を抽象性として、
明確に手に入れたいと考えるわけです。
だから、デザインの母として、造形を生み出してくれるのは、
「素材」です。
この40年にわたってデザインしてきたモノには、
必ず「M」がありました。
Mono、というのは言い過ぎでしょう。
私のモノは人工物です。
物は、生物・動物・大きな牛が日本の古代からの定義でした。
羊から始まる美・義・善という古代中国(説文)ではありません。
むしろ、素材の簡素な清潔性に美を見つけ出すことだった気がしています。
「素材」は、やはり、かたちの母なのです。
Mother


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『資本主義からの逃走』
「デザイン対象としてのプライバシーと情報化に向き合う」


   


     3月 27th, 2010  Posted 12:01 AM

情報化
情報時代での「情報化」は、あらゆる物事に及んでいます。
上記はあまりにも一般的ですがあえて記しておきます。
そして、「物質・情報・エネルギー」が現代要素・要因なら、
これらは、
● 物質の情報化・情報の物質化
● 情報の情報化・情報化の情報
● エネルギーの情報化・情報化のエネルギー
という曼荼羅的な組み合わせの相互性や補完性が発生しています。
Privacy
その中でおそらく、
民主主義が最も権威性と権力性を持ったのは、
「プライバシー・自分性の保全」だったのでないでしょうか。
これは、
● 情報の情報化・情報化の情報のドメイン、
その中で検証と検討が不可欠になってきていると思っています。
前述してきた「マスコミ」や「マスメディア」との構造に、
深くプライバシーが関与してしまったからだと考えています。
私はデザイナーという立場で、
プライバシー化する(させる)ツール、
プライバシー化する(させる)メディア、というモノを
最も考えてきたからです。
そして、プライバシーの情報化と情報化のプライバシーに
メディアデザインするモノと
ツールデザインするモノを突き詰めている感覚があります。
以上の記述を読み解くことができ、
なおかつ、職能として「造形化」できるデザイナーが、
確実に減少しているとさえ思っています。
あらためて、問題提起をしておきます。
プライバシーの情報化とは何(ツール・メディア)なのでしょうか。
情報化のプライバシーとは何(ツール・メディア)なのでしょうか。
さらに、これからの「デザイン」が「プライバシーと情報化」に向かい合うとき、
何が「プライバシー・情報化」デザイン解決か?
何がメディアというモノとして「プライバシー・情報化」に、
何がツールというモノとして「プライバシー・情報化」に、
この二つを話題・課題・問題として、デザイン解決できるかということです。


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『資本主義からの逃走』
 「製品要因は、実装技術というエンジニアリングの神髄」


   


     3月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

実装という設計
Apple社でコンサルタントだった当時、
もっともプレッシャーは英語・それも会議での英会話。
デザインは常にまずfeasibilityの検討から入ります。
二つの領域の技術検討です。
電子回路関係と筐体構造や機構設計関係でした。
そこで多用された言葉がありました。
回路関係ではLayoutであり、
機構構造ではConfigurationでした。
しかし、日本では、この両方の意味を兼ね備えた言葉、
「実装」という用語があります。
なぜなら、回路でも構造が出てくるとLayoutでは、
何か不足性が残るのです。
同様に、機構といってもその配置となれば、
Configurationでは、言いきれません。
Configuration Layout
私は「実装」をConfiguration Layoutと提案しました。
以後、私は国内でも、
実装=「コンフィギュレーションレイアウト」と言って
使っています。
つまり、回路と機構、その内部配置が外観を決定します。
だから、デザインの決定要因なのです。
要因というのは、要素という静的部品ではなくて、
動的要素を要因と呼んでいます。
素材という要素をどう「実装」という要因でまとめるか、
ということをエンジニアとの議論で高めていって、
それこそ発明へ向かわせるというのがデザインにとって、
最も重大で重要というのが、
私の基本的・基礎的なデザインへの態度です。
エンジニアには、回路の話にも割り込み、
筐体や機構設計にも割り込んでいく姿勢が必要です。
まさしく、デザインと技術、
デザイナーとエンジニアの関係が一体化したとき、
私はほとんど発明であり、
それが革新への道程だと考えます。
Technologist
そして、その「実装」と「造形」ができてしまう人間が、
これからの「テクノロジスト」であって、
こうした才能の育成が、技術・実装とデザイン・造形を
統合化できる教育こそ、これからのモノづくり教育、
ということです。
製品要因=実装は、技術から造形、造形から技術を
補完的に成し遂げるテクノロジカルアートだと思います。


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2月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 21st, 2010  Posted 9:00 AM

2月21日 先負(癸卯)

私のデザインでは
あくまでも観念として
直線的な造形を
固守していたい。

私に言わせれば、
なよなよしていたり、
優しいかのように見せかける
曲面的な造形を断固拒否する
論理になってくれるということだ。

『プラトンのオルゴール』
花鳥風月、風のごとくデザイン


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『資本主義からの逃走』
 「ATOMがBITSを、BITSでATOMに、
        それは新素材開発での造形デザイン」


   


     2月 2nd, 2010  Posted 1:00 AM

FEP Front End Processor
ワープロは、日本独自の発明でした。
英・Word Processorとは異なるBits文字世界です。
さらに、日本語フロントエンドプロセッサーも、
日本語処理を可能とした大変な成果だと思っています。
だからFEPが無料である必要はありません。
しかし、そんな時代が近づいていると考えます。
日本語は、パソコンやケータイでは、
不利な言語体系であることがDigital技術で、
明白になりました。 
それは、BITSをコスト的に考えれば英字に比べれば、
コストは2倍です。
ハングルとも2倍差があります。
そこで、パソコンやケータイでは無くて、
電子ブック(これは変な日本語です)での日本語、
その進化を私は、これまで正確に追いかけてきました。
すでに確立しているFEP(IN PUT)が電子ブックでは、
「EFP」(OUT PUT)=日本語アウトプットが不可欠です。
「書籍(ATOM)」という形式の要素としての日本が、
電子ブック(BITS)形式にはもう目前です。
私はe-Bookが各種進化するたびに収集してきました。
しかし、これらはすべて英文字でした。
「青空文庫」が立ち上がって、なんとかMacで、
という発端時の様子も間近でみてきました。
今、私はKindleを、Kindleで購入したコンテンツを
iPhoneでも読むことができる時代になりました。
Kindle・iPhone
i-Pad
そして、とうとう大変な話題であった、
憶測や推測のiPadが商品化されました。
が、日本語処理=「EFP」は、
KindleもiPhoneもBITS技術は開発されていないので、
日本語電子ブックになる明確な日程は届いていません。
それはBITSの問題ですが、私は別の視点で、
大きな見落としを、デザイナーとして確信しています。
それは、電子ブックの「形式」ではなくて「形態」です。
「形態」=ATOMを決定づける素材が、
まったく開発されていません。
すなわちATOMとBITSの相互作用を忘却していす。
もうひとつ付け加えるなら、デジタル機器の機能です。
その機能の重大さは「清潔さ」です。
「書籍」を一ページづつ舐めた指先でという風景より、
「不潔さ」を解消しているATOM性が皆無です。
それはBITSを包んでいる形態の「素材」の進歩です。
私は、その「新素材開発」をベースに、
ATOMとBITSの相互作用性をデザインしました。
まもなく発表します。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考も数理思考も、『手』に集約します」*


   


     1月 17th, 2010  Posted 1:00 AM

手と空
いつもスケッチと数式を描き書いています。
「手」に造形・数理の思考が採集・集中・集約します。
「手」が動き出すまでには、
「手」はほとんど運動神経が支配している所ですから、
頭脳は「空」=emptinessになっています。
だから、思考が蠢いているとは感じられません。
ところが訓練した「手」には「思考脳」が発生します。
これが不思議なことですが、私は確信しています。
デザイナーの修練・資質・才能・意志・存在感、
それらを統合化しなければ、
この不思議さを身体化できません。
これはほとんどスポーツや楽器演奏とも同一だと
私は想ってきました。
手の訓練
美大生時代は、徹底的に「手」の訓練をしました。
泣くほど訓練をしてきたと思います。
デザイナーである現在も「手」をひたすら精進です。
今、教育者として「手」=デッサンを重視しています。
もう、「手」で一本のラインを見ただけで、
学生や若いデザイナーの「力」=能力が見えます。
私自身のデッサン・スケッチには健康状態も出ます。
もう一つは「手」は女性のごとく「手入れ」必死です。
ハンドクリーム
手の洗い方からハンドクリームについても、
相当に試行錯誤してきました。
特にハンドクリームについては一家言持ってます。
「手」が、
実は「脳科学」が集約しているとさえ思っています。
「思考」は「試行運動」で「手先」から表現されます。
私は、思考が行き詰まるといつもじーっと、
自分の「手」を見つめることにしています。
ちなみに、ハンドクリーム評論家にもなりたいです。


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『資本主義からの逃走』
 *「造形思考は本来、数理的思考です」*


   


     1月 16th, 2010  Posted 9:00 AM

美しい

私は「生まれ変わってもデザイナーになりたい」です。
なぜなら、
まず、自分の中に「美しい」と自身で確認できる、
そんなモノやコトがひそんでいるのかを知りたいから。
そして、「美しい」というのは何なんだろうと
いつも問いかけていたいからです。
しかもどん欲に、「これって美しい」でしょ!
見せびらかしたいのです。
デザインは結局「造形」に集約させることができます。
そのための思考・思って、考える、ということは、
「数理的だ」と想ってきました。
「数学的」っていうのは受験の思い出が重なって、
「間違ってはいけない」というストレスがトラウマ。

数理

しかし、「数理」というのは、
たとえば、「リンゴ1個」と「鉛筆1本」を
総和して想う=思い考えるとすると、
●「思って」、たとえば二つとも「赤い」とか、
●「考えて」、「丸い」と「細い」ということです。
だから、数学・算数だと1+1=2となって
総和で「2」だけしか残りませんから、
何の感動もありません。
だから、
●「リンゴの赤さ」と「細い棒の中に黒い芯」を
たとえば、
●「リンゴに突き刺してもそれで絵が描ける」となると、
「どういうこと?」
「なぜ?」
「それがどうしたの?」っていう疑問が沸いてきて、
これはまぎれもなく「リンゴ鉛筆」の「造形」です。

想・思・考=形

「数理的」というのは、実はこうした想像力で、
●とんでもなく、「食べられる鉛筆」になったり、
●「鉛筆でリンゴにいっぱい穴を開けるモノ」
にもなってしまうのです。

私が「デザイン数理学」ってむずかしく言っている、
● e・i・πなんて「記号」の組み合わせは、
e=鉛筆・i=芯・π=リンゴがマイナス1って何?
これらを組み合わせることを想像力=virtualで、
「想う」=「思う」と「考える」ことをすると
「形」が出来ている、という「造形」です。
めいっぱい「オイラーの想像力」を追いかけて、
「見えてくるコト、ひょっとするとつかめるモノ」が
「美しさ」になっているのかも・・・ということです。

数学的美しさ・数理的美しさ

だから、「数学的美しさ」と「数理的美しさ」が、
同一なのか、全く異なっているのかは、私はもちろん、
人類はまだ分かっていないということにもなります。


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『資本主義からの逃走』
  「i-Bitのeとiとπの意味を求めて・6」


   


     1月 13th, 2010  Posted 1:00 AM

e・i・π

e・i・π、この三つに、デジタル社会があります。
あるのではないだろうか、というのが私の推論です。
「e-冠詞」と「i-冠詞」に私は何かを見ています。
exponent・Napier’s-e・internetにπです。
この一つ一つは、直喩性から隠喩性で、
現代の「情報時代・情報社会」の意味論へと、
その思索と思考を深めていくことができるでしょう。
たとえば、πは、円球だとするなら、
それはまさにwebsiteです。
πに対して、人類が追い求めてきた歴史は、
もうビックリするばかりです。
e-management5果たして、
デザイン、デザイナーの「感性」・「感覚」が、
見えているデジタルには、明らかにAtom資本は、
包み込まれています。
さて問題は、
iという虚数はバーチャルへの想像力が創造しました。
リアルとバーチャルも、
すでに、すっかりと、
これらのe・i・πにシンボル化されています。
だから、これらの意味論は記号論・構造論となって、
実は「造形」に結びついている、
というのが私が追い求め始めている「造形基礎論」、
すなわち「デザイン数理学」なのです。


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