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『神話性ナラシオンで富獄が語る空間・形態』


   


     10月 14th, 2017  Posted 12:00 AM




富嶽三十六景の中の代表的な浮世絵=風景画、作者は葛飾北斎です。
富士山にまつわる物語、
あるいは神話ともいえるナラシオンは識るべきでしょう。
私にとっては日本を代表する山は白山です。
だから富士山より白山なのですが、こんな話を聞いて愕然としました。
富士山と白山が喧嘩をしたのです。
だから、富獄=富士山・不死山が似合っています。
ともかく、どちらの山が高いかということで、
竹で雨樋を作って、水を流したら富士山から白山に流れたのです。
子ども心に富士山が嫌いになりました。
そして左は黄金比では必ず実証される構図です。
つまり、空間論の下敷きになる美しさがあるのです。
そして右はexponential curveそのままの形態論になっています。
まだ日本に透視図が浮世絵の構図ではないのに、
なぜ、北斎は知り尽くしていたのだろう天才であったという実証構図です。
そして、ほとんど日本人には識られていない、アルゴナウタイなのです。
アルゴナウタイというギリシア神話叙事詩でのメディアと同様の神話が、
この富獄の神話=かぐや姫・竹取物語と同じなことを、
私はメディア論:かぐや姫とメディーサ同一で追い求めたことがあります。
これは語り切れないほどのアルゴナウタイと富獄神話が同一であるから、
exponential curve=eXの解釈ができるとさえ思っています。
つまり、黄金比・exponentという構図は空間論と形態論で、
美しさを生み出しているのですが、
私の判断では、歌川広重の広重ブルーは北斎を超えていると思っています。
浮世絵にまつわるナラシオンは、広重も北斎も美しさの基本にあるのです。
結局、美学では語り切れない物語性が北斎にも広重にも見事なわけです。
したがって、デザインでの美しさには
明確な背景としてのナラシオンは必要条件なのです。
もっと断言すれば、ブランド価値や商品デザインでの美しさには
絶対的に神話的にもなりうるナラシオンが必須だということです。
デザイナーにとっての悟識=カント的にはその素養は浮世絵からも
後天的に確実に学べるということです。


* 『広報誌がまだジャーナリズムである』
* 『「形態学序説」からのデザイン原論思考が必要』
* 「どちらの『杖』を選ぶべきか、医学のシンボル」
* 『吟遊詩人の的確な叙事詩はロックにまで至った』
* 『透視図・次元的な隠喩としての焦点というイメージ点』


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「光景は風景が制御している」


   


     6月 7th, 2011  Posted 12:23 AM

生と死は光景です。
この光景を日常化すること、
それを近代文明は出来るだけ、
避けてきました。
文明が最も忌み嫌った事、
それはこの光景だったと私は思っています。
だから、文明の基本を集落、
現代都市社会の基盤に配置したのは、
水と火をいかに見えなくしてしまうかでした。
けれども自然がもたらす、水と火はまさに自然現象です。
この自然現象を風景と呼んでいます。
中国の古典的解釈は、
風景=彗星・日食・月食・暴風雨です。
まさしく風景画という言い方は、曖昧過ぎます。
風景の要素は、人間の生死を制御します。
風景こそ、光景を人間に与える最大の不幸だったのです。
実際は「幸不幸」という言葉が、
人間に差し向けられた二項択一問題だったわけです。
風景には人間の生死を瞬時に決定する途轍もない力、
人間には制御不可能な力=エネルギーがあるわけです。
今回、震災よりも津波の力は甚大でした。
それも引き津波の大きさです。
幸不幸は、生ある者は幸であり、
生きられず死に至る者は不幸というのが、
本来の意味でした。
果たして、人は、日常の背後にこの光景が潜んでいます。
大震災・津波は、自然の風景力そのものであり、
自然と人間の調和というのは、
あるいは、風景画という曖昧さや風景の寓話で、
死を遠ざけてきたのでしょう。


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