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Posts Tagged ‘高校時代’


『子どもは嘘をついてはいけないが、嘘をつくから大人なのか?』


   


     11月 9th, 2013  Posted 9:46 AM

先般、他大学特別講座で質問を受けました。
「子どもの時には、嘘をついたらしかられますが、
嘘をつけるようになれば大人の証拠です。どう思われますか」。
これはまさに人間界の真理です。
ちょうど、食品偽装という社会問題が全国に蔓延しました。
決して、彼らは「偽装ではなくて誤表示」と言い切りました。
さらに、「私の存在が企業に迷惑をかけるから退任します」と。
高校時代だったら、私は殴っていたでしょう。
企業代表として、お客様に大変なご迷惑をおかけしたから退任。
これが、大人の悲しいかな、本当の退任挨拶であるべきです。
正直、子どものころ、「嘘をつくこと」は絶対禁止でした。
ところが、「嘘をつく能力があること」が大人の必須条件!?
彼らが見失っているどころか、人間性を捨ててしまっていること、
それは「誤表示なんて誰も信用していないこと」、
明白に「偽装であり、利益獲得至上主義」でした。
さらにこの底辺に流れているのは、「内部告発」をする環境です。
いづれにしても、「きもちが悪い」。
食品偽装があることは随分以前から、私は直面化してきました。
「これ生ジュースじゃないよ!」とか、
「そば粉を嘗めて、本物かどうかわからない!」と。
ほとんどが相手と喧嘩をしてきたことになります。
私はプライドとして、偽物は絶対に造らないし、
そういう仕事を断ったがゆえに3~4年依頼がゼロでした。
全ては人間界の虚偽性と損得性にしか、
自分存在を決定してこなかった輩の行為です。
明白に言えることは、彼らには「モノの美しさ」などは決して、
ほとんど理解不可能でしょう。
私は、学生というマージナルな人格にこれを見るときには、
大激怒し、時には・・・ということも畏れません。
その最大の理由は、真面目に、真剣に「虚偽・損得」からは、
できる限り離脱しておくことが大事だと信じているからです。
時代は、必ず「真実」を露呈してくれます。
このような実例には、「喧嘩」してきました。


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『書き忘れていた手紙に取り組むという癒やし』


   


     11月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

私は手紙を書くことが大好きです。
しかし、ついつい書き留めていることが多くなりましたが、
いっぱい書きました。
高校時代の同級生、日本でも高名で大好きな陶芸家の先生、
デザイン評論家の先生、有名な建築家の先生はじめ、
同輩である伝統工芸の打刃物作家
それれぞれに書き終わることができました。
手紙を書くことでは、亡父には本当に感謝しています。
それは小さい頃から、毛筆と万年筆はとても訓練されたことです。
ともかく美しい文字を書くことでは、たびたび叱られましたが、
正直、私が自慢自負できる特技の一つだと思っています。
万年筆もどれで書こうかと迷うほどコレクションがあります。
便せんも選び抜いた用紙を使っています。
それだけに自分は「文字」「筆記能力」には強く拘っています。
だから、本当ならなるべく電子メールは辞めたいと思うほどです。
手紙用の印鑑にも拘っています。
まだ書かなければいけない人たちがいますが、
今回もこのブログに「手紙書き」の心地よさにつつまれたので、
写真を撮り、こうしてブログにもしておきました。
その大きな理由は、「手紙」というメディアに自分を残すことは、
あらためて自分にとって重要なことだと再確信したのです。
万年筆と用紙と、それぞれの相手への「ことば」を
まったくの「自分流」にすることができることです。
この感覚はとても大事だと思うのです。
父が生きていた頃は、海外に飛ぶときには、必ず、私は、
乗った飛行機の便せんをもらって、父に手紙を書きました。
それはおまじないでした。
万一、海外にいても父には何事も無いようにという願いでした。
そして、帰国すると、父は手紙文字の批評をくれました。
そんなことを想いつつ手紙を書くことで充分に癒やされました。


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『お豆腐・厚揚げ、これだってふるさと産が一番だ!』


   


     10月 28th, 2013  Posted 12:00 AM

福井には実家がありますが、すでに父も母もいなくなりました。
この二人にはもう会えませんが、今の私は彼らが創ってくれました。
義母も実妹が東京に連れていきましたから、実家は残っています。
いつも同じホテル暮らしですが、月1回は帰りますから、
その度に可能な限りに食糧を買い込んできます。
その中では、豆腐と特に厚揚げはビックリする厚さと大きさです。
大野市にある厚揚げは父と出かけると必ず買ってきたものです。
この料理をともかく、ワイフにつくってもらう楽しみがあります。
だから、絶対に大野産を買い求めます。
福井に帰ると、時々、
見知らぬ人から声をかけてもらうことがあります。
そして、最近では、なかなか買い物時間が無いのですが、
ワイフも福井で買い物をすることが多くなりました。
福井には高校時代の同級生たちは社長になっているのが多く、
最近は第一線から会長になっているのもいます。
体調が悪くなっても、同級生の医師もいるので安心です。
ともかく私の使命は歴史的なふるさとの偉人をさらに敬愛し、
彼らのやり残した使命や理念をすべからく理解し継承します。
夭逝した親友たちの想いも引き継ぎたいと考えます。
だからこそ、ふるさとの産物をこのうえなく好みます。
これは、東京一極集中に対する私なりの抵抗であることです。
だから、今、大阪で暮らしていることも同様に大事で有り、
ローカル性が最高にまとまらなければグローバル性など無理です。
そういう意味では、福井の小中学生は文武両道ではベストです。
それも私には大きな誇りであるからこそ、
自分の使命を明確にしなければなりません。
橋本左内を筆頭にわが国家へプロのデザイナーを全うします。
だからこそ、豆腐も厚揚げも私の根本なのです。


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「この画家をもっと知らせたい」


   


     6月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

多分、私はこのままだとこの画家のことを書いていくだろう。
ニコラ・ド・スタールの人物ゆえに、彼の作品のことです。
忘れたように引っ張り出しますが、
有名になる直前に自死を選んだ性格が見いだしたことです。
彼は何を、見たのでしょうか?
観てしまったのでしょうか?
このことに惹かれる生涯を選んだということかも知れません。
もちろん、私の「プラトンのオルゴール」作品の一つです。
ビートルズの曲は「JULIA」です。
5年ぶりに前回パリに行ったときも彼の作品集を探し求めました。
私は、画家という職能とその作品を、
なぜ、人間は知性と感性の最高感覚として、
知性が選ぶ才能として、絶対に受け止めない人物は貧しいのです。
しかし、最近では、
「デザイン」は、あたかも知性ある人間として、
安易にその指導者ぶりや商業を押し隠している人物を多数、
私は知り尽くしてきました。
アートではないけれど、これがデザインだという、
最も貧弱な知性ぶった人間を蔑んでいます。
高校時代だったら殴っていたでしょう。
それ以上の価値などはありませんから、
命を奪うことはありません。そんな価値も当然無いからです。
先般、現政権の「COOL JAPAN」が海外で受け止められている、
その商業主義の浅はかさを聞かされました。
デザインの職能団体が、
時代と共に衰退していく事を目の当たりにしました。
つまらないイベントに、日常から逃げ出している輩を見ました。
これが「人間界」だというなら、
生涯にその最も汚濁した部位を表現の一つにすること、
それは画家という職能の最大重要点だと断言しておきます。
なぜ、JULIAという音楽が彼の作品と同調するのでしょうか?
なぜ、彼の作品は、最期には色彩が無彩色=まるで墨絵、
白と黒の絵画世界観に達していくのでしょうか?
私は生涯、この気持ちを下敷きにして、
自分のデザインを、日常の汚濁には決して配置しないと思います。
彼の最期の作品(左)は私のPCの壁紙にしています。


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「私の小さなふるさと・福井県」


   


     5月 25th, 2013  Posted 12:00 AM

私は福井生まれですから、ふるさとは福井県です。
18歳まで暮らし、浪人1年は大阪でした。
大学は金沢市、35年ぶりに、
私にとって最大の個展=金沢21美術館 で開催しました。
30歳でUターンをして、47歳からは名古屋で大学人になり、
大阪もすでに8年目になります。
私の福井県はかつては人口が80万人ほどでしたから、
話題になるのは、敦賀市にある原発です。
それも「核燃料サイクルの是非」と「活断層と原発」、
ゆえに、敦賀原発の廃炉化が大きな国家問題になっています。
これから私がここで真実を語るとするなら、
個人見解とは決して思われないでしょうし、
大学人としての話となれば、おそらく、賛否両論どころか、
反論もすでに想像の準備とその容易さも可能です。
だからと言って「黙認・黙秘」はとてもしかねる性質です。
したがって、
これは正確な情報としてまとめておきたいと考えます。
まず、「道州制」になれば、福井県は二分されるでしょう。
北陸トンネルをはさんで嶺南(小浜・敦賀)と嶺北です。
活断層と地震の関係はまだ懸念性でしかありません。
再生エネルギーの可能性は皆無です。
原発での現材料・プルトニウム=ウラン各種には限界があります。
もはや、寿命の期限が想像できる私には、
正直、2050年=私が100歳以後にはなんら想いはありません。
しかし、2300年までの予測や西暦9000年前までは、
結構詳細に記憶しています。
私は、おそらく、そのような事までの記憶から推測、
さらには、現代の情報への正確さを見極めるのは、
幼少の頃から高校時代までに、
そうした能力の基礎が出来るのではないだろうか、と思うのです。
それが、結局は、「ふるさと」が、
その人自身のアイデンティティだと判断しています。
私のふるさとは、
少子化もあってか「小さな県」だと思っています。
しかし、私が最も得意とする1800年代については、
つい最近、ふるさとのある市長に、
私が知っている古文書をもう一度読みたいと手紙を書きました。


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「オーディオの恩師はダンディズムの恩師でもある」


   


     5月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

オーディオからデザイナーになってきたことは、
私の最大の幸運だったと本当にそう思っています。
これは2002年7月4日25年ぶりに恩師の本宅前で会った写真です。
オーディオ評論家という人たちには、
オーディオ機器のデザインというよりも、
その本質である音質を技術性能や営業投資効果と、
その評価と判断を受け、なおかつ彼らの推奨をもらうことでした。
正直、私はほとんどの評論家、
彼らのセンスを認めていませんでした。
本当に、人間として最悪な商業主義の方もたくさんいました。
高校時代に会ってたら、殴っていたと思います。
本当に信頼し、人間としてはもちろんのこと、
オーディオだけの評論家よりも、音楽から芸術まで、
さらにデザインとなると、当時はほとんどが駄目でした。
たった3名を私は認めていました。
ついでに述べれば、当時、いつかはこの人も評論家になる、
そんなことを幾ばくかの上司からも聞かされながら、
「あの人になったら、最悪だ・・・」。
まさに、現代、そういう評論家が大家と言われていますが、
本当に最悪の評論を書いています。
親しい教え子たちには、
あの人の評論なんて無視してかまわない、と伝えています。
そんな中で、私の恩師は、西洋人形からパイプから、
ともかく「ダンディズム」ということの本物を知りました。
恩師とともに、あるオーディオ誌で連載を持ちました。
しかし、編集部方針には合わず、すぐに辞めました。
あの時の私の予測に、現代はなってしまっています。
その頃、<そんな時代になるわけがない>とか非難されました。
ところがどうでしょう。
やはり、商業主義方向はさらに進んでいまやベッタリの誌面です。
オーディオの物欲は、ダンディズムの極致です。
オーディオ機器の前に、音楽があり音響があり、機器があります。
それどころか、基本は科学性と芸術性が見事に、
デザインに集中しています。
「デザインベクトル」はオーディオに突き刺さっていますから、
それはダンディズムそのものの物欲を超えることかもしれません。


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「やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう」


   


     5月 13th, 2013  Posted 12:00 AM

中学時代は 父からクラブ活動を文科系にさせられました。
しかし、高校時代はスポーツ系で「山岳部」で活動しました。
当時、一人っ子を危険なクラブにと親戚からも言われましたが、
ピッケルと登山靴を買ってもらえました。
高校時代は、奥越国境=石川・岐阜の県境山々、
白馬山系から鉢ノ木岳までの縦走などで、
「ヤブこぎ=獣道の見分け方」・「天気図と天体星位置」から、
高山植物やツェルトという簡易テント暮らしなどを学びました。
大学当初は空手部でしたが、
芸大山岳部だった先生がこられてから、正式な「山岳部」になり、
空手部の退部試合にも出たので、今も先輩とつながりがあります。
大学では、当然のことロッククライミングや、
夏でも、雪渓スキーをしていました。
したがって深夜にNHKが「北アルプス」の景観映像を流します。
私はこれを明け方まで見入ることがあります。
とりわけ、剣岳周辺、源次郎尾根や八ツ峰、長次郎雪渓を見ていると、
本当に心が洗われるというのは、
きっとこういうことだろうと思うほど落ち着きます。
今では、たとえば長次郎雪渓の途中の熊の岩や、
長次郎雪渓の頂上でそこから剣岳へ直登などは不可能でしょうが、
当時は、熊の岩や雪渓の頂上に「テン張って」いました。
東京芸術大学・京都市立芸術大学・金沢美術工芸大学は、
三美大と言われていて、
必ず、剣岳に集結して、毎日雪渓での滑落停止トレーニング、
ロッククライミングを先輩たちから教わったものでした。
剣岳は、宇奈月温泉から黒部峡谷鉄道で入ります。
それから、早月尾根、ほとんど水がありませんが、
その尾根伝い3日で剣岳のキャンプ地までひたすら歩きました。
毎回、剣岳にほぼ一ヶ月以上暮らします。
そして、それぞれが別れて縦走に入ります。
私は必ず鉢ノ木岳まで縦走して、
そこから直下するとバス停で長野県の大町市に出て、
鉄道で自宅に帰ります。
自宅に着くと、必ず、顔には無精髭があり臭いらしく、
母から玄関先で裸にさせられてすぐに風呂に入ったものでした。
いつの日か、必ず、ヘリコプターで剣岳を中心に飛びたい。
可能であるなら、この映像に包まれて目を閉じたいものです。


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「石畳の街、その文明と文化」


   


     4月 12th, 2013  Posted 12:00 AM

欧米、特に欧州は石づくりの街がいっぱいあります。
特に石畳の道路は、紀元前ローマ帝国時代に、
なぜそのような道路のたたずまいが文明として必要だったことは、
いつか記述すべきでしょう。
それは「道」と「道具」を見極めるため不可欠だと思っています。
さて1968年にはこの道路の石がデモ隊の武器にもなりましたから、
私はパリやミラノでこの道を見ると、そのことを思い出します。
しかも1968年は世界変動が20世紀に国際的に起こった時期でした。
しかもパリ革命を実体験した経済界・文化芸術界には、
リーダーが輩出しました。
けれどもこの経験をしたリーダーたちが、
以後の国際関係を台無しにしたと私は思っています。
それは石畳文明を破壊して文化まで破滅させたのかも知れません。
そして、この道路が車椅子の身にとっては過酷極まりありません。
今後、バリアフリーが当然となれば、
この道路はすべてやり直すべきでしょう。
わが国では寺院仏閣には石畳の文化があります。
それよりも、飛び石と言われる石づたいの道筋も美しいけれど、
これもバリアフリーからはとても過酷なモノです。
この飛び石を見事に使ったデザイン展示で思い出すのは、
1980年代中盤にインテックス大阪で、
フロッグデザインが「水」というテーマで、
作品写真と飛び石的な通路を組み合わせた展示は秀逸でした。
また、高校時代に山岳部だった私たちのテーマは、
加越国境に、
大長山という1500m級の山(=山頂の花畑と紋白蝶や赤トンボ)は、
弘法大師がその山への参詣路を石畳だったということで、
その参詣路を随分と探した経験があり、
多分と思える道筋を谷間に発見をしたことがあります。
私は、「石」を特別な感慨で見てきました。
それは、よく「植物」は人の話を聞いているという説があります。
と同時に、石や岩には、
「沈黙されているが時代を見ている」という説にある種の確信があります。
なぜ、欧州の石づくりの建設が今なお残っています。
しかし、「エコロジー」と「サスティナブル」も、
英語なのに欧州産でこれらは元来は地球環境の破壊と強く関連しています。
それは、酸性雨が石造建築や石畳道路を破壊し始めたからに他なりません。
私は、いくつかの自分が選んだ「石」を持っていますし、
どこでも気に入る石がないだろうかと見渡すことがあります。
つまり、「石」あるいは岩と人間は、
どこかで文明と文化が繫がっているのです。


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「時流の読書=信じないというスタイル」


   


     3月 31st, 2013  Posted 12:00 AM

私は読書好きだと思います。
小学時代には日本文学全集(角川書店)も、
世界文学全集(平凡社)も、読破していました。
一人っ子だったから、本は友達だったのです。
だから友人、親友は本の中にいっぱいいました。
これは今も学生達には
「亡くなった親友をいっぱいつくること」と言っています。
私の読書スタイルは三つあると思います。
まず、専門、専門周辺はできるかぎり本も持ち、読みまくること。
絶対に読んでおくべき本は好き嫌いなく読むこと。
時代ではなくて時流に合わせた本もできる限り読む、というスタイルです。
今夜紹介するのは、
今、世界的な大ヒット作と言われる「銃・病原菌・鉄(上下巻)」です。
基本は、
「なぜ、先進国と後進国には大きな差があるのだろう」
という質問の解明です。
地球の緯度=東西関係と南北関係が出てきます。
大麦・小麦と家畜、これはたった14種類しか、
いないということが根底です。
そこに、銃での大量殺戮や鉄による武器が加わり、
天然痘とマラリアが語られます。
これだけで歴史の解明は誰もが納得してしまうのでしょう。
だから、私にとっては「時流としての読書」でした。
この上下巻の話は十分にできます。
私は問題観をもっています。
そこには宗教の話はあまり語られていません。
確かにこの話の延長には、
文明が絶対に破壊に向かっていくということになります。
だから、この著者が書いたあと二つの著作も読んでしまうつもりでいます。
高校時代は哲学書をノートをとりながら読んでいました。
このノートは今も残しています。
なぜなら、哲学といわれる分野に、
すべての著作の根本があった気がします。
ただし、ある人物がこんなことも書き残しています。
「今、世間でもてはやされている著作などは、
ほとんど歴史にも残らないだろう」と。
これは明言です。
そのような著作も随分ありますが、
名古屋から大阪に来るときに相当に処分しました。
そろそろ、私は本も整理しておきたいと考えますし、
もう読書もいらないかもしれないと思いますが、
学生から、
「誰々がこんな評論を書いていますが・・・」とか質問を受けると、
やはり、買い込んで読んでしまいます。
大阪では、絶対に寝室には本は持ち込まないと言っていたのですが、
ベッドの周辺には本だらけなのでなんとかしなければなりません。
そういう点では「電子ブック」は、
本を読むスピードも三日かかるのは2日で十分です。
読書で最も大事なことは、
「信じる」という段階を相当に自分がチェックすることでしょう。


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「陶磁器メーカーの相次ぐ倒産はやむなしかもしれない」


   


     1月 21st, 2013  Posted 12:00 AM

陶磁器は、文明の象徴です。
なぜなら、
文明は器=飢えと機=寒さから護る衣服から始まったからです。
にもかかわらず、
欧州の有名ブランドの倒産がここ数年顕著になっています。
無論、
わが国の伝統工芸陶磁器産地も風然の灯火と思える状況になっています。
高校時代から陶磁器には人一倍興味を持って見つめてきました。
そして、自宅の陶磁器はそれなりに選んで集めてきました。
自分でデザインすることもここ3年ほど取り組み、
プラチナの釉薬で、
インダストリアルデザインの導入を有田焼で商品化し始めています。
そうして気づいていることは、
陶磁器が中国の景徳鎮から始まった文明であり、
やがて文化になってきました。
しかし、その技法がとてつもなく進歩・進化しただろうかと判断すると、
伝統は継承されてきただけで、
破壊され裏切られた事例は本当に数少ないと観ています。
あくまでも素材は陶磁器であり、
無論、セラミックという先端技術が陶磁器に応用には至っていません。 
欧州の紅茶文化や、食卓文化、料理との相互性などにおいて、
私は、まず、「創意工夫」が尽くされてきたとは思えません。
これは、陶磁器デザイン=工芸デザインは、相変わらずに、
「装飾主義」がデザイン・意匠に結びついているからです。
せめて、伝統を裏切り、新しい食器文化を問題意識において、
「問題解決」としての陶磁器を超えてくるべきだったと思います。
すでに、水はペットボトルに、
コーヒーメーカーから缶コーヒーがあり、
紅茶のシステムも変化しています。
文明の再構築は「器」への問題意識なのかもしれません。
陶磁器デザインは「絵付け」にありとするなら、
その絵付けなどは、
パソコン、インターネットなどで自由に、
自宅で絵付けと焼成ぐらい出来て当然です。
今年早くも、
イタリアの名門陶磁器ブランド・リチャードジノリの倒産を知って、
私は、インダストリアルデザインの立場からの発言を決心した次第です。
まったく形態デザインの問題解決がほとんど見られません。


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