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Posts Tagged ‘高校’


『羊と鋼が調律の要だった、それを実証した友人』


   


     5月 21st, 2016  Posted 12:00 AM

「羽二重」ブランドの産地ブランド計画指導はすでに5年になっています。
結果も出せずにやや焦っていますが
「布のかつての絹織物革新」を歴史と科学的論証、そして、
絹織物から最先端的素材開発はそろいました。
それでも焦った気持ちを親友に帰阪途中に愚痴ってメール。
そうしたら故級友・上田喜久雄氏の息子と飲んでいると返信。
そうだったんだ。級友上田は高校時代の友人であり特別進学クラスなのに、
唯一、大学ではなく「調律師」になった男でした。
進学間際まで、休み時間はスティックをいつでも練習していました。
正直毎回うるさかったのですが、
とうとう問題になり進学クラスを出されることに、
そこまで高校は決断していました。
彼はブルーコメッツが福井公演の時に、
バンドマン希望をブルーコメッツに伝えたほどでした。
進学高校で唯一大学には行かず調律師学校を出て「調律師」になりました。
医師・看護師・調律師と「士」ではなく、「師」ですから、
やはりそれなりの知見と技術技能があったのです。
福井時代、自宅に来たときにオーディオからデザイナーになった私に
彼も驚いて、オープンリールのテープ2巻をくれて、
ジャズの話が出来た男でした。
上田喜久雄も夭逝してしまいましたが「彼を偲ぶ会」があったほどです。
福井のジャズやピアノの世界では活躍をしてくれていたのでしょう。
それが、なんと「本屋大賞」の「羊と鋼の森」という小説になっています。
後書きには彼の名前がしっかりと記されていました。
しかもこの小説の作家・宮下奈都女史も福井県出身でした。
是非、上田の息子と会いたいと思っています。
なぜなら、この息子も、羽二重を継承している中心の若者も
同じ国立名門のN工業大学出身者だからです。

*『ビートルズに出会った世代の幸運さ』
*『ふるさと福井はまだまだ恐竜の聖地になれる』
*『あれから・・・ふるさと福井の織物産業』
*『素材産地からWブランドのアライアンスイニシアティブ』
*『オノマトペ=感性評価軸が学術検証された』


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『ビートルズに出会った世代の幸運さ』


   


     11月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

敗戦後に私は生まれています。
1947・1948・1949年代生まれは「団塊の世代」、競争社会でした。
私にとってはこの呼称はまともな名辞だとは思っていませんが、
私自身が1949年のこの世代であることをひきずっています。
経済成長・大学闘争・石油ショック・バブル・バブル崩壊と
時代的な経済変動をまともに受け、その成就に晒されてきました。
そのなかで、この世代ほとんどが大きな影響を受けているのは、
ビートルズの音楽であったこと、それは周知のことですが、
私はオーディオからデザイン世界の社会人になりましたから、
もう一つカセットテープがビートルズ音楽に与えたことがあります。
したがって、この作品も私の代表作であり、
今は金沢21世紀現代美術館のパーマネントコレクションですが、
これはビートルズのオマージュと私自身の思いをこめています。
赤盤・青盤・白盤、そのままに、ビートルズの代表曲を
オルゴールも、すべて著作権のもとで発注した曲を仕掛けました。
「商品化」は何度か試みましたが、生産性の問題がクリアできず、
すっかりと今ではある意味ではアート性のデザイン作品です。
これが私の代表作ということを言いたいわけではなくて、
ビートルズの音楽性以上に彼らの音楽や活動に及ばず、
存在性に人生での生き方のきっかけを与えられたこと、その意味性、
これらを持ち得た世代の幸運さについては書き残す意義があります。
私自身、書道も絵画も道具を要しましたが、
音楽はずる賢く考えて教科書だけゆえに高校ではコレを学びました。
にもかかわらず、美大に進学し、書は厳しいトレーニングを受け、
ビートルズしか知らなかった私が
クラシックも図譜で指導されて、社会人になれたようです。
が、今なお、私にはビートルズという存在が生涯を支えてます。
つまり、今、このようなショッキングな時代状況が無いことを
私は次世代にとっては、大きな損失のような気がしてなりません。
ビートルズのような存在がないこれまでを疎ましく思っています。

「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」
「『鏡』の存在を知り尽くすこと」
「この画家をもっと知らせたい」


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「サバイバルの方法・手段を軍事から語る限界」


   


     7月 10th, 2012  Posted 12:00 AM

英国・米国のサバイバルマニュアルを読むと、
これらは、軍事から語られています。
確かに軍事が最も「生き残る方法論・手段論」、
これはとても理解しやすいと思いますが、
スイス政府のマニュアルとの差異を確認できます。
軍事の前に、アウトドアでの行動範疇知識を知ることが良いと思います。
私は高校・大学と山岳部だったことや、
父が警官だったことで、ロープの使い方はマスターしていますが、
こうしたことの様々が必要だと思っています。
ヨットやスキューバダイビングなどのスポーツも、
ナイフの使い方、ロープ操作などは基礎知識です。
私は「復興計画」のデザイン計画では、
「減災・防災・救災」というコンセプトをまず厳密化しました。
したがって、こうしたマニュアルもこの観点で読み比べると、
軍事的なマニュアルは、その一部でしかないと思いました。
韓国は徴兵制があることで、
青春時代に軍事的サバイバルをマスターしています。
徴兵制に賛同しているわけではありません。
国防の日本的方法を早く制度化すべきだと考えています。
最近は、アウトドア・キャンプや、まして冒険ごっこすら、
危険視されている風潮があります。
ラジオ放送で天気図を書くことや、季節毎の星の名前、
野花や樹木の名前、昼夜でも東西南北を知ることなど、
本当は、このような知識獲得を子ども時代には不可欠です。
私は、こうしたマニュアルを読みながら、
サバイバルの根本というのは、
まず、自然との付き合い方から始まること、
そこに、自然との関係での知識ではなくて、
「知恵」をどう自分で身体化していくことだと思いました。


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「スニーカーは進化しているだろうか?」


   


     5月 24th, 2012  Posted 12:59 AM

人間半世紀も生きているとモノは相当に変わります。
私は、その代表的な一つが「スニーカー」だと思います。
私の世代などは、運動靴=「ズック」なんて呼んでいました。
ブランドで言うと、NIKEが登場して、
New Yorkのメインショップに行った時は大変ビックリしました。
だから、デザイナーとしても、
「スニーカー」のまさに流行を見続けてきました。
スポーツをアスレチックと呼ぶこととスニーカーの進歩、
それはスポーツ種目毎にも、
対応した機能性がスニーカーに求められていますから、
まったく興味深いものがあります。
子供の時、一番欲しかったのが「スキー靴」でした。
高校時代には「登山靴」が欲しくてたまりませんでした。
だから、これらの靴の進化も見てきました。
そして、最近、これが今なら最も進化しているのでは、
そう思っていくつかのブランドを見比べてadidasを購入しました。
無論、色はブルー系で、靴紐はわざわざ選び直しました。
靴紐?、古い、シューレースとワイフに諭されました。
もっとも私は歩けないので、履き心地はまったく不明です。
靴も傷みません。すべて新品のままコレクションになります。
それだけに、素材感から製造方法までを、
デザイン意図から読み解いています。
結論は、まだ、「進化が不足している」ということです。
G-SHOKと香水を並べて見ると、
ますます私には、
「スニーカーデザイン」は進化すべきだと判断します。
さて、香水についても一家言ありますが、
これは日本の伝統である「香合」から、
あらためて別稿にて語り直す必要があるでしょう。


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「陶磁器ようやく作品化から商品化まで」


   


     3月 18th, 2012  Posted 12:00 AM

陶磁器については、私の関心は小さいときからありました。
ほとんど日常生活は九谷焼に取り囲まれていました。
唐三彩などは雪国の利休鼠色の曇天には
とても重要だったのではと思っています。
デザイナーになってから、
ともかく超えられない陶芸作家が3人いました。
まず、徳田正彦氏(徳田八十吉・三代目・金沢美大先輩)から、
若尾利貞先生・小松誠氏です。
正彦氏の九谷焼は高校時代に大きなショックを受けました。
これまでの九谷を大革新した唐三彩の色使い、
それが、在米日本大使館の大きな玄関にある大皿は本当に見事です。
小松誠氏は知人であり、彼の陶磁器デザインは秀逸です。
なるほどMoMAにはすぐに収蔵されるデザイナーです。
そして陶芸家としての若尾先生の陶磁器研究や
その制作現場には大きな憧れがあり、先生の思想を作品から学びました。
小松誠氏の作品は何度か批評を書かさせてもらい、
氏からも作品をいただいていました。
したがって、彼らの作品を前にするととても打ちのめされていましたから、
自分の発想がアポリアになってしまいます。
しかし、有田の福泉窯さんからステッキのデザインを依頼され、
あらためて世界の陶芸ブランド品も収集しながら、
ともかくティーカップの前にコーヒーカップからトライを、
これがようやく2年がかりで商品化するまでになりました。
本当は、もうアルミナ素材で
すべてをセラミックス化をと思っていましたが、
伝統工芸の産地で、この投資は困難です。
そこで「PMR=Platinum Morphological Reflection」と名付ける
Anamorphosis的な効果をねらうために、
プラチナ釉薬を現地産の天草陶石で試作を繰り返してもらいました。
このミラーリング効果は、
おそらく陶磁器表現としては世界でも初めての試みだと思います。
なんといってもミラーリングによるAnamorphosis的な効果を、
さらに完成度技法をアップさせなければなりません。
プラチナ釉薬や陶磁器素材と焼成方法を進化させる方法が
すべて自分の中に蓄積できました。
ここから、新たな革新を有田はもとより、日本各地の陶磁器産地へと
セラミックス容器デザインそのものを今世紀に革新できるでしょう。
そして、こうした素材・釉薬・焼成などから
日本の新たな輸出産業化をめざしたいと考えています。
相変わらずの陶磁器デザインに固守するデザイナーは義務放棄です。
いくたびも、試作品で、「飲み心地・使い心地」の確認をしてきました。
まだまだやれそうなことがあると考えています。
そうして、新たな陶磁器・セラミックスデザインのために
新たな才能を見つけ出すつもりです。
もはや私はプロデューサーに徹したいという希望があります。

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「酒とタバコと、そして・・・」


   


     2月 14th, 2012  Posted 12:08 AM

車椅子になってから酒はなぜか飲めなくなりました。
幸いというか、母方・父方両方とも酒は上戸でしたから、
酒は大好きでした。
ウォッカやニコラシカなどたまらなく好きでした。
ウィスキーは、父から高校に入ると教えられました。
「外でいづれ飲むようになるだろうが、
まだ駄目だから家で私と飲め」と言われて、
バランタイン17年をオンザロックで飲むようになりました。
「ウィスキーは水割りは造った人に申し訳ないから、
必ずオンザロックにしないと駄目だ」と言われました。
最初は、こんなもの、
美味いわけが無いのに・・・なぜ、って思ってました。
タバコは大阪で浪人し、帰省したとき、
母がチョコレートを帰阪するときにくれようとしたら、
「もう隠れて吸い始めているのか?」と父。
「いや、まだ吸っていない(いたづらで友人と始めたところでした)」。
「それなら、このタバコにしなさい、
ただし、これは洋モクだから、自分で買えるようになるまでは駄目だ」と。
それは、ロスマンズでした。
Aurexのデザイナーになってからは、
私が担当した機種の商品カタログには
必ずロスマンズを背景の小道具で入れてもらっていました。
心臓を悪くしてからタバコはきっぱり辞めました。
タバコも紙巻きやパイプも随分と凝っていたものですが。
老年になったら葉巻も本当に徹底したいと思っていたものです。
ウィスキーも名古屋市立大学病院時代は禁止されていましたから、
きちんと守ってきました。
阪大では「少しだけなら」とドクターに言われています。
そこで、最近は、日本酒・ワイン・ウィスキーを、
(もう人生終盤でいいだろう)と飲むように復帰しました。

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