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Posts Tagged ‘黒’


『インク、インク瓶を初めて整理しました』


   


     8月 9th, 2017  Posted 12:00 AM



インクを実は初めて整理をしました。
ともかくもはや使いそうもないインクやすでに蒸発しているインクなどを
整理をしてみたら自分が好んで使っているインクのメーカーも分かりました。
まず、ほとんどが黒であり、ブルーブラック、そしてなんと紫系。
ようやくインクだけをまとめました。
メーカーも極めてインク瓶ではモンブラン、インク色質ではペリカンですが、
なんと地場産業であったブラックです。
ともかく、あるときには使いもしないのに、
色インクの多色系に心惹かれていた時もありました。
文房具となるとデザイナーというプロ意識が働いてともかく使いたいのです。
この色インクの特性をここまで厳密にテストしている雑誌が日本にあります。
「趣味の文具箱」でのインク色だけではなく、紙から文具一般にかけては
この雑誌は最高です。
編集長には「デザイン雑誌」が本当に良くなくて、
一度、デザイン系雑誌出版をお願いしたら、
「その前にオーディオ系」と言われてとても驚きました。
結局、オーディオ系でのアクセサリーでも相当に知識・見識があります。
オーディオにおける詳細な情報が、実はインク色の分析から、
それに見合った万年筆など評論はとても優れた雑誌でもあるわけです。
出版での評論には、まずモノに評価テスト、この厳密さが不可欠です。
最近のオーディオ雑誌は評論家も抱えながら、
私には全く納得できませんが、
それ以上にデザイン系雑誌はデザイン本来の意味もわからずが多いと、
私は判断しています。
だから川崎は厳しくて怖いと言われるのでしょう。
全く構いません。デザインしたモノが証明しています。


* 「書くための万年筆の真の意味」
* 『民族の色彩呼び名・黑色を万年筆で確認する』
* 『ずばり、自分ぴったしのモノ世界のモノマガだ』
* 『万年筆で顔料インクがありえるのだ』
* 「書く道具にはなぜか心惹かれて」


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『ハイライト・ポイントは銀色だ』


   


     8月 7th, 2017  Posted 12:00 AM



ハイライト・レンダリングというスケッチ手法があります。
学生時代には、白い色鉛筆やパステルで習っていました。
これはハイライト・ライン:つまり、モノの存在にハイライト、
光線がモノに反映していることを描く技法です。
特に、自動車、カーデザインでの光を受けたライン、
それはストリームライン、流線形を示す想像力ラインです。
ところが社会人になって、東芝ではハイライト・ラインは、
白色ではなくて銀色を使うことを教わりました。
ホワイト・ポイントは常に銀色鉛筆での表現でした。
当時、ハイライト・ラインスケッチは、
国産のミューズコットン紙や三椏の色局紙は駄目、
高価なキャンソンペーパーだったことを思い出します。
鉛筆の元であったという金属ペンシルが登場しましたが、
どうしても、白い紙は色々と試しましたが、気に入らなくて、
黒いノートを探しました。ただこれが2種類しか無かったのです。
そして、アイディアを練るには面白いデザイン用紙ですが、
二つの問題を見つけました。
まず、キャンソンペーパーでもブラックペーパーであること。
さらにペンそのものを金属ペンシルをもっと進化が必要だと思いました。
そんなことからも、鉛筆やシャープペンシルを超える新たなペンシルで、
それは銀色であるべきだと思っています。
かって大企業のトップに新作のデジタルカメラをプレゼントされました。
しかし、そのプレゼントを断ったのです。
理由は製品=モノのハイライト・ラインが狂っていたからです。
最近のデザイナーは、形態創出時でのハイライトデザインを
スケッチでの検討を知らないからです。
カーデザインにこの傾向は顕著です。
ハイライト・ラインは流線形を決定する造形ラインです。


*  『現代に蘇った描くペン』
* 『描くこと=その神髄を決定づけているペンと紙』
* 「机上の一本はスケッチ用万年筆」
* 『見つけた1.3mm芯のシャープペンシルの効能性と機能性』
* 『あくまでも「素材」は木質で確かめる』


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『四句分別にある明解な「的」は曖昧性を強化する』


   


     11月 15th, 2016  Posted 12:00 AM



「やさしい」という日本語には観自在性があります。
それは「優しい」と「易しい」であり、
この峻別が曖昧にされていた時代がありました。
これは道元的な「四句分別」が必要と行き着いたことがありました。
観自在=思考闊達な想いと思いに、ある意味ではYesかNoかについて、
日本人にはどちらか明確にという世界的な風潮がのりかかりました。
しかし、私はこれを日本の仏教、特に禅宗的な道元思想の中で、
観自在に潜む曖昧性への積極化を「的」という表現に込めたことがありました。
その当時には、思想界においてもこの論理を中村雄二郎先生に
徹底的教えていただいたという幸運がありました。
安全だけども安心はできないことと安心だけど安全だとはいえないこと。
信頼はできるけど信用はできないことと信用はできるけど信頼はできないこと。
主観的だけど客観性があること、客観的だけど主観性が入り込むこと。
私は日本の、YesだけどNoでもあることは、NoではあるがYesということ。
おそらく、日本独自の哲学だから、白か黒かと迫られても、
グレーが存在すること。
こうしたことから、「やさしい」ということにおいては、
優美という決して目立ってはならない優しさある美と、
容易だから易しいだけで美も無視されていることにおいても、
日本人にはこの思考思潮、この重要性を見つけました。
自分の生涯での思考だと、未だに迷っていると言わざるをえません。
けれども「四句分別」で乾坤の生と死を見詰めていると判断しています。


* 『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
* 『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『思考の「考」は思うことを経験が判断する』
* 『コンセプトから逃走してほしい・・・』


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『Line発想により倫理性としての機能が明確化する』


   


     6月 19th, 2016  Posted 12:00 AM



Lineと言えば、
現代はSNSの一つの代表的なスマートホンの手法です。
しかしこれ以前に、米国の日常語=ほぼスラングに登場したlineには、
”a story or argument used to seduce someone”という意味があります。
この現代的な使用語の登場こそ、これまでのconceptでは到底困難であった
イメージや印象をすべて捨て去ることが可能です。
特に、「美的」であることの包囲性がconceptにあれば、
それは論理を超えた倫理性の必要性を再訴求することでした。
つまり、プラトンが「美しさ」を判断の決定要因に用いたということは、
論理ではなくて倫理的な判断によるものです。
倫理的な判断は、それこそカントの「純粋理性批判」で、
ようやく「感性」と「理性」を同格とした判断基準が最重要視されます。
デザインにとって、
「感性」と「理性」の合致性は「倫理性」になるわけです。
それは間違い無く「機能美」とデザインの再考を余儀なくしています。
まさに機能論はデザインの登場で語られる以前から論議されてきた
実際的な美学的な理性判断であったということです。
その理性判断の曖昧さを感性的な見方には理性判断と同等と決定した、
それこそカントの判断すらconcept発想は破壊してきたと断言しておきます。
もはや伝統となったことを曖昧にしてきたことがconcept発想であった、
というのがデザインでの美の創出で明確になったのです。
黒は全てを飲み込むブラックホールであり、
それは思考・論理をも飲み込むでしょうが、
ブラックホールとホワイトホールに設けた境界ラインに、
実は倫理としての「美学的な」決定ラインが表れていると主張します。
コンセプトという境界が、物語性すなわちアフォーダンスの配置は
決して登場させられない機能の再構成と構造を決めるでしょう。
その決定によって、性能・効能、そして機能として個別的、複合的、
さらに、統合的な倫理感覚をLine発想が可能になります。
それこそ、初めてコンセプト発想を解放することとなり、
その拡大的かつ深度を知ってもらいたいと自分は真剣に考えています。

*『コンセプト主義からの解放=デザインテクノロジスト』
*『SF映画が示唆していること=その真実性と想像性』
*『モノの神話性から物語り性がアフォーダンスを超えていた』
*『難問解決の大ヒントは「素材」開発デザインの美です』
*『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


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『コンセプトから逃走してほしい・・・』


   


     6月 17th, 2016  Posted 1:00 AM



おそらく20世紀後半に、人間の思考は、
「コンセプト」に呪縛されてきたとようやく指摘できます。
この言葉は側に「概念」という訳語を
日本語解釈には持っています。
しかし、概念とコンセプト、あるいはconceptについて、
自分はデザイナーとして確かに寄りかかっていたことは
自白しておかなければなりません。
そして、デザインを教育する立場では、
まず、「概念」と「観念」についても、無論、哲学用語からも、
さらには「概念」と「観念」の間にconcept=コンセプトを置いた講義、
それだけでは自分自身が「コンセプト」のまともなあるいは正当な
その定義を確実に伝えたという経験はありません。
もっとも「コンセプト」を多用しているそれこそ、企業の開発、
あるいは大学での研究などにおいても、
「コンセプト学」などは皆無と断言していいでしょう。
したがって、自分が「コンセプト」とは何か?という説明では、
「端的に一言で言い切ってしまえる印象」ということが
的を得ていると一応思ってきました。
でも、これすら自分のデザイン活動の中で大きな疑念がありました。
特に大学人になってから、それこそ一流の学者たちが、
日常的に多用している「コンセプト」ということになると、
この疑念は明白に、思考的、哲学的、科学的な
「大間違い」であると言い切れるようになりました。
例えば、
黒というコンセプトと白というコンセプトと言い切った場合、
「コンセプト」で語られた白であれ、黒であれ、
印象の曖昧さしか残っていないということです。
断言すれば、黒は全てを飲み込み、いや包含していて、
白は反射して、概念でも観念でもありえない事実でしかありません。
かねてより、「観自在」に委ねられた人間の発想・着想、そして思考には
もっと連綿とした対立や対比が「ライン」で連続しているのです。
「コンセプト」を早く捨てることを推奨します。

*『空間へのdolly的な隠喩性という手法』
*『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』
*『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』
*『照明の文化論としての陰翳礼讃』
*『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』


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『新たなフォトコラージュはカオリンの磁器に展開』


   


     11月 25th, 2015  Posted 12:00 AM



インテリアデザイナー森田恭通氏パリ個展は、
歴史的には二つの大きな意味をもってしまったようです。
まず何と言っても、彼のデザイン拡大化計画の実現は、
自分が写真家として「Porcelain Nude」を撮影して
私の判断ではフォトコラージュ的なお皿磁器に展開。
その制作依頼もフランスと言えばの磁器ブランドである
リモージュ磁器であり、その窯元BERNARDAUDでした。
なぜBERNARDAUD:ベルナルドでなければ、ということがあります。
それは世界中のシェフたちにとって
重大なレストラン使用皿の効能性でした。
陶磁器といえば、CHINAと呼ばれ、それは中国景徳鎮です。
しかし、欧州ではボーンチャイナと呼ばれる白い磁器がありました。
ところが、見逃してはならないのはフランスであり、
白い粘土と言っても、石粉粘土ゆえに磁器となるカオリンの発見でした。
ボーンチャイナという骨の粉を混ぜるというよりは、
もともと白い粘土 – カオリンの存在は、白い磁器を完成させたのです。
ドイツの製陶技術でも秘策はカオリンを使うことでもあったようです。
いわゆる「真っ白いお皿」は料理を配置するキャンバスだったのです。
そこを森田恭通氏は、特にレストランデザインにおいて、
シェフたちが最も好むお皿に、フォトコラージュ的な
グレーから黒のグラデーションを
カオリンの白皿に革新的手法を発表しました。
そして、もう一つの歴史性はパリでのテロリズムで
非常事態宣言によって個展の中断を余儀なくされたことです。
が、私はかえって中断されたことで
ますます森田恭通氏のカオリン磁器へのフォトコラージュを
「見たい・触りたい」という要求を高めたのだと思います。
おそらく、シェフ達の料理は、白と黒が最も明快ですが、
彼は写真によって、グラデーションをパターン化させるコラージュを行い、
なぜ、リモージュ磁器という欧州最高的な代表磁器ブランド、
その中でも、シェフ達が絶対条件としているベルナルド窯元なのです。
最もカオリンという白い粘土磁器に、白から黒へのグラデーションは
料理人達にさらに革新的な料理、
しかも一流レストランへ向けた提案でした。
彼の個展で、
写真パネルではプラチナ仕上げをめざしピエゾプリントを行い、
そしてカオリンにグラデーションを与えることは
デザインからの提案が、
料理人達にもっともっとレストランのあり方への問題提起でした。
私は森田恭通氏に「日本でもやったらどうですか」と言い残しました。
日本には、磁器の歴史と陶器の歴史が混在しています。
だから陶磁器と呼ばれ、
六大古窯は、すべからく陶器と華道での価値判断がありました。
磁器の世界は、秀吉の朝鮮征伐で連れ帰った磁器職人の仕事でした。
森田恭通氏は世界的なレストランの空間とそこに存在すべき食器に
彼ならではのフォトコラージュを世界にむけてパリで発表したのです。
レストラン食器への非常事態を投げかけたのでしょう。


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『経緯が敬意に、形態言語から自分の造形言語化を』


   


     8月 17th, 2015  Posted 12:00 AM



New YorkのMoMA・現代美術館、
その一室にモンドリアンの絵画だけの部屋があります。
私はMoMAに行ったときには必ずその一室にてしばらく居ます。
モンドリアンが大好きだからです。
「プラトンのオルゴール」展は1994年に開催、2006年には再び、
金沢21世紀現代美術館にて永久収蔵されました。
12点のオルゴール作品は、モンドリアンへのオマージュどころか、
モンドリアン=絵画・サンローラン=ドレス・倉俣史郎=家具、
このすべてから私が学んで、モンドリアンの造形言語から
サンローランが形態言語とし、倉俣史郎も形態言語としたことへの
私の造形言語化をオルゴールとしての形態言語にしました。
黒・白・赤・黄・青は、それぞれが測定されたかのような、
色面から、立体化されたときには、色量の色彩重量比までを
測定しなおした言語化が必要でした。
私は正直、美大に行っても、現代絵画を見る、知るということでは
現代芸術には全く無知だったと告白しておかなければなりません。
ところが、美大生時代に宮川淳の芸術評論で、
絵画とは何か、ではなくて、「何が絵画か」というイメージ評論、
特に、鏡や色彩でようやく自分なりの絵画や彫刻などへの
接近観がつかまえられるようになりました。
だから、私にとっては「何がモンドリアンなのか」を、
サンローランでも、倉俣史郎でも、ドレスと家具から、ようやく、
「オルゴールでのモンドリアン」を鏡や色量で捕まえたと思います。
オルゴールをボックスに収めて、そのボックス上面には
鏡面をつくり、モンドリアンの正方形作品での色量を計算しました。
そのためには、サンローランのドレスと倉俣史郎の家具が必要でした。
こうした作品を熟知させられたのは宮川淳でした。
デザイナーにとって、先達であるデザイナーたちあればこそ、
リスペクトの背景を私の中に押し込めてもらうことが出来ました。
正直、私の「プラトンのオルゴール」その一点であるモンドリアンには、
もちろん、オルゴールとして、ビートルズの一曲で、
形態言語を可能なだけ纏わせることが必要でした。
これが、モンドリアンへのリスペクトを重々にしてきた経緯でした。
この経緯が敬意を構成していると私は考えていました。


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「国際的な加飾ディフォルメゆえの標準品」


   


     3月 14th, 2012  Posted 12:00 AM


デンマークの有名陶磁器ブランド・ロイヤルコペンハーゲン。
このメーカーの商品には、
伝統的でありかつ世界的な標準品になっています。
中でも著名なモノは「ブルーフルーテッド」シリーズでしょう。
加飾されているのは草花のディフォルメであり、
陶磁器としては最も簡潔なブルー色を基調色としています。
ボーンチャイナへの釉薬としての青は
とても率直な釉薬として酸化性の標準的な管理が容易です。
果たしてこのシリーズがなぜ、
国際的な標準品なのかを確認しておく必要があります。
ポイントは、コーヒーカップ、ティーカップは、
口径や高さ、そしてソーサーとカップの関係は伝統的です。
この伝統性に、安心感があります。
加飾された草花のディフォルメ模様は
すでに一般的な認識性は獲得済みです。
ディフォルメされている描写性には
正確性が無いことも標準化容易いのだと思います。
そして、この商品は贈答品としての品格があります。
日常的に陶磁器は割れますが、
その補充性は世界中どこでも可能という流通性を持っています。
しかし私の予想では、
この商品はすでに「問題児商品」への傾向が生まれています。
したがって、加飾ディフォルメはそのままに、
色を青から黒などへと展開を始めています。
つまり、この製品はデンマークという
モダンデザインが一般に最も普及している社会性に支援されていますが、
このブランドの将来性は
いかに革新されていくかを注視していくべきでしょう。
私は、そろそろこうした陶磁器のデコレーション=加飾性や、
陶磁器材料が革新される時期が来たと判断しています。


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