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Posts Tagged ‘あきらめる’


「ここまで粘り、あきらめないこと・・・」


   


     1月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

オーディオの話ばかりで申し訳ありません。
やはり、私なりの根性の話は、
東芝時代から育まれたのだと思います。
インハウスデザイナーは、アノニマスでなければなりません。
これが嫌だったのです。
それは金沢美大入学直後に言われたことにつながります。
「君たちは芸大に入ったわけではない。だから無名で、
雑草のごときデザイナーになれ」
即刻、反論しました。
「昭和天皇は、雑草という草は無い、
雑木林というのも間違っている。すべてに “名前がある”」と。
結局、この反撃で4年間にらまれました。
だからインハウスデザイナーだけれど、
「自分の発想、オリジナリティは必ず実現!」。
したがって、バイノーラルLP、45回転LPを、
第一家庭電器で実現させたところ大ヒットしました。
したがって結局は、私のデザインしたSZ-1000、
エレクトレットコンデンサーのイコライザーAMPやカートリッジPRに、
45回転でバイノーラルLPは、東芝から出されることになりました。
車椅子になって、「諦めて=resign 生きる」=「諦観」を知りましたが、
自分の発想で、必ずオリジナリティを込めたことは、
絶対に「あきらめ=abandom」ないことです。
特に、次世代のデザイナー、
インハウスデザイナーには強調して伝えておきたいことです。
日本人には「あきらめる」美学があります。
それは「諦観」であり、
もう一つのあきらめは、投げ捨ててしまう怠惰さにすぎません。
この怠惰=なまけ心は、デザインを完成させません。
怠惰心でデザインに向かう性分があるなら、
デザイナーになってはいけない、
私が学んだのは、
この怠惰心からどれだけ距離を取るだけの真剣さを身につけることです。
と言いつつも、やはり怠惰心と諦観が、
私の精神の中ではまだまだこの闘争が続いています。
「喧嘩師であれ」とは、
自分自身に喧嘩を売ることです。
「やる!」と決めたら、
絶対に自分の怠惰心に
まず勝つことだと死ぬまで言い聞かせているでしょう。

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『資本主義からの逃走』
 「SーSign、私はこの言葉とともにある」


   


     4月 10th, 2010  Posted 11:30 AM

S
Sというアルファベットもヒエログラフだった。
しかし、すぐにこの文字は表音性へと変化したと知りました。
原シナイ文字という象形だったようです。
乳房・弓という象形の解釈から、これが垂直になると、
Σ
フェニキア文字での「Σ」になるというのです。
無論、弓は弦を表し、やがては歯擦音(スースー音)となるから、
表音性に変化した記号になりますが、
この文字が意味性を獲得していくのは本当に幅広くなります。
S=7=Sevenという数詞から、
Silence=静けさは、Signature=署名を引き出して、
円を二分割するとかで、シンボルや曲折したものとなりました。
私は、designとresignを見比べてこれからも生きるでしょう。
Symbol=象徴という次元に、
自分がデザインしたモノがその位置に存在してくれればとか、
Second=秒・時間のいわば最小単位が気がかりです。
私がデザインの意味を語源性から語ることを、
これまで、どれほどやってきたことでしょうか。
ラテン語のdesignare=de+signare=do+signです。
このプレゼ画面は何枚、そのグラフィックを表現したでしょうか。
この解釈が様々と変わることから、
Designがラテン語からという解釈も多様化している事実があります。
私は一元化しないと、designの意味が多様化すると思ってます。
design・resign
だからresignと対比させれば、
「de+sign対re+sign」で、生きるということの、
一つの決着性がSignに宿っていると思うのです。
つまり、sign=目印です。
これは、感覚で記しできること=心で受け止める印です。
あらためて、前述したresign=諦観と対比させてください。
諦観は「あきらめる」という意味ですが、give upではない、
もっと深淵な「生」は「死」にむかっている。
だから、「生きている」というのは、
「死んでいく」という手がかりが日常の中で印、
あるいは「記し」とされることへの決着です。
「記し」・「標し」・「徴」=印を知るということの諦めです。
もっと、デザイナーとして、
デザイン作業の中で、100のアイディアがあって、
その中の「一つ」にdesignが決まれば、
99のアイディアはresignしたことになるというわけです。
私は、多分、このままの「生」が「死」へという過程では、
designとresignを毎日見つめていくことが、
シンボル=象徴になっています。
そして、時に、SOS(Save Our Soul)=我が魂を救え、と
自分のdesign呼びかけているresignがあります。
Save Our Soul


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『資本主義からの逃走』
  「神の国には、諦観からの希望がある!」


   


     11月 25th, 2009  Posted 3:00 AM

091125resign1
「諦観」とは、resignだと私は経験してきました。
諦めて生きること。
これはリハビリテーションの原理だと知ったのは、
車いすを余儀なくされ、
米国のリハビリ・トレーニング原書の
最初の書き出しで知ったのです。
とても大きなショックでした。体が震えました。
怖かったです。
これからリハビリで、元のような生活になるんだ!って。
この意気込みは、一遍に消失しました。
ところが、「諦めて生きる」というのは、
もう、歩けなくなった自分ではないけれど、
歩けない代わりに、もっと歩けていた以上に自分を修練し、
残された機能を鍛錬するということがresignだと、
米国のリハビリテーションの本に書かれていたのです。

まさしく、これは日本の仏教的思想の「諦観」でした。
以来、私は常に「諦観」の思想と論理を、
自分自身に言い聞かせて、車いすで生きてきました。
「神の国」には「諦観思想」があります。
米国にも同様にあるのです。
「あきらめる」=give up と言うのと、
「諦める」=resignとの大きな差異です。
私たちは自分本位であることに、
何らかの決着=諦観が、絶対に必要なのです。
「諦観」を心底にすれば、
それこそ、「神の国」には、右翼も左翼も、部落差別も、
どんなタブーすら「諦観」で全て融解してしまいます。
そして、
「諦観」が希求しているのは、
実は「希望」です。
今日本の国「神の国」の子供たちがほとんど知っています。

09112521stcentury

司馬遼太郎氏の上記の一節です。
21世紀を生きる子供たちに、彼の「希望」があります。
果たして、21世紀に生きる大人は、
彼と子供たちの「希望」を
次世代に準備できるのでしょうか。
改めて、「諦観」からの「希望」で、
「神の国」に生を受けて存在している「使命」を、
自分自身に問い直していく日常こそ、
「諦観」と「希望」の狭間での私たちの「義務」であり、
その「義務」を果たさずして、
勝手極まりなく「権利」を求めることは、
人格を犯罪にしていると、私は考えています。
「神の国」の住人は、「諦観」が「希望」を創出するのです。


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