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Posts Tagged ‘つつましさ’


『布に込められたこと・布に込めること=大袱紗のデザイン』


   


     8月 9th, 2014  Posted 12:00 AM

器械という言葉は機械以前の言葉です。
器械であれ、機械は民族の文明を守る武器・戦に繋がります。
したがって、私は機械という言葉よりも「機器」こそ現代的と主張。
なぜならば、機器は機=機織りと器=食器こそ、
人間が寒さから護られ、人間の飢えをしのぐ器ゆえに、
機器こそ文明の根本だと言い続けてきました。
機織りには、布・織物・繊維の世界が広がっています。
布は人類それぞれの文明がそれぞれの文化形成を支えてきています。
ハンカチーフは、まさにスカーフ=頭を覆う布が携帯的はモノ世界。
日本には風呂敷の文化が伝統として、着物の周囲にありました。
そして、その布については、
かたちを持たないことが思想や倫理観、宗教にまで連鎖しています。
最近は、風呂敷という極めて単純な収納用品の見直しがあります。
しかし、私が実につまらないのは、
デザイナーが風呂敷をデザイン対象にしたとき、
そのほとんどが風呂敷装飾をデザインだという勘違いを見つけます。
風呂敷をデザインで、しかも伝統から再発見するには、
基本は、布はかたちをもたない、水のごときモノであり、包むこと、
それは「つつましさ」という思想にまで辿り付き、
やがて、風呂敷が文明から文化になっていくときには、
袱紗という風呂敷が二重になったモノの存在が品性を生み出すこと。
それは、袱紗が儀式性のモノの物語り背景を持っていることです。
端的には茶道には袱紗扱いが作法化されることで、
人の指先で、単純さの極限にまで指使いが品格性を高めています。
私は、布→絹→羽二重を追い求めてきて、
大袱紗の製品デザインの開発をしてきました。
あえて、私は「O-FUKUSA」をこの秋に発表するつもりです。


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『資本主義からの逃走』
   「包むことと詰めることの大きな違いを知った頃」


   


     7月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

産地で知った動詞
「包む」ことの意味を知ったのは、ふるさと福井。
越前和紙の産地に関わったことでした。
東京でのデザイン活動に「負けた」という想いと、
車椅子生活でどうやって「生きていく」のかという時に、
出会った言葉がありました。
「切る」・「包む」・「打つ」・「漉く」・「磨く」・「塗る」など、
すべてが伝統工芸産地に入って行った時の動詞でした。
こうした動詞から形容詞をMac関連雑誌に連載していました。
「デザインの極道論」などという物騒なタイトルで出版もしました。
この動詞を形容詞にしていく、これが「直感」でした。
直感から公案
私の「直感」は、こうした言葉と向かい合うことで、
「直感」は「直観」になり、
「公案」という論理を「造形」の背景になる、という想いしか無かったのでしょう。
「和紙」は包む素材になるのです。
しかもそれは「真っ白」でなくてはならないのです。
その「真っ白」は、楮・三椏・雁皮は陽に晒されば晒されるほど、
「真っ白」になることを知りました。
「真っ白」に水引きで締めて閉じることが「贈る」ことの作法だということでした。
詰める
それなら、「詰める」というのは、
日本的には、「追い詰めたり」、「詰め込んだり」ということで、
あまり良い印象の言葉ではありません。
「詰め込み」・「缶詰」・「腸詰め」、これが欧米的なパッケージでした。
そして、つましい・つつましいというのは、
自分の生活は「追い詰められているのではない」、
「つつましい日常であるべき」ということで、
「生きていく」作法があるのでは、と確信したわけです。
それから、日本経済、
福井からは東京での喧噪が、「変だ!」と思えるようになりました。
ちょうど、その頃、Apple社との仕事で、
いわゆる「バブル経済」は傍観できる立場だったのです。
「包む」とは「包まれている」ことの記憶の言葉です。
まさしく、胎児が母親の子宮に包まれている象形があります。
「詰める」とは、口を締め付けて閉じる象形からも、
厳しい言葉で責めなじることまでの意味があります。
包む、という言葉から「つつましい」という言葉に出逢いながらも、
私は自分を追い詰めていました。
つつましさと美しさ
あれから30年、自分を追い詰めること、他人を追い詰めることへの大きな反省があります。
だから、今、敢えて私自身がもう一度、
「包む」こと、「包まれてきた」ことに立ち戻りたいと思っています。
「つつましい」という、伝統的日本人の感性・直観公案として、
デザイン表現の「つつましさ」は、
きっと、「美しさ」に連鎖し連動するという、直観があります。


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『資本主義からの逃走』
   「新資本とは、自分が「包まれる」デザイン手法の直観」


   


     7月 4th, 2010  Posted 12:00 AM

新資本づくり
私が職能家・デザイナーになって、すでに40年です。
すっかり、日本の産業構造とデザインの構造を実体験してきました。
この経験は、日本の大企業から地方の地場産業まで、
その「構造化」された仕組みをつぶさに見てきたことだと思います。
そして、今やわが国の「モノづくり」の危うさを実感しています。
貿易をしないと、資源の無いわが国は存続していくことはできません。
しかし、貿易だけの国家戦略の時代ではありません。
つまり、脱工業化から情報の高密度化、
あるいは、地球環境の最先端的保全、
国際的なボランティアサービスなど多様な国家的、民族的、教育的、医療的などへの
貢献からの収益での存続性があります。
私は、その中核と周縁に「慈愛」と「優美」を二重構造化すること、
そこに「新資本づくり」があると判断しています。
そして、その基本は、これまでの「手法」からは逸脱することだと私は確信しています。
なぜなら、デザインは時代と共にではありません。
まず、デザイン自らが「デザインを先導させる」ことが最重要だと考えます。
もっと明確に言えば、
デザインのデザインとは、これまでのデザインを中心・中核から外すことです。
私は、慈愛と優美を次のように考えます。
● 慈愛を中心に、優美を周縁とする。
● 優美を中心に、慈愛を周縁とする。
● 中核を「空」として、慈愛・優美を周縁とする。
● 周縁を「無」として、慈愛・優美を周縁とする。
「空」・「無」
これは、一言で言い尽くせば、
「つつましさ」=包むことの「空」
「つつましさ」=包むことの「無」です。
コンセプト・デザインから離脱
もっと明言を断言にすれば、「コンセプト・デザイン」を離脱することです。
その時に、観えてくる自分が何に包まれているからこそ、
自分が発露できる「つつましさ」の品位ある美しさ、
そのようなことが観えている自分の自己確認に他なりません。
「コンセプト」など「空」にする方法を見つけること。
「コンセプト」など「無」にする方法を見つけること。
まるで、「禅問答」のようかもしれませんが、
直観」に包まれる自分になる訓練かもしれません。
その「直観」は、
必ず、これまでのデザイン対象としてこなかったことに気づくことだというのが、
今、私の「直観」です。


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