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Posts Tagged ‘ふるさと福井’


『2018年もこのブログを読んでいただき感謝します』


   


     12月 31st, 2018  Posted 12:00 AM

28歳・交通被災でドクターから40歳までの余命宣告。
30歳・ふるさと福井に戻り伝統工芸にデザイン導入、
   タケフナイフビレッジ設立。
41歳・「毎日デザイン賞」授賞で生きていました。
47歳・亡くなった母と同じ年齢で生き方をかえる、
   デザイナーと教育人の二刀流、名古屋市立大学人。
52歳・グッドデザイン賞総合審査委員長。
55歳・札幌市立大学初代学長候補になり市長と対立で辞退。
56歳・金沢21世紀現代美術館にて個展開催
   「artificial heart 川崎和男展 いのち・きもち・かたち」展。
57歳・名古屋から大阪へ、大阪大学大学院に転籍。
63歳・阪大を一度退職し寄附講座を開設。
69歳・工学研究科と医学系研究科の寄附講座を終了し阪大を辞職。
70歳・寿命は分かりませんが新規デザイン継続と著作を決意。


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『ドレスコードある最高のパーティでした』


   


     12月 28th, 2017  Posted 12:00 AM

驚きの招待状が届きました。
著名人有名人が発起人で50歳・1967年生まれの二人の誕生日、
その誕生会パーティでなんとドレスコードときわめて高額な会費でした。
二人とはインテリアデザイナーの森田恭通氏と飲食店経営者の稲本健一氏、
彼もスタートは工業デザイナーでした。
森田氏にはあるデザイン賞の審査委員を頼んでいました。
しかし、彼はデザイン賞の審査委員は絶対やらないという人物でしたが、
多分、私には断りの電話がきました。
しかし、私は彼をほぼ脅すかごとく、納得させてしまいました。
それだけに、このパーティには出席しようと決めていました。
ともかく京都での仕事を済ませて、その日夕刻にかけつけたのです。
さらに大事だったことは、francfrancの経営者である高島郁夫氏が、
発起人であるばかりか、このパーティの仕掛け人でした。
高島氏が26歳で私が31歳、あるインテリアメーカーで大きな仕事をした、
そんなふるさと福井の仲でした。
森田氏と高島氏は同じグループ企業だけではなくて、
親友同士の関係でもありました。
ドレスコードでのパーティなどとは最近ではほとんど行われていませんが、
今年はドレスコードのパーティはなぜか二度目でした。
森田氏の最初のパリ個展では昨年、私も応援に行った仲でした。
その個展会場200m先で、あのパリでの大変なテロがあり、
ほとんどホテルも同じだったという経験をしていました。
さて、このパーティは誕生日主役は、真っ白のタキシードで現れました。
彼らもただ真っ白のタキシードだけで来るようにとの指示だったそうです。
25のテーブルに7名が満員という参加でした。。
高島氏は私に今年一番の大きな仕事だったと告白していましたが、
これだけそれも著名な人を会場一杯にするという二人のカリスマ性、
これも大変な人気を呼ぶ人間性だったと評価します。
ここには明らかなデザイン界やアート界、成功した起業家たちがいました。
もちろん、パーティはおそらく高島氏がねらっていた、
今年日本で最高の正式極まるパーティだったと思います。
私が最も感じていたのはドレスコードの男性のボータイについては、
あらためて書きたいと思っています。

* 『人生が回転して再開、懸命だったあの頃』
* 『インテリアデザインからの拡大・森田恭通のパリ個展』
* 『AM社のヴァブキュリーを見る夕食会に和服で参加』
* 『非常事態宣言の街=パリにて、決意!』
* 「キャナルシティ博多での二つのショップ、二人の経営トップ」


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『鄙美人日本論は田舎でしか語れない』


   


     3月 18th, 2017  Posted 12:00 AM

このところ北陸に通っている感があります。
金沢に金沢美大の同期会に帰り、
ふるさと福井では一般向けに久々に講演をし、
そして5年もかけての繊維産業の青年部会を鍛えてきました。
福井駅前の開発は無念ながら、デザイナーのプロとしても
なぜ、このような開発になるのだろうとか、思ってきました。
しかし、金沢市が北陸新幹線が乗り込んで流石に、
北陸の中心地としての賑やかさに圧倒されました。
ところが、金沢市の特産である陶芸や漆芸をしっかりと見詰めると、
文化破壊が確実に起こっていると確かめざるを得ませんでした。
本当にこれほど揺れる鉄道があろうかと思うほどのサンダーバードに乗って、
まったく鄙として、いや田舎さがここまでとはを、
たとえば金沢と比べても相当の差を知りました。
その極めつけが、福井の偉人をなんとか宣伝しようとする駅構内の
この「由利公正」をなんとか、大河ドラマにという、
のぼりを見てつくづく思うことは、
観光都市への県行政の努力をしみじみと感じます。
今では、由利公正って誰?の日本人感があるはずです。
だからなんとしてもNHKの大河ドラマ化の戦略としては、
もっと訴求方法があるはずですが、その手立てすら見つかっていません。
私はつくづく思います。
もはや明治維新は、ほとんど小説での坂本龍馬で語られて、
それがあたかもシンボル化されている日本観が蔓延していますが、
鄙美人論の根幹はこの真実性でいいのではないかとすら思えます。
特に、生糸から絹織物に私はずーっと関わってきました。
絹織物が決して富岡製糸場で語られることではありえないのです。
「五か条のご誓文」が由利公正あってのことであり、
東京府知事の人物が日本の絹織物までに大きな道筋を与えた人物です。
絹織物は輸出品としての「羽二重」を産み出してきたことを
やっと5年でまとめました。
私は「鄙美人日本論」をふるさとから語る所存です。

* 「花綵を断ち切った、都と鄙 けれどもNetwork社会に希望」
* 『アンチテンションはコピーされている福井産の革新技術』
* 「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」
* 『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』
* 『ふるさと福井で改めて「羽二重」ブランドを講演』


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『セシウム除染もデザインが深く関与すべきだ』


   


     10月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

この袋は私のふるさと福井で製造されています。
名前はフレキジブルコンテナバッグ=フレコンバックが通称です。
このバッグには、あの除染された土が詰め込まれています。
放射能でのセシウム除染が行われた結果、これは風景ではなくて光景です。
風景の原意は彗星・雷鳴・日食・月食の気候条件が自然に及ぼす景観です。
光景とは、陽と陰、生と死、乾坤の景観を言います。
ちなみに情景は自然と人間が存在している景観です。
ところであの除染必至の現地では除染ということへの信用は確実に失われ、
除染どころか移染=セシウムを取り除いたのではなくて、セシウム汚染場が
移動されただけという評判があることはもはや周知のことです。が、
デザインでもこの問題解決を絶対テーマにするべきだと考えてきました。
今、ようやく、新しい除染・完璧にセシウムの放射線濃度を
0.2μシーベルト程度にと、その素材と除染パッケージを
フレコンバック、そのモノ・素材と工程の開発を狙っていました。
ようやく、その方法論と素材・梱包・回収・蓄積のデザイン実務が可能かも、
だから、もうこの領域に、デザイナーが取り組んでいることを
ここで明確に発表することにしました。
あの人災でしかなかった原子力発電所の永久封鎖も、
デザイナーとエンジニアがやるべきことだと主張してきました。
絶対にデザインが不可欠です。
確実の○○○○効果を運用した「範原発」のための除染デザインです。

* 『中国の月面着陸ロケットの思惑・範原発を!
* 『意識して見つめたい「光」を』
* 『脱原発などありえない、範原発への期待』
* 「景観への精神状況がそのままファッションに連鎖している」
* 「『風景』とは天地異変のシグナルだった」


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『「創育」と「想育」の中心はやはり恐竜の存在だ』


   


     9月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

以前も恐竜をこのブログで取り上げました。
それは想像力の問題として、
どこまでこの存在に興味を抱くだろうかということでした。
自分のふるさと福井は、恐竜の街として、
すっかり有名になろうとしています。
勝山市には福井県立恐竜博物館があり、
この博物館は小学生の聖地になっている、そんな話も聞くほどです。
自分デザインの対象にしてすでに5年目になる「羽二重」ブランドでも
この恐竜をデザインパターンとして、あるいは新たな商品化に向けて
恐竜、それも勝山市で発見された4種を先般も、
ブランド設立のデザイン指導で仲間たちと話をしていたら、
日本で発見された恐竜は7種あり、
勝山近辺では5種目が発見されたという話を聞いてびっくりしました。
また、福井県出身の恐竜学者もいます。
そしてまだまだ不明なことは恐竜の身体は羽毛であったとか、
始祖鳥の進化であり、恐竜絶滅論にも様々な想像力が生まれていることです。
今、自分デザインの「羽二重」ブランドと恐竜パターンの組み合わせを
再考しなければいけないほど、
恐竜の情報が一段と詳細になってきています。
恐竜への想像力が大切ということでは、
「想育」と「創育」という発想回路づくりを考えています。
そういう意味ではやはり、恐竜の存在は大きなテーマだと思い、
またあらためて恐竜を持ち出しました。

* 『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』
* 『素材産地のダブルブランド・「羽二重」HUBTAE』
* 『ふるさと福井はまだまだ恐竜の聖地になれる』
* 『「羽二重」ブランドの発表を決定する!』
* 『想像力が及ばなくともこの存在は追いかけたい』


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『「羽二重」HUBTAE=新素材ブランドとして発表する!』


   


     9月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

「織り込む未来」をテーマに、織物工業に取り組む若手たちを
私はこれまでのデザイナー経験から新ブランド設立をめざしました。
私のふるさと福井は繊維生産を地場産業にしています。
30代時代も取り組んだことがありますが、商品化に至らずでした。
幼い頃には、母の実家で祖母の兄さんは大きな繊維工場を経営し、
母の兄は繊維のエンジニアで、繊維の大企業その北陸支店長でした。
私の周りには繊維産業関連が一杯にあり、
東芝時代はスピーカーのサランネットやニットを必ず福井産を選別。
繊維には深く関わってきていますから、特に、絹織物から、
人絹=レーヨン、そしてポリエステル繊維は追いかけてきました。
私にとってそれはデザイナーとして、
やっと繊維を身体から離脱やこれまでよりの進化を意図しています。
日本の貿易アイテムの二番目が生糸でしたが、欧米からの依頼で、
生糸は羽二重に変わり、最大の輸出品目になります。
この歴史性は子どもたちにも伝えるべきであり発表会に紹介します。
さらに、織物の感性評価はありましたが、これも応用は未然です。
オノマトペ=擬音語で、幼児たち感覚も検証しました。
七つの感性評価をこれから繊維評価に応用する手法も見せます。
しなやかさ・はり・こし・ふくらみ・ぬめり・きしみ・しゃりです。
この感覚を基盤に、まず、「大袱紗」から商品化を開始します。
かつて、福井は落下傘を生産していましたから、大戦災を受けます。
落下傘の繊維技術にもどれば、それは新たなポリエステル産地復興、
私はデザイナーとして、新たな工業製品に、適用を考えています。
絹、綿、こうした自然繊維をポリエステル繊維は超えてきました。
繊維の糸、撚糸、表面加工、染色、全てが未来に向かっています。
やがて、トランスポーテーションまでが繊維になるかも知れません。
新素材・HUBTAEは、未来を織り込む産業になってほしいのです。

『「羽二重」ブランドの発表を決定する!』
『幼児たちの布感覚=感性評価実験から最学習』
『布の感性評価はこれまで無かったからこそ』


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『幼児たちの布感覚=感性評価実験から最学習』


   


     7月 28th, 2014  Posted 12:49 AM

ここ3年にわたって、繊維・布の「感性評価」をまとめてきました。
すでに、この取り組みは27年、思いついてからのデザイン企画です。
三宅一生氏「プリーツプリーツ」のデザイン評を私が書いたときには、
すでに布には7つの評価軸があることを知りそこから評論しました。
いつの日か、この評価軸を「感性評価」として、学術的にまとめ、
その評価軸から、産業的な応用を行い、製品開発の目標指標をと
デザイナーとして、しかもふるさと福井の繊維産地で、
私の経験、それは幼児期から織機の音と伯父は繊維のエンジニア、
聞き及んでいたのは、父方の祖父は今もある大手繊維企業、
その創立メンバーの一人でしたから、なんとしても繊維を!と、
私のデザイン対象にしてきました。
これまでも繊維・布の7つの評価を「大人の感性」で確かめました。
しかし、私が最も気がかりだったのは、子ども、しかも幼児の感覚、
多分彼らは言葉、語彙も少なくて感じたことを表現も出来ないはず。
それだからこそ、布に触った感覚が必要でした。
ようやく、5歳の幼児たちに厳選した66枚の布の感覚を、
学術的に検証をしてもらいました。
それも、擬音語・オノマトペを表現用語にしてもらいました。
「さらさら」・「ざらざら」・「すべすべ」・「きらきら」と、
彼らの語彙数はやはり限定されたものでしたが、
たった5年間の彼らの感性に布の分別は明らかになりました。
そして、私がこの実験で知った重要なことは、
言葉・語彙をもっと彼らに与えることだと明確になりました。
「ふくらみ」・「はり」・「こし」・「ぬめり」・「しゃり」
「きしみ」、そして「しなやかさ」は、私たちが与える言葉です。
しかし、彼らのたった5年間の感性では、限定語彙に対して、
私たちが思いもしなかった「痛い布」があるということでした。
小学生たちにも、この実験をするつもりです。
私は、繊維での若手専門家たちに、この秋には新ブランドのもと、
新製品発表を、この「感性評価」とともに行います。


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『神仏像をもっと知っておきたいと考える』


   


     2月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

久しぶりに「新TV見仏記」をテレビで観ました。
私が宗教を知ろうと思ったのは、
ふるさと福井でこの二つが不明だったことです。
生まれた里には永平寺曹洞宗がありました。
しかし葬式では浄土真宗があり仏教に種類がある不思議さでした。
一時期、宗教という思考領域とは無関係で生きたいと思いました。
土門拳の写真で仏像や神仏混合のアイコンを見て、
その美しさに惚れ込んで以来、仏教神道に興味がありました。
仏像や観音像などのいわゆる歴史的なフィギュアに潜むこと、
これを徹底的に知りたいと思うようになったのは、
これにも私が車椅子生活を余儀なくされたことがあります。
ぞっこんこのフィギュアアイコンのかたちに惹かれたのは、
ロボットデザインでの「身体論」と「形態論」でした。
しかも今年は森政弘先生から、改めて「華厳経」を教えてもらい、
松岡正剛氏は「維摩経」で年末を過ごしたことや、
いとうせいこう氏とたまたま出会って「不気味の谷」の話や、
彼とみうらじゅん氏の「TV見仏記」が今年から大阪でも放映とか、
彼にはロボットと仏像の話を希望している次第です。
いづれにしても、宗教を表現する神仏像については、
これからさらに興味を持つものと考えています。
宗教といえば、信教、信仰、信心を自分の中で再確認の対象です。
正直、宗教における経典はきっと心の物語りなのでしょう。
私はともかく神仏像の「かたち」に徹底的に入り込みたいのです。
多分その「かたち」には具体的にはロボットの「かたち」があり、
象徴的には、心が期待し確認する何かがあるものだと想像します。
いづれにしても、仏教にはその他の宗教よりも興味があります。
そして「新TV見仏記」の次のテーマが楽しみです。
少なからず、仏教の「かたち」には何かがあるものと考えます。

【ブログの関連記事】
『華厳経に入ろうと思う・森政弘先生の講義から』
『「舞の霊性」出版とともに思い知る』
『今年早々、最高の講義を受ける・森政弘先生の仏教論』


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『1984年からMacintoshとの付き合いが私の重大経験』


   


     1月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は車椅子生活になってふるさと福井に帰ることになりました。
ふるさとには高校時代の友人達がすでにそれぞれ分野のリーダーでした。
中でも、親友・玉木(現福井キヤノン事務機会長)は、
すぐにデザイン活動で苦心している私を物心両面で支援してくれました。
彼の会社のショールームにMacintosh128kがありました。
私は「とても高額なおもちゃのコンピュータ」を借りました。
彼に、「このコンピュータがきっと世界を変える」と話しました。
彼は私の予言を素直に聞き入れてくれてセールス戦略にとりあげ、
Mac512kは自らが講習会を受け、16台即持ち帰ってきました。
私はApple?もLisaもじっくりと知り尽くそうとしていただけに、
Macintosh128kの商品発表は鮮烈でした。
その頃、VENUS-P(通信衛星)で米国のDIALOGにアクセスするという話が、
もっともらしく当時の雑誌紹介はすべてが嘘でした。
なぜなら、Mac512kとMacTerminal、電話カプラー300bpsで、
私はDIALOGに福井は40円/分、東京は80円/分、名古屋は60円/分でした。
このようなことを書き始めていたこともあって、その後からすっかり、
Macの世界に入っていきました。
1991年から2年半は、とうとう福井で7つのコードネームで新製品開発、
Apple社からは弁護士や開発チームがやってくるほどでした。
私はジョンスカーリーの直属のデザインコンサルタントを務めました。
クパチーノApple本社でのプレゼンテーションでは、
黄色人種としての立場までいっぱい体験しました。
日本・東京はバブル経済であり、私は「何かが変だ」と思っていました。
さらに大電産業グループが私にeX-DESIGN(株)を全面支援してくれました。
福井で車椅子の私に1億4000万円のEMSを与えたのは、
その頃の福井県青年会議所の主要メンバーや地元の金融機関でした。
MS-DOSはじめSmallTalk、いくつかのプログラム言語を独学しました。
心臓障害になり、デザインも諦めていた私は、
気づけば、名古屋市立大学に光造形システムとその環境が与えられました。
先般、日本のグラフィック界の二人の代表人物に、
ジョッブスが最後に置き土産にしたと思える書体の話もしたところです。
私の30代からこの35年をMac文明とMac文化があったことは確かです。


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『Saint-Étienne・ユネスコ認定デザイン都市で』


   


     12月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

この小さな街は人口が18万人にすぎません。
しかしサッカーチームにはあの松井選手がいたほど最強チームで、
スポンサーも市が支援するという街です。
AppleStoreがあり、ZARA、 H&M、までがありました。
市電はかっこよくて、随分写真を撮りました。
最も、渡仏直前に降雪があって極寒でした。
空港はパリからリヨンに飛び、車で入りました。
フランス革命時には鉄砲の街=鉄鋼産業から、医療産業へ。
2006年にこの街のエコール・デ・ボザール・サンティエンヌ校で、
ワークショップをしたときに、デザインセンターが出来るという
そんな場所を見せられましたが、デザインセンターも、
現代美術館もあるデザイン文化都市になっていました。
Health & Design for All」のキーノートスピーカーで招聘。
彼らからはPKD=Peace-Keeping Designを中心テーマにでした。
勿論、3.11の現状も紹介してきました。
阪大からはドクターが2名も参加してもらいました。
現地のドクター二人(小児科と呼吸器科)と夕食では、
彼らはデザインと医学の関係がすっかり理解していました。
このイベント後、クリスマスムードのパリに寄りましたが、
観光都市をはるかにしのぐ美しさがありました。
リタイアしたら、フランスのいわゆる田園都市の方に
私は住みたいと思わせてくれる街でした。
私のふるさと福井は25万人の街ですが、私は思いました。
デザイン都市にしていく大きな優位性は、
すでにフランスは格段に進化をしています。
「フランスにおける日本年」でトゥールーズで、私は、
「経済と文化でのデザイン」を懸命に話をしたことがあります。
1997年だったと思いますが、
あれからフランスは18万人の小さな街が、
「デザイン都市」として新産業と文化都市を創りあげていました。


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