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Posts Tagged ‘アンフォルメル以後’


『アッサンブラージュの進化を原点・コラージュから』


   


     8月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

芸術家=アーティストとデザイナーは、
違っていますか?、この質問を自分はよく受けます。
端的に答えることができます。これは回答です。
アーティストは「主観的」に表現をします。
デザイナーは「客観的」に表現をするのです。
主観性でモノ表現と客観性でのモノ表現は、
表現された内容=形態言語がどれほど客観的に解釈されても
造形言語そのものの意図が、自分中心なのか=主観と
自分以外のことも考慮する=客観に大きな違いがあると思っています。
しかし、アーティストの主観が表現意志・意図に込めたことは、
必ず歴史・現実、そして未来を呼び込もうとしているコトが明らかです。
美大時代に、いわゆる現代美術が全く理解できなかった自分に
「アンフォルメル以後」という宮川淳の著作は人生をすっかり変えてくれた
芸術・美術・デザイン・建築への思考方法の大転換でした。
さて、この三点の作品は、いわゆる美術でのコラージュが次の段階へと
芸術表現形式や形態言語化されたときに再問された手法に関わっています。
ピカソが残したキュビズムでのコラージュは、
ジャスパージョーンズによって、新聞紙を何枚も何枚も重ねた上に、
「フラッグ」と名付けられた国家が新聞報道の上に成立しているという
国家観を表すというコラージュを超えて「アッサンブラージュ」になりました。
この芸術手法はさらに昇華された表現にロバートローゼンバーグが進化。
それは「モノグラム」という題名に結実しました。
まず、ペーパーが積み重なりしかも立体化、しかも産業用のペイントで
アッサンブラージュそのものが、芸術表現的な進化を見せるのです。
これは明確に芸術、その表現が現実を批判し批評して、
次世代への疑問形をちりばめてくれたと解釈することができます。
コラージュという手法すら時代を驚愕させたことを起因として
アッサンブラージュは立体にも向かってその主観性を
次の人間社会に社会構造の疑問を差し出したと考えることができました。

* 「表現としての美術とは?、教えられた宮川淳」
* 『経緯が敬意に、形態言語から自分の造形言語化を』
* 「アーティスト、デザイナーにだけ降りてくること」
* 『アートからの革新=フォンタナの作品から』
* 「この画家をもっと知らせたい」


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『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』


   


     4月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

「鏡の背後には冥府への階段がある。」by 宮川淳
自分はこのフレーズを美大生の時に読んで以来、
それが現代美術へのひとつの大きな入り口になっています。
彼のデビュー作であった「アンフォルメル以後」は
今なお自分のアートからデザインに向かう姿勢の一つです。
まず、「芸術とは何か」という問いかけのその結語は、
この質問は、ただ、表現の再生産でしかなく、
「何が芸術か」という結語から、
彼はあくまでもデザインへの懐疑へ。
自分は、「何がデザインか」を常に問いかけ続けてきました。
しかし、未だにデザインは大きな懐疑=問題解決ではなくて、
「装飾」と同義だということです。
最も具体的には、オリンピックエンブレムデザインの公募や
政党マークの公募に現れています。
表現の再生産を、宮川淳は「鏡」にそのイマージュを重ねたごとく、
それこそ、ルネ・マグリットの「複製禁止」を見て、
ここに明らかな表現の再生産を破壊させられていると受け取る、
その知性がまだまだ育成されていない現実を知る必要があるはずです。
ユニバーサルデザインといえば済まされている思考、
インクルーシブデザインはエクスクルーシブの反対、
スペキュラティブデザインという問題提起での真の答え方、
全てに自分は「デザインとは何か」という、
再生産されてすまされている
「デザイン思考」の低レベルな思考停止の実際を
冷笑して見せることが出来るのです。
もし、鏡の前で自分の左手を挙げれば、
鏡映された自分は右手を挙げていることには気づきません。
だから冥府に降りる前に、「何がデザインか?」なのです。

*『鏡の背後を熟知するため、あるいは解放をめざす』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『AとしてのB・対・BとしてのA、という連語考察』
*『AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1』


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