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Posts Tagged ‘インクルーシブ’


「『ふだん』・『まさか』安全と安心は相対的でしかない」


   


     9月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

大阪のこの自宅にてすでに8年目です。
9月5日の日本列島全体が「ふだん」ではなくなっていました。
3.11以後、この亜熱帯の小さな列島に竜巻と凄まじい雷鳴が轟き、
「まさか」という事態に驚きました。
自宅は大阪市内の上町台地ゆえ裏側には大阪城があります。
少なからず、豊臣秀吉以上の景観を見つめることができます。
しかし、「ふだん」の景色は異様な雲行きでした。
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開設して、
これまでの危機管理学:国際経済関係論を母体にしてきた学域、
危機管理学にデザイン工学で、机上の論理=Desktop論を、
「産業」に持ち込みたいと考えてきました。
2012年3月29日に石巻市で副市長にプレゼンをしました。
その後の無反応さ、7月2日には中川前防災大臣へのプレゼン、
大臣の意志決定力の無能さを敢えて書き残します。
そこで「危機管理デザイン賞」の設定は8月1日弁護士会館。
私は真剣にプロの覚悟でこの「国難」に対して、
「デザイン工学」+「危機管理学」=新産業の創成でした。
よって、今春退任であった大学にそのまま「寄附講座」として、
自分の人生を行学の士としてやり尽くそうと考えてきました。
したがって、大学時代の同級生達はリタイアしていますが、
私なりの道に入りました。
おそらく、私が自分の人生の「ふだん」は「まさか」に変容です。
ようやく、学域設定の基盤がまとまりました。
「危機」には、「ふだん」起こってしまった危険=CRISISと、
「まさか」と想像と準備していた危険=RISKがあります。
しかし、このふたつの危険を「機会」と捉え成すとき、
CRISISとRISKを包括的=まさにインクルーシブな科学的手法、
それこそ「デザイン工学」で新たな学域と実務手法になりました。
私は、多分、この大阪で海抜120mからの景観を毎日見るでしょう。
もし、私がこの場を離れるときは、明確な諦観で、
この列島を離れる時だと思っています。
だから、私にも「ふだん」と「まさか」を保持しているわけです。


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「ボーカロイドが象徴し始めてきている重大さ」


   


     4月 17th, 2012  Posted 12:00 AM

「イタ車」の存在を知ったのは、
オーザックデザイン副社長H氏からであり、
H氏の車種(数台所有)がまるで変化した2010年8月頃でした。
車はじめ工業デザイン各分野でのマーケティングに関して
日本でトップクラスの彼が、
「イタ車」でホテルに迎えに来て、ホテルのドアマンの人たちは驚愕、
そのまま東大に行きました。
東大構内でも学生達が写真を撮りにくるほどでした。
その時、彼はすでに
「初音ミク」などのバーチャルアイドルが様々に台頭するはずと、
その存在による経済効果を予測していました。
彼の「イタ車」もプジョーを選び、
外装には彼指示による高度なシール印刷を施して、
日本の印刷技術の最高峰を引き出してみたということでした。
その印刷仕様技術が、
これからの日本の印刷形式も変貌させると断言していました。
彼の予測は万事いつでも正確で必ず的中することばかりです。
そして、彼がこれまでクレジットカードからケータイなど
様々に企業提案し実現してきたことを知り尽くしているので
その時期を待っていました。
その時から私自身も、
「アンビエントアライアンス」という近未来コンセプトを掲げ、
講演でもその歴史的な系譜分析などをし始めていました。
すでに、もう「初音ミク」は一般化してしまいました。
初音ミクを含め3人の代表がそれぞれの性質がプログラムされました。
この創造力と革新的な商品化技法は
新たなデザイン形式とデザイン拡大化を見せてくれました。
彼女の容貌=美女イメージと
ボーカロイド音源=バーチャルエレクトロニック・ボーカル音源が、
現在のリアル・アイドル楽曲にまで拡大し始めています。
さらにSNS(これにはそろそろあらたなステップが始まる)の進化が
加わってきました。
この流れを読み切ったベンチャー企業はまだ存在していません。
無論これまでの大企業にはこの系譜を読み取ることすら能力無しです。
おそらく、日本の確固たるカルチャーである、
「漫画」・「アニメーション」・「ケータイ」・「ゲーム」などが
経済的稼働を起動し始める「重大要因だと予測」しています。
そして、スマホの形式と内容も、
この連鎖性を包含=インクルーシブさせていく国内の情報機器企業は、
今はまだ皆無だというのが2038年問題より大きいと私は予知しています。
具体的ではありませんが3.11後の東日本に、
「初音ミク」の象徴性、
ボーカロイドが投げかけている新たなDIYから派生する
そのような産業が起業されることも肝要かと私は考えています。

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「資本主義からの逃走」
     「意識革新は『応用』への拡大化かも」


   


     1月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

応用・対応性と用途性
デザインが「応用美術」。
それなら「応用科学」が技術。
単純にこの断言から意識と意思の吟味をします。
ともに「応用」という対応性と用途性に注視することです。
「応用」とは、適応されたデザインなり工学の「多様性」を目論んだ、
ある種の社会的な制度化につながっていることは明白です。
特に、20世紀には、デザインも技術も産業・経済への大きな見返りが期待され、
なおかつこの応用は資本主義を最も支援したのかもしれません。
しかし、「応用」が社会的な善であったことは、
もっとも科学と技術への批判は原爆に象徴された懸念、
つまり、2度にわたる世界大戦と人類存続への問題意識になり始めました。
これは今なお最大の難問です。ついには1970年頃からその反作用としての公害や、
地球資源のあり方が科学と技術への問題意識として国際的にも共有されはじめました。
それでも、たとえば石油や化学的な応用から原子力などに対しては、
自由主義経済機構は、科学と技術の応用、その有効性や社会制度上では、
どのような非難や反撃も抑制してきたことは事実です。
応用ゆえ多様性にならず
デザインに至っても、まさに「応用芸術」でしたし、
産業デザインが大量生産と大量消費を完全に裏付けていたことも事実です。
私はひとまず、Art・Science・Technology・Engineering、
この四つの領域をインクルーシブすることで、
「応用」の革新が出来ないだろうかをテーマにしてきました。
私がデザイナーであるがゆえに、
「応用」の中心をデザインにし、なおかつ、「応用の拡大」をめざしています。
ただし、「応用の拡大」が「多様性」に連鎖しているとは思っていないことも付け加えておきます。


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『資本主義からの逃走』
  「生と死をインクルーシブする資本のデザイン」


   


     7月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

イメージの荒野
もし、「か」=幽かな儚さ(かすかなはかなさ)が、
「ち」=知をインクルーシブしていたとします。
それは、知という揺るぎない顕在性を非在的にするベクトルが働いているのだから、
とても「大切で大事な尺度感」を与えています。
この尺度感を「価値」という語彙として、
語彙内容の意味性を制度的な用語にしてきたのでしょう。
とても広大無辺なイメージの荒野に、
その「価値」なる資本は何なんだろう、
あるいは「資本」という価値は?ということに戻ります。
本題の「資本主義からの逃走」を試みなければならないからです。

イメージの荒野と呼ぶのは、
私がデザイナーとしての職能経験とこれからの職能義務を熟考するためです。
さて、私は1949年生まれですから、
多分、いや絶対に2049年まで「生」があるとは考えられません。
2049年には100歳ですから、
もし「生」あっても、認知症になっているのは「悲しい」ことになります。
でも、ワイフとはいつまでも一緒にいたいと想うので、
あらためて「生」と「死」の「哀しみ」を携えていることを噛みしめます。
さらに日常携えているのは、「生」の証である私の「社会的な生産性」です。
とりもなおさず、これは「デザインしていく資本」だと考えるわけです。
しかも、デザイン生産された資本には、社会的な価値が求められています。
ただし、私は、
その資本価値をこれまでの「資本主義」的評価からは逸脱、
あるいは逃走してしまおうと提案しています。
「インクルーシブ・デザイン」を提示しました。
一人称・二人称・三人称
一人称である私が、まず二人称はワイフでしょう。
私はワイフのために、私のデザイン生産技術やその成果、
すなわち「価値」を彼女に捧げるのです。
そして、彼女が心から満足してくれたなら、それは私の「慈愛」です。
そうしてこそ、次に、三人称である人々にも
「慈愛」と「価値」の分配を試みたいということになります。
証と正義=資本価値
この過程こそ、「私が生きている証」であり、
それは「死を受け入れるための正義」なのでしょう。
証と正義を表現している「資本」を見つけ出さなければならない。
これが、あと5年以内に、願わくば10年以内に、
決して2049年までは待てない事態に来ていることだけは確かです。
生の証、死を受け入れる正義、
この二つをインクルーシブした資本の価値に、
私のデザインが向かえる時間に、限界が見えています。
これを、あらためて「インクルーシブ・デザイン」のもう一つの定義としておきます。


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『資本主義からの逃走』
   「つつしみの育成は消極的な自己改革だと感じる」


   


     7月 7th, 2010  Posted 12:00 AM

つつしむ直感
「感情」ではなくて「感性」の領域に、私は慈愛とつつしみを置いています。
これを精神論と捉えることは、「事の本質」を見誤ります。
まず、「感情」と「感性」の差異性は明確に、歴史的な論理検証をしてきました。
そして、「感性」の中で、
「直観」=「直感」を「つつしみ」にまで結びつけようということになります。
ただし、これは「直感」を、
デザインという職能で発揮できる資質は限定されていることは否めません。
自己判断、自己修練、自己啓発によって「つつしみ」ある能力と態度が求められます。
「つつしみ」は、「感性」、ある意味では「精神性の発露表現」です。
ところが、現代のわが国では、「つつしみ」は積極性を控え、謙譲的であって、
この感性を忘却、もしくは喪失していると言っても過言ではありません。
つつむ
「つつしみ」は「つつむ」ことにその由来があります。
包む限りは、より大きな空間=空なる世界観で、包含し、内包させる機能を示唆します。
これを「インクルーシブ」と言います。
ここから前述した「インクルーシブ・デザイン」に連続させることができます。
すなわち、私が決定的に表現する「つつしみの使い勝手」、
それは「つつしむという性能+効能=機能」だと考えるわけです。
これは精神性をも包み込む態度です。
この態度あるいは姿勢を、日本人デザイナーは取り戻すべきだというのが私の主張です。
乱暴な主張、そのスローガンが、
「コンセプト不要」=直感の強化で即表現というデザインプロセスの採用ということです。
私たち、日本人は、確かに工業時代でのデザインによる産業経済効果と効用によって、
わが国は豊かであり、自尊心を持っていました。
しかし、ポスト工業時代と情報化時代に入ってからも、
「手法論の大転換はできなかった」のです。
「不景気感」に覆い尽くされているわが国は、 不景気=depression=鬱病です。
精神的破壊を疾病的に抱いているなら、そこから再生還すべきでしょう。
「つつましく」あることは、鬱病的疾病に対しては、二つの効能があります。

■ 積極性より消極的心情・精神性の強化を意味しない。
弱さを否定せずに優しさを自己獲得する。

■ 自己主張をつつしむ=饒舌性を放棄することを容認。
「直感」は何人も否定しない効果と効用があることを共有。

正直、私自身の「つつましさ」は想像できかねることも自白しておかなければなりません。
それでも、「コンセプト」で語らずとも、
「直感」での造形・形態・価値づくりをする自信と自負心はあります。
この自信と自負心は、決して、私の精神性ではありません。
もし、精神性を背景にする方法は、唯一、「日常的連綿性」を果たしていくだけです。
そういう意味では、ここに、ブログをただ「想い」を記録していることは、
「直感で包まれている自分」を自分から離脱しながら見詰めることができるのです。
何事かに包まれている自分には、
つつまれていることの認識が「つつましさ」の芽吹きを感じることは間違いありません。


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