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Posts Tagged ‘エンジニアリング’


9月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 29th, 2020  Posted 12:00 AM

9月29日 友引(乙亥)

『技術としてのデザイン』

つまり、
テクノロジーであれ、
エンジニアリングであれ、
テクニックであれ、
集積された技術の集約化が、
人間本来の快楽的感性に
個別にベストマッチングしながら、
統合化された感性の集合体としての
社会構造化につながっていくこと、
これこそ技術成果の
理想郷であると考える。

artificial heart:川崎和男展


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9月24日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 24th, 2020  Posted 12:00 AM

9月24日 先負(庚午)

『技術としてのデザイン』

そして
エンジニアリングとしての技術には、
産業経済の健全性の確保と
生産消費構造化社会の
競合原理の保全という背景が、
高密度に育成されなければならない。

artificial heart:川崎和男展


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『AK-47を設計したミハイル・カラシニコフの歴史性』


   


     9月 2nd, 2018  Posted 5:49 PM

ミハイル・カラシニコフは、日本では余り知られていません。
AK-47という自動小銃は今なお使われている銃器です。
現在の日本では、戦争やテロ行為などは全然知られていません。
パリでのテロ(その時、私は在パリ)や、
米国・ラスベガスでの大量テロ行為の時にも、AK-47でした。
それこそ、AK-47の歴史性を辿るととんでもない歴史があります。
彼は自分の自動小銃が最近ではテロで使われていることを悩んでいました。
彼の武器開発は、ナチスとの戦いの終焉のためでした。
日本刀もまた、戦いを前置きにした単純な武器ではないのです。
彼はロシア人なのにローマの法王庁からも「愛国者」とまで言われています。
だからカラシニコフはブランドとして有効であり、
ウォッカや腕時計まであります。
そして、なんといっても電気自動車まで、
彼のエンジニアリングが存在しています。
なぜ、電気自動車が開発されてこなかったかも大きく影響しています。
これには石油資本家たちの世界的な戦略があったことは確かな事実です。
この電気自動車の開発が遅れてきたことは、
まるで「都市伝説」のように語られてきたことも、
私には納得できる理由が一杯あります。
テロリスト扱いだった人が石油資本家たちの策謀と暗殺があるのです。
結局、やがてはようやくガソリン車が無くなっていくでしょう。
ミハイル・カラシニコフは、この電気自動車に関わってきたことと、
そして、自動小銃が今なお使われていることとに関連しているのです。


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09月02日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 2nd, 2018  Posted 12:00 AM

09月02日 大安(丁酉)

歴史性は常に変えられている。
エンジニアリングがある。
そのエンジニアリングを
基にするデザインこそ、
デザイン史がある。

 


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『情報戦とマッハ戦から無関係であってほしい』


   


     10月 6th, 2017  Posted 12:00 AM

敗戦国には隠れた剥ぎ取られている技術進化があります。
それは機械工学=テクノロジー・エンジニアリング・テクニックがあります。
それは特にインダストリアルデザイン・プロダクトデザインにも
大きな影響を残していますが、そのことに気づかない悔しさがあります。
それは敗戦国家が欠落しているテクノロジーです。
私自身、知る必要など無いと思ってきましたが、
トゥルーズに行ってドイツ人デザイナーと仲良くなったときに、
彼は酔いも手伝ってこんなことを言いました。
もし今度世界大戦になったら、日独伊同盟などしないでおこう、と。
なぜなら、現代の特にジャンボジェットは、
日本人とドイツ人がいなかったら「絶対に進化していない」こと。
拳銃デザインは必ず著名デザイナーの作品であることでした。
ようやく、日本も飛行機が創れるようになりました。
それでもなかなか商品展開出来ていません。
とりわけ人間工学という本来の軍事技術は、日本では特殊な領域だけです。
私は軍事技術が素晴らしいと言っているわけではありませんが、
拳銃からジェットそれも戦闘機は個人的にも私の知識+見識にしています。
そして、日本のH2Aロケットは、直ぐにミサイルになります。
紹介するXASM-3は日本のあの零戦以来の対空ミサイル戦闘機としては、
第5世代戦闘機として、とても優れているということです。
わが国は原爆被災の敗戦国家ゆえに軍事技術に詳しい必要無しですが、
デザイナー、とりわけ工業デザインならば知り尽くす必要があると、
私自身は伝えたいと思っているからです。
ファントムという戦闘機を趣味で真剣に調べていたころ、
戦闘機とマッハ=音速のことでは、
日本の戦闘機はユーロジェット音速2.0には負けていて音速1.8かとか、
そんなことに一喜一憂していた時期があり、
少数の男の教え子には講義の途中にそんな話をした程度です。
今、私は改めて第六世代の軍用駆逐艦や軍用機器が見えだしたなら、
このマッハ4.0とも言われる大型ミサイル戦闘機が
決して使われないことを祈るばかりです。

* 「H2Aロケット・はやぶさ・しらせ=日本技術の結集象徴」
* 『完全命中の投げる行為がミサイルであるという知識』
* 『あの街から知識が近づいてきていた』
* 「素材革新での造形言語が与えた影響は形態言語すら変更」
* 「デザインは記号論的な『造形言語と形態言語』での論理化」


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『「座る」・人間工学からシーティングエンジニアリング』


   


     5月 1st, 2016  Posted 12:00 AM

28歳時に交通被災、車イス使用者として生きてきました。
車イスそのものを自分でデザインしました。
しかしこのブログでは一度もそのことを書いたことはありません。
もう最近は電動車イスでの移動の身体になりました。
しかも、身体には加齢もあるのか体型変化が起こってきています。
幸いに美大時代の同級生M氏は
シーティングエンジニアとしても高名であり、
彼から早く直すべきと忠告されていました。
確かに体型の変形は内臓にも影響を与えている実感があります。
そこで、彼は身体障害者向けの様々な製品開発や商品化もしていて、
その事業での「でく工房」社長T女史まで測定支援してもらいました。
いつか電動車イスは二人で組まないと素人判断のモノが出てきています。
私の体型診断と測定、
身体保持シートの再設計のために来学してくれました。
とてもいい機会なので、医学系研究科の教授や他大学の教授、
そして学生にすでに「座る」という行為の時代遅れの人間工学から
シーティングエンジニアリングのワークショップになりました。
なぜ、人間は二足歩行で、「座る」という行為の世界的なイスの系譜から
私がモデルになって体型変形の矯正方法や車イスがどうあるべきかを
もはや使えない人間工学を超えたシーティングエンジニアリングを
新たな研究ターゲット発見課題などを私の研究室で行いました。
そして、
今や間違いだらけの電動車イスの欠点から二人の狙いを語りあいました。
彼を私の講座の特別研究員にすることにしました。

*「音を求めて『闇『歴史的作品からの刺激をどう受け止めるか』
*『誤謬へのシンボライゼーションプロトタイプ』
*『「闇に座す」=土・立、修辞学的な造形の込めた願い』
*「デザインは『付加』するものではないということ・2」
*「関西海事教育アライアンス・6年目の演習課題プレゼン」


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『「KK塾」キックオフはテクノロジスト・濱口秀司氏』


   


     11月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM

大阪・京都から東京パルコ劇場に直行しました。
友人たちの革新的なことばと場踊りを観劇したのです。
松岡正剛・田中泯・石原淋・宮沢りえ、「影向」yow gowを
新たなことばとパフォーマンスとして受け止めたまま、
いよいよ、翌々日、
「KK塾」を大日本印刷のDNP五反田ビル 1Fホールにて開催。
キックオフ講師は、
国際的イノベーター・濱口秀司氏を米国から迎えました。
イノベーターというより、私にはデザインとエンジニアリングでの
企画コンサルタント=テクノロジストであり、
私が大阪大学大学院・医学系研究科に開設した
「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」の育成目標人物です。
まず、私は前座で「コンシリエンスデザイン」を紹介して、
なぜ、濱口氏からかを紹介して、彼の講演を開始しました。
私は、最近、「デザイン思考」という、
スタンフォード大学のd.schoolとIDEOの手法論から
拝借しているデザイン論が、
デザイナーだけでなく一般的なイノベーション開発手法として、
東大のi.schoolでそのコピーが用いられていること。
また、イノベーションとは、提唱者であるシュンペンター自身が、
「革新」:コンバイネーション(独)「新結合」と呼び、
すなわち、私的にはコンシリエンスであることを説明しました。
シュンペンターのイノベーション=革新が、
共同的な発想で行えるコトへの大疑問や、
1927年・「社会階級論」が、結局は彼の予知どおりに
1929年の「世界大恐慌」につながったことなどから、
わが国の3.11復興策こそ、新たなコンシリエンスデザインです。
コンシリエンスも18世紀の造語であり、なおかつ対語的なレジリエンスが
決して、デザイン系大学教育には登場しないだけに、
まずは看医工学という提示とその教育成果こそ濱口秀司氏だと紹介し、
彼は約280枚のKeynote画面とホワイトボードで、
詳細な成功実例での方法論を懸命かつ賢明に講演していただきました。
DNPホールの現代ホール性能では、私も濱口氏もMacでKeynoteプレゼ、
これはおそらく初めて、映像と音楽を運用することができました。
よって、まだまだこのホールのPA音響から
コードマネージメント、さらには照明を変えることが可能です。
丁度、大日本印刷とは、「デジタルアッサンブラージュ」を進行中。
そしてこの大ヒントは、松岡正剛氏の「影向」が与えてくれました。
「KK塾」の今年度最終の講師は松岡正剛氏です。


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10月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

10月18日 壬戌(先負)

デザイナーに突きつけられる
そのデザインテーマは、
相当に勉強をしなければなりません。
エンジニアリングの根本、
時代、社会、それぞれが対象として
切逸に要請しているか、どうか、

そして、
そのデザインが終わった時には、
まず、解説書としての
著作が出来るぐらいになっているものだ。

「川崎和男 強い人弱い人」


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『学位論文での新たなデザイン造形の論理的な思考法の提案』


   


     11月 16th, 2013  Posted 12:00 AM

阪大を定年退官したこともあり、指導教官=副査として、
この論文=論考と論察に6年間関わってきました。
機械工学専攻においての教授たちの様々な研究査察は、
今回もおそらく国内では大変に厳しく、
かくいう私も本人以上にこの論文を幾たびも読みました。
私も学位取得ではもういらないと思うほどの厳しさを受けました。
論文の構成は学域として完成された論考と論察はシンプルです。
背景・緒言、方法、結果、考察、結論・展開で構造化できます。
この論文におけるテーマはあくまでも「記号論」を引用し、
デザイン造形されたいわば秀作73点を数理論的に解釈されました。
デザイン造形は「かたち=形態」に集結します。
「かたち=形態」は、「ことば=言語」化できます。
この形態が言語化されれば「記号」として、その解釈は、
ソシュールによって論考の手がかりを引用可能でした。
したがって、造形言語はデザイナーが造形意図をあたえることで、
「デザインする」という意味の核心であるデザイン意図であり、
形態言語はその意図により「デザインされた」内容を意味します。
この意図と内容を「デザインする」・「デザインされた」という、
記号論的な解釈を数理論的な数式で解釈の論察を試みました。
73点のデザイン製品を数式的な解釈は、工学的な論考として、
5名の学位保持者たちの予備審査によって、
ようやく大阪大学大学院は「学位授与」資格に至りました。
あとは工学研究科教授会での認定に至ります。
私にとっては3人目の工学博士をデザインの世界から生みました。
かって私自身も、
学位授与式での学長からのメッセージがいつももどってきます。
それは、「ようやくこれで学域の研究者として発言が許される」、
その立場が社会的な専門学域者としての資格=博士号です。
この学位取得者はこれから、デザイン+エンジニアリングを融合し
私は「テクノロジスト」として「デザイン工学」に、
果敢に挑戦をしていってもらいたいと思っています。


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「フリーランススタートの頃」


   


     4月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

関東労災病院でのリハビリテーションを終えて、
私は赤坂にデザイン事務所を開設しました。
1978年でした。
まだ東芝社員のままに独立を許諾されたのです。
ただしオーディオ関連以外のデザインに従事することが条件でした。
しかも給与は支給されていました。
ただの直感でデザイン事務所名は「Super Edison」でした。
技術・エンジニアリングを意識し、
「デザインは発明でもなければいけない」
という柳宗理先生の思想を込めたネーミングでした。
たまたま、米国人のモデルがガールフレンドの一人だったので、
彼女は来日すれば仕事休日に、モデルとして手伝ってくれました。
それで、デザインスタジオのプロモーションスライドづくりです。
当時は口コミだけでデザイン依頼をしてくるクライアントに、
「Super Edison」のスライドとオーバーヘッドプロジェクターで、
スタジオでのデザインワークプロセスなどを見せていました。
工業デザインの仕事よりも、
イベント企画や商店街活性化企画をしていました。
とてつもなく大きなイベント企画ばかりしていたようです。
ちょうどピンク・レディー全盛期で、
新宿で新築の最高層ビル「野村ビル」屋上で、
紅白歌合戦終了とともに日本で最大の鐘を突き「ゆく年くる年」をやる。
そのために高岡で鋳造されている直径2mの鐘を東京まで陸送、
それは陸運会社のTVCFにし、
屋上には陸上自衛隊のヘリコプターで下ろしてもらうという企画、
実現いよいよとなりました。しかし、
澁谷のNHKから新宿まではパトカー先導ということまで決まったのですが、
没になりました。
ある仏教系からの文句が大きくて
「とんでもないそれは除夜の鐘の冒涜だ」という批判で中止になりました。
東京のある商店街通りに、
パリのごとく「花街道」にしようという企画、
そのために花咲く季節前にビニール栽培をしていたら、
その花が突然すべて枯れるということもありました。
それから3/4インチビデオ撮影スタジオ業もやり始めていました。
また新宿に高層ビルが竣工となり、
その屋上にハリウッドから実寸の映画モデル「ゴジラ」を座らせる、
なんてこともスタッフがハリウッドの演出会社を説得し
船便で運んで来る企画も実現間際に、
消防庁の許諾どころかお叱りを受けたりしました。
すべてが失敗していたわけではありません。
晴海埠頭にあった晴海の見本市会場では、
「日本オーディオフェア」で展博ディレクター。
1988、1989とあるメーカーを人気No,1にしたこともありました。
東芝時代には東芝でのディレクターをしていたので、
開催前日、ディスプレーデザインのチェックには
会場内まで自家用車・当時はGMの「モンザ」で乗り付けると、
顔なじみの展博屋さんたちが大拍手で迎えてくれました。
「よくがんばったな」
「生きていてくれてありがとう」
「流石にまったく新しいディスプレーだ!」
「車椅子になったからさらに神がかりな展示だ」なんて言われて、
長髪の頭をみんながぐちゃぐちゃにしながら撫でて喜んでくれました。
(あぁー、自分はオーディオのこの世界にまた戻れた)と、
大笑いしながら泣きました。
毎日、でかいイベント企画、その発想の楽しみを懸命にすることで、
寿命は40歳まで(当時のドクター診断予知)という重くて真っ暗闇、
心に突き刺さってくる「哀しみ」と闘っていました。
1%の精進で 99%は死に向かっていく諦観を心に留め、
ともかく明るく振る舞っていました。

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