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Posts Tagged ‘オイルショック’


『伝統工芸品は売れないからこそ「裏切り」があるのだ』


   


     5月 26th, 2019  Posted 12:00 AM

伝統的工芸品産業の振興に関する法律1974年が
なぜ創られたか、その時代背景があります。
これは、沖縄返還の産業政策1972年がありました。
そして1973年にオイルショックで高度成長期の終焉を迎えました。
沖縄では産業は、何も無かったという話もあり、
地域ごとに形成されていた産地を伝統的な工芸として
その産業を見直し、保護、育成、管理、振興すべく
それは、日本全国に伝統工芸産地に及びました。
私自身は1980年に福井に戻り、伝産法全文を見つめ直しました。
当時「第四次全国総合開発計画=四全総」が立ち上がりましたが、
その目標と目的を遂行する活性策の基本的な認識に、
地域活性化の3要因が欠落していました。
活性化には温度=情熱さと冷静さ、濃度、そして触媒でした。
触媒となるデザイン・デザイナーを軸とした3要因を入れることで
福井での私の仕事は、今に続く産地ブランドとなったのです。
オリンピック・パラリンピックでは、伝統工芸製品
そして工業製品までが東京2020ライセンス商品、さらにはG20でも、
伝統工芸と工業製品の推薦商品としての「認定?」を要しています。
伝統的工芸品はその技だけでは売れない現実=私にはわかります。
さらには、産業としての後継者不足がありますから
法制度や、こういった施策や先導には大きな影響を受けます。
今、全国には232(インチキがある)伝統工芸品の指定品目があります。
私の産地には後継者も育っていますが、
新素材や新規工程とデザインを発想しています。
常に伝統を「裏切る」発想=革新こそが、産地が継承されるのです。
売れない伝統工芸品、さらには雑貨までが、全く「売れません」。


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『天衣無縫な時代と社会に活気がある』


   


     1月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

美大を卒業すると教授命令で東芝に就職しました。
教授は他企業は認めず、(今ならパワハラ?、教え子には命令出来ず)
もし他企業ならば卒業させないとまで言われました。
しかし、東芝から始まったサラリーマンデザイナーは最高の日々でした。
サラリーマンではない、ビジネスマンになるならと、
トレーニングを上司達に教えられてきました。
僕を使いこなしていただいた上司達はすべて恩師達です。
にも関わらず、
僕は出張をすれば、ついついその地に泊まり過ぎたり、
遅刻は余りにも多いのでとうとう自由出勤が認められました。
けれども「四番バッター」と言われて入社したので、
ヒット商品は必ず出していたと思っています。
幸いにして、オーディオ分野専門であり「Aurex」のロゴも僕のデザイン。
「Aurex」での僕のデザインは今もオークションで手に入ります。
ほとんど所有しているので金沢21美術館の個展で紹介できました。
現在、東芝は企業として深刻な事態にありますが、
その理由は、顧問をしていたこともありほとんど解っています。
私のようだった東芝マンが当時は存在していたのです。
おそらくこのようなことは決して許されない時代になっているのでしょう。
入社して銀座で飲んでも、社員証でツケが効いた時代でした。
何と言っても僕のビジネスマン的やり方も
なんとなく認められた時代でした。
僕のひらめきは企業ルールをこっそりと変えてしまいましたが、
まあまあ叱られても決着してもらっていました。
電車で通勤すると、時には「電車事故」といってダイヤが変わります。
そうなると、タイムカードに「電故(電車事故)」というハンコを押します。
これをヒントに僕は「バ故(バス事故)」というハンコをモデル費で作成し、
自分だけのタイムカードに押していました。
多分半年目に労働組合にバレてしまい、大説教を受けました。
無論、デザイン部長(電器釜デザイン)にも叱られましたが
発想は認められた、そんな時代でした。
東芝は交通被災で辞職を余儀なくされましたが、つい4、5年前に、
オーディオ事業部OB・OGの「音友会」で挨拶をさせてもらいました。
東芝にはすでに教え子がデザイン部で活躍していますが、
かつて僕が天衣無縫なビジネスマン時代はすっかりと失われました。
入社した翌年「オイルショック」、退社して「バブル景気とその破綻」、
「失われた20年」という日本経済の転落とともに在った時代に、
僕の生涯が乗ってきましたが、
「バ故」というハンコが認められた大らかな日本の時代こそ、
日本が元気いっぱいの歴史を創り上げていたのだと思います。
「天衣無縫」な時代を失うことは、
時代と社会が歪むのだと思わざるをえません。


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「資本主義からの逃走」
  「災害への勇気と希望の世代間団結」


   


     3月 29th, 2011  Posted 1:30 AM

若い世代に
今回の大災害は若い世代に残酷です。
無論、被災地の方々、日本人全員もですが、
若い世代30代としましょう。
この世代は、日本の成長期のあの勢いを知りません。
彼らは、日本の不景気、その連続を見てきたと思います。
私など団塊の世代は、高度経済成長期が中学・高校時代です。
そして、70年学園闘争もいわば経済成長の中での
「世直し」などという戯言だったとさえ感じます。
社会人になった途端にオイルショック、
しかし、すぐにバブルです。
この喧噪さにも勢いがありましたが、彼らは知りません。
それからITバブルをちょっと知りましたが、
現在にいたる世界的な不況でかき消されました。
そのような中で、この大災害+原電事故は、
日本の未来を消滅させています。
そして、この復興の中心に彼らが主役を務めさせられます。
彼らが、団塊の世代を忌み嫌うこと申し訳なくも認めます。
私は、幼少時代に水害で、避難するのも父が警官だったので、
最後に救出されて避難所が機動隊の道場だった記憶があります。
正直、年少だった私は「楽しかった」記憶です。
TV映像では、「伊勢湾台風」の被災はすでに小学生であっても
悲しいものでした。
それからは、奥尻島津波、阪神大震災、中越地震はたまたまパリでTV画像でした。
つまり、世代が受け止める、「経済的状況と災害の対比」が、
それぞれの世代意識のなかで生涯認識となり、
自分はその経済状況と災害にどのように向き合ってきたかということになります。
「復興」がそれぞれの世代の「生き方」に直結していることです。
だとするなら、「復興への生き方」というのは、
敗戦直後の父たち90歳代にとっての「勇気」と「希望」のあり方が生涯だったはずです。
団塊の世代の余生がどこまで「勇気と希望」を示し、
特に中心的役割を果たす30代の人たちの「勇気と希望」を
何が何でも団結してもらう支えが私たち世代の義務です。
この残酷性、悲惨性を乗りこえる「勇気と希望」、
絶対にお互い確認し合いたいと願うのです。


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『資本主義からの逃走』
    「 富の分配は『豊かさ=審美性の共有』にあらず」


   


     9月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

本当に豊かな時代はあっただろうか
日本が豊かだった時代は本当にあったのでしょうか?
私はもう一度、この探索をし直すべきだろうと思います。
少なからず、戦後の高度経済成長から、
日本の奇跡と呼ばれ「Japan as No.1」の時期はありました。
現代の若い世代には、そんな時代イメージはTVの中での一シーンにすぎません。
私自身、社会人になってすぐに「オイルショック」・「バブル」・「円高」・
「リーマンショック」、そしてまた「円高ドル安」でした。
私にとっては昭和30年代(小学時代)が「豊かな時代」だった気がします。
それは「貧しい時代」だったのです。モノには全く多種多様性はありませんでした。
価値感にも多様性はありませんでした。
だから、モノを大切に大事にしていた時代だったことは確かです。
私は、畳もなく、ガラス窓の無い住宅に友達が住んでいたことを思い出します。
しかし、「笑い声いっぱい」でした。
確かに「イジメ」もありましたが陰湿ではありませんでした。
喧嘩も充分にしましたが、ナイフを使って級友を刺殺することなどはありえませんでした。
豊かさの核心=審美性
敗戦意識は、「貧しい」という観念をすり替えられたと思います。
「貧しいこと」からの脱出は、
「お金持ちになる=豊かになる」という意識が入り込んでしまったのです。
この大きな勘違いが、現代アジアに根付いています。
日本が真の「豊かさ」をガラパゴスという批判から再構築する立場だと考えます。
したがって、高級=高額であり、高級感は高額なモノにある審美性ではありません。
極貧なれど「美」を生み出そうとしている芸術家、
芸術家は極貧ということも当然だった時代がありました。
私が美大を選んだ時には、「食べていけるのか?」という評価が一般的であり、
美大は道楽学校だったのです。
デザイナーは芸術家でも無いだけに、美大進学は進学校での信頼は皆無でした。
これは今なお、デザインは決して芸術的印象はあっても、芸術的価値として評価はされていません。
「豊かさ」の核心にある「審美性」、
あらためてデザインが創造する「デザイン審美性」の創出を私はめざしたいと考えています。


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