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Posts Tagged ‘ガラケー’


『日本の経済界には「伯楽」がいなくなった』


   


     1月 30th, 2017  Posted 12:00 AM

本来ならケータイは日本の産業の核心であったはずです。
もはや公に出来る始末になってしまいましたから、
私の体験を伝えておきたいと思います。
ある企業でコンサルタントとして、製品分類をしました。
この一群は「商品化OK」です。しかしこれらは全て駄目と伝えたら、
商品化OKは海外のみで、国内は電話業者のキャリア達条件が厳しく
このデザインですと回答を受けました。
このとき、ケータイの国内市場は滅亡し始めていました。
教え子も、修士卒業は全てケータイグループに配属。
彼らからすでに国内の閉鎖した市場ではケータイデザイン困難と聞きました。
私自身、大手電話企業とまず、操作基準をキャリア達に提案、
その後、丁度、FOMA開発でのエージェントインターフェイス提案を
その企業トップへのプレゼで、彼らに呆れかえってこの企業滅亡と、
プレゼを切り上げて日本は敗北すると言い放ちました。
その後、最後のプレゼはiPhone対抗をある企業に提案しましたが、
結局、メーカーは電話企業のキャリア達の条件に敗北しました。
それは明確に企業ブランドマークの改変とその停止とともに、
日本からのケータイはガラケーと呼ばれ、
スマホ仕様はApple追随になって負けました。
このケータイからスマホでの新たなデザイン提案が否定された時こそ、
典型的に日本の産業基盤を失ってきた代表例だと思います。
今年念頭に日本の経済界は企業合併を推奨したという報道を聞いたとき、
私は日本の基盤産業である、家電・情報・精密などのメーカー企業が
とうとう終焉し始めてきたと認識しなければならなくなりました。
経済界にリーダー=伯楽が全くいなくなったのです。
日本の企業名が、銀行はじめやたらメーカー名を長々とし始めたとき、
日本の基幹産業、その基盤は崩壊してしまったのです。
日本の企業ブランド、あるいはブランディングという言葉は残っても、
日本の「企業らしさ」は義と善と美に成立していたはずです。
とりわけ美はデザインそのものであったはずです。
そのデザイン評価に「かわいい商品」というモノづくり姿勢こそ、
日本の産業基盤から義を売り渡し善という企業倫理も失ってしまったのです。
「かわいいデザイン」などあるわけが無いのです。
義も善も「きれい」である形容動詞の世界観が基本です。
義も善も失った美=デザインを取り戻さなければなりません。
私自身のデザインには「かわいさ」など求めるつもりは全くありません。

* 『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』
* 「 何がMedia Integrationとなるのか・2」
* 『柳宗理作品の軽薄で見識不足な批評は叱られる!』
* 「独裁されてきたケータイからの解放」
* 『スマホのアイコンはインフラ的な高品位性が不可欠である』


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「ケータイからスマホ、そしてもっと革新」


   


     5月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

2007年iPhoneの登場。
ケータイ電話・モバイルホンは革新されました。
21世紀を具体的に認識できました。
しかし、この数年、日本のケータイはガラケー。
ガラパゴスケータイと呼ばれるほど、
世界から取り残された存在になっていました。
最近ようやく、わが国のケータイはスマホと呼ばれるほど、
スマートホンの世界観に入り込むことが出来ました。
しかし、日本の電話通信会社の通信ネットワークそのものが、
基盤的に変貌しようともしていません。
結果、スマホと呼ばれる新製品が商品の顔を持っても、
世界市場で競合できるOriginは、
全く国際的な提案にはなっていないと評価せざるをえません。
今回、東日本大震災ではTwitterなどソーシャルネットワークが、
最も救助・救済の引き金になったことは確かです。
ケータイも本当なら実際には役に立つはずでしが、
結局、通信会社はケータイの小売店、
そのフランチャイズ企業でしかなかったことを露呈しました。
こうしたことが新製品開発とその商品化を「国際的」にすること、
ほとんど不可能なことを、「スマホのデザイン」が表象しています。
正直、魅力無きスマホが氾濫しているとしか思えません。
少なくとも、私は次世代スマートホンは、
さらに進化は日本のソフト&ハード技術と、
それを支援し誘導するデザインが遂げるべきだと思っています。
私はポイントはいくつかあると熟慮判断しています。
特に、デザイナーに告げるべきことは、
「スマートホン」の次世代、それは通信ギアそのモノ・形式変更。
その形式から形態は、OS自体も変わるべきでしょう。
新たな提案がデザイナーから生まれて欲しいと願っています。
おそらく、「防災グッズ」の第一番目、
それは常に身体装着している通信ギアです。
自己同一性の象徴ギアであるべき通信ギアが必要です。
そして、国際的競合=貿易商品としてナンバーワンのモノこそ、
オリジナリティ・Originであり、
それが次世代の通信アンビエントそのものを変革し、
世界の通信システムBeginを成し遂げるものと判断しています。
iPhoneを超越する「革新的デザイン」が必要です。
そのためには、デザイナーが発案できる能力、
その能力から通信ギアソフト開発デザインだと考えます。

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『資本主義からの逃走』
   「ガラケーは日本の通信会社、その大罪責任」


   


     12月 3rd, 2010  Posted 12:00 AM

ガラケー原因
ケータイは「世界標準から確実に離脱する」。
この予知は的中しました。
FOMAという通信方式とi-mode内容、
これをコンテンツと呼ぶようになりましたが、
それは「情報形式」と「情報内容」というより「情報目次」に過ぎなかったわけです。
情報通信を「包み込む」発想は全く無く、「詰め込む」だけの情報意味の勘違いでした。
以来、わが国では「コンテンツ産業こそ日本のオリジン」と思い込んでいます。大きな間違いです。
日本のケータイが「ガラケー」となってしまった鎖国的な情報認識でしたが、
それ以上の問題はケータイ回路設計実装と形態は、分断されました。
電話通信企業の展望の無さ
つまり、ケータイ流通は、通信会社(電話回線ネットワーク)に独占され、
ケータイ本機生産はハード企業への「形態・かたち」の決定は、
「造形デザイン素人にすぎない」キャリアと呼ばれる担当者に委ねられてしまっていたことです。
当時、私はグッドデザイン賞審査委員長でもあったので、この批判を相当にしました。
ハード企業のケータイ担当デザイナーの現場の声をいっぱい聞きました。
各社の担当デザイナーが集まって彼らたちと議論、懇談会も企画し実行しました。
現場の声は、「造形デザインにまで口出しする」キャリアへの不平不満でした。
「ガラケー」としてしまったのは、企業のデザイナーたちではありません。
デザイナーケータイ名作も国内棲息
デザインケータイと呼ばれる著名デザイナーの本来「作品」となるべき製品も、
通信会社キャリアというより、経営者の展望無き「好き・嫌い」でしかありませんでした。
彼らのデザイン評価の中でしか棲息を許されなかったのです。
それでも力量あるわずかのデザイナーは世界的な名作も数点ありましたが、
今度は通信方式を「日本の独自性」つまり鎖国的方式に固持仕切ることで輸出は見送られました。
ガラケー批判からの革新提案
私は、このようにすべからくケータイ批判をしてきました。
結果、私に「デザイン依頼は皆無でした」。
しかし、あるハード企業の会長直々から「このままでは日本のケータイは孤立し、
輸出もできなくなる」ということで、「アドバンスデザイン依頼」と、
「通信形式の進化デザインプラン依頼」がありました。
そのデザインはiPhone内容とは全く異なる機能性で超えているモノと自負しています。
私の提案は、日本列島すべてをとりあえずWiFi化し、
さらにWiFiを超える通信ネットワーク技術を、日本が提示することです。
と同時に、私は、Smart-Phoneを日本が進化させられるものと確信しています。


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『資本主義からの逃走』
   「ケータイの「かたち」の基本は原点回帰」


   


     12月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

ケータイにプラスα
「Smart-Phone」が出そろいました。
無論、これはこれまでの電話機を超えました。
ケータイに電話通信プラスα、このαが問題だったわけです。
iPhoneはこのαを創出したモノであり、
このαは、コトの世界でした。
コトの世界を整理します。
コト=情報ゆえに、私流には四つの世界観を包み込んだのです。
ここまでの話は、おそらく、ケータイ開発に関わる職能者がみんな語り合ってきたと思います。
四つの世界観を「包み込む」というべきを「詰め込む」と、取り違えたことが最大の過ちです。
本来なら私は四つの世界観はコトを実際は日本観の中に「詰め込もう」としてきたことです。
だから、結果、「詰め込まれた様々な機能」ゆえにガラケーになったのです。
私はFOMAのコンセプトづくりに関与しました。
ところが、このコンセプト議論の会議室の席を離れたときに、
「世界標準から確実に離脱する」ことを予言し発言をしました。
受けいられないまま、FOMAやi-modeに未来はまったく見えなかったのです。
この時期から私自身は、NOKIAの日本仕様やエリクソンを自分のケータイとしました。
そしてiPhoneで、四つの世界観へとネットワーク化、つまり、
ケータイの構造化、これがSamart-Phoneでした。
では、四つの世界観とは、情報=information・intelligence・knowledge・consciousnessです。
Smart-Phoneの四大元素だと私は結論づけています。
■Smart-Phone四大元素

● 火=電源・バッテリー
● 土=シリコン・CPU
● 空気=ネットワーク・インターネット・WiFi
● 水=必要不可欠な要素で無意識化可能ですが、私は「光」と考えます。

私がケータイからの進化は、この古代「アルケー」という原点回帰だったと判断しています。
となれば、Smart-Phoneの「次世代」の「かたち」はイメージできるはずです。


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『資本主義からの逃走』
   「ケータイから消滅した「かたち」への総批判」


   


     12月 1st, 2010  Posted 12:46 AM

いわば言いがかり文句
日本のガラケーがようやく進展しました。
よかった、とひとまず安心です。
しかし、iPhoneの存在にこれほど影響されていて、
私は、「創造性」・「オリジナリティ」がまったく失われていく傾向を悲しく思います。
もっとも、私自身がデザイナーであるのだから、
本来なら、「私だったらこうする」ということが提示できないのに、
批判など出来るわけがありませんし、そんなことを表明すること事態を随分悩みました。
自分にまったくデザイン経験していないデザイナーはデザイナーでなく評論家ですから、
私も今回はその一人だと思っていただいて構いません。
けれども、私の教え子たちもケータイ・デザイン担当で苦労しているのを知るたびに、
何事かをサッゼッションしなければいけない、と思うのです。
煽動的表現・ブーメラン効果
だから、とても大批判的なタイトルでアジテーションを書きとどめておきたい、と考えてきました。
「ケータイからかたちが消滅している」とまで煽動的表現として、
結局は、天につばすることは百も承知です。
自分で投げたボールは、もっと高速度と質量で大きなエネルギーとなって、
自分に大けがを負わせることも覚悟しています。これは「傷つくブーメラン効果」です。
私はデザイン界に棲息してきてそんな経験ばかりしてきたと思います。
「あの時、あんな発言」をしたばかりに、いまなお、私自身がさらに深傷を負うでしょう。
ところが、実は、その当時の大問題は、経年ですっかりと解決がついてしまうことや、
その当時の大問題そのものが忘却されることも随分と経験をしてきました。
結果、私は発言した限りはその反発は当然だと覚悟していることも事実です。
多次元アイテムのかたち
さて、話をケータイに戻しましょう。
ともかく、デザイン=かたちに集約と収束する、このことを下敷きにして述べます。
断言すれば、「Smart-Phone」という呼び方をしないモノづくり、
そのデザインをすれば、必ず「かたち」が変わるでしょう。
変異し変位し転回し、そしてまったく変貌・変身してほしいのです。
理由は簡単です。
二つの断言
人間が「身につけるモノ」として、時計・めがね・指輪とかを思いつけば、
ケータイは身につけるコンピューターであり、
メディアであり、ツールであり、アクセサリーなのです。
それも大量の性能性・機能性・効能性を、しかも「現在の情勢報告の機器・機械・通信から、
まさにお財布でありIDカード」まで、これも多次元なモノとしてのファッションアイテムなのです。
とするなら、「ケータイのかたち・対・かたちとしてのケータイ」まで、
その次元のどこにポジショニングされているかということになります。
断言は二つです。
  ●「なんとかPhone」とアイテム名称は変えます。
  ● 「ユーザーセンスを表現・使い手個性」の演出カタチ。
この断言の意味づけから「かたち」・造形デザインを第一義にすることです。


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『資本主義からの逃走』
「イノベーションの錯乱作用」


   


     8月 15th, 2010  Posted 1:26 AM

「社会階級論」
コンピュータ、特にパソコンが登場した頃には、
「電脳」と中国風な呼び方がありました。
電子端末機やケータイ、今や、ガラケー(わが国の孤立している携帯電話)、
そして電子出版などは、イノベーションだろうか、となげかけつつ、
私は「イノベーションにあらず」と断言しています。
まずは、イノベーション=技術革新という日本の基本的な認識違いを指摘しています。
つまり、イノベーションを提示したシュンペンター・「社会階級論」1927年には、
次の裁決が予知されています。
「暫時的な経済には、
 社会主義的な管理体系の可能性が準備され、
 個人的な企業能力者の無用による
 ブルジョア階級の衰退が予想できる。
  そして、
 資本主義文明は崩壊する」

とまで予知断言されているのです。
1929年の大恐慌を、彼の予言はあまりにも見事に的中させました。
そして連綿とくすぶってきた資本主義文明の脆弱さは、
まさに現在の日本そのもののように思えるのです。
景気・価値・モノ・制度に対する「革新」が及ぼす錯乱作用の結果だと考えます。
資本主義文明は、「技術革新」の結果が電脳から電子出版へのあたかも進化だったと考えても、
この文明の結果は崩壊ということになります。
私はわが国自身がすでに崩壊していることに気づかず、
まだまだ資本主義そのものへの諦観が「逃走」と言い続けているのです。
無論、私は電脳が大好きであり、電脳による価値・制度・モノの革新は確信しています。
しかし、景気への錯乱作用はまったく資本主義至上主義者には予測不可能となっています。
ここが最大の問題であり、とりわけ、わが国はまず「政治的」な錯乱から逃走ができないのです。
私は電脳を花とすれば、道元の示唆に重なります。
愛着・棄嫌
『花(=電脳)愛着に散り、
草(=これが何かですが)棄嫌におふるのみなり』


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