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Posts Tagged ‘サッカー競技’


『サッカーは資本主義を象徴し収奪されたスポーツか?』


   


     6月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

「結果がすべて」と選手たちは述べました。
ワールドカップのサッカー競技は国家、民族を狂乱させています。
サッカー競技は、戦争終結、その起源の由来なのでしょうか、
人類の遺伝子に暴力性の狂乱性を引き継いでいるようです。
そして、この凶暴性は、見事に近代国家において、
「平和なスポーツ競技」への勝敗事に変革させられました。
スポーツ=勝敗事はさらに資本主義経済でのビジネスモデルです。
しかもワールドカップというフェスティバルに、
凶暴性は驚喜性・狂乱性でも法治化されたことは進歩でした。
この驚喜性が、情報時代、マスコミの淺智恵によって、
「興行的商業主義」に押し込められてしまった哀しさは明白です。
日本の敗北の理由を改めて問いただす理由などはありません。
しかし、サッカー競技を資本主義経済で「興行化」した無能さは、
グローバルで技術技能、心技体を精進させてきた選手には、
「敗北」その背景的実体は明らかにすべきだと考えます。
私は、実績無い指導者や解説者、まして監督は力量不足です。
今回の日本チームで私が認めるのはグローバルで、
精進と研鑽してきた選手たちのみであり、
国内ローカルチームでの選手は、経験で容認できます。
けれども、解説者、さらに監督は無能だと断言すべきです。
たとえば、大学人になって実績も無い教員が、
学生達に「課題や講義」することを徹底的に批判してきました。
「自分の経験に勝負で勝った経験の無い」人間と、
それを興行イベント化したマスコミの不純性は露呈すべきです。
「サッカーと資本主義」という、一文が日本にあります。
サッカー歴史の系譜が、資本主義経済化で驚喜性と狂乱性で、
社会の見せかけであっても正当性と平和性の意味は偉大でした。
グローバルな選手たちをさらに結束出来なかった監督、
そして、マスコミの手先にしかなりえなかった解説者によって、
日本の敗北は、国益勇気を穢した輩だと私は思います。
なぜならば、サッカー競技を資本主義の正当性をルール化した
「オフサイド」こそ、狂乱以前に驚喜性にした智恵でした。
中南米やアフリカ新興国からのグローバルな選手たちの存在、
それは、欧米の、あるいはアジア新興国、日本自体、
「未来の資本主義、そのあり方」を象徴していたものと、
私は、日本の敗北を位置づけています。
私のサッカー競技への思考を補完するならば、
是非とも、「性愛と資本主義」増版の最終稿には、
「サッカーと資本主義」は語られています。
この精読をしながら、今だからこそサッカーどころではない、
紛争・内乱・戦争はさらに拡大していることを意識すべきです。


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「大好きな画家・これが私のまなざし」


   


     5月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

日本で美術全集を企画すると、必ずこの人から始まるらしいのです。
それはピエール=オーギュスト・ルノワールです。
日本人好みの極みでしょう。
そして、きっと、この画家を知る人はほとんどいないでしょう。
昔、親友の有名なグラフィックデザイナーから、
「お前の好きな画家は?」って尋ねられて、
彼の名前を出したら、
エーッって、凄く驚き、
「彼を知っている日本人は二人目、しかも二人ともプロだった」、
と言われたことがあります。
「彼の絵、買っておけば・・・」と言われました。
しかしとても高名過ぎて買えるようなモノではありませんでした。
私が生まれて、もうこれほど身震いをして眼差しを知った絵でした。
彼の絵画が私の身体をぶるぶる震わせるほどのモノでした。
ちょうどそのとき私は入院していて、妹が東京で学生でしたから、
彼女に彼の展覧会でのカタログを頼みました。
それ以後、フランスでは彼の作品集だけを探して、
私の大事な収集作品集になっています。
今年の3月に、5年ぶりにパリに出かけて、
また彼の作品集を買い求めました。
帰国後、これまでなかなか落ち着いて作品集を見れませんでした。
ようやく私の傍らにおいてゆっくり読み、見たいと思います。
これまで、私の「色彩論」はほとんど彼の絵画を使ってきました。
無論、私のパソコンの壁紙は彼の作品です。
ただ、私が絵画で選ぶ人は早死するか自死しています。
結局、画家という職能は、主観性で生きているだけに、
デザイナーが客観性で作品を仕上げるのとではまるで異なります。
画家であって自分の作品を追い求め過ぎると、
結局は寿命を自分で結果を出してしまうことが悲しいです。
しかし、彼の作品は、
たとえばパブロ・ピカソが現代絵画を進化させた代表だとすれば、
彼は、絵画の具象性と抽象性を見事に融合させた唯一でしょう。
彼を著名にした作品には「サッカー競技」がありますが、
その作品の色使いには、
現代のサッカーの興奮度を確実に予測していた色彩、
その対比で、競技場と観覧席を描きわけたものがあります。
この画家の名前は、
Nicolas de Staël=「ニコラ・ド・スタール」です。


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「新たな日本ブランド・なでしこJAPAN」


   


     7月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

明らかに女性の時代でしょう。
サッカー競技とは、
スポーツが戦争の文化的進化、
その象徴性と平和性を最も競争と競走を
統合進歩させてきた人類の知的な歴史成果です。
30年という歳月を要したということですが、
女性サッカー競技=競争において、
日本は新たなブランドを創りあげました。
「なでしこJAPAN」という競争集団です。
「なでしこ」とは日本の草木として、きわめて一般的であり、
カーネーションもその一類に属する物ですが、
かよわいたたづまいながら、
小花であり華美さも派手さもありませんが、
人を引きつけるつつましい美しさのある花です。
準決勝から決勝まで引き込まれるように、
団体スポーツをさほど好まない私が見入ってしまいました。
スポーツ競技には、必ず伝統性が宿ります。
その伝統性には、能力の連綿とした集積と継承性が宿ります。
その上、伝統であるだけに前世代を否定しつつ、
常に同時代との共時性を身体化していく集団力が必要です。
「なでしこJAPAN」はそれを見事に体現化していました。
そして何よりも、涙が無かったことです。
無論、勝利すれば感涙あって当然でしょうが、
私は、スポーツと泣くという昨今の感情表出に、
ある種の違和感を持っていました。
私など観客の一人が、彼女たちの活躍に涙するのは、
もう明らかに老齢現象だと認めざるをえませんが、
むしろ男性スポーツに感涙を見るときの違和感がありました。
つまり、女性たちの揺るぎない自分らしさの表出は笑顔。
試合中も笑顔あり、真剣さに笑顔で立ち向かうこと。
これを国難への大きな態度と姿勢と言うのは大げさですが、
少なからず、現状のわが国にあっては、
日本ブランド=なでしこJAPANが世界一になった効能こそ、
「世界一でなければこの小さな存在性」=アイデンティティ、
かけがえの無い大切さを共有する国家存在はありえないのです。
「世界一である必要性」はわが国の存在性の確認に直結。
まさに「なでしこ」という花に象徴された女性の実力、
これを絶賛するとともに、
新たな日本ブランドが生まれたことを喜び、ここにこそ、
大きな希望・祈望・企望があることを確認することができました。
私は団体競技競争よりも、個人競争が好きなタイプですが、
あらためて女子サッカーによって、
団体競争としてのサッカー競技のフェアさ、
そして新ブランドになった女性チームに心底感動しました。

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