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『GRiD社キーボード位置をどう乗り越えるかだった』


   


     12月 29th, 2015  Posted 12:00 AM

1984年は私にとって一つの大きな区切りの年でした。
それはAppleからMacintosh 128kが登場したことでした。
それまで、Apple?やコンピュータに興味をもちながらも、
このコンピュータの登場は、やがて私がこのパーソナルコンピュータに
それも深く関わっていく起点の年であったことです。
国内の企業にいくつか関わり、
その愚痴をApple Japanでこぼしていました。
「川崎さん、米国に行くべきです。Apple社を紹介します」。
そして私はオレンジとブルーのMindTopを持ってクパチーノに行きました。
「プリエ方式」という二分されたノートブックスタイル、
「Big Blue」を引き離すという意味、
これは当時、IBMを指すスラングでした。
私が驚いたのは、GRiDがクラムシェル型という手前にキーボードで
マグネシウム合金筐体=これはMoMA最初の携帯PCの登場でした。
これは友人・故ビル・モグリッジのデザイン。
キーボード位置は完璧な特許でした。
A:「なぜ、君のはキーボードが奥にある?」
K:「GRiD特許は避けないといけないのです」、「なるほど」。
A:「なぜ、トラックボールが手前で中央?」、
K:「マウスを裏返した造形です」。
沈黙の後に、私はコードネーム「ASAHI」を見せられました。
CEOジョン・スカーリーとアラン・ケイの前でのプレゼでした。
それからの闘いは、デザイン部門と技術部門の激烈な闘いの連続。
世界で最初のPowerBook100を生み出す現場で、
東洋人とWASPの闘いの中での日々でした。
福井でのデザイン活動は、「メディアインテグレーションの具体化」、
七つのプロジェクト=東芝との共同開発を抱えていました。
シャープとのNewton開発帰りには、メンバーが福井で打ち合わせ。
呼び出されると、私はクパチーノに出向いていました。
東京はちょうど「バブル経済のど真ん中」であり、
私には東京は狂っているとしか見えない情況。
福井 – クパチーノ、クパチーノ – 福井でのプロジェクトが
すべて中止になったのは、ジョン・スカーリーが、
クリントン大統領就任とともに、Apple社退任になった時でした。
DeskTop→LapTop→ PalmTop、だからMindTopという論理は、
金剛界曼荼羅が思想背景が明前とあり、
曼荼羅論はすでにスカーリーはすべて理解してしまっていました。
東京で会い、箱根でも打ち合わせが連続していました。
私の「Go a head, make my Apple!」が
プレゼンテーションではもの凄く受けました。
私のMindTopは、意匠権は20年で消滅しましたが、
この図面は、私の作品集で著作権となり、
国内雑誌にも特集、TVでも紹介されました。
GRiD社のキーボード配置は、
その後の技術でキーボード仕様は大きく変化。
今や、手前にポインティングディバイスで、
キーボードは後方が当たり前になりました。
PCの技術進化はクパチーノの現場での詳細な経験は深い思い出。
未だに、私のコードネーム=Jeepは実現されていません。


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「コンピュータを強く認識したときの人物と試作デザイン」


   


     6月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

東芝入社早々に、COBOLとFORTRANを学ばせられました。
大学時にタイプライターを学んでいたので、
パンチカードでプログラム打ち込みは得意でしたが、
大きな疑念が残りました。それはいづれ書きます。
しかし、Apple?の登場とMacintosh128Kで私はこの世界が、
必ずデザインの手法を変えると直感しました。
それから、様々なコンピュータやパソコンと出会い、
1990年代に、私はApple本社・ジョン・スカーリー会長直属の、
デザインコンサルタントになりました。
東京のバブルを横目で見ながら、クパチーノ本社、
その社長室で、私はアラン・ケイ氏に突然会わされました。
ほとんど躊躇も上がりもしない私が仰天し慌てました。
日本でも彼へのプレゼンがありました。
当時「Jeep」というコードネームの生徒向けパソコンです(右)。
ともかく、アラン・ケイが発明したパロ・アルト研究所での、
彼のコンピュータがジョブスを刺激し、Macに繫がる訳です。
キーボード・モニター・マウス・GUIこの四つが
WYSIWYG=(What You see What You Get)になって、
パソコンが今日に至っています。
私には、当時は七つのプロジェクトがありました。
その中で、生徒用、学生用ではありません。
つまり、小学生がバックパックに収めて使えるパソコンでした。
ちょうどその頃には、AppleとシャープがPDA=Newtonを開発。
Newton100と同等の大きさのキーボードが求められていました。
私は、現在のキーピッチを計測し直して、
そのキーピッチ余白を省略すれば、
その余白分で拡張可能がわかって実装化ができたというわけです。
もっとも、ジョン・スカリーとアラン・ケイともに、
このプレゼンを箱根でやったことは思い出ですが、
本当に存分にその頃は、
米国でパソコン開発の困難さを東洋人として知った気がします。
しかし、アラン・ケイは私にとって「雲の上の人」でした。
それでも、当時、すでに現在のトラックパッドや、
USBにつながるであろう会話は始まっていました。
「マルチメディア」全盛の時、
「メディア・インテグレーション」がコンセプトでした。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationに向かってきた系譜・2 」


   


     4月 23rd, 2010  Posted 12:00 AM

Multimedia & Art Festival 1992
「マルチメディア」と喧伝されていた時期は長かったと思います。
1990年代であり、ちょうど「バブル時代真っ盛り」でした。
私は東京の「変な浮かれ様子」を北陸・福井から、
極めて冷静に眺めることができたのです。
東京からはいっぱい展覧会や仕事も殺到して舞い込んできましたが、
私の直感は、「これは変!、おかしい」と思ったので、
断れるものはすべて断っていました。
今になると、この判断は正しかったと思います。
当時、マスコミの寵児と言われたスター達は、
名前も思い出すことができません。
デザインに関わったコンサルタントとかコーディネーターは、
消えてしまっています。
私自身、仕事は、Apple本社とのProjectに関わっていたので、
日々充実していました。
1992年夏、箱根で「マルチメディア国際会議」が開催されました。

この国際会議には海外から600名、国内は企業トップ達200名でした。
これだけの国際会議は以後も経験したことが無い大規模なものでした。
民間人はたった4名で、3日間ともに参加していたのは、
松岡正剛氏と私だけでした。他の著名な方は会議内容がわからなかったから、
すぐに帰ってしまったのだと思っています。
この時から、松岡氏との交流が始まったのです。
主催しているApple社には、会議中にも関わらず、
途中、途中でプレゼンテーションを当時会長だった
ジョン・スカーリー氏にしていた。
この会議をすべて統率していたのは、現・マクドナルドの原田社長であった。
そして、この時の基調講演は、以後、私の「情報」への視点を大きく変えた。
そして「的中」していることでした。
Dr. Gordon Moore
基調講演のキーノートスピーカーはDr. Gordon E. Moore氏?でした。 
「ムーアの法則」を提言し、時代は彼の法則を実証しました。
彼の講演では三つのことを語ったのでした。
土・ガラス・空気
これからの時代、コンピューター・パソコンは、
● 「土」・・・これはシリコンを意味していました。
● 「ガラス」・・・これは光ケーブル=光通信です。
● 「空気」・・・これはインターネット・空中に情報です。
そして、私はこの会議で、スカーリー会長が、
「マルチメディアは意味が拡散するだけだから、
Media Integrationへと収束する方向を創ろう」と
プレゼ会議での発言に感動し、
今日まで、私は「何がMedia Integrationか」を、
デザイン領域の中で追いかけてきたと考えています。


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