kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘ストーリー’


『彼は映画の社会的メッセージを知り尽くしている』


   


     3月 12th, 2015  Posted 12:00 AM

私は可能なら月3本は必ず映画を京都で観ることにしています。
なぜ、京都か?
大阪は映画館の清掃がダメ、東京は不親切、京都と金沢が一番です。
「アメリカン・スナイパー」を観ました。
いつものごとく、ワイフはストーリーに入り混んでいて、
泣いていましたし、観たくなかった悲し過ぎると言い続けています。
それは実話の映画化であり、この映画が訴求することは、
明確にジャーナリズムであり、製作から監督は、
高齢になったクリント・イーストウッドでした。
スナイパーの実録としては映画ストーリー演出ですが、
実際なら1000mを超えるスナイパーならば、風力と実弾性能での
相当の腕前があったと思いますが、
明白にスナイパー実録として、反戦映画であるということですが、
現状での戦争・テロ・防衛などは熟慮を余儀なくされる映画でした。
今や、戦場で先進国家からの兵士であれば、
知性的であればあるほど、リハビリテーションは戦場よりも
先進国家の平和感では絶対に精神的病気に至ることは明らかです。
ワイフは言います。実話だからしばらく耐えられない、と。
当然の感覚だと私も大賛成ですが、
私には、このテロからの現代戦争方式を「モノで変える」ことが
どうしてもやり通すことだと考え込んで、精神的には、
モノの暴力性の革新をと追い込まれている自分に出会っています。
現代戦争は石油文明と宗教と経済が現代を追い込んでいるのです。
武器とは元来、戦いを止める道具であり、殺人道具ではなく、
これを宗教が道具感を奪い取っていることは明らかです。
宗教と経済が、ひとまず、石油文明をせき立てているのです。
そういう意味では、神道の哲学観は優れていたと考えます。
「神はおらず」。
そして「サイコロも振っていません」!
戦争にヒーローなどは絶対にいないのです。
あくまでもジャーナリズム=日々の記録を創った監督技が
私を追い込んでいます。


目次を見る

『SF映画が示唆していること=その真実性と想像性』


   


     12月 18th, 2014  Posted 12:00 AM

毎月必ず映画は3~4本は観ようと思っていますが困難です。
何事もリセットしたくて、いつものごとく京都で映画を観ました。
なぜ、京都?、それはワイフが京生まれ京育ちでもありますが、
車イス使用者にとって、私は京都が一番だと断言できるからです。
映画は、「インターステラー」というSF宇宙物語でした。
久しぶりの長時間映画であり、理解は相当に困難なものでした。
この映画監督や物語内容は、観ていただくか、読んでいただくこと。
滅亡していく地球から、惑星間移動の冒険を冒して、
地球環境の保全というストーリーでは、
5次元空間論が語られ、ブラックホールの新しい概念映像化、
SFで語り切るべき、場面構成や、コンピュータ運用での
新たな映画づくりはある意味では工業デザインでの想像力表現でした。
2次元の円が3次元になれば、球体となり、
どうすれば、ワープが可能になるかまでの正当な提示は、
おそらく観客自身の多次元空間やそれこそ光速度転送などの連続ゆえ
映像表現だけでは、とても難しい限りのSFでした。
余りにも宇宙空間や多次元性、光速度時間と現実時間での5次元は
もういちど、この原作を再読する必要を大きく感じました。
確かに、私が、心臓心拍の2次元から、3次元での置換から、
まず、想像であっても、2次元が3次元になれば、立体化どころか
光造形での形態化に気づいた想像力と同一でした。
しかし、この映像と物語性にはもっともっとせめて5次元空間が、
この映像表現だけでは、とても理解は不可能かもしれないでしょう。
正直、SF映画のほとんどが、地球環境の破壊は人類の存続性を
否定しています。これはとても重大な示唆だと思っています。
確かに、2030年までにこの地球環境には、
科学技術での修正と修繕が緊急に必要とされていること。
私はこのSF映画が地球滅亡からの解放を訴求してると確信しました。

「想像力の尊大さをリドリー・スコットに観る」
『SF映画に示唆される未来性の確認には「目印=sign」がある」


目次を見る

『ロシアでの冬期オリンピックに象徴されていたこと』


   


     2月 9th, 2014  Posted 12:00 AM

国家には明らかに言語の統一力だけがあるようです。
まず、一つの国家の中に多言語が一つに統一されて、しかも、
イデオロギーの対立が武力でのみ押さえつけられている国家。
「ソチ・オリンピック」を見続けてしまいました。
私がとても気になっている国家物語りのストーリーづくりでした。
国家歴史を「交通」で統合化し、
それはトロイカからロシア鉄道、大戦後の道路交通、
そして宇宙開発・ロケットと青い地球でした。
とても見事だったと思いますし、私が最も留意していたソ連確立、
それはロシア・アヴァンギャルドと赤い色の使い方でした。
あたかも平和の象徴であるスポーツ祭典は、
完璧な大軍事力でテロリズムを押さえ込んでいました。
スポーツが平和と直結しているという幻想の背後には国家権力、
すなわち、強大な軍資金と軍事力が宗教イデオロギーの方向を
今は確実に押さえ込んでいますが、
多分、言語の違いと宗教の対立をこの期間だけは、
封じ込めることができるかどうかです。
私はせめて有能なスポーツ選手達の生命は監護してほしいです。
平和の象徴という幻想の背後に、
いつまで「大人の事情」がありつづけるのでしょうか。
全世界に、これまでの経験を越える寒波が訪れています。
この祭典と同時刻に、またまた震災地には地震がありました。
人には「感激と感動と感謝」が備わっています。
そして現代社会で「感激と感動と感謝」この三つが体現出来るのは
スポーツ、その最大のイベントに集約されています。
それだけに「感激と感動と感謝」をたとえ幻想でも、
この幻想国家の軍事的な象徴の中で隠されているべきでしょう。
ロシアに至るまでの「赤い歴史」の裏側=軍事力と
平和=スポーツのバランスこそ、現代の意味そのものなでしょう。

【ブログの関連記事】
「デザイン史の講義を語るにはロシア・アヴァンギャルドから」
『端的な社会制度の具体的な改善が必要』
「デザインから『ちの理想主義』は創出できるだろうか」


目次を見る

「荒唐無稽さと完全無欠さなら『ゴルゴ13』でしょう」


   


     4月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

ここではデザインをテーマにして書いていますが、
ワイフから禁じられている分野が多少あります。
スタッフや学生達は知っていますが、
ただでさえ、「過激派」とか「怖い」とか言われてきましたから、
ホビーやコレクションでも、公開するにはヤバイ分野がありますが、
これもデザインする上ではとても参考になることが多いのです。
さて連休ゆえ、どうしてもまた読みたくなってコンビニで買い求め、
「やらないといけないこと、いっぱい」なのですが、
読み直して、この作品の仕立てと見立てに男の子としては惚れ惚れします。
何も評論を書きたいわけではありません。
漫画という表現形式の基本でありアナログ世界観に安心します。
そしてストーリー展開は「荒唐無稽」ですが、
主人公の完全無欠ぶりには、
やはりこれぞ「プロフェッショナル」が満ち溢れています。
ただ、私なりの銃器評価においては厳密に、
やや性能と機能の違和感があることはそのマニアとして意見を残します。
しかし、そのプロフェッショナル性が、
道具・機器・装置への性能と機能が見事に関連、
これには大きな敬意があります。
この徹底した性能への機能的なユーザビリティの成果が、
「荒唐無稽さ」を解消してくれています。
この解消の上に「完全無欠」のストーリーが成立しているのです。
最近の映画では、「ミッション:インポッシブル」が最も、
ゴルゴ13的な完全無比なストーリー性がありました。
「ブラック&ホワイト」のアクション展開も
つながっているように思います。
どうしても現代はCGでの演出性に頼りがちな映画表現にどっぷりです。
B/Wのペン描き・コマ割表現で、ストーリー表現に埋没できることでは、
この漫画がこれだけロングセラーになっていることでは
最高の表現でしょう。
いわば、「コンテンツ・コンテクスト」での荒唐無稽さは、
不可能な想像力=荒唐無稽さを、
完全に実現する「完全無比」=創造力になるプロセスと成果は、
ビジネス的にも引用できることがありすぎると思っています。
漫画はその描画性に、自分のスケッチが引きずられると、
デザイン=造形ラインから現実性を失うと思っていますから、
ほとんど読みません。
絶対に自分のラインが
大きな影響を受けてしまうことを知っているからです。
ともかくもう一度徹底的に、
「荒唐無稽」から「完全無欠」の投機効果を
再学習してみたいと思っている次第です。

目次を見る

「映画のApple製品がMedia Integrationだ」


   


     10月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

私の大好きな映画の一つ。
007シリーズがあります。
第14作目「美しき獲物たち」(A View to Kill)。
これは1985年の作品、主題歌はデュラン・デュランです。
1984年、Macintosh128kの登場との共時性が明白です。
この時から、マイクロプロセッサー、
このハード要素をあくまでも基本に、
ジョブズ氏の発想と決定という仕掛けが
私たちに「意識革命」を日常化させてくれました。
「意識革命」とは本来は、
ドイツ発脱工業化社会のマニフェストでした。
1970年代末に「情報化社会」を示唆していたということです。
情報化=意識化、あるいは意識化=情報化は、
脱工業化社会、その具体的製品こそ、
パソコンでありトリガーでした。
そのトリガーシンボルはAppleIICだった、
私はそう評価しています。
さてこの007映画にもAppleIICが使われていました。
映画ストーリーも、シリコン採掘カルテル支配による
マイクロプロセッサーの独占と、
シリコンバレーの破壊活動を007が阻止する話でした。
AppleIICは「ウォールストリート」でも小道具でした。
このAppleIICには液晶パネルを見かけ、
私はこの液晶パネルユニット探しに渡米したものです。
たまらなく魅力的でした。
「ウォールストリート」は時代背景を
現代に連続させて最近リメイクというより連続物語になりました。
いづれにも、コンピュータが小道具になっていますが、
小道具としてよりも、特にApple製品の登場は、
いつも、最先端時代感覚の共時性から将来性を語り、
ファッション的な存在感が強烈です。
映画だけでなく、TVドラマでも必ず、
ストーリーのプロットに対するApple製品やMacには、
監督の演出センスを感じ取ることができます。
映画やTVドラマでMac以外が小道具になれば、
決してファッション性はまったく感じられません。
結局、小道具以上の演出意味性は、
Apple製品やMacintoshそのものにメディア性があるのです。
私は、こうした製品存在性こそ、
「Media Integration=メディアインテグレーション」であり、
「コンテンツ産業」である映画の実質的な価値観です。
すなわち、デザインが対象とするのは、
この「価値創出性」であり、これは商業主義を逸脱させる方法です。
ジョブズ氏は、こうした「意識革命家」だったと思います。
「映画」というメディアあるいはコンテンツに、
インテグレーションされる製品発明こそ、
デザイン職能の目標だと私は定義しておきます。

目次を見る

5月25日Staff Blog


   


     5月 25th, 2011  Posted 9:19 PM

5月25日

金沢美大生時代、
遊具の課題作品を倉庫で発見しました。

この作品、
担当教授からは、大目玉をくらった
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
というのも、
当時は1/1の実物を制作するのが常。

BOSSはあくまでも、
縮小モデルに、コンセプトや図面、
ストーリーを詳細に描き込んだ
10枚のパネルを提出したそうです。
「B全に手描きだぞ!」とBOSS。
川崎和男らしいです。


目次を見る