kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘テロリズム’


『サスティナブルであるための原意と欠落点』


   


     10月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

自宅の玄関や一部の壁は石面です。
これは「サスティナブル=sustainable」の原意を思い出すためです。
今では、極めて様々なことばの使用が氾濫していますが、
このことばは、ドイツのある街で発生したことばでした。
その街はいわゆるヨーロッパの建築、その石づくり建築に
酸性雨が降り出して、その雨のために歴史ある石建築が、
破壊されていくことを、1980年代半ばに、地球全体で酸性雨の問題提起が
大きな会議となって、地球環境の国際問題となりました。
たちまち、このことばは経済用語にも応用が始まりました。
その意味が二番目に起こったそれも自国経済を他国経済から保護するため、
その応用事例になりました。
この応用は自国経済の保全というよりも自国経済を防衛することばでした。
そして、最近ではサスティナブルは、
確実に、「地球環境、あるいは自国環境の保全」という意味になっています。
しかし、大きな欠落点があります。
それは人類と地球環境だけではなくて、環境と生命との関係が抜けています。
それどころか、経済用語でのサスティナブルでは、
生命を保全するためには軍事関係あるいはテロリズム、さらには原爆があり、
性悪説への対決がすっぽりと抜け落ちていることです。
それはこのことばの原意にもどれば、
酸性雨というメタファーとして、テロリズムと放射能への徹底的な防衛と保全、
人類の健全な精神的な保全=レジリエンスが欠落していると思っています。

* 「石畳の街、その文明と文化」
* 「『風景』とは天地異変のシグナルだった」
* 「結果原因・原因結果からの予知と予測」
* 「これが最悪か!・・・宗教戦争、語るべきか」
* 『地球環境の変動と株価変動でみる企業意識』


目次を見る

『新たなフォトコラージュはカオリンの磁器に展開』


   


     11月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

インテリアデザイナー森田恭通氏パリ個展は、
歴史的には二つの大きな意味をもってしまったようです。
まず何と言っても、彼のデザイン拡大化計画の実現は、
自分が写真家として「Porcelain Nude」を撮影して
私の判断ではフォトコラージュ的なお皿磁器に展開。
その制作依頼もフランスと言えばの磁器ブランドである
リモージュ磁器であり、その窯元BERNARDAUDでした。
なぜBERNARDAUD:ベルナルドでなければ、ということがあります。
それは世界中のシェフたちにとって
重大なレストラン使用皿の効能性でした。
陶磁器といえば、CHINAと呼ばれ、それは中国景徳鎮です。
しかし、欧州ではボーンチャイナと呼ばれる白い磁器がありました。
ところが、見逃してはならないのはフランスであり、
白い粘土と言っても、石粉粘土ゆえに磁器となるカオリンの発見でした。
ボーンチャイナという骨の粉を混ぜるというよりは、
もともと白い粘土 – カオリンの存在は、白い磁器を完成させたのです。
ドイツの製陶技術でも秘策はカオリンを使うことでもあったようです。
いわゆる「真っ白いお皿」は料理を配置するキャンバスだったのです。
そこを森田恭通氏は、特にレストランデザインにおいて、
シェフたちが最も好むお皿に、フォトコラージュ的な
グレーから黒のグラデーションを
カオリンの白皿に革新的手法を発表しました。
そして、もう一つの歴史性はパリでのテロリズムで
非常事態宣言によって個展の中断を余儀なくされたことです。
が、私はかえって中断されたことで
ますます森田恭通氏のカオリン磁器へのフォトコラージュを
「見たい・触りたい」という要求を高めたのだと思います。
おそらく、シェフ達の料理は、白と黒が最も明快ですが、
彼は写真によって、グラデーションをパターン化させるコラージュを行い、
なぜ、リモージュ磁器という欧州最高的な代表磁器ブランド、
その中でも、シェフ達が絶対条件としているベルナルド窯元なのです。
最もカオリンという白い粘土磁器に、白から黒へのグラデーションは
料理人達にさらに革新的な料理、
しかも一流レストランへ向けた提案でした。
彼の個展で、
写真パネルではプラチナ仕上げをめざしピエゾプリントを行い、
そしてカオリンにグラデーションを与えることは
デザインからの提案が、
料理人達にもっともっとレストランのあり方への問題提起でした。
私は森田恭通氏に「日本でもやったらどうですか」と言い残しました。
日本には、磁器の歴史と陶器の歴史が混在しています。
だから陶磁器と呼ばれ、
六大古窯は、すべからく陶器と華道での価値判断がありました。
磁器の世界は、秀吉の朝鮮征伐で連れ帰った磁器職人の仕事でした。
森田恭通氏は世界的なレストランの空間とそこに存在すべき食器に
彼ならではのフォトコラージュを世界にむけてパリで発表したのです。
レストラン食器への非常事態を投げかけたのでしょう。


目次を見る

『非常事態宣言の街=パリにて、決意!』


   


     11月 17th, 2015  Posted 12:00 AM

パリには三つの目的を持ってやってきました。
三つとは、ちょっと内緒ですが、それよりも大変な事態発生でした。
到着翌日の夕方は「森田恭通氏」の個展オープニングに出て、
現地時間11月13日には、英国駐在の教え子が会いに来てくれました。
彼は、帰英前にその個展を見て英仏間特急電車ユーロスターに乗車。
その時に、パリ6カ所で「同時多発テロ」が起こりました。
ホテルでFBには「無事ですか?」、「大丈夫ですか?」
・・・ん、何?・・・・
TVをつけると、非常事態宣言、パリでの多発テロリズムが発生、
「武器があるから闘うよ+絵文字」とか親友に返答していたら、
「冗談言っている場合じゃない、帰国できるのか?」って怒られました。
ともかく、CNNとBBC(何がWord New?)を見て事態を確認。
ところが・・・NHKは何も伝えてこない!・・・?
現地のTV報道とは格段の違いがある・・・なぜだ?
部屋にあるTV2台を使って、報道を見比べてみるが、
嘘だろう、CNNもBBCも視点が違うのです。
CNNもBBCもeye-point=視座からテロを見ている。
しかし、現地TVはview-pointである被害都市で実態を見つめている。
だから視線=まなざしは動揺し全く視野と視界が異なっているのです。
これがあの3.11も二つの視点違いで情報流布されていたなら、
私は身震いが起こりました。
ジャーナリズムはもう全世界が盲点だらけの報道になっているのです。
哀悼の表現は、PRAY FOR PARISと花とキャンドル、
ライトアップされているフランスのトリコロール色。
これは明らかに全世界の「悲しみ共有の表現」ですが、
現地TVではテロリスト容疑者逮捕、
その荒々しい警官たちの「怒り」は拳銃とマシンガンが暴力的に使用。
もし、日本だったら、これほど荒々しい事は絶対に不可能だと確信します。
非常事態ながら元阪大インターンのフランスの子も駆けつけてくれました。
ともかく、翌々日に新聞を買い、目を通しました。
タイトルはなんとか読めても文章はわかりませんが、
これだけのテロはまさにACT OF WARです。
銃撃戦を報道で見ていたワイフは、怖い、怖い、このホテル襲われない?
帰国の飛行機に自爆テロリスト乗ってこない?
・・・・・・私はひたすら、
8世紀の銃で今なお宗教対立は許せないと思うだけなのです。
1994年にPKFもPKOも銃で平和は大間違いゆえPKDを提唱していました。
「このデザイン活動を急ぐんだ」と自分に言い聞かせるだけです。
一流のエンジニア、一流のテクノロジストにこのショックを
デザイン開発に変えないといけないというメールをしました。
パリでの銃撃戦は映画を超えての恐怖を与えています。
戦争の形式を大変更する、これがイノベーションであり、
IoTをIoMeTに変えるために私はパリにきているのでしょう。
「IoMeT as PKD」は帰国次第、早々に取りかかるつもりです。

* PKD=Peace-Keeping Design


目次を見る

『ロシアでの冬期オリンピックに象徴されていたこと』


   


     2月 9th, 2014  Posted 12:00 AM

国家には明らかに言語の統一力だけがあるようです。
まず、一つの国家の中に多言語が一つに統一されて、しかも、
イデオロギーの対立が武力でのみ押さえつけられている国家。
「ソチ・オリンピック」を見続けてしまいました。
私がとても気になっている国家物語りのストーリーづくりでした。
国家歴史を「交通」で統合化し、
それはトロイカからロシア鉄道、大戦後の道路交通、
そして宇宙開発・ロケットと青い地球でした。
とても見事だったと思いますし、私が最も留意していたソ連確立、
それはロシア・アヴァンギャルドと赤い色の使い方でした。
あたかも平和の象徴であるスポーツ祭典は、
完璧な大軍事力でテロリズムを押さえ込んでいました。
スポーツが平和と直結しているという幻想の背後には国家権力、
すなわち、強大な軍資金と軍事力が宗教イデオロギーの方向を
今は確実に押さえ込んでいますが、
多分、言語の違いと宗教の対立をこの期間だけは、
封じ込めることができるかどうかです。
私はせめて有能なスポーツ選手達の生命は監護してほしいです。
平和の象徴という幻想の背後に、
いつまで「大人の事情」がありつづけるのでしょうか。
全世界に、これまでの経験を越える寒波が訪れています。
この祭典と同時刻に、またまた震災地には地震がありました。
人には「感激と感動と感謝」が備わっています。
そして現代社会で「感激と感動と感謝」この三つが体現出来るのは
スポーツ、その最大のイベントに集約されています。
それだけに「感激と感動と感謝」をたとえ幻想でも、
この幻想国家の軍事的な象徴の中で隠されているべきでしょう。
ロシアに至るまでの「赤い歴史」の裏側=軍事力と
平和=スポーツのバランスこそ、現代の意味そのものなでしょう。

【ブログの関連記事】
「デザイン史の講義を語るにはロシア・アヴァンギャルドから」
『端的な社会制度の具体的な改善が必要』
「デザインから『ちの理想主義』は創出できるだろうか」


目次を見る

「これが最悪か!・・・宗教戦争、語るべきか」


   


     4月 21st, 2013  Posted 12:00 AM

この画像は、イスラム教建築のドームと、キリスト教建築のドームです。
私は、人類、人間界を善悪に二分しているのは、
決定的に「宗教」が成せる人間の心の分解だと思っています。
すべてを記述することは憚れますが、
私の知性と感性を性善真っ当に告白すればいいのだろうと理解しています。
しかし、憚れてしまうことをあくまでも仏教的思想、これも宗教観ですが、
現在、この世界動向を決定している元凶には、
「宗教戦争」に完全掌握されています。
明確には、キリスト教世界観が世界の経済から軍事支配までを掌握し、
その対抗馬はイスラム教だということは明白です。
まず、「ボストンマラソン爆破」は、
安易すぎるテロリズムの真似事とも思える事件で、世界を震撼させました。
キリスト教とイスラム教のこの二つの対立は、
たとえばG8を見ても、
本来は、キリスト教支配力の確認にすぎないでしょう。
だから、・・・
ここからは私は自分の講演会では述べていく所存ですが、
この小さな本来は「仏教」支配国家も、汚されています。
したがって、
仏教国家がキリスト教に対峙する力量は根本的に失っています。
地球環境も、新たなウィルスも、天災と思われることも、
ともすれば、経済圏確立も、
私はすべからく、二つの宗教、
それらの対立が戦争・テロリズムに連関しています。
ここで、私は明確さを押しとどめますが、
この小さな日本国家の美しさが失われるとするならば、
宗教観の卑劣な歪みを仕掛ける人々の謀なのかもしれません。
かつて、軽薄な新興宗教は、
本来の「命」への敬愛よりも「国家支配」に向けられました。
私が、最も嫌悪し排撃すべきは、これをまず断絶してから、
キリスト教とイスラム教、この二つの「宗教観」の吟味だと思います。
人間たかだか80年の生命の無限さを宗教に向けることは、
すでに大きな人類の「過ち」だということは明言します。
「ボストンマラソン爆破」は、その軽薄な事件ですが、
失われた善良な、それも幼気な命は奪われています。
これが、二つの宗教の対立現況であることは間違いありません。


目次を見る

「あらたな『危機管理』だが・・・困難か」


   


     4月 17th, 2013  Posted 12:00 AM

朝一のニュースで、やはり・・・と思いました。
世界5大マラソンで、ほぼプロたちのマラソン大会といわれる、
「ボストン・マラソン」が狙われて、
これはテロリズムだと思いました。
最近、大学の文系で「危機管理学」の受講生が多いと、
その講義を担当した期間限定の教授経験者から聞いたところでした。
ボストンは、米国で、私が一番長く過ごした経験の街です。
ハーバード大やMITがあり、
コンピューター・ミュージアムは当時大好きな資料館でした。
「ユニバーサルデザイン」を米国に定着させた本部もありました。
その街が誇るマラソン大会がテロリストに狙われ、
実行されてしまったようです。
「危機管理学」は、
1990年代に学域になった新しい学問です。
1960年代のキューバ危機
1970年代の地球環境の存続問題
1980年代の国際的な経済格差による貧富の発生
1990年代の旧ソ連の崩壊が、
この学問の決め手になったようです。
したがって、現代の「危機管理学」は、
国家の安全保障と、組織、企業から個人の危機管理までが、
その学域対象になりました。
つまり、「人間は常に命を脅かされる最悪の状態」にある、
この意識を認識しその状態から、
安心と安全になれる日常的な準備体制までを対象にしています。
米国で9.11によるアルカイダのテロリズムが、
全世界を震撼させて以来は、
さらに世界的には「テロリズム」という、
あらたな戦争体制に晒されています。
それが、昨日の朝、目覚めるといきなりこのニュースは、
全世界を混乱に落とし入れたのです。
私は、この4月から大阪大学大学院に、
危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開設しました。
インターン学生の選抜での個人面接をしながら、
テロリズムを完全防止するモノ、そのモノを生産する産業化も、
「危機管理デザイン工学」の対象になると考えています。
しかし人類とは、
なぜもこうして「他の人々の命を最悪の状況」にするのだろうか、
その根本的な哲学が必務だと確信しています。
ボストンマラソンのこの大事件が、
本当にテロリズムかどうかは不明にされていますが、
私は、新たなテロリズムで、
マラソンという平和な人類の文化資産を壊すことは許せません。


目次を見る

「テロという名の殺戮に怒りを込めて」


   


     1月 22nd, 2013  Posted 12:00 AM

アフリカ、私には想像の及ばない場所です。
アルジェリア、きっとあの場のフランス軍の傭兵部隊は、
戦争映画などのイメージを超えるほどの
戦争以上の現実地獄が存在するのでしょう。
彼の地は戦国時代最中のはずだったのです。
テロリズム、このことばは「戦争」や「軍事」や「殺戮」を
どれほど曖昧にしている概念でしょうか。
日本の商売はこの地においても「正義性」をもっていたのかもしれません。
しかし、私は、わが国が敗戦国家として、
軍隊も持たずに世界への進出を
さも「グローバリズム」とどこかで礼賛していることを、
訝しさと偽善的な国家観を拭い去ることはできません。
パスポートには、明確に、「わが国民を絶対に護れ」と記述がありますが、
そのバックグラウンドの制度を私たちは本当は、真実は、
空白なのです。
もし、邦人が拉致され、人質になったなら、
訓練された軍人という職能家が、直ぐにも乗り込んで、
独自の戦術で奪還してこそ、
「国家」であり、「国際的存在性」があるのではないでしょうか。
政治家でも拉致されて、命拾いした人物でなければ、
その残酷さと残忍さなど分かるはずがないのです。
商売をやらせてやっているという低レベルの国家との関係、
その中で「人命優先の申し入れ」なんてありえません。
もし、
自分の家族が、友人が、いや同胞がこのような極限に出逢ったなら・・・
哀しみではなくて怒りがあるべきでしょう。
私は、いじめ問題、さらには体罰問題、聖職と言われる職能の破廉恥さ、
日本の根底にしっかりと根を張ってしまっている不甲斐なさを
思い知るべきでしょう。
わが国には「武士道」という崇高な危機管理システムの伝統がありました。
あの国家が、見せつけてくれたのは、
ほら、日本が商売されている装置システムは無事でしょう、と。
同胞17名中、10名は未だ分からず、でいいのでしょうか。
資源ほしさ、商売だから、それがグローバリズムの根幹なら、
準備すべき制度は、日本には、日本人にはテロリストは、
「とても怖いから」というイメージを植え付けるべきなのです。
まさに「孫子の兵法・用間」、
その制度とその具体化デザインであるべきです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「グローバリゼーションの基礎はグローバリズムだろうか」


   


     11月 16th, 2010  Posted 1:32 AM

世界観への一元化
グローバル化はグローバリゼーションです。
近代化の下敷きは市場経済の拡大と拡張でした。
これは地域固有の価値観や制度、規範や権威に変形を与え、
実際は、欧米型の世界観への一元化だったと回帰することができます。
詳細に観察すれば、地球上の国民国家はそれぞれの国民経済力を単位として、
それぞれ国家の文化が形成されてきたわけです。
しかし、東西冷戦や南北問題を引きづりながらも、
結局は資本主義経済と地球全体が西洋化する均一性に向かってきたのでしょう。
ところが、冷戦の終結、南北問題よりも大きな宗教・民族対立・テロリズム、
そして地球環境破壊、民族間・国家間格差は、
世界秩序という虚構よりも動揺とアポリアを引き込んでしまったようです。
この地球的転換がグローバル化と断言していいかもしれません。
グローバルビレッジ
グローバル化の方向性や地球全体を、グローバルビレッジという理想実現や、
web空間でのネットワークによるコミュニケーション保全が問題解決、
そうかもしれないという期待も破壊されています。
たとえば、難民の存在、外国人労働者という低層、賃金格差は、
すでにBottom of the Pyramidという認識に直面しています。
私は、地球市民理想やグローバルビレッジ、
それこそ世界意識の強化という主義性、
グローバリズムという理念あるいは哲学を基本とした権威性に期待したいと思っているのです。
グローバリズムに連結と連鎖
要は、この理念・哲学での権威性にリーダーシップ性を任せないかぎり、
地球全体は動揺どころか紛争・テロリズム・環境破壊の進行は、
人類の存続性を剥奪することになるでしょう。
だから、翻って、地域主義、小さな国家の物語を強固にしていくことしかありません。
ローカリズムはグローバリズムと連結と連鎖していることは間違い無いというのが私の見解です。
私は、伝統工芸産地や機器の微少な部品産業などの小さな物語が、
大きな物語としての地球一体連合国家あるいは連盟国家になっていく気がしてなりません。


目次を見る